SR-刺激反応-


 一
 
 市役所に苦情が殺到する公園の惨状を『SR』が聞き付けたのは僅か三日前のことだ。
 児童が健やかに育ってくれるよう製作者が願いを託して建造されたその公園は、数ヶ月前までは赤ん坊を連れてやってくる主婦や子供達で盛況する憩いの場であった。定期的に雑菌消毒される砂場や、安全性を重視した遊具が取り揃えられて、邪を寄せ付けない和やかな雰囲気に包まれてはいた。
 近所の住民に密着していた穏和な公園に悪風を呼び込んだのは、今年の四月を境に中学校に入学してきた横暴な新入生だった。彼らは視界に飛び込んだ主婦や子供達に暴力を加え、世間の常識に捉われない理不尽な要求を押し通して公園を制圧した。
 彼らは孤児院を盥回しにされた不器用な人間だった。中学校に上がるまでに犯してきた罪状は数知れず、常に金属バットを片手に携えて近付く者を威嚇していた。公園を管轄する老人の作業員だけは勇敢にも彼らに立ち向ったが、金属バットで全身を滅多打ちにされ、全治三ヶ月の重傷を負わされて路上に捨てられた。
 少年法の保護の下に守られている彼らを立ち退かせるのは容易ではなく、彼らの身寄りである孤児院もお手上げ状態であり、市役所には彼らの狂気に怯える主婦の苦情ばかりが殺到していった。そんな現状を打破しようと、公園に乗り出したのが、人的な問題の解決を専門に取り扱うSRという店の従業員である。
 SRの従業員に依頼された内容は当然、公園を制圧する彼らの強制排除である。依頼主の本郷武君は小学生であったが、少ないお小遣いを掻き集めてSRの従業員の心を動かせることに成功していた。人的な問題解決の達人だという噂だけが囁かれる正体不明の職人であったが、SRが彼らの討伐に乗り出した三日後の公園には劇的な変化が訪れていた。
 自転車を走らせて公園沿いの歩道を通り過ぎようとする主婦は、彼らの気配が消え失せた閑散とした公園を目撃して驚いた。連日のように罵声が飛び交っていた公園の喧噪が、幻でも見せられているのかと曲解するほどの静寂を保っている。主婦はすぐに公園が平穏を取り戻した噂を近所に流して、公園はあっという間に元の穏やかな憩いの場に戻っていた。
 だが、誰一人としてSRの作業風景を目撃した者はいなかった。依頼主の本郷武君さえも報告書を渡されただけで現場には立ち会っていない。これを不審に思った好奇心旺盛な医師である、二十代半ばの瀬名正敏は、神秘のベールに包まれたSRの実態に興味を抱いた。
 瀬名はSRに興味を抱いた翌日に早々と行動を開始した。公園を占拠しなくなった彼らの下校時を狙って校門前に張り付き、本来の残虐性を内に隠した満面の笑みを浮かべる彼らの後を尾行した。彼らの行き先はやはり公園ではないらしく、公園沿いの通りを順調に通り過ぎていき、三十メートル先に立地されたテニスコート裏に回り込んだ。
 瀬名はテニスコートを取り囲む深緑のフェンスに体を隠して、頭だけを外部に覗かせた。彼らは和式の簡素なトイレが設置されているだけの窮屈な仮設トイレの前で順番に並んでいた。一様に金属バットを握り締めてトイレに入った仲間に早く代わるよう訴えている。瀬名は彼らの行動が理解できずに怪訝そうな顔付きになった。
 瀬名は粘り強く仮設トイレの表面を見つめた。時折ではあるが、仮設トイレが激しい揺れを生じて震えていた。トイレの中からは彼らの一人が罵声を発しており、若い女性のような喘ぎ声が漏れている。瀬名は状況が整理できず、嫌な緊張感に胸を高鳴らせた。順番に交代していく彼らの帰宅を待って、自らトイレの内部を確認することにした。
 テニスコートで日向ぼっこする野良猫を微笑ましそうに眺める。時間を潰した瀬名が再度トイレを確認すると、罵声を飛ばしていた彼らは消えていた。仮設トイレの震動はぴたりと止まって、頭上に密集する松の葉の陰を金属質な表面に映し出している。
 瀬名は甘い期待を抱いて仮設トイレに歩み寄る。瀬名は彼らの不審な行動を熟考して、真相の究明に悩んでいた末に、大よその検討を付けていた。
 瀬名が銀の光沢を放ったドアノブに手をかけた。慎重に重厚な扉を開いて、真相が掌握されているトイレの内部を覗き込む。
「あれ、あ、あはは」
 瀬名は思わず乾いた笑いを発して首の裏を掻いた。目の前に広がった奇怪な景色に我が目を疑っていた。それと同時に直前まで抱いていた甘い幻想は崩れ落ちる。
 冷たい和室の便座には、二十代後半であろう若い女性が腰を据えていた。大きく縁取られた二重の瞳は透き通り、顎の輪郭がすっきりした端正な顔立ちをしている。女性の美しい黒髪は首筋を通して、露出された乳首を髪の先端で覆い隠していた。
「今度は、あなたが私をじろじろ見つめてくれるんですか。良いですよ、もっと、恥ずかしいの見て」
 歓喜に顔を蕩けさせる女性は、大胆にも全裸を披露して、傷だらけの胴体を太い縄で亀甲に縛り上げていた。女性の細い首には『SRの片割れ神崎初音です。どうぞご自由にお殴り下さい』と書き記された木の板が提げられている。左足の付け根は、鈍器で執拗に苛められたような青痣が盛り上がり、女性の美形を崩すようにこめかみの辺りは殴られて赤く腫れ上がっている。口内は自らの歯で切ってしまったのか、瀬名が眺めているだけで既に三回は血を吐き出している。女性の象徴である股間の縦筋は、乱暴に貫かれて和室の便器に鮮血を滴り落としていた。便器に溜まった水に溶けて、透明な水の色は深紅に染まっていた。
「あなたは、多分SRの方ですよね、えっと、大丈夫ですか。傷を負ってるみたいですが」
 瀬名は混沌とした頭を働かせながら、SRの従業員である神崎初音の肢体に興奮していた。初音は上目遣いに瀬名を見上げ、また口内に溜まった鮮血を下顎に垂れ流して笑って見せる。
「御心配には及びません、怪我をするのは慣れてますから。いえ、むしろ嬉しくなって体の芯が熱くなります。今も、あなたに見られているだけで興奮しちゃう。良ければ鎮めて、頂けませんか」
 初音は息遣いを荒くして、亀甲に縛られた全身を揺らした。身動きしたせいで、たわわに成熟した乳房が縄に絞め付けられ、初音の中に心地良い刺激が駆け巡る。初音は刺激に耐え切れず、鮮血に満ちた舌を垂らして歓喜に喘いだ。両目を見開いてうっすらと汗が滲んだ体を激しく揺さ振る。縄に締め付けられる至福の快楽を存分に堪能していた。
「お願いします、もっと苛めて下さい。気の休まるまで乱暴して下さい。私、痛みが好きなんです」
 初音は大股を広げて異常な欲望を打ち明けた。瀬名は明らかに常軌を脱した初音の行動に動揺して、顔から血の気が引いていた。恐怖に震える足を、雑草が生い茂る足場に下がらせていく。
「ああ、待って下さい。誤解しないで、私は真剣なんです。苛められるのが好きなんです。気軽に使って欲しいんです」
 性を渇望する初音を正視できずに瀬名は扉を閉めた。扉の内側から漏れてくる初音の喘ぎを聞いて、半端な好奇心で真実を探求した後悔に苛まれる。現実の闇を垣間見たような不安を覚えた瀬名は、仮設トイレの扉を一瞥して走り去った。
「どうして逃げるんですか、お願い、犯して、貫いて欲しいの。好きなだけやらせてあげるから」
 初音は興奮の絶頂に達して股間に手を忍ばせていた。愛液を滴らせる縦の筋に指を沈めて、豪快に卑猥な音を立てて膣肉を掻き回す。喘ぎ声と供に崩れる美形の顔立ちは、マゾヒススティックな快感を嗜好する初音の性癖を如実に示していた。
「いひい、気持ちいい。もう我慢できない。犯して、罵って、苛めてよお。誰かトイレに入ってきてえ」
 初音はその後も仮設トイレに潜伏して獲物の到来を待ち侘びた。だが何時間粘ってみても瀬名以外の来訪者は尋ねて来なかった。取り逃がした瀬名は全力疾走で自宅に帰り、今日見た初音の肢体を振り返って漸く謎に包まれていた真相の解明に至った。
 瀬名は事情も聞かずに立ち去った自分を責めた。初音が肉体を犠牲にして悪童の矛先を逸らしたから公園が平穏を取り戻したのだと気付き、奇抜な手段で仕事を成功させた初音に対して、無性に憧れのような歪な感情を抱いていた。

 二
 
 異常性癖に属する神崎初音が務めるSRの店舗は、有名な陸橋が望める通りに建造されている。
 名所に指定された二百年に昇る歴史がある陸橋には、観光に訪れた自動車の往来が絶えず活発であった。名産の笹かまぼこを販売する土産屋が軒を連ねて人通りは目立ち、下校中の高校生が大挙する華やかな喫茶店が三件隣に建築されていて、SRの立地条件は贅沢なほどに恵まれていた。
 立地条件の割には、SRの店舗に目を向ける人影は殆どなかった。SRを蛍光色で刻んだ看板は異質な輝きを放ってはいるが、具体的に何を取り扱っている店なのか世間に認知されていないようだ。店先に置いている水牛を模した人形には、SRの概要を記した値段表を貼ってはいるが、圧迫感を与える風貌のせいか、客を集めるどころか人を近寄せない遠因と化している。
 SRの看板に見向きもされないまま、午前十時の開店時間から既に五時間以上が過ぎていた。悩み多き青春時代を謳歌している学生の足並みが通りに増えている。学生の団体は談笑しながらSRの店先を素通りしていき、学生の背後に着けていた陰気な男がSRの店先を通り過ぎようとする。
 このまま素通りするかと思われた矢先、男はSRの看板を目の端で捉えて足を止めた。二十代後半であろうか、筋肉質な肉体に弛み切った薄手のシャツを羽織り、至る所に穴が開いたジーンズを履いていた。男は水牛の人形に臆せず近寄っていき、人的な問題を専門に取り扱うSRの概要に目を通した。最低で三千円から依頼を受け付ける割安感のある価格に安堵して、黒塗りのドアであるSRの扉を開けた。
 店の内部は照明が消えて薄闇に包まれていた。薄闇の右手には事務所で用いられるようなデスク二台が間隔を置いて並べられ、入り口付近には応接に使われるであろう対面になった黒塗りのソファが置かれていた。ソファには前後を隠すように衝立が立てられている。店の奥にある台所に通じる暖簾やトイレのドアも闇に目が慣れると次第に見えてきた。男は従業員を探しながら、手探りで薄闇の店内を歩く。
「店の方は、いませんか」
 男は喉が潰れたような低い声で呼びかける。男は一向に反応を返せない店内を見渡してから、衝立の裏手に回って応接用のソファに腰掛けた。不気味な店内に緊張して、落ち着きを取り戻すように股間を鷲掴みにする。
 男が無言に徹して従業員を待っていると、台所の方向から従業員の足音が聞こえてきた。背丈の低い身長が、台所に通じる暖簾の遥か下を潜り抜けて、衝立を回り込んで押し黙っている男の対面に腰掛ける。男は薄闇ではっきりと見通せない従業員の顔を正面に見据えた。
「いらっしゃいませ、ようこそSRへ。御依頼の方ですか」
 従業員は運搬してきたらしい盆を机に置いて、紅茶が満たされたカップを男に差し出した。薄闇の暗さに負けじと無垢な笑顔を振り撒いている少女の顔立ちをしている。その背丈から察するに年齢は十代前半だろう、白人のような白雪の肌を持ち、意外と肩幅の広い頑強そうな体躯をしている。金髪が大半を占める少女の黒髪は肩口より短く切り揃えられていた。少女が従業員だと知って、男は驚きを隠し切れなかった。薄闇の中で垣間見える少女の青く透き通った瞳は、年端を感じさせない穏やかな物腰を感じさせる。
「は、はい、実は非常に個人的なことで、急を要するのですが、引き受けてくれませんか」
 男は緊張の余り声が裏返っていた。右手は執拗に股間を押さえて、視線が薄闇のあちこちに彷徨っている。少女は女性と面識する経験に乏しいのだろう男の性質を察した。
「引き受けるか、早期解決できるかは依頼内容次第です。まずはお名前、それから話をお聞かせ下さい」
 少女は冷淡な口調で対応する。青く透き通った少女の目には僅かな怒りが差していた。
 男は両手で股間を押さえて俯いてしまった。後ろめたい事情が隠されているのか、喉まで込み上げてくる言葉が出てこない。男は暫く苦悩に迷った末に、緊張を解すように紅茶を啜って、前のめりに机に両手を着いた。
「私は豊田光明と言います。一身上の都合で高校を中退してすぐに、大工を営んでる父の家業を継いでおりまして」
「経緯は言わなくていいですよ。名前だけで結構です。依頼に関する内容だけお伝え下さい」
 少女は豊田と名乗った男の声を遮って忠告した。机の引き出しに収納されたメモ用紙を取り出して、豊田の名前を記入している。豊田は申し訳なさそうに前面に乗り出した頭を下げた。
「実は、今年で二十五になるのですが、恐れ多くも女子高生に恋をしまして。この近所の府川高校に通っている越野樹里ちゃんていう清純な子で、毎朝、僕の実家の前を通って学校に行くんです。あ、誤解しないで下さい。最初は率直に可愛い子だな程度の存在だったんですよ、決して私の趣味が女性高生とかでは」
 豊田は顔を真っ赤にして急に弁解に取り掛かった。身振り手振りを交えて必死に弁解する豊田を、少女は冷めた目付きで見つめている。
「早く本題に触れてくれませんか。要はその樹里ちゃんと、交際したいわけですよね」
 少女は態度を急変して、大袈裟に口元を歪めて嘲笑った。豊田は核心を突かれた様子で弁解を止めて、前面に乗り出した肉体をソファに引っ込める。
「簡潔に言えばそうです。ですが今回依頼したいのは別の件です。樹里ちゃ、いえ越野さんに悪い虫が付いたみたいなんです。越野さんは若くて純粋だから、あの小汚い虫の残忍な本質というのが分からない。とても放っては置けない由々しき事態です。そこでSRの方にあの薄汚い害虫を駆除して欲しい。いや、樹里ちゃんとあいつを傷付けないように別れさせて欲しいでした。すいません」
 豊田は瞳孔を見開いて思いの丈を吐き出した。少女は濁った本性を見え隠れさせる豊田を迎合するように冷徹な笑みを浮かべる。薄い唇を吊り上げてメモ用紙に依頼内容を書き留める手が進んでいる。
「わかりました、なるべく傷付けないように別れさせればいいんですね。申し遅れましたが、私はSRのサドを担当している仁部氷見香です。本来ならお客様にサド担当とマゾ担当のどちらかを指名して貰うのですが、生憎とマゾの方が出払っていますので私が引き受けます。よろしいでしょうか」
 氷見香と名乗った少女は歓喜に笑みを零した。豊田は唐突な説明が理解できずに呆気に取られていた。サド担当とは、やはり相手に苦痛を与えることで悦楽を感じるあのサディストだろうか。豊田は表の値段表には載っていなかったSRの方式を呑みこめず、異人の血が混じった少女にしか見えない従業員を怪訝そうに見据えた。
「どうかされました、私では、何か御不満ですか」 
 敏感に冷たい声を発した氷見香は、臆病な態度を急変させた豊田の心境を察したようだ。少女の笑顔は消えて冷徹に凍り付いた無表情に変質している。
「いえ、そういうわけでは。ただ、仁部さんはまだ子供でしょう。こういっては言葉が過ぎますが、子供が大人の領域に首を突っ込むのは辞めた方がいいと思うんですよ」
 豊田は遠慮深げに小声で本音を呟いた。途端に氷見香の無表情がより冷徹な色を帯びていき、青く透き通る瞳が大きく見開かれた。
「てめえ、この氷見香様に殺されてえのか。調子こいてんじゃねえよ、この野郎があ」
 氷見香は急に声を荒げて立ち上がった。僅か百四十センチ弱の背丈が異様に伸びたような錯覚が生じて、成人男性を屈服させる暴力的な威圧を放っている。沸点を越えた怒りに燃え滾る氷見香の鋭い目付きは、少女だと高を括って安心していた豊田を抉るように睨み付けていた。
「いえ、あの、ごめんなさい」
 豊田は恐怖に慄いて限界までソファに背を沈める。氷見香は激昂に頬を歪めて野獣の眼光を放ち、ソファの裏手に回って屈み込んだ。ゆっくりと顔を浮上させる氷見香の右手には、SM用の責め具として定番であるバラ鞭が握られていた。青とピンクの色彩が編み込まれたグリップの先端に、漆黒に染まった数十本の鞭が箒のようにわかれて伸びている。氷見香はバラ鞭を何度か素振りして、空を鋭利に切り裂く音を鳴らせた。
「ああ、誰が少女だこら。私はこれでも二十四歳なんだよ、身障を患ってるから身長が低いだけなんだよ。悪いか、身障者だったらてめえに何か不都合でもあんのかよ。おらおら、さっさと頭を差し出せや、こーろすぞー」
 氷見香は素振りしながら歩み寄り、ソファに凭れ掛る豊田の腹部に蹴りを入れた。豊田は上体を曲げて、嘔吐しそうな衝撃に呻きを上げる。氷見香は怒り狂った掛け声を発して豊田の髪を握り締め、机に向けて容赦なく顔面を叩き付けた。豊田の鼻が平らに潰れた衝撃で血管が裂け、鼻血が机を濡らして波紋状に染み渡る。
「ざけてんじゃねえよ、お前みたいなロリコン野郎が人にとやかくいえる立場なのかよ。何が樹里ちゃんだよ、必死に自分を正当化してんじゃねえよ。てめえみたいな産業廃棄物が恋愛なんておこがましいんだよ。少しは自覚しろ、このクズが」
 氷見香は乱暴な口振りで豊田を罵り、机に顔を貼り付かせた豊田の首筋を踏み付けた。逃がさぬように顔を固定された豊田は、氷見香の変貌振りに驚愕して惨めに怯えている。氷見香は対象を甚振る悦楽に飢えた舌で唇を舐め、筋肉が詰まった豊田の背中に鞭を振り下ろした。
 バシイと、薄闇の店内に鞭が打ち据えられる非情な音が響いた。豊田は苦痛に上体を痙攣させる。
「おらおら、泣いてみろよ。ごめんなさい、僕が悪う御座いましたと媚びてみろよ。気の済むまで甚振り続けてやっからよお」
 氷見香は立て続けにバラ鞭を高く振り上げ、渾身の力を込めて振り下ろす。箒のように散らした鞭が薄手のシャツに打ち据えられる。
「ぎいい。ごめんなさい、許して下さい、私が悪かった。誤解してたんです」
 男は救いを求めて心の底から謝罪に徹する。氷見香は豊田の言葉に耳を傾けず、非情にバラ鞭を高く振り上げ、薄手のシャツが裂けてきた背中に振り下ろす。
 バシリと痛快な感触が氷見香の腕を突き抜ける。氷見香はまた鞭を振り上げて、背中の同じ箇所に鞭を振り下ろす。豊田が苦痛の叫びを上げる度に、氷見香は喜悦に満ちた残忍な表情を浮かべていた。相手を苦痛に至らしめるサディストの本性が発揮されている。
「きゃはははは、誰が許してやるかよお。もっと媚びろ、もっと氷見香様を敬え。言動には最大限の注意を払って話しかけろよ。そしたら苛めてやっからよ、きゃはははははは」
 氷見香は鞭を振り下ろす間隔をずらして、豊田の不安を煽り立てた。狂おしく乱れた顔付きは悦楽に酔い痴れ、氷見香の性器を保護する布地を愛液に濡らしていく。背中を痙攣させて身悶えする哀れな豊田を見下ろし、氷見香は快楽の絶頂に達しようと再び鞭を振り上げる。
「こら、駄目よ氷見香。他の人はいいけど、それはお客様でしょう」
 玄関口の方から女性の冷静な声が聞こえてきた。氷見香は玄関に首を回して声の主を睨み付ける。
「ち、んなこと分かってるよ。私は十分に我慢したさ。まあ、この辺にしといてやるよ」
 玄関口の女性は、壁に指を這わせて電気のスイッチを押した。瞬く間に店内の照明が点滅して、眩い灯りに照らされる。玄関口で忠告を促した女性は、SRの従業員である神崎初音だった。乳房が微かに透けて見える特殊なブラウスを羽織り、鈍器で損傷した美形の至る所に絆創膏を貼り付けている。初音は優雅な足取りで左手に提げた買い物袋をデスクに置き、氷見香に拷問を中止された失神寸前の豊田に歩み寄る。
「大丈夫ですか、すいませんね、あの子ちょっと乱暴でして」
 初音は机にへばり付いた豊田の頭を抱き起こす。豊田は初音にティッシュを手渡されて鼻に詰め、意識を朦朧とさせる背中の激痛を堪えて虚ろに店内を見つめる。薄闇に包まれていた際には気付かなかったが、SRの壁紙は淡いピンクで統一されていた。横木を渡されて厳重に保護された怪しげな黒い扉も窺える。
「いえ、こちらこそ何も知らずに出すぎたことを言ってすいませんでした」
 豊田は恐怖を植え付けられた目で、厳格そうに腕を組んで不貞腐れている身障者の氷見香を見た。重い沈黙が落ちた二人の間を初音が察して取り持ち、豊田のソファに相席して背中の擦り傷を手当する。初音は時折豊満な自分の乳房を右手で寄せ上げて、豊田の性欲を煽り立てていた。
 やがて、取り敢えず落ち着きを取り戻した氷見香と豊田は、再び対面に腰掛けて商談を再開した。今度は初音が氷見香の隣に坐り、これまでの詳しい経緯を聞きながら話を穏便に進める。
「なるほど、依頼内容は越野樹里さんに好意を抱いている害虫を引き剥がすことですか。あまり経験のない分野ですが最善を尽くしましょう」
 初音がにこやかに笑って言った。華奢な左手を伸ばして、獲物に飛び掛りそうな獰猛な目を絶やさない氷見香の頭を撫でている。 
「引き受けてくれますか、ありがとうございます」
 豊田は漸く商談が纏まった安堵に顔をほころばせた。だが氷見香と初音は、まだ依頼内容を書き留めたメモ用紙を参考にして用談を交わしている。
「今、私の片割れと相談したところ、大体作業日数は三日ぐらいになりそうです。この依頼で三日なら料金は十五万円になりますね。後で口座番号を教えますので、作業完了の確認が取れ次第振り込んで下さい。作業の経過については、作業が完了次第、豊田様宛に報告書を送りますが、電話連絡をして頂ければ経過をお伝えします。希望があれば同行してくれても構いませんよ。尚、三日間で作業が完了しない場合は無料といたします。作業を延長される場合は一日に付き二万円の割安価格になります。早足で説明しましたが、よろしいですか」
 冷静な思考を取り戻そうとする氷見香が淡々と告げた。豊田は思わぬ高額の依頼料に驚いたようだが、値段表に依れば最低価格でも三千円と記されていたので、止む終えず了承に頷いた。余程、恋人ができた女子高生に情熱を注いでいるようだ。
「頼みましたよ、樹里ちゃ、いえ越野さんを必ずあいつから守ってやって下さい」
 重圧をかけるような真剣な口調で豊田は嘆願した。氷見香と初音は依頼人の真摯な表情をじっと眺め、余裕たっぷりの自信に満ちた笑みを返した。
「お任せ下さい。迷惑をかけたお詫びとして、特別に二人で作業に取り掛かります。私共SRは決して豊田様のご期待を裏切りません」
 豊田は初音の頼もしい返答を信用して頭を下げた。仕事の効率化を狙って三年前から個別に行動していたSRは、久し振りの共同作業に血湧き肉躍らせ、満を持して豊田の依頼に臨むこととなった。

 三

 ××市立府川高等学校の表札を前方に認め、怪しげな黒の車体は速度を落として路肩に停車した。
 その黒に染まったワゴン車の内部には、前日の昼に豊田の依頼を請け負ったSRの従業員の姿が見受けられる。運転席には今年で二十六歳を迎えるマゾヒストの神埼初音が坐っており、助手席には生粋のサディストである身障者の仁部氷見香が、ホッチキスで右端を止められた標的の男に関する資料に目を通している。
 僅か二名で店を切り盛りするSRの従業員は、豊田に依頼を受けた前日を資料集めに費やしていた。越野樹里の生年月日や趣味、更には大よその日課を全て把握している豊田に快く協力を得て、予定では二日掛りで調査する筈だったが、一日で標的に関しての情報は労せず粗方集められた。
 SRが付け狙う此度の標的は、過去に五十人もの女を組み敷いた西条茂という府川高校の二年生だ。ひとたび興味を失えばすぐに女を捨てる手癖の悪い西条は、同級生の間で高嶺の花であった樹里の性格を綿密に調査して、彼女が昼休みを満喫する図書館で接触を図ったらしい。現場に居合わせた同級生の目撃談によれば、西条は空想の世界で通用する滅茶苦茶な知識を彼女に吹き込み、純真で初心な彼女の心を揺さ振ったようだ。饒舌な喋り上手である西条にすれば、樹里は聞き分けの良い手軽な獲物だったのだろう。両親に寵愛を受けて世俗に触れてこなかった樹里は、人間の本質が渦巻いた競馬場やパチンコ屋に自然と導かれ、未知の世界を知り尽くした博識の西条に好意を抱いたようだ。
 約一ヶ月余りを仲睦ましい友人として付き合っていた二人が、急速に関係を進展させたきっかけは、西条と樹里が二人きりで過ごしたカラオケボックス内での性交渉だった。これは初音が受付で監視モニターを覗いていた店員に賄賂を支払って確認済みである。作業の経過を伝えてやった豊田は知られざる事実に酷く悲観していたが、控え目で知的な印象を漂わしていた樹里は、西条に愛撫されて大胆に股を広げ、性器を貫かれて髪を振り乱し、苦痛と達成感が駆け抜ける初体験を存分に楽しんでいたようだ。氷見香は人間とはそういうものだと嬉しそうに電話先の豊田を追い詰めていた。
 それから二人はとんとん拍子で恋仲となり、現在では週三日の性交渉を欠かさない乱れた青春時代を謳歌している。氷見香は懐疑心を抱いていたが、豊田が危惧する通りに西条の素行は相当酷かった。西条は事ある度に暴走族の総隊長である長兄の名前を持ち出して、夜な夜な繁華街で理不尽な暴力の限りを尽くしているようだ。これは氷見香が実際に西条に暴行を振るわれた少年の元を訪ねてすぐに裏付けが取れた。涙ながらに悲惨な体験を語っていた少年の顔が印象に残っている。
 SRは以上の資料を熟慮して、如何に樹里を傷付けぬよう西条を引き剥がす手立てを考えた。資料によれば、ひび割れたガラスのように繊細だった樹里は幾許か逞しくなり、些細な冷やかし程度で落ち込むような虚弱な精神ではないようだ。すなわち、強引な策を選んだとしても樹里は耐えてくれるだろう。SRは楽観視した結論を導き出していた。
 府川高校から六間目終了の鐘が響き渡る。ワゴン車の運転を務める初音は、アクセルを弱く踏み込んで、車体を校門前へとゆっくり迫らせる。府川高校の生徒が校舎の玄関から溢れ出てくる光景が正面に見えてきた。
「氷見香、生徒が出てきたよ。早く西条茂の顔写真渡して」
 校門に迫ってくる生徒の集団に注目する初音が言った。氷見香は無言で西条茂の顔写真を手渡して、気だるそうな欠伸を洩らす。府川高校が正面に望める通りには、柔らかな花の匂いを漂わせる桜並木が列を成していた。大抵の生徒は桜並木の通りを通過するが、校門前から分岐する三叉の進路にそれぞれ別れるので警戒が必要だ。
「標的が一人だと退屈ね。あーあ、初音がこの前引き受けた公園の依頼、私がやりたかったのに」
 氷見香は気だるい欠伸を洩らしながら校門周辺を観察する。初音は微笑を湛えて、機嫌を損ねて徐々に苛立ちを募らせる氷見香を横目で見つめた。
「今回は氷見香が主役で良かったじゃない。私は脇役に徹するだけだしね、ほんと妬ましいわ」
 初音は独自で製作した薄手のブラウスを羽織っていた。勃起する乳首がブラウスを押し上げ、乳輪まで透けて見えている。布地越しでははっきりと視認できないが、仮に初音が服を脱げば半身を亀甲に縛っている姿が拝める筈だ。長袖を着込んでいる氷見香は、両手にゴム手袋のような肘の辺りまで伸びる特殊な手袋を填めていた。馴れ親しんだ同僚に見られているだけで興奮している初音を、氷見香は鼻で嘲笑っている。
 府川高校の校門では既に、大挙してくる生徒の塊が校門を抜けていた。強面の警備員が事務的に別れの挨拶を告げている。窮屈な学校生活から解放された各自の生徒は、友人と談笑を交わして、桜並木の美麗な光景には目も暮れず、SRの潜伏するワゴン車の脇を通過していく。
 下校時刻を迎えて二十分が経過する。SRはまだ標的の姿を捕捉できていない。活発だった人気はすっかり落ち着いてきた。部活動に残った生徒が校門を飛び出してランニングしている程度だ。氷見香は退屈そうにシートを倒して寝に入っていた。初音は我侭な氷見香の下僕と化して校門を見つめている。その顔は無責任に仕事を押し付けられる快感に酔い痴れていた。発情する初音の甘い喘ぎ声が車内に響く。
「もう西条君、じらさないでよ。苛められてるみたいで、私、興奮してきちゃうじゃないかあ」
 初音が異質な興奮を抑え切れずに喘いだ時、警備員が控える待機室を通過する若い男女の姿が目に入った。初音は慌てて標的の顔写真を取り出して、手を繋いでこちらに歩いてくる男女を食い入るように見つめた。
 男は学校に指定された無地の制服を変形させて着込んでいた。薄っすらと開いた一重瞼が特徴的で、頬骨が妙に張り出している。長身の範疇に数えられるであろう大柄な体格だが、肉付きが悪くて貧相な印象を受ける。他人を牽制する金髪は重力に反して逆立っていた。前髪が柔らかい風に吹かれて靡いている。
 初音は顔写真で確認を取り、男が紛れもなく標的の西条茂だと判別できた。西条はSRのワゴン車が停車した歩道を悠々と、彼女の樹里とじゃれ合いながら進んでいる。初音は興奮の余り自分の中指と薬指を一緒に噛み、傍らで眠っている氷見香の腹部を目掛けて、容赦のない左拳を突き入れた。
「うぐ……てめえ初音、氷見香様にケンカ売るとはいい度胸じゃねえかよ。マゾ体質のてめえが耐えらないほどの苦痛を味あわせてやろうか。あーん」
 氷見香は即座に怒りの形相を張り付かせて飛び起きた。初音は予想通りに豹変してくれた氷見香に笑みを送って、スモークガラス越しに覗ける標的に指を差す。早口で罵詈雑言を吐き連ねようとした氷見香は咄嗟に指の方向を見つめた。苦痛を至らしめる相手に飢えた凶悪な眼光が、ワゴン車を通り過ぎようとする西条に向けられる。
「あいつが、西条とかいうクソガキかあ。初音、手筈通り行ってくる。てめえはここで待っとけ」
 氷見香は急いで後部座席に身を乗り出した。全部のシートが倒されて平面の空間が形成された後部座席には、鞭の類や蝋燭や男性の性器を模した玩具などが雑然と散らかっていた。怪しげな匂いが立ち込める卑猥な空間ではあるが、スモークガラスで視界を遮断しているので外部から様子は窺えない。氷見香は散乱する道具の中から、両手に填めた手袋のそれぞれから二本のコードで繋がれていた電源を選択した。小型の箱状になっているそれの上面部には、数字を刻まれたダイヤルが付いている。
「おい、クソガキ、さっさとこっち向けこら、今すぐ、氷見香様の愛情が込められた熱いパルスを食らわせてやるよ」
 手袋で丁重に電源を抱えて、車外に飛び出した氷見香が警告を促す。氷見香の突飛な怒声を背で浴びた西条は、怪訝そうに首だけ後ろに回した。まさか自分が呼ばれているとは自覚していなかったが、電源を歩道に置いて何やら鋭い目付きで睨み付けてくる氷見香を認めて、西条は訳も分からず短い悲鳴を洩らした。
「え、何だよお前、俺、俺を呼んだのか、違うよな」
 西条は否定して欲しそうに少女の風貌をした氷見香に呼びかける。傍らで立ち尽くす樹里は、可愛げのある動揺を見せて狼狽するばかりだ。氷見香はその間にも電源の上面部にあるダイヤルを最大限に回した。数字の十を刻んだ位置までダイヤルが振り絞られた瞬間、氷見香の両の手袋から火花が飛び散る激しい音が鳴った。
「ああ、てめえだ。氷見香様が呼んだのはてめえだよ西条茂。感電死しないよう神にでも祈ってな」
 氷見香は高鳴る興奮に頬を緩ませた。両の手袋が電源からコードを通して伝達される強烈な電気を帯びて、手袋の指先がバチバチとざわめき放電している。氷見香は電源から延びる十メートル程のコードを引っ張り、目を見開いて驚愕している西条に突進していった。
「うわあああ、やめろ、俺に近寄るな、来るんじゃねえよ」
 残忍な表情を張り付かせて迫りくる氷見香に怯えて西条は踵を返した。硬直している彼女の樹里を乱暴に押し退け、窮地を脱しようと全力疾走で駆け出した。だが氷見香は脅威の駿足を発揮して瞬く間に追い付いてきた。楽しげな罵声を発して、激しく火花を散らす両の手袋を西条の背中に放った。 氷見香の手袋はすんなりと背中に張り付いた。西条は駆け足で手袋を引き離すが、夥しい手袋の放電は既に西条の全身に受け渡されていた。内蔵さえ震動させる焼け付く痛みが、西条に苦痛の悲鳴を上げさせ、瞬時に全身を何回も電流が駆け巡った。
「げ、げげげげげげげげげ」
 西条は声にならない不穏な痛みを表現して、猫背になるまで腰を曲げた。電気が循環する全身の各部が小刻みに震動している。右腕は脇に鞄でも抱え込んでいるような恰好で固まっていた。不安げに見守っていた樹里は身動きしない西条の異変に気付いた。
「さ、西条君、だ、だ、だ、だぎいいいいいい」
 西条に歩み寄ろうとした樹里が甲高い悲鳴を上げた。樹里の柔らかな乳房に、無造作に近寄ってきた氷見香の右手が添えられていた。樹里は体内を何回も循環する電気の激痛に耐え切れず、数秒も経たぬ内に失神していた。恋人を見捨てて逃げ出した西条も足を踊らせて歩道に倒れている。
「はん、きゃはははは、呆気ねえなあおい。おい初音、降りてこい。さっさとこいつら拉致るぞ」
 氷見香は静電気を帯電させる二人を見渡して高笑いを上げた。氷見香に呼ばれた社内の初音が降りてくる。初音は桜並木の通りに人気がいないのを確認してから、口から涎を垂らして失神する樹里の肩を担ぎ、迅速にワゴン車の後部から平面に整地された後部座席に押し込んだ。積み込みが終わると歩道に戻り、今度は標的である西条の肩を担ぎ上げる。氷見香は一切の手助けを行わず、電源のダイヤルを0に戻しているだけだ。二人はそれぞれサディストとマゾヒストの快楽に飢えているので、この作業分担は二人にとって至極当然なわけである。
 氷見香に使われる快楽を堪能する初音が、標的の詰め込みを完了させる。初音を奴隷同然に扱き使う氷見香は助手席には坐らず、樹里と西条が横たわる後部座席に移動している。後部座席に散乱する道具の中から強力なガムテープを選択して、馴れた手付きで身動きできないよう樹里と西条の全身をグルグル巻きにする。
 エンジンが付けっ放しのワゴン車はUターンして、桜並木の景色を後方へ押し流す。初音が慎重にバックミラーを覗いて後方を確認するが、やはり誰にも気付かれてはいないようだ。氷見香は発覚される恐怖に胸をときめかせる初音を放って、無抵抗の人間を縛り上げる悦楽に酔い痴れている。
「ねえ、氷見香、スタンガンで眠らせた方が簡単じゃなかったの」
 バックミラー越しに氷見香の表情を見つめる初音が訊いた。巧みなテープの緊縛で二対の芋虫を作り上げた氷見香は、愉悦に狂った鬼面を張り付かせている。
「スタンガン、下らないな。一瞬の激痛より、全身を電気でじっくりなぶられる感触が相手に底知れぬ恐怖を与えんだよ。てめえ私と付き合って八年近いのに、まだそんなことも分かんないのか」
 氷見香は軽視するような口振りで持論を説いた。初音は嬉しそうににっこりと笑い、赤信号を正面に捉えてワゴン車を停止させる。
「よく分からないからこの仕事が終わったら教えて。頭の悪い私にたっぷりと時間を掛けてね」
 初音は氷見香に折檻される光景を想像して、口内に溢れんばかりの涎を蓄えた。氷見香は鼻を鳴らして了承に頷く。
 青信号で発進したSRのワゴン車は、有名な陸橋が望める通りに差し掛かっていた。

 四
 
 SRの店内には、厳重に横木を渡された黒い扉がある。
 横木は持ち上げるだけで簡単に外れる代物ではあるが、一見される人の侵入を拒絶するには十分な、立ち入り禁止を警告する役割を果たしている。
 その黒い扉の横木が、標的の背中を引き摺っている氷見香によって解除された。扉の先には地下へと延びる階段が待ち受け、十段ばかし下りると新たな黒い扉に突き当たる。その新たな黒い扉を開けた先には、二十畳ほどの部屋が構築されている。
 ここは氷見香が狂気の丈を存分に振るえる拷問或いは折檻部屋だ。防音対策を施した重厚な白の壁際には、銀色の光沢を放つ網状の陳列棚が置かれている。陳列棚にはワゴン車の後部座席で散乱していたSM用の道具や、用途が分からない奇形な道具まで豊富に取り揃えられている。天井には唯一の光源である巨大な円盤を思わせる蛍光灯が貼り付いて、部屋全体を眩く照らしている。
 氷見香は国王が鎮座するような玉座に腰掛けている。丁度、四隅に監視カメラが設置された部屋の真ん中だ。硬質なアスファルトの床には、レスリングで使用される小さい円を中心にして、大きい円が小さい円の外周を取り囲む形式の柔軟なマットが敷かれている。赤に縁取られた大きな円の内部に氷見香と、制服の上からガムテープを全身に巻き付けられた西条茂が転がっている。
 氷見香は監視カメラを意識して、大儀そうに玉座から腰を上げる。清純な匂いのする長袖は着替えて、エメラルに光り輝く、背中や太腿を大胆に露出したワンピース状の服を着ている。形に優れた御椀型の乳房が、素肌にぴったりと張り付いた服を押し上げて乳首を突起させている。残忍な眼光を発する両目には蝶々を模したマスクが貼り付き、右腕の上腕部には細長い胴体を絡ませる二匹の蛇の刺青が彫られている。右手には責め具として用いられる一本鞭が握られている。グリップから漆黒の鞭が一本だけ伸びているタイプだ。
 だがそれは、人間を打ち据えるために製造されたSM用の一本鞭ではない。猛獣を屈服させる威力を秘めた、主に演劇で使用される全長三メートル近い強力な鞭だった。氷見香はそれを片腕で容易に振り上げ、寝息を立てて転がっている西条の背中に振り下ろす。
 バチイと、蛇のようにうねる鞭が西条の背中に叩き付けられた。西条はガムテープに塞がれた口元からくぐもった悲鳴を上げて体を跳ね起こす。激痛の余りにマットを転がって壁に肉体を激突させた。
「そっちに行くんじゃねえよクソガキ、正面でやんなきゃ外から見えねえだろお。てめえ、氷見香様をなめてんのか、ああ、こら」
 氷見香は明らかに監視カメラを意識して声を荒げる。西条の背中は鞭の一撃で引き裂かれ、内出血を生じた赤黒い痣を覗かせていた。西条は気が動転して臆病に涙を溢れさせ、全身を緊縛された芋虫の肉体を身悶えさせる。
 氷見香の人影が迫っていき、持て余した左手が西条の頭髪を乱暴に掴む。氷見香は頭髪が抜けるのも構わず西条の肉体を中央まで引き摺った。
 一階の店内では、樹里と初音が監視カメラから送られてくる映像をモニターで覗いていた。乱暴に鞭を素振りする氷見香と芋虫の西条がモニターに映し出されている。集音マイクで拾った二人の声も淀みなく送られてきている。
 氷見香は苦痛に身悶えする西条の口元に手を忍ばせ、唇に貼り付いたガムテープを強引に剥がした。ビリッと唇の薄皮が捲れる鋭い音が、防音効果のある壁に返され室内に反響する。
「ぎゃあああああ、ふぎゃあああ、いてえよ、痛い、痛い痛い痛い痛い……」
 西条は狂ったように苦痛を連呼した。氷見香は口元を歪めて芋虫の首筋を右足で踏み付ける。右足には鋭利に先端を研いだハイヒールを履いていた。硬質なヒールの先端が、西条の喉仏を圧迫する。
「おえ、ぐえええ、あぐううううう」
 西条は目を見開いて口から液体を吐いた。胃液混じりの粘着質な唾液が氷見香の左脛に付着して、氷見香は凶暴な目付きで左足の汚れを睨み付けた。
「おい、てめえ誰にケンカ売ってんだよ。ああ、殺されてえのかクソガキが、舐めろ、丁重にお詫びしてすぐ舐めろ」
 氷見香は左足を持ち上げて、無防備な西条の左耳をヒールの先端で踏み砕く。西条はマットをのた打ち回って苦痛に絶叫する。金切り声染みた高音が地下室に長く響き渡る。
「こら、氷見香、遊んでないで早く仕事に取り掛かりなさい」
 監視カメラの傍に設置されたスピーカーから初音の声が響き渡る。氷見香は忌々しげにスピーカーを睨み付け、息遣いを荒くする西条の顔を覗き込んだ。西条は、涙と鼻水と脂汗が入り混じった哀れな顔立ちに変貌していた。
 当然この模様は西条の彼女である樹里が見守っている。初音は予め西条の悪行を連れ攫った樹里に聞かせていた。五十人もの女を抱いて飽きたら簡単に捨てた話や、暴走族の長男を頼って理不尽な暴力を繰り広げた西条の悪行を詳細に伝えている。今、樹里は愛着を抱いていた西条の本質を必死で探ろうとしているだろう、純真無垢な彼女特有の優しい心を持って。
 氷見香は再び玉座に腰を沈め、見っとも無い顔立ちの西条を中腰にさせた。両膝から爪先までに貼り付いたガムテープが無理に折り曲げられ、下半身が痺れるような痛みに襲われている。西条は救いを懇願する目付きで玉座の氷見香を見上げた。
「よう、西条茂。てめえの頭でこの状況が理解できるか。どうせわかんねえよな、だからてめえが何をすればいいのか教えてやるよ。てめえは、氷見香様の下僕です。下僕の役目は氷見香様の言う通りに従うことです。これから氷見香様がてめえに質問を出します。必ず真実だけを述べなさい。わかりましたか」
 氷見香は愛嬌のある笑みを作ったが、マスクの下に隠れた瞳は冷酷な色を浮かべていた。西条は恐怖に支配されて、尋常ではない速さで首を上下に運動させた。相手を屈服させる快楽に酔った氷見香は唇を歪める。
「てめえはこれまで五十人以上の女と付き合ってきたよな。そして飽きたら捨てていた。それは事実か」 
「は、はい、事実です」
 氷見香が問い掛けるとすぐに返事が返ってきた。氷見香は従順な下僕の頭に右足を乗せて褒めてやる。一階の店内で静観している樹里の表情が凍り付いた。
「市内のゲームセンターで遊んでいた小学生五人に暴行を加え、大金を巻き上げたことがあるそうだな。これも事実か」
「はい、事実です」
 氷見香の問いに、西条は臆面もなくはっきりと答えた。一階の店内で静観している樹里の表情が険しくなっている。
「そうか、ほんとクソガキだなてめえは。現在は越野樹里と付き合ってるそうだが、それは遊びが目的なのか、それとも恋愛感情とかはあるのか」
「いえ、そういうんじゃありません。何つうか可愛かったからです。遊びですけど、他に可愛い子が見付かるまでは愛してあげようと思ってます」
 西条は丁寧に質問の外の内容まで告白してくれた。氷見香は素直な西条の頭をヒールで磨り潰してやる。一階の店内で監視モニターを覗いている樹里の目に失意の涙が溢れた。
「お前は正真正銘のクソガキだな。そういえば、この部屋には監視カメラが設置されていてな、越野樹里がさっきからずっと覗いてるぞ。てめえの熱意も十分伝わっているんじゃないか。良かったな、多分てめえに失望してくれてるよ」
 氷見香は樹里が監視している事実を打ち明け、口元に歓喜の笑みを湛えた。西条は慌てて部屋の隅々まで見渡した。部屋の隅に設置された監視カメラを発見すると、血の気が引いたように顔を蒼白させて声を詰まらせる。
「これで最後だ。今度は質問じゃなく要求だから心して聞けよ。今から三秒以内に越野樹里と別れますと宣言しろ。監視モニターでてめえを見ている彼女に向かってだ。まさか嫌とは、いわねえよな」
 氷見香は脅迫観念を持って要求した。ゆっくりと三秒を数え始める。西条は現実味の欠如したこの状況を、樹里がモニター越しで観察しているとは完全に受け止めてはいないだろう。だが若しも樹里がこの模様を観察していたとすれば。例え暴力を振るわれて脅迫されていたとしても、ここで別れを告げてしまえば、これまでの答弁と合わせて、二人の関係に取り返しの付かない支障が生じるのは明白だ。
 西条は頭に多大な苦悩を過ぎらせるがそれも一瞬だった。決意めいた面持ちで監視カメラに視線を向ける。
「樹里、お前とは今日限りでお別れだ。ごめんな」
 身の保身を図った西条は非情な決断を下した。氷見香は目を見開き、唇を限界まで吊り上げて邪悪に微笑んだ。一階の店内で別離の告白を受け取った樹里は茫然として固まった。
「てめえの発言には責任持てよ。今後もしてめえが越野樹里に近付くことがあれば、氷見香様が死を超越する苦痛を与えてやるからな」
 氷見香は冷酷な瞳で念を押した。西条は首を上下に動かして承諾する。一階の店内で観察を行っていた樹里は激情に身を震わせて泣き喚いていた。恐らくこれで二人の関係は完全に費えただろう。氷見香は自分の仕事を終了させた安堵に頬を緩めた。後は自由にこの西条に苦痛を与えてやることができる。
 地下室から西条の物凄い悲鳴が響き渡った頃、一階の店内では、初音が失恋の痛みに泣き咽ぶ樹里を慰めていた。初音は過去の甘く切ない恋愛経験を通じて、西条が如何にろくでもない悪童であるかを教えてやり、ゆっくりと時間を掛けて樹里の親身な相談相手になってあげた。最初は首を振って同情を拒絶していた樹里だったが、次第に初音に心を開いていき、遂には初音を実の姉のように慕って胸の中で甘えていた。
「樹里ちゃんはいい子だから、きっと素晴らしい男性が見付かるわ。お姉さんが保証してあげる」
 監視モニターが乗せられたデスクに腰掛ける初音は、胸元に顔を擦り寄せる樹里の頭を優しく撫でた。樹里の傍らには全身に巻き付いていたガムテープが螺旋状に積み重なっている。氷見香がワゴン車の後部座席で、樹里を緊縛した必要は特になかったようだ。
「ありがとう初音さん、私、新しい恋を探します。今日は、本当にありがとうございました」
 樹里は去り際に、失恋を乗り越えた愛苦しい笑みを浮かべた。初音は店の玄関から陽気に手を振って樹里に別れを告げる。樹里の後姿が完全に消えるまで声援を掛けながら見送ってやり、樹里が見えなくなると店内に戻ってデスクに腰掛けた。ノートパソコンに記憶させた報告書のテキストを起動させて、デスクに置かれているプッシュ式の電話に手を伸ばす。此度の依頼人である豊田の電話番号を入力して連絡を取る。
「あ、もしもし豊田様、SRの片割れ神崎初音です。御依頼されていた越野樹里の害虫退治の件、先ほど無事に完了しましたよ。予定より一日早く済んだので報告書に新たな依頼料を書いてお送りしますね。この度はSRをご利用頂きありがとうございました、またよろしくお願いします」
 初音は報告書に本日の経過を打ち込みながら要件を告げた。豊田は待ち侘びていた吉報に手を叩いて喜んでいた。受話器から断続的に拍手の高い音が響いてくる。初音は熱心に謝辞を述べてくる豊田に曖昧な相槌を打って電話を切った。
 初音は報告書を進めつつ、氷見香が凶暴な一本鞭を振り回し、ガムテープの緊縛を解いた西条を追い回す監視モニターの映像を鑑賞する。仕事が終われば氷見香に苛めて貰える約束を取り付けたので、初音の心は歓喜に踊っていた。
「御疲れ氷見香、今回の氷見香の暴れっぷり、しかと拝見させて頂きました」
 そして独りで報告書を書き終えた初音は、両手を重ね合わせて今回の功労者である氷見香様を拝んだ。こうしてSRは鮮やかな手際で迅速に豊田の依頼を完了させたが、氷見香が十時間以上に渡って西条を拘束したせいで日付が変わり、結果として予定通りの三日目で西条を自宅に解放することになった。

 五

 豊田の依頼を完遂して一ヵ月後、相変わらず客足が少ないSRに一本の電話が舞い込んだ。
 SRの店内には、行方不明の息子を探索する依頼を請け負った氷見香が出払っており、初音だけが応接用のソファで日本茶を啜っていた。初音は重い腰を上げて、デスクに乗った騒がしい電話の受話器を取り外す。耳に受話器を当てると激しい剣幕で捲くし立てる男の声が聞こえてくる。
「おいSR、お前ら樹里ちゃんに何てことしてくれたんだ。あれほど傷付けないように別れさせろと言ったのに話が違うぞ、どうなってんだ」
 通話先の相手は苦情を訴えているようだ。SRの強引な解決法を容認できず、依頼料を返せと訴えてくる事例は特に珍しくない。依頼料は後払い制になっているので雲隠れはできるが、日本人の気質だからか、不満があっても大抵の場合は律儀に支払ってくれる。電話先の相手も似たような口であろう。
 初音は通話先の相手が誰だか気付いて笑みを零した。それは人に罵る快感に興奮して洩れた笑みでもある。
「お久し振りです豊田様、SRの神崎初音です。失礼ですが妙な言い掛かりは困りますね。私共は依頼を果たしました。樹里ちゃんはたまにうちを訪ねて明るい笑顔を振り撒いてくれます。一体何が御不満だというのですか」
 初音が隙のない現実を持ち出して応対すると、通話先の豊田は返事に困ったように黙していた。初音は怒声を発して欲しそうに股間を触って構えている。
「どうしました、ただのストレス解消ですか。それなら今夜会いませんか、豊田様の好きなだけ、じっくりと私にお説教して下さい」
 初音は豊田に苛められる光景を想像して目を輝かせる。美しい髪を引っ張り上げられ、乳房を手で乱暴に潰される自虐的な妄想が頭の中に広がっていく。陶酔状態になる初音を他所に、電話先の豊田は沈黙に徹していた。改造したバイクの排気筒が唸りを上げる轟音だけが受話器から洩れている。
 股間を弄くっていた初音は我に返り、恐怖に歯を震わせている通話先の豊田の異変を察した。どうやら只の苦情電話というわけではなさそうだ。
「豊田様、今、何処におられますか。誰かに捕まっているんですよね、丁度暇ですから、助けに行きますよ。依頼料は後で見積もりますから」
 初音は受話器に囁くように告げた。通話先では直後に豊田の甲高い悲鳴が発せられた。初音は受話器に耳を押し当てて冷静に通話先の状況を探る。
 通話先の豊田の悲鳴が数秒で途切れる。豊田の悲鳴が消えるとすぐに、息遣いの乱れた別の相手が代わりに出てきた。
「へ、へへ、よくもやってくれたなお前ら。こいつに誘き出させようとしたがもう止めだ。いいか、今すぐ仁部氷見香と一緒に三丁目の錦戸第三倉庫に来い。お前らの依頼人と越野樹里が人質だ。下手な真似はしない方がいいぜ」
 初音は通話先の下卑な笑い声に聞き覚えがあった。越野樹里と豊田に因果関係のある人物とくれば一気に全貌が見えてくる。初音は通話先の相手が氷見香に半殺しにされた西条茂だと気付いたようだ。通話先から聞こえてくるバイクの轟音は長男が総隊長を務める暴走族だろう、西条は苦渋を呑まされた復讐が目的でSRに挑戦状を叩き付けているのだ。
「西条茂さん、ごめんなさい、生憎と氷見香は外出中なの。その代わり私だけ行くわ、私を人質に取れば氷見香もその倉庫に来てくれるだろうしね」
 初音は見えない相手に余裕の笑みを送った。SRとしては豊田と樹里が人質に取られたところで、救出しに行く理由は何一つない筈だ。西条もそれが理解できているからこそ豊田に誘き出せようと目論んだのだろう。初音は西条の企みを十分に承知しているが、異常性癖を満たしたい欲望に駆られて、屈強な男が多数待ち受けているだろう呼び出し先に足を運ぶ覚悟を決めた。
「よし、分かった。お前は人質だ、すぐこちらに向かえ」
 通話先の西条は予期せぬ好条件に打診して電話を切った。初音は受話器を置いて、店内の電気を全て消して回った。二の腕を露出した乳房が透けて見える薄手のブラウスに身を包み、無用心に手ぶらでSRの玄関を開ける。
 陸橋が望め通りに位置するSRの店先では、午前十時にも拘らず学生服の姿が目立っていた。初音は特に気に留めない様子で、懐に手を差し入れてワゴン車の鍵を取り出す。初音が軽い足取りで駐車場に徒歩で向かおうとすると、通りを頻繁に行き交っていた学生服がこちらに振り向き、雄叫び染みた掛け声を発した。
「あいつがSRの従業員だ。やっちまえ」
 学生服一同は利き手にスタンガンを握っていた。初音は突然の凶行にきょとんして両手で天を仰いだ。学生服一同は初音に迫っていき、情け容赦なく初音にスタンガンを押し付けて放電させる。初音は歓喜の喘ぎを上げて全身を身震いさせた。
「あははははは、気持いいい、もっと、もっと苛めてえ」
 初音は全身に強烈な電流を浴びても平然と笑っていた。学生服は顔に焦りの色を浮かべて、無抵抗の初音の肉体を外部から隠すように隙間なく取り囲んだ。人目を警戒に払って初音を駐車場に運搬していく。初音は学生服が西条の手先だと察して為すがままにされていた。 
 駐車場に連れて行かれた初音は、乗用車の後部座席に詰め込まれた。学生服は西条と連絡を取り合って、呼び指し先の倉庫に急行する旨を伝えている。初音は学生服と西条のやり取りに耳を澄まして、安心したように目を閉じた。熟睡した振りをする初音を乗せた乗用車が西条の元に向けて発進する。
 初音が西条の手先に連れ攫われたその深夜、無事に依頼を成し遂げた氷見香は陸橋が望める通りに帰ってきた。氷見香に与えられた今回の依頼は、氷見香の残虐な性癖を満たしてくれるに十分な内容ではなかったらしく、氷見香は苛立ちを募らせて鬱憤を溜め込んでいた。
 賑やかな夜の通りには興味を示さず、氷見香は真っ直ぐSRの店先に置かれた水牛に迫っていた。水牛の首に提げられた準備中の看板を認めて、懐から店の鍵を取り出そうとするが、扉には先日まではなかったメモ用紙が裏向きに貼り付けられていた。氷見は扉に貼り付いたメモ用紙を剥がして、表に書き殴られた文面に目を落とす。
 メモ用紙には汚い文字で『神崎初音は預かった。返して欲しければ三丁目の錦戸第三倉庫にこい。警察を呼べば人質の命はないと思え』と、脅迫めいた内容が書かれている。氷見香は目を細めてもう一度文章を読み返し、鬱憤を晴らすようにメモ用紙を細かく破り裂いた。メモ用紙の破片が通りに点在する街灯の光を浴びて風に押し流される。
 氷見香は初音の安否を心配していないのか、SRの扉の鍵を開けて店内に入った。だが十分ほど経つと身支度を整えて表に出てきた。氷見香は肌の露出を極力控えた長袖を着込み、両手には懐に仕舞った小型の電源と服の内部に通したコードで連結している手袋を填めていた。なだらかな下腹部に巻かれた革ベルトには、猛獣を屈服させる漆黒の一本鞭を丸めて差し込んでいる。左手には小型のスーツケースが握られていた。更に氷見香の頭部には、暗闇の状況下に置いても鮮明な視界が開ける赤外線ゴーグルまで装着されている。
 氷見香はスーツケースを引き摺り、車通りが活発な陸橋が間近に見える辺りまで歩いた。手袋を填めた左手を優雅に挙げて、陸橋から頻繁に通行してくる車の中に混じったタクシーを路肩に横付けさせる。氷見香は自動で開いた後部座席に道具を持って乗り込んだ。
「どちらまで」
 運転手は適当に車を走らせて、バックミラー越しに氷見香を見つめた。凶暴な鞭を携えている氷見香に気付いて驚いたような声が洩れる。
「大至急、錦戸第三倉庫に向かえ。少しでも運転に手を抜けば、てめえをぶち殺す」
 表情は平静を装って行き先を告げるが、サングラスに隠れた氷見香の瞳は怒りに燃え滾っていた。運転手は食い殺そうな圧力に捉われてアクセルを踏み締め、指示通りに速度を上げていった。
 初音を攫われた怒りに打ち震える氷見香を乗せたタクシーが高速道路を利用する。時刻は間もなく午後十二時を迎えようとしていた。

 
 六

 仁部氷見香が初めて神埼初音に出会ったのは八年も前のことだ。
 氷見香はドイツ人の父と日本人の母を持った平凡な家庭の長女として生れ落ち、温厚な両親は待望の娘に全身全霊を込めて愛情の限りを尽くしていた。家庭環境に致命的な欠落は見当たらなかったが、氷見香は奇しくも生粋のサディストとして育ってしまい、物心が付いた時から同年代の子供を苦痛に至らしめていた。氷見香は生まれ付き成長ホルモンが欠損する障害を負っていたが、劣等感を抱えて生きているような軟弱な少女ではなかった。級友から凶悪な性癖を恐れられて孤立しても、絶対的な誇り高い自尊心は揺るがず、氷見香は他人を傷付けて得られる快楽さえあれば充実した生活を送れていた。
 氷見香は順調に孤独な学生生活を満喫していき、高校入学と同時に初音と同じクラスになった。初音もまた極平凡な家庭環境と社会に順応している生真面目な両親に愛情を与えられてきたが、自虐を嗜好する生来のマゾヒズムが高校受験にわざと二回も失敗する悲劇を招いていた。初音は入学当初の自己紹介の際に、同級生より二歳も年上である自分の悲劇を嬉しそうに発表していた。数百人を凌ぐ男子生徒に股を開いて苛められてきた過激な内容も付け加えられ、同級生は凄惨を極めた内容に静まり返っていた。氷見香だけは自分と正反対の性癖を持っている初音に興味を抱き、食い入るように初音の自己紹介に聞き入っていた。
 本格的な授業が始まると、初音は性欲に飢えた極一部の男子生徒に人気を博していたが、凶悪な氷見香と一緒に自然と同級生から剥離された。住む世界が余りにも異なっていたのだろう、いつしか氷見香は同じ世界を共有できる初音と供に行動するようになっていた。親交を深めたくてどちらかが声を掛けたわけでもなく、二人は現在に至っても互いに心を許せる友達という認識は全く持っていない。二人で供に行動することが当たり前の感覚となって、異常な快楽に満ち溢れた高校生活を共有していた。
 二人は高校卒業後、簡単な相談を交わしてSRを結成し、陸橋が望める通りに同名の店舗を構えた。
 SRとは、刺激と反応の直接的結合が基本であると提唱する刺激反応説の略称である。刺激するSの因子と反応するMの因子を持って生まれた二人は、まるでS極の磁石とN極の磁石が引き合うようにぴったりと結合している。SとMは二人合わせて一つの個体になるのだ。二人が互いを片割れと認識しているのはそのためだろう。
 二人はそんな不思議な関係で今も密接に繋がっている。
 
 
 七
 
 午前十時、錦戸第三倉庫は、市内一体を中心に活動する悪名高い暴走族に制圧されていた。
 貨物船が外来の物資を運んでくる埠頭に建てられた錦戸第三倉庫は、全十三練に渡って軒を連ねる同じ構造の倉庫に両脇を固められており、塩分を含んだ潮風に晒された外壁の塗装は剥がれて錆付いていた。波飛沫が打ち寄せる堤防付近には、独自の改造を施されたバイクや乗用車が五十台近く停車されている。消音器を取り外したバイクを駆らせる隊員が、アスファルトの地面を舞台にバイクを躍らせ、特攻服を身に纏った八十人余りの隊員を歓声に沸かせていた。
 暴走族の総隊長を務める西条剛史は、最愛の弟である西条茂に重傷を負わせた氷見香に憎悪を募らせていた。氷見香にSRの情報を洩らさぬよう厳重に脅されて自宅に解放された西条茂は、顔の造形が醜悪に崩れた弟を心配してくれる剛史に泣き付き、仕返しするよう懸命に頼み込んでいた。西条剛史は情に流されやすい家族思いの男であり、家族を傷付けた不届きな輩は例え相手が警察であろうと血祭りに上げてきた。それはたった二人でSRを切り盛りする氷見香と初音も例外には当てはまらないのだろう、氷見香に対する憎悪は嘗てないほどに膨れ上がっていた。
 錦戸第三倉庫前に放棄されたドラム缶には、拷問にかけてSRの情報を吐かせた豊田が押し込められ、ドラム缶の中に流し込まれたセメントに体が浸かっていた。執拗に殴打されて腫れ上がった顔だけを覗かせている。豊田の隣に置かれたドラム缶の中には、暴走族三十名の性器を捻じ込まれた越野樹里が逆さまに放り込まれていた。乱暴に裂かれて細かく散乱した制服が、全裸の樹里を恥辱から守るように全身の随所に貼り付いている。樹里は息が絶え絶えの危険な状態にあり、ドラム缶の縁から虚空に伸びた素足は痙攣を生じていた。
 午前十一時、豊田と樹里を拷問にかけた張本人である西条茂は、徐々に硬化してきたセメントから生首を覗かせる豊田の耳に携帯電話を押し当てた。SRのどちらかを巧妙に騙して誘き出させようとするが、敢え無く失敗に終わり、豊田は罰として鋭利なカッターで左耳を切断され、意識が絶えるまで悲鳴を振り絞っていた。焦った西条茂はSRの店先に配備された手下に指示を下して、自虐的な性癖を満たすために呑気に現れた初音を襲わせた。
 そして正午を迎え、錦戸第三倉庫に憎き敵の片割れである初音が届けられた。初音は車内で既に全裸に剥かれていた。初音の胴体を亀甲に縛った太い縄は、埠頭の潮風に晒されて収縮していき、初音の乳房と性器を絞め付けて堪らない刺激を与えている。暴走族八十人余りの卑猥な視線が全身に這わされ、初音は大声で歓喜の喘ぎを上げていた。
「あは、こんなに沢山の人に苛められるの。私を殴ったり抓ったり犯したりしてくれるの。あはは、最高」
 初音の不気味な喘ぎは、特攻服の股間を押し上げて勃起していた隊員の性欲を減退させた。隊員は得体の知れない初音に動揺して互いに顔を見合わせる。初音は学生服を纏った手下に肩を抱かれて、隊員の集団を素通りしていき、第三倉庫の前まで連れて行かれた。額に青筋を浮かび上がらせる西条茂とその兄である剛史と対面する。
「よう、待ち兼ねていたぜ。お前の仲間にやられた傷が未だに疼くんだよ。絶対に許さねえからな」
 西条茂は顔の右半分がケロイド状に爛れていた。氷見香に蝋燭の火を直に押し当てられたのだろう、爛れた皮膚組織が凹凸する醜悪な瘤を作り、西条茂が呼吸をするごとに醜悪な瘤が顔の表面を波打っている。唇の左端は親知らずが覗けるまで刃物で裂かれており、西条茂は女性を手駒にできないおぞましい怪物に変貌していた。
「あら、結構見える顔になったわよ。少なくとも私の好みだわ、付き合ってあげようか」
 初音は口元を押さえて笑みを零した。瞬時に西条茂を含めた暴走族の顔が強張り、木刀を持っている西条剛史の右腕が逸早く振り上げられた。初音の正中線を目掛けて振り下ろされた木刀が初音の鼻に減り込む。鼻の骨が折れる鈍い音が鳴るが、初音は激痛と鼻血が唇を伝って滴り落ちる感触に興奮してにやりと唇を押し広げた。
「これはこれは、結構な心地良さで。三十点て、とこかしら、ふふ、あはははは、もっと苛めておくれよお」
 初音は声高に笑って暴走族の神経を逆撫でする。怒りを焚き付けられた暴走族は、各自が凶器を持参して初音の周囲をぐるりと取り囲んだ。二十名ほどで形成された輪の中心に置かれた初音は、純粋なまでの破壊衝動に駆られた暴走族の顔を見渡して、歓喜に顔を蕩けさせた。左手を剥きだしの縦筋に忍ばせて、挑発するように肢体をくねらせる。
「あはは、早く、早くして。じらされると、ますます興奮しちゃうじゃないかあ」
 初音を取り囲んだ輪の中から隊員が飛び出してきた。両手で握った木刀を初音の背後から振り下ろして、露出された初音の右肩を打ち据える。初音は木刀の重い衝撃に顔を歪めて悲鳴を上げた。苦痛を快楽に転換した異常性癖の悲鳴に感化され、木刀や金属バットを持った暴走族が次々と迫ってくる。
「あは、ううん、痛いよお、もっと誠意を、愛情を込めて苛めてえ」
 初音は背後から迫ってきた隊員に艶のある頭髪を掴まれた。左足の太腿を金属バットで強打され、髪を後方に引っ張り上げられながら地面に引き摺り倒される。隊員が髪を何本か引き千切った痛みに初音は悲鳴を上げた。木刀を構えて走ってきた隊員は、仰向けになった無防備の初音の腹部を木刀の先端で踏み潰した。初音は横隔膜を圧迫されて悶絶しそうな苦しみにのた打ち回る。金属バットが何度も叩き付けられた初音の左足は、激痛を帯びて真っ赤に腫れあがり、頑強な足の骨はひびを生じていた。馬乗りになってきた隊員は、歓喜の涙を溢れさせる初音に苛立ち、憎しみが篭った拳を顔面に振り下ろす。初音の美形が拳の圧力に合わせて潰され、赤黒く変色する皮膚が瘤のように隆起している。鈍器を動員して全身を甚振られる内に、初音は全身を不自然に身震いさせて、口内に満たされた鮮血を吐いた。
「あひ、あはははは、漸く愛情を感じてきましたよ。でも、絶頂はまだまだ。私ら逝っちゃうまで、まだ苛め足りないよお」
 暴走族は果敢に凄惨な虐めを行っていたが、初音の底知れぬ欲求は折れずに未だ健在だった。命乞いをしない初音に畏怖を覚える暴走族は自棄気味に非道を再開する。地面に大の字に貼り付いている初音の両手と両足に五寸釘を刺して、細い首には首が突っ込めるだけの緩みを残した縄を掛けた。初音の背後に立っている隊員が縄の先端を引っ張り上げると、緩みが消えた縄が頚動脈を絞め付けて、初音は無理やり顔を上げさせられる。初音の呻き声と供に血液の循環が途絶えた顔が真っ赤に変色していた。
「あは、苦しいよお。私ら逝っちゃうまで絞めて。あは、あははははは」
 初音の足元には、性欲の萎えた性器を奮い立たせる隊員が数十人と列を成していた。先頭の隊員は、呼吸ができずに鼻息を荒げる初音の性器で抉じ開け、愛液に湿っている内部に萎びた性器を挿入する。隊員は恐ろしく粘着質な初音の内部に驚愕して、恐る恐る腰を振って内部を掻き乱す。眼球が飛び出しそうな苦しみに悶える初音のおぞましい顔が正面に浮かんでいるので、隊員の顔は血色を失って性欲は完全に消沈していた。無理やりに腰を揺り動かして、内出血が目立つ初音の腹部を殴りまくる。内部に少量の白濁汁を落とすとすぐに、順番待ちをしている次の隊員と入れ替わった。三、四秒ごとに息継ぎができる猶予を与えられた初音は、亀裂が走ったように充血する両目から、意思とは無関係に大粒の涙を頬に伝わせている。涎に濡れた舌は限界まで垂れ下がり、感覚を失った全身は激しい痙攣を生じていた。
「うげえええ、胃が掻き乱されるう、臓物を吐きそうだよお、あは、あへへ」
 二時間以上掛けて性器を使われた初音の内部は、隊員の男根で擦り切れて出血していた。愛液に混じった鮮血が縦の筋から溢れて点々と地面に降り注いでいる。初音は隊員との性交渉が終わっても首に掛けられた縄を外されず、改造を施した乗用車の排気管に縄の先端を括り付けられた。運転席に乗り込んだ隊員が車を発進させて、首に縄を掛けたままの初音を豪快に引き摺り回す。大袈裟に蛇行する乗用車の挙動に合わせて、初音の軽い質量は簡単に地面から浮き上がり、勢い任せにドラム缶を薙ぎ倒して、倉庫の外壁に体を激突させている。背中の皮は硬質な地面に削られて赤味を露出していき、首に絞まった縄は初音の呼吸を停止させて瞳孔が見開かれていた。乗用車が全十三連の倉庫を巡って戻ってくると、初音は苦痛を堪能する根源であった脳の酸素が欠乏して意識を失っていた。滑らかな下腹部を起伏させて微かに息を取り戻しており、緊張が解けた性器は弛緩して地面に尿を垂れ流していた。
 暴走族は疲労を窺わせる顔で漸く気絶した頑強な初音を見下ろした。隊員の制裁を黙って見物していた西条茂が腰を上げて、恍惚に緩んだ笑みを張り付かせる初音に歩み寄る。
「癇に障る女だ、まだヘラヘラ笑ってやがる。一先ずこの女は倉庫に運んで、仲間が来るのを待つぞ。仲間にこいつの醜態を見せてやったら面白い反応が見れそうだ」
 西条茂は氷見香の蛮行を思い返して怒りに顔を歪め、陰毛に尿が付着した初音の股間を踏み付けた。股間に押し当てた右足を抉って初音を制圧した気分に浸っている。総隊長の威厳を絶やさず静観していた西条剛史は、けたたましい笑い声を上げて無抵抗な人質を甚振る弟の成長振りに感嘆の声を洩らしていた。
 午後六時二十分、初音は西条茂の命を下された隊員に背負われて、主に高級な葉巻を詰めた段ボール箱と酒瓶が詰まった木箱で犇めき合う倉庫に監禁された。水分を多量に含んだ埠頭の潮風は凍て付く冷気を帯び、堤防付近ではしゃいでいた暴走族の大半は倉庫に入っている。見張りを命じられた十余名が第三倉庫の全方位に配備されて、他人を陵辱する暴力を得意とする氷見香の発見に神経を削っている。
「あは、冷え冷えするよ、排尿を我慢する自分が妙に可愛いんだ、あははははは」
 初音は固形炭酸の蒸気が立ち昇るドラム缶に肉体を沈められていた。摂氏零度の冷水に身を凍らせる初音の顔は相変わらず口を広げて歓喜に笑っていた。華奢な肩が固形炭酸に触れて、低温火傷の黒ずんだ烙印を押されている。初音の両脇に立っている西条茂と西条剛史は、重厚な肉の塊をも貫通する針金の束を手に持ち、無防備な初音の耳たぶや鎖骨の隙間を狙って針金を一本ずつ、手首を捻って回転させながら針金の半ばまで沈めている。身に襲い掛かる冷気の激痛に覚醒状態を強いられる初音は、楽しげに鉄の串を捻じ込む西条兄弟に更なる拷問に求めた目を向ける。首を締められて柘榴に変質していた初音の顔は、呼吸ができるというだけで正常な血色を取り戻していた。
 生命の瀬戸際に置かれた窮地ではあるが、初音は異常な快楽を欲する姿勢を崩さなかった。全幅の信頼を預けている氷見香の存在が、身の危険を顧みない自虐の欲求に飢える初音に安らぎをもたらしてくれる。初音の無謀な行動の裏には、絶対に氷見香が迎えに来ると信じて疑わない犯されぬ自信が隠されていた。
 とうとう翌日の午前0時を過ぎる。暴走族は未だに現れない氷見香に業を煮やして、見張りを数名増やして仮眠を取っていた。六時間近く第三倉庫の外周を警戒していた見張りは疲労困憊となっていた。木刀を肩に掛け、うつらうつらと首を下げて睡眠の誘惑と戦っている。数分前に見張りに参加した新入りだけが背筋を伸ばして、引き戸になった倉庫の扉で不動を保っている。 
 波飛沫が断続的に打ち寄せる激しい音に阻害されて、見張りの鼓膜は塞がれていたのだろう。玄関口の第十三倉庫を通過して迫ってくるタクシーは、車体に波飛沫を浴びながら、路面に沈殿する塩水をタイヤで撥ね飛ばしていた。
 塩水に濡れた路面を疾走する乾いた音が停止する。タクシーの視界を広げるフロントランプの丸い光が、第三倉庫前で直立している新入り三名の横顔を照らし出す。新入りは突然の来客に動揺して手持ちの木刀を握り締めた。三方から取り囲むように照明を落とした暗闇の車内に歩み寄る。
「お客さん、本当にここでよろしいんですか」
 タクシーの運転手は恐怖に声を震わせて訊いた。暗闇に映える特攻服に怯えて目を伏せている。後部座席に腰掛ける氷見香は、対象を苦痛に至らしめる道具が詰まった銀のスーツケースの鍵を開けて、蓋の裏に金具で固定された消火器を取り外している。
「どうやらそのようだ。準備が整ったから扉を開けろ。二十分ぐらいで片割れを連れて戻ってくるからここで待っとけ」
 氷見香は運転手に催促して、車外で木刀を構える新入り三名を窓越しに睨み付けた。第三倉庫に到着するまでに氷見香は初音が攫われた事情を運転手に話していた。
「二十分もですか、それまで私一人で待つんですかあ」
 運転手は不安げにぼやき、ボタンを操作して後部座席の扉を開けた。氷見香は両手にそれぞれ消火器とスーツケースを持って下りようとする。
「我慢してろ、料金はメーターの三倍払ってやるからさ」
 車を下りた氷見香は足を使って乱暴に扉を閉めた。新入りが即座に連携を取り合って氷見香を三方から取り囲んでくる。
「お前が、仁部氷見香か」
 氷見香は呼び掛けた前方の新入りを見上げる。その直後に返答を待っている新入りの下顎がスーツケースの硬質な角で突き上げられた。氷見香はスーツケースを顎に目掛けて投げていた。激痛に襲われる顎を押さえた新入りが崩れ落ちる間に、氷見香は左手の消火器のホースを握って、体を反転させながら横殴りに振った。
「がぼっ」
 消火器の注意書きを記した表面が、側面の新入りの下顎を捉えた。側面の新入りは衝撃を受けた方向に首を傾けて崩れ落ちる。氷見香はその間にも動作を止めず、持て余した右手を伸ばして腰に差した一本鞭を握り締めた。素早く振り上げて元の形状に引き伸ばした一本鞭を、驚き留まっている後方の新入りに振り下ろす。
 闇に溶け込んだ三メートル近い鞭が、空を断ち切って新入りの顔を強打した。バチリと皮膚が抉り取られる激しい音が響き、新入りの顔面は鞭の跡に沿って血肉を覗かせる。
「ああ、そうだよ、私が氷見香様だよ。てめえらのような蛆虫が気安く呼ぶんじゃねえ。うちの片割れを無断使用した件も含めて、耐え難い苦痛を与えてやるよ」
 氷見香は苦痛を与える快楽に頬を緩めて、一本鞭と消火器を交互に振り回した。息も付かせぬ早業で膝を着いた新入りの顔は、皮を引き裂く鞭の切れ味と、骨を軋ませる消火器の圧力を執拗に受けて、顔の原型が判別できないほどに容貌を歪められる。獣染みた悲鳴が三人分寄せ集まって埠頭の夜空に響き渡っていた。
「きゃはははは、泣き喚くしか能がねえのかよクズどもが。高貴な氷見香様がてめえらの仲間まとめて苛めてやるよ」
 鮮血に塗れた新入りの顔を真横に並べて、氷見香は高笑いしながら順番に踏み付けた。本日の依頼では満たされなかった氷見香の異常性癖は、初音を救出する使命感に触発されて、爆発的に呼び覚まされていた。
 氷見香は暴力を以て蹂躙した新入りを満足いくまで苛め抜き、一本鞭の軌跡を優雅に空に舞わせて、第三倉庫の外周を取り囲む睡眠中の見張りを手早く駆逐して回った。

 
 八
 
 第三倉庫の錆付いた引き戸の中央には微かな隙間がある。氷見香は外部からその隙間に片目を当て、天井に取り付いた巨大な照明に照らされた倉庫の内部を窺っている。
 外周で見張りを命ぜられた隊員は、赤外線ゴーグルを装着して襲ってきた氷見香に遅れを取り、鞭の乱打を顔に浴びてものの数分ほどで壊滅していた。倉庫内は物資が詰まった段ボールや木箱が音を吸収するせいか、埠頭に響き渡った甲高い悲鳴は聞こえていないようだ。堤防に打ち寄せる波飛沫の影響が合わさってのことだろうが、氷見香は隊員の大半が寝息を立てている無用心な警戒態勢に呆れていた。
 鋼鉄で製造された引き戸には、熟睡している十名の隊員が凭れ掛っていた。扉の正面は両脇を段ボールと木箱に固められ、倉庫に潜伏している隊員の殆どが扉から縦に延びた冷たい床に密集している。氷見香は隊員で埋め尽くされた冷たい床を目で追っていき、倉庫の奥でトランプをしている西条茂と隊員五名を見つけて思わず笑みを零した。SRの扉に貼り付いた汚い字の挑戦状を見た時から目星は付いていたが、こうも素直な復讐に乗り出してくる西条茂を殺してやりたくなるほど愛しく感じた。倉庫の奥にある壁際には、パーマを爆発させた髪型の西条剛史が腕を組んで瞑想している。西条剛史の傍にはドラム缶が置かれているが、冷水責めにあっていた初音の姿は消えている。安全な場所に移されたのだろうか、氷見香は暫く目を凝らして初音を捜索するが見つけられなかった。
 氷見香は仕方無しに初音の奪還を後回しにすることにした。粗方の状況を記憶した倉庫内の様子を思い浮かべて、約八十人の隊員を相手にどのような戦法を取るか熟考する。持参してきた銀のスーツケースの蓋を開けて、金具で固定された十数種の道具と睨み合った。
 氷見香は唸り声を上げて、二種の道具を固定している金具を取り外した。それは熊をも撃退できる催涙ガスの成分が詰められた袋と、身体に異常を引き起こすガスから身を守るガスマスクだった。氷見香は頭巾のような形状のガスマスクで顔全体を覆い隠してから、手持ちの消火器の底を手で押して簡単に取り外した。予め独自の改良を施してある特別製の消火器ならではだろう、消化剤が詰め込まれている筈の中身は空洞になっている。氷見香は激辛のチリペッパーから抽出された赤みがかった粉袋を消火器の内部に取り付ける。水で粉を溶解させる必要のない高度な圧縮で噴射するタイプの強力なガスであり、氷見香は消火器で催涙ガスを噴射しようと考えているようだ。
 氷見香は消火器の安全栓を引き抜いて万全の準備を整えた。腰の革ベルトには主要な武器である一本鞭を携帯して、倉庫の扉の隙間に左手を差し入れる。
 氷見香は隊員を起こさないように、頑丈な鉄の扉をゆっくりと左側に滑らせた。開門に伴って扉に凭れ掛った隊員がドミノ倒しに崩れ落ちる。冷たい床に頭をぶつけて目覚めた隊員は、側頭部を手で擦り、正面に立っている異様な恰好の氷見香を見上げた。
「ああ、誰だお前、まさか」
 隊員の一人が氷見香の正体に気付いてたじろいだ。氷見香は臆病に後じさりする隊員に、ガスマスク越しの微笑を送った。左手でホースの先端を掴んで構えを取り、噴射を抑える最後の要であるレバーを強く握り締めた。
「私がお待ちかねの仁部氷見香様だ。てめえらの小せえ脳味噌を働かせてようく覚えておきな」
 氷見香が正体を名乗った直後に、ホースから赤みを帯びたガスが噴射された。噴射による圧力で固形から霧状の細かい粒子となったガスが、扉周辺に潜んだ隊員の顔を覆い隠して、背後で熟睡している隊員をも催涙ガスの煙で包み込んだ。
「いてええ、あち、あち、あぢいいい」
 寝惚けた目を焼き尽くすような激痛に隊員は一斉に悲鳴を上げた。悲鳴は後続の隊員に伝播されて、瞬く間に頭を激しく振って悶え苦しむ隊員が続出する。
「きゃはははは、もっと苦しみのた打ち回れ、てめえらみたいな害虫はガスで優しく駆除してやるよ。ありがたく氷見香様の愛情を噛み締めな」
 氷見は歓喜に高笑いを上げて、扉付近で密集する隊員の足を踏み付けた。軽快な足取りで着実に奥に進んでいる。
 氷見香は消火器の欠点である、十五秒程度の短い噴出時間を有効に使っていた。本来なら停留して鞭の乱打を浴びせたい衝動に駆られているが、俗にOCガスと呼称されるこのガスは、空気中に散布すれば長時間滞留する特性を持っており、目に直撃せずとも皮膚や呼吸器に触れるだけで燃えるような激痛を四十分近く継続させてくれる。氷見香は可能な限り催涙ガスの範囲を広げるために、西条茂が驚愕の叫びを上げている倉庫の奥に突き進む。
「ごぼっ、目がいてえよお、水、水はどこだあ」
 開眼している隊員の殆どは、大粒の涙を流して目に焼け付く痛みを訴えている。狂ったように埃被った木箱に頭をぶつけて、痛みを拭い去ろうとする異常な行為に及んだ輩まで現れている。氷見香はそれらの背中を乱暴に蹴って歓喜の笑みを深めている。ホースから噴射されるOCガスは、倉庫の扉から奥まで延びる道の半分を覆い尽くしていた。
「西条茂、氷見香様がてめえの面拝みにきてやってきたぜ、さぞかし丁重にもてなしてくれるんだろうな」
 氷見香は徐々に接近してきた西条茂に呼び掛けた。西条茂はガスの範囲から逃れた隊員と一緒に倉庫の奥へとにじり寄っている。氷見香は意地悪な笑みを浮かべて西条茂を凌ぐ歩幅で距離を詰める。ホースの先端は、絶えず西条茂の顔の中心を捉えて離さなかった。
「武器を使うなんて卑怯だぞお前、乗り込んでくるなら男らしく正々堂々と戦え」
 西条茂は残忍な氷見香に青ざめた顔で訴えた。氷見香は頓珍漢な要求を訴える西条茂に笑いを噴き出した。OCガスの燃えるような激痛で苛めてやりたくなったが、消火器のホースからプスンと気の抜けた音が飛び出て、六十人近くの隊員を大混乱に招いたOCガスの噴射は終了した。 
 結果として、氷見香が策を弄したOCガスの効果は覿面だった。空気中に霧散するガスに呑まれた隊員は、焼け付く喉と目とを押さえて、声を枯らして苦痛を叫んでいる。木刀等の凶器を用意して氷見香を迎え撃つ体勢を整えてはいたが、ガスに侵された隊員の行き着く先は倉庫の奥ではなく、豊富な水量を貯えた海の方だった。倉庫から飛び出した隊員が次々に、深夜の不気味な黒さを秘めた海へ飛び込んでいる。
 激痛と格闘して倉庫内に踏み止まっている隊員も見受けられるが、痛みを堪えるのに精一杯で、氷見香と対峙する戦意は喪失していた。氷見香は全体の二割程度に減少した暴走族の塊を倉庫の奥に追い詰めた。両脇に聳え立つ物資のお陰で隊員の行動範囲は狭められ、一度に氷見香を襲える人数は横一列に並んだ最前列の三人だけだ。西条茂とその兄である西条剛史は隊員の盾に隠れて最後尾に潜んでいる。
「西条茂、今の内に初音を何処に隠したか教えた方がいいぞ、氷見香様がてめえのとこに辿り着くまでに吐かないと、てめえをぶっ殺すからな」
 氷見香は口調を強めて西条茂に警告を促した。長袖を着込んだ懐に手を差し入れて、上面部にダイヤルを取り付けた小型の電源を操作する。氷見香がダイヤルを最大の10まで振り絞ると、コードを通して両手に填められた手袋に電流が伝達された。手袋の指先から火花が弾けて、凶器を構えている隊員を驚かせる。西条茂は氷見香に浴びせられた電気の痛みを思い出し、臆病にも兄の背後に回って身を震わせた。
「茂が怖がってる、早くそいつを動けなくしろ」
 西条剛史は威風堂々とした腕組みを崩さず指示を下した。総隊長に忠誠を誓った前列の隊員は、即座に威勢を発して迫ってきた。氷見香は隊員の無謀な度胸を賞賛する笑みを湛え、右手を腰に伸ばして全長三メートル近い一本鞭を取り外す。左手は消火器のホースを掴んで勢い良く縦に旋回させた。
「ああ、人様に向かって動けなくしろだあ、クソガキが調子に乗ってんじゃねえよ。てめえらよっぽど氷見香様に苛められてえらしいな」
 氷見香は怒声を発して横殴りに一本鞭を振った。凶器を構えて迫ってくる右端の隊員の頬が鞭に打たれて、鮮血に満ちた鋭利な断面を覗かせる。氷見香は立て続けに鞭を振り回して、中央の隊員の頭頂部を打ち据えた。バチリと頭皮を裂かれる激しい音が響く。苦痛に悶える中央の隊員の脇を駆けてくる左端の隊員は木刀を振り上げた。氷見香は鞭での対処が間に合わずに、左手で十分に旋回させた消火器を咄嗟に投げ付けた。左端の隊員は木刀を振り上げた状態で身動きしなくなった。消火器の硬質な底が隊員の鼻を潰して減り込んでいた。
「邪魔くせえんだよ蛆虫どもが。氷見香様のお通りだ、丁重に土下座して道を開けろ」
 前列の隊員は苦痛に顔を押さえて悲鳴を上げた。氷見香は電気を帯びた手袋で道を妨害する隊員を押し分け、後列で恐怖に身を震わせている隊員に襲い掛かった。金属バットを握っている隊員の右足に鞭を打ち据えて足の骨を破壊する。眉毛の薄い酷薄な印象を漂わす隊員には、下腹部に左手を押し当てて、隊員の体内に強烈な電気を受け渡した。両手を顔の前に出して投降する隊員には、鞭を螺旋状に首筋に絡ませて頚動脈を絞め上げた。氷見香はその間に消火器を拾い上げて、後続に潜んでいる隊員の顔に投げ付ける。硬質なチェーンを闇雲に振り回して襲ってきた隊員は厄介だったが、氷見香は隊員の首を絞め付ける鞭を解き、間一髪のところでその隊員の顔に鞭を打ち据えた。バチリと右目の瞼が裂ける爽快な音が倉庫内に響く。
「いてえ、いてえよ総隊長、助けて、助けて下さい」
 手傷を負った隊員は戦意を喪失して、氷見香の進路を切り開くように隊員の人込みを押し分けた。最後尾の西条剛史の元へと逃げ返している。
 氷見香はすかさず混乱を生じた隊員の塊に突進していき、手袋に帯電する強力な電流と一本鞭の強打を浴びせる。冷たい床に跳ねて鋭利な刃物と化した鞭は、横一列に並んでいる隊員の横っ面を纏めて打ち据える。一本鞭はその勢いに乗って左脇の木箱に跳ね返り、返す刀で右脇のダンボールに鞭を叩き付ける。氷見香は跳ね返りの反動を利用して鞭の速度を上げていた。氷見香の前方を縦横無尽に跳ね回るような形になった鞭は、凶器を構えたまま硬直している隊員の顔を瞬時に切り刻み、皮膚が裂ける鋭い音と供に非情な鮮血を飛び散らせる。氷見香は血の線が走った顔を押さえて悲鳴を上げる隊員に忍び寄り、腹部に手袋を押し当てて意識を奪い取った。数十人と群れを成していた隊員の数は見る見る減少していき、悲鳴を上げてのた打ち回る烏合の衆ばかりが数を増している。
「もういい、お前らは下がってろ。こいつは俺一人で倒す」
 隊員を総括する総隊長の西条剛史は、芳しくない戦況に眉をひそめて遂に重い腰を上げた。壁に掛けた木刀を握り締め、背後で肩を震わせている弟の茂を宥めるように頭を撫でる。そして鞭を振り回して目前に迫ってくる氷見香を睨み付け、鋭利な鞭が跳ね回る危険地帯に勇敢にも飛び込んだ。
「おおおおお、茂の敵だ、俺が相手をしてやるよ」
 西条剛史は強靱な意志を以て危険地帯に足を踏み入れた。バチバチと地面を削って三メートル近い間合いを乱舞する鞭が、西条剛史の特攻服を裂いて剥き出しの皮膚を打ち据える。西条剛史は威勢の良い掛け声を発して自身を奮起させ、全身の随所に襲い掛かる鞭の激痛に耐え抜いている。弟に重傷を負わせた氷見香への憎悪は、元より肝が据わった西条剛史の精神力を極限まで高めているようだ。無策で飛び込んだ根性の塊は、凶暴な眼光を放って鞭をうねらせる氷見香の顔を捉えて木刀を振り上げる。楽しげに笑っていた氷見香の顔に、西条剛史の渾身の一振りが叩き込まれた。
 ガスンと重量感に富んだ鈍い音が倉庫内に響いた。だが、氷見香は余裕たっぷりの不敵な表情を崩さず、目を見開いて顔面で木刀を受け止めていた。鞭の乱打が通用しない苛立ちに目付きは鋭くなり、西条剛史は蛇に睨まれた蛙のように身を凍り付かせて、顔に動揺の色を浮かべた。
「ああ、こら、いてえじゃねえかよクソガキ、てめえ、そんなに氷見香様に殺されてえのか、クソガキの分際で、氷見香様に刃向かおうなんざ、おこがましいんだよ、葬ってやろうかあ」
 氷見香は凶悪な眼光を放ち、西条剛史にサディストの笑みを送った。木刀を受けた顔面は額を割られて血が滲んでいる。西条剛史は咄嗟に身を引いて体勢を立て直そうとするが、氷見香は左手を伸ばして木刀を握っていた西条剛史の手首を掴んだ。左手に帯電する電気が瞬時に西条剛史の体内に受け渡され、全身を暴れ狂う電気の痺れに襲われる。西条剛史は残忍な氷見香の暴力に怯えて、強靱な意志を捻じ曲げた惜し気もない服従の悲鳴を上げた。敗北と同義であるその断末魔に、倉庫の最深部に逃げ帰った隊員の顔が一様に凍り付く。
「茂、早く逃げろ、こいつは無理だ、殺される」
 西条剛史は気力を振り絞って弟の茂に忠告を残した。余計な口出しに怒りを覚えた氷見香は、西条剛史の頚動脈を両手で絞め上げた。隊員の盾に混じって恐怖に震える西条茂は、白目を剥いて全身を哀れに痙攣させる兄の勇士を臆病に見守っていた。
「茂さんは逃げて下さい。こいつは俺達が引き受けます」
 総隊長の散り様に感銘を受けた隊員が戦意を取り戻した。満身創痍の肉体に鞭を打って、各自の凶器を手に携える。西条茂は兄と隊員の意思を汲み取り、両目をきつく閉じて、両手で口元を塞いだ。震える足を前へ踏み出して、赤みを帯びたOCガスが進路に充満する倉庫の扉へと一気に駆け出した。
「おらおらおら、どうだ、苦しいか、痛いか、でも許してやらねえよ、氷見香様の顔の傷はこの程度じゃなかったぜ。てめえは何の価値もねえ最底辺のクズなんだよ、くたばりやがれクソガキが」
 氷見香は本来の目的を忘れた薄ら笑いを浮かべて、全身を震動させるだけの西条剛史に執着していた。前傾姿勢に構えて疾走する西条茂はいとも簡単に氷見香の脇を通り過ぎ、OCガスの濃霧に肉体を突っ込んで忽ちの内に見えなくなった。電流を浴びせる快楽に没頭する氷見香の周囲では、息を殺して歩み寄ってきた隊員が凶器を構える。
「きゃははははは、死ねえ、死ねえ、氷見香様に逆らう奴は全員皆殺しだあ」
 氷見香の背後で息を潜める隊員が木刀を振り上げる。氷見香は油断を誘って気付かぬ振りをしていたらしく、地面に落とした鞭を素早く拾い上げて頭上で旋回させた。空を断ち切って回転する鞭の先端が、六人余りの隊員の顔を纏めて強打した。鞭の目に沿って顔の皮膚を裂かれた隊員は顔の激痛に悶え苦しむ。氷見香はその隙を見逃さずに鞭を高く振り上げ、隊員ひとりひとりの顔に止めの鞭を見舞った。バシリと高い音が連続して倉庫内に響き渡り、八十人余りで群れを成していた暴走族は、氷見香一人の手によって全滅した。
「きゃはははは、笑わせてくれる、クソガキが何十人と寄せ集まって女一匹倒せねえのかよ。西条茂、残りはてめえだけだ、氷見香様が寛大な内に足を止めて引き返してこい。優しく苛めてやるからよ」
 氷見香は外に飛び出した西条茂に呼び掛け、使用済みの消火器を拾い上げた。懐に仕舞った電源のダイヤルを0に戻し、両手に二種の凶器を携えてOCガスの濃霧に体を押し入れる。OCガスに敢え無く巻かれた隊員は、涙が乾き切った目を見開いて、水を求めるように朧げに舌を伸ばしていた。氷見香はガスマスク越しに覗ける不様な隊員の表情を嘲笑い、容赦なく顔を踏み付けて倉庫の外に飛び出した。
 OCガスの領域から逃れた氷見香は、顔全体を覆い隠したガスマスクを剥ぎ取った。氷見香が侵入して十分前後経過したであろう埠頭は、月夜を頼りにした薄闇に包まれており、皮膚に焼き付くような痛みを覚えた西条茂が腕を大きく振って逃走を図っていた。氷見香は待機させたタクシーの脇を通り過ぎる西条茂を見つけて後を追いかける。
「おい、待てよ西条茂、今なら許してやるから止まってくれよ。そしたらてめえの心を傷付けないように、耐え難い苦痛を与えてやるからさあ」
 氷見香は快楽に胸を躍らせた残忍な表情で距離を詰めてくる。氷見香に捕獲された以前と似たような状況に陥った西条茂は恐怖に顔を引き攣らせた。氷見香に抗議するような叫び声を上げて、氷見香の進路を塞ごうとドラム缶を適当に掴み倒す。肉体の潜在能力を快楽で引き出したかのような駿足を発揮する氷見香は、無駄な抵抗を辞さない西条茂を圧倒する速さで追い付いてきた。左手で消火器のホースを握って縦に旋回させ、蛇行気味に動いて逃げようとする西条茂に消火器を投げ付ける。 
 氷見香の手から解き放たれた消火器が、逆方向への切り返しを図った西条茂の右目に直撃した。消火器の底に眼球を潰された西条茂は甲高い悲鳴を上げた。真っ赤な亀裂が走った左目を押さえて地面に這い蹲る。
「目がいてえ、いてえよお、悪かった、俺が悪かったよ。許して下さい」
 西条茂は地面をのた打ち回りながら救いを求めた。氷見香は非情な笑みを零して、一本鞭を何度か堅い地面に叩き付ける。背丈の低い氷見香の人影は、片目を押さえて上目遣いに見上げてくる西条茂の顔に被さった。
「よう、西条茂、随分と梃子摺らせてくれたじゃねえかよ。てめえ如きがSRに喧嘩売って勝てると思ったのか、ああ。さあ、初音の居所を教えてもらおうか、拒否すればてめえの眼球を抉り出す」
 氷見香は西条茂の胸倉を掴んで脅迫した。西条茂は喜悦に歪んだおぞましい氷見香の表情に怯えて、両目一杯に溜め込んだ涙を頬に伝わせる。 
「ご、ごめんなさい。でも今頃神埼初音さんは亡くなったんです。俺らが拷問に掛け過ぎて目を開けなくなったので、兄貴の顔見知りが経営してる病院に連れて行ったんですが。医者に手遅れだといわれて」
 西条茂は涙に顔を崩して驚愕の事実を打ち明けた。氷見香は縁起でもない初音の死に顔を強張らせて、真相を吐き出させるように西条茂の顔を眼前まで引き寄せた。
「ほ、本当です。俺は現場に立ち会ってないですが、担当の瀬名とかいう医者がそう言ってたらしいんです。予定では例え殺したとしてもあんたに見せてやろうと、いや返そうと思ったんですが、その瀬名が医者の権限を使って返してくれなかったんです」
 西条茂は両手で顔を押さえて声を振り絞った。悦楽に酔っていた氷見香の顔は醒めていき、初音の安否を気に病んだ薄幸の翳りが差していた。西条茂の胸倉を掴んだ手を限界まで握り締める。
「そうか、ならてめえがその病院まで案内しろ。私がその医者に直接会って引き取らせて貰う。てめえ如きに片割れが殺されるわけねえからな」
 氷見香は苛々しげに言い除けた。何度も首を縦に振って了承する西条茂の全身を、氷見香は逃がさぬように一本鞭でグルグル巻きにした。鞭を操作するグリップを留め金代わりに差し込み、西条茂を芋虫状に捕縛する。
 捕縛された西条茂と一緒に、氷見香は緊張に肩を疎めて待機している運転手に歩み寄った。初音が窮地に陥った一刻を争う状況を伝えて、西条茂を後部座席に押し込める。氷見香はその後で思い出したように倉庫前に置き去りにした重要なスーツケースを取りに走り、予定通りの二十分前後でタクシーに乗り込んだ。
「急いで病院に向かってくれ。何処の病院かはこいつが知ってる」
 氷見香は鞭に体を縛られた西条茂の頬を抓って脅迫する。すぐに西条茂は行き先を伝えて、運転手は鋭敏にアクセルを踏み締めて埠頭を出発する。
 氷見香は取り敢えず落ち着きを取り戻して、全十三練の倉庫を一掃する外の景色を眺めていたが、初音の救出を果たせなかった屈辱に駆られて自然と顔は激昂に引き攣っていた。

 
 九
 
 蝋燭を灯した霊安室の薄闇で、医師の免許を取得する瀬名がにっこりと笑みを浮かべる。
 世間では有能と見做される医師の白衣に身を通した瀬名は、五分ほど前に巡回してきた夜勤の看護婦に挨拶を交わしていた。その新人の看護婦には、この霊安室には誰も立ち入らぬよう低い声で警告を促していた。
 瀬名はもうすぐ二十六歳を迎えるが、純真無垢な少年のように好奇心旺盛な人間だった。瀬名の趣味は一ヶ月前まで好奇心が変じた卑猥な愛の営みを観察する覗きだったのだが、ある事件を境にして、覗きを超越する悪質な趣味に走り始めていた。
 霊安室のベッドには、純白の布を顔に被せた死者が横たわっていた。死者の頭を乗せた枕側には、簡素な仏壇が置かれて厳かに死者の冥福を祈っている。瀬名は仏壇に供えた蝋燭の灯りに横顔を照らして、医師だけが記入を許される死亡診断書に、この死者の死因を書き込んでいる。
 死亡診断書の名前欄には、SRの片割れである神崎初音の氏名が記入されていた。死因は鈍器による頭部挫傷となっており、暴走族が集結する倉庫に拉致監禁されて拷問を受けた詳細まで載っている。
 瀬名は死亡診断書を書き終えて、初音の頭に被せた純白の布を取り払った。初音の顔は打撲の痕跡が至る所に残っていたが、血色は極めて正常を保っており、括れのある下腹部を起伏させて、生存を象徴する穏やかな寝息を立てている。現に初音は拷問に耐え抜いて無事に生き延びていた。瀬名は病院に担ぎ込まれた初音が生きているのを知りながら、敢えて同伴してきた暴走族に死を仄めかして、初音を霊安室に閉じ込めていた。
 瀬名は両手を白衣の合間に差し入れて脱ぎ始める。瀬名の悪質な趣味とは、主に生死の境を彷徨っている女性患者に死を突き付け、まだ息をしている患者を強姦することだ。瀬名は瀕死の患者を強姦したことに快楽を覚える異常な性癖が芽生え、証拠隠滅を兼ねて、偽りの死亡診断書に書き記した通りの死因で患者を永眠させていた。
 瀬名は強姦魔であり、非道な殺人犯となっていた。悪質な趣味に走ったきっかけは、一ヶ月前に仮設トイレで惜し気もない痴態を晒していたこの初音だった。常軌を逸脱した初音の性癖を目の当たりにして価値観が変化したのだろう、卑猥な愛の営みを覗くだけでは欲望が満たされず、実際に女性を強姦したい衝動に駆られたのだ。
 初音をこの霊安室に閉じ込めたのは計画的な犯行だった。瀬名は暴走族の手下に取り入って特攻服を貸して貰い、倉庫内に潜入して初音の上腕部に麻酔注射を打っていた。初音は麻酔による強制的な昏睡作用で眠りに就き、瀬名は西条兄弟に病院に搬送するよう説得していた。病院に到着した瀬名は急いで更衣室に入って白衣に着替え、何食わぬ顔で付き添いの隊員に姿を現していたのだ。
 瀬名は、凶悪な犯罪を実行するきっかけをくれた初音に邪な感情を抱き、悪質な趣味の獲物として初音を捕らえる好機を以前から窺っていた。瀬名は仮設トイレで不良に乱暴されていた初音と出会った時から甘い恋心を抱いていた。初音をずっと以前から強姦して、徹底的に全身を殴打して惨めに殺してやりたかったのだ。
 瀬名は狂気の牙を抜いて、熟睡している初音の頬に手を当てた。念願の夢であった初音を破滅に導く時が遂に訪れた。瀬名は緊張に鼓動が激しくなる胸を押さえて、初音の薄い唇に自らの唇を重ねようとする。
 互いの唇が触れ合うその刹那、バチリと、空気を断絶しそうな鋭い音が響いた。接吻を仕掛けた西条の右頬が、蛇行した鞭の跡に沿って血肉を覗かせていた。瀬名は焼き付くような痛みに襲われた頬を押さえて、霊安室の扉を開けた氷見香の姿を茫然と見つめた。
「てめえが瀬名か、うちの片割れを無断で持ち出した罪、身を以て償って貰うぜ。何なら今ここで、殺してやろうか」
 蝋燭の灯りを頼りに瀬名は陰影の付いた氷見香を眺める。瀬名の目には冷酷な笑みを張り付かせた異形の怪物が映し出されていた。瀬名は胸に込み上げてくる恐怖の悲鳴を上げて、自分が如何に無力な小悪党であるかを知った。
 同類だけが成せる直感のようなもので、瀬名は氷見香の並外れた異常な性質を察していた。瀬名のような小悪党とは次元の異なる、生粋のサディストを宿命付けられた怪物は、右手に握った一本鞭を霊安室に乱舞させた。一本鞭が室内の壁を跳ね回る鋭い音が接近していき、瀬名の顔は成す術もなく鞭に切り刻まれる。
「きゃはははは、死ね、死ね、氷見香様の愛情をありがたく頂戴しろよ」
 氷見香は瀬名の喉元を掴み、一本鞭を高く振り上げては、容赦なく何度も顔に叩き付けた。意識が飛んだ瀬名の顔には、残虐な行為の爪痕を残す、鮮血に染まった網の目が刻まれていた。天井を鋭く削る一本鞭は、ベッドで横たわっている初音の肉体までも巻き込んでいる。初音は顔を何箇所か裂かれて肩を震わせていた。
 やがて初音は、安眠を妨げる鞭の衝撃と氷見香の甲高い高笑いに気付き、数十人の男性に弄ばれる心地良い夢から醒めた。白装束を羽織った上体を無造作に起こして、眠たげな欠伸を洩らしながら背筋を伸ばす。
 初音が寝惚け眼を擦りつつ、室内を見渡すと、一本鞭のグリップを使って瀬名の顔を乱打している氷見香を見つけた。暴走族が集結する倉庫内の緊迫した状況とは打って変わった霊安室の異様な光景に、初音は釈然としない様子で首を傾げた。
「ねえ、氷見香」
 初音は掠れた声で呟いた。冷水に体を浸けられたせいか、喉に激しい痛みを覚えて野太い声色に変質している。初音は声帯の酷使を控えて、身振り手振りで呼び掛けようと思い立つが、嫌に楽しそうに瀬名を拷問する氷見香を眺める内に、余計な邪魔はしないでおこうと踏み止まった。
 両極端の性質を持った氷見香と初音は互いを尊重している。二人が惹かれ合ったのは、互いの異状性癖を容認できる最高の理解者であったからこそ。当初の状況とは随分異なるが、初音は氷見香が救出してくれたような現在の状況を察して、一仕事を終えて対象を苦痛に至らしめる快楽に酔い痴れる氷見香を止めるのは無粋であると感じていた。
 仕事以外の性癖を満たす行為には互いに干渉しない。それは二人がSRを結成して以来、守り通してきた暗黙の了解だ。初音は暴走族に虐められた体を自力で起こして、壁に立て掛けられた松葉杖を頼りに覚束ない足取りで霊安室の扉を開けた。
 氷見香はそんな初音の背中を静かに見送っていた。信じて疑わなかった初音の安否が確認できて嬉しそうに頬を緩ませ、無邪気な高笑いを上げて瀬名を甚振り続ける。
「ふう、今回は流石に死ぬかと思った。氷見香と違って私は用心して掛からないと駄目ね」
 初音は薄暗い渡り廊下を進む途中で、無用心な倉庫への突入を反省したが、暴走族に殺されかけた甘美な体験を頭に巡らせて顔を蕩けさせた。絶体絶命の危機に瀕しても初音は全く懲りていないようだった。
 霊安室に隣接する病室を通過して曲がり角に差し掛かった時、初音は懐中電灯で廊下を照らして歩いてきた新入りの看護婦とばったり出くわした。
「ひ、ひぐ、きゃああああ、お化け、お化けが歩いてるう」
 看護婦は懐中電灯を力無く落として悲鳴を上げた。白装束を羽織った初音を死体と勘違いしているようだ。初音は不思議そうに腰を抜かして廊下にへたり込む看護婦を見下ろす。両手を顔のまで交差させて拒絶する看護婦の愉快な反応を眺める内に、初音は自分が苛められているような快感を覚えて身を捩らせた。
「あは、もっと罵って。どうせ私はお化けのように気持ち悪い哀れな変態なんです。あなたに刺激されると嬉しくてたまらないんです。どうです、病室に閉じ篭って二人きりでしませんか」
 初音は暴走族に苛められたばかりの肉体を激情に時めかせた。首を振って拒絶する看護婦の手を握って引き起こす。看護婦は涙声を洩らして臆病に肩を震わせるが、初音は優しく肩を抱き留めて空いている病室に連れ込んだ。
「きゃははは、許して下さいと媚びてみろよ、このクズが」「ああ、もっと苛めて下さい。私はあなたという存在に征服されたいんですう」
 互いに恰好の獲物を見つけたSRは、共鳴し合うように深夜の病院で歓喜に喘いでいた。氷見香に襲撃された錦戸第三倉庫の暴走族は相変わらず苦痛に悶えており、ドラム缶にセメント漬けにされた豊田は海底に沈められていた。全裸でドラム缶に放棄された越野樹里は口から涎を垂らして生死の境を彷徨っている。氷見香に捕まった瀬名は額に線香の火を押し付けられ、初音に捕まった新入りの看護婦は無理やり暴言を吐かされていた。病院の外ではタクシーに乗った西条茂と運転手が、SRの帰還を待たされている。
 SRの二人には、彼らを悲劇に誘った罪悪感など全くない。ただいつものように独り勝ちを象徴する快楽に満ちた皮肉な笑みを浮かべているだけだ。多数の犠牲者を出した一連の騒動は、圧倒的な異常性癖によって鎮圧された。
「喚くんじゃねえよこの豚野郎が、氷見香様が肉屋に卸してやろうかあ。きゃはははは」「ああ、御主人様、卑しい私目をもっと苛めて下さい、逝っちゃうまで感じさせてえ」
 異常な快楽に酔い痴れる二人の共鳴は明け方まで及んだ。 

>>戻る
動画 アダルト動画 ライブチャット