観察猫


 一
 
 主人の温かい手に抱かれて交流を深めるオスの黒猫は、クロという立派な名が付いていた。
 クロには滑り気のあるピンク色の舌で主人の鼻先を舐めてやる愛嬌の良さがあり、布団から疲れた顔を覗かせて寝静まる主人の首筋に、短く刈り揃えられた黒の体毛を絡ませる母親のような愛情も持ち合わせていた。
 ささやかな幸福を与える術を身に着けたクロを、初見の人は躾の行き届いた高貴な猫だと錯覚する恐れがあるが、主人と出会う二年前までは公園にたむろする一介の野良猫であった。酒瓶を口に運んで世の中の不条理を説く社会的弱者の話し相手を務め、缶詰の余りや魚肉ソーセージなどを報酬に分け与えられていた。人間と交流する技量は野良の内に培われていたのである。公園での生活が数ヶ月も経てば、木によじ登って公園を一望するクロの円らな瞳には、観察を済ませて各自の性格や独特の癖を見抜いた公園に居住する人で溢れ返っていた。
 まだ小学校の低学年である世間を知らない主人を発見したのはその公園だった。主人は両親から猫との共存を反対されていたらしく、危害を与え兼ねない人間に細心の注意を払って身を硬直させる野良猫を見つけては、自宅から持参してきた虫取り網を振り回して捕獲に乗り出していた。主人は公園に常駐する主婦から忌み嫌われようが、飼い猫を欲して公園中を走り回る毎日を送っていた。クロはそんな主人の異質な魅力に惹かれたのか、木陰に身を伏せ、片時も目を離さず四六時中見守っていた。
 主人に対して特別に警戒心を抱いているわけではなさそうだが、クロはこちらから接触を図ろうとはしなかった。気弱に肩を落として帰路に着いた主人を尾行して、ブロック塀に囲まれた自宅の敷居にこっそり侵入していた。小動物を捕獲する際に意識する忍び足で灰色の塀の上を俊敏に移動していき、風呂場で泥に塗れた髪を洗い流す主人や、洋室のトイレで臆病に啜り泣く主人を窓越しに見つめていた。主人が二階の自室に閉じ篭った際には、風呂場の脇に設けられたゴミ箱の蓋を蹴って、屋根瓦になっている一階の瓦に着地した。忍び足を絶やさずに部屋の窓に近寄っていき、毎日のように悪夢に悩まされて苦悶の雄叫びを上げる主人の寝顔をじっと見つめていた。時折、前足の爪で窓ガラスを引っ掻いてやり、寝ている主人をびっくりさせる意地の悪い行動も取っていた。
 無闇に野良猫を追い回して虫取りを振っているだけの主人では、行動範囲を熟知されているクロの影すら捉えることはできなかった。クロは気配を殺して数ヶ月に渡って主人の自宅に張り付き、同級生に罵声を浴びせられて通学路を進む主人の後を追っていた。
 恐らくクロは、主人の家庭環境や性質を納得いくまで観察していたのだろう。主人が野良猫の捕獲に失敗して寂しげに帰路を辿っていると、クロは態度を一変させて行儀良く路上に腰を据えており、捕まえて下さいと言わんとばかりに主人を見上げて不動を保っていた。淡い緑の水晶体に包まれた黒の虹彩は、驚きの余りに捕獲を躊躇している主人を真摯に迎え入れているように見えた。
 主人は奇声を発して虫取り網を振り被り、現在に至るまで苦楽を供にしてきたクロの全身を網に掛けた。クロは乱暴な捕獲法にも否を唱えなかった。背中の肉を掴まれて短い手足をだらりとぶら下げ、甘えるような鳴き声を発して自宅に連れて行かれた。
 当時と比べて顔に皺が目立ってきた現在のクロは、優雅に長い尾をくねらせて、居間に通じる襖の隙間から僅かに覗ける主人を見守っていた。主人は両親と朝食のテーブルを囲んでいた。主人は母親と視線が合ったら即座に目を背けて何度も謝っている。父親に猫が目障りだと指摘されれば、沈黙に徹してその場をやり過ごしていた。
 主人が高学年に進級したとはいえ、両親の粗末な扱いは一人息子に対する愛情が微塵も感じ取れない。苛立った様子で目玉焼きを箸で切り取る金髪の母親は、敵対心を剥き出しにした赤いジャージに身を包み、鬱憤を晴らすために主人を無意味に折檻する日課がある。笑みの消えた陰気な顔付きで職場の愚痴を吐き連ねる父親に至っては、小学生の主人に夢も希望もない将来の展望をさも自慢げに教えてやるのだ。本来なら級友との語らいの場になる学校に置いても、主人は頑なに拒絶されて理不尽な酷い苛めを受けていた。
 主人の顔は日増しに疲弊の色を窺わせていた。部屋のカーテンを締めて外界の景色を遮断して、最愛の親友であるクロと過ごす時間だけが安らぎをもたらしてくれた。予め主人の悲惨な環境を調査していたクロは、生涯の伴侶のような愛情を受けて、猫なで声を発して身を擦り寄せていた。クロが主人を観察していたのは、主人の愛情を独占したかった狡猾な計算が隠されていたのかもしれない。
 主人と出会って二年と半年が過ぎた頃、クロは普段からするように襖の隙間から居間を覗き見ていた。主人は少年のあどけなさが消えた無感動な顔で朝食を口に運んでいた。対面に坐って目尻に皺を寄せる母親は、わざとらしく主人の右膝を蹴り付けている。早く目の前から失せろと警告するように父親が鋭い目付きで睨んでくる。
 主人は何の言葉も返さず、何の抵抗も辞さず、虚ろな瞳をして目の前の食事を消化していた。食後に訪れる母親の残酷な私刑の際には、手馴れた手付きで小学校の制服を脱いで素っ裸になり、指示されるがままに和室の畳に正座して、竹刀の傷痕が残った全身を露出した。
「どうして、生まれてきやがった。お前がいなけりゃ私は楽できたのに。さっさと死ねよクソガキ」
 母親は有りっ丈の憎しみを込めて竹刀を振り下ろした。主人の丸みを帯びたに竹の鈍器が打ち据えられ、腫れの引いてきた赤い傷痕の上に真新しい青黒い痣が生じた。癇癪を起こした母親の暴力は悦に入っており、主人は両膝を数十回と打ち据えられて、主人の膝は本人の意思とは無関係に引き攣り始めていた。背中を交差するように打ち据えられた竹刀の青痣は、長時間に渡って耐え難い激痛を張り付かせ、主人は両の手を握り締めて悔しそうに涙を零した。
「ごめんなさい、お母さん、ごめんなさい」 
 母親に抵抗できる知性や腕力を持たない主人は、全身を死に追いやる激痛から逃れようと懸命に謝った。だが収入の少ない不甲斐ない夫に業を煮やす母親の怒りは収まらず、情け容赦のない竹刀の虐待を繰り返していた。主人も頭では弁論が通用しない相手だと理解しているのだろうが、謝らずにはいられないほどの激痛が未熟な肉体を支配していた。
 クロは自宅の裏手から侵入できるベランダに移動して、母親に思う存分甚振られる主人を見守っていた。ブラック塀が背後に控えたベランダは、日光が当たらず薄闇に覆われており、主人の虐待に躍起になっている母親はクロの存在に気付いていなかった。
 母親の非情な蹴り腹部に受けた主人は、吐き気を催してきた呻きを上げて畳の上をのた打ち回っていた。胃液が逆流してきそうな気味の悪い感触に耐えて正座に戻り、息子を虐待して気分を落ち着かせた母親に頭を下げる。母親は垂直に竹刀を振り下ろして主人の頭を打ち据え、暴言を吐き捨てながら漸く部屋を去っていった。
 主人は畳に顔を抑え付けて、声を出さずに泣いていた。クロは窓ガラスを爪で引っ掻いて存在を教えてやり、主人が顔を上げてこちらに臆病な視線を向けると、早く窓を開けて欲しそうに甘ったるい鳴き声を上げた。
「クロ、待っててくれたのか、すぐに開けてあげるからね」
 主人は制服を着直さずに急いで窓を開けて、虐待が終わるのを待っていたクロを和室に迎え入れた。主人は壁時計を気にして素早く制服を着直してランドセルの蓋を開け、ランドセルの中にクロを隠して玄関に走った。主人の両親はクロの姿を見ただけで嫌悪感を覚えて、反射的に捨てるよう癇癪を起こすからだ。
 無事に自宅を飛び出して外の通りに出た主人はランドセルの蓋を開けた。クロは連日の酷くなる主人への苛めに見兼ねてか、三週間ほど前から主人を小学校まで送り届けてやっていた。主人の足元に細身の黒い胴体を適度に迫らせ、手綱を必要としない散歩の要領で通学路を歩いていく。
 小学校に指定された通学路は、排気ガスを巻き上げる自動車が頻繁に行き交っていた。専用の歩道は設けておらず、小学生は路肩に違反駐車しているトラックや店先の看板を避けていき、後方から走り抜けてくる車の脅威に怯えて道の端を慎重に進んでいる。家を出発した生徒の大半がこの通学路を使用するので、細く曲がりくねった合流地点からやってくる大勢の生徒で犇めき合っていた。
 互いの親交を深め合う生徒達の談笑が、主人の四方八方から飛び交っている。主人は鍔の広い安全帽子を目深に被って耳を覆い隠していた。主人は周囲の雑音に同級生の恐ろしい響きが混じるのを過剰に恐れていた。クロは小学生の足に潰されないよう周囲に目を配る。
「細野君、何処ですかあ、早く僕達のランドセルを持ってくださいよお」
 やがて主人の意に反して、屈強な体躯を誇った陰湿な生徒達の響きが聞こえてきた。頻繁に通り過ぎる自動車と小学生の集団に視界を狭められて、主人の位置までは気付いていないようだった。主人は足元のクロを抱き上げると、脇目も振らずに全力で駆け出した。小学生が大挙する道の端から自動車が通行する道路の中央へと進路を変える。
「細野君見つけたあ、そんなに急いでどうしたの。僕達を置いていかないでよお」
 逃走する主人の後姿を認めて、五、六人の生徒達が道の端から道路の中央を駆け出した。最初は楽しげに主人を呼び掛けていたが、距離が縮まらない苛立ちに次第に本性を表して、暴言を吐き捨てるようになった。道の端で他の生徒の紛れる同級生は当たり前のように見て見ぬ振りをしていた。
 主人は小声で恐怖を呟いてクロを胸の中に抱き締める。血色が失われた震える唇は、同級生の死を懇願するような台詞をクロに囁いている。
「僕は何も悪いことはしていない。ただ、恵子ちゃんに告白して振られて、むかっときて、キスしてやっただけだ。そんな些細な出来事を、いつまでも恨みがましく根に持って僕を苛めるなんて酷すぎる。あいつらなんか、車に轢かれて死ねばいいんだ」
 実際に主人の学校生活までは調査が行き届いていなかったせいか、主人の言葉の裏に込められた残忍な感情は、クロが嘗て体験したことのない奇怪な現象に映っていた。クロは猫の目を見開いて、真意を探るように主人の顔を見つめる。
 主人は民家の壁に両脇を固められた逃げ場のない通学路を過ぎて、横断歩道を越えたところに門戸を構える小学校を視野に収めた。赤信号を急かすように足踏みをして、待機中の小学生や中学生に不審感を与える。
 儚い生命が事切れる断末魔が聞こえてきたのは丁度その頃だった。後方から高速で迫ってきた自動車が、前方を走っていた小学生の一人をタイヤに巻き込んでいた。潤滑に回転していたタイヤに制服が剥ぎ取られ、骨が砕けて内臓が潰れる不快な音が周囲に響いた。タイヤに肉体を圧迫された小学生は血を吐き、力無く指を痙攣させながら道路に張り付いていた。突発的な事故に巻き込まれたのは、主人に恨みを抱いて悪質な苛めを行っていた同級生だった。
 生死に耐えない光景に通学中の小学生は悲鳴を上げる。主人は咄嗟に思い当たる被害者を頭に過ぎらせ、大急ぎで事故現場へと引き帰していった。
 酔っ払い運転で事故の原因を作った運転手は、轢き殺した小学生を抱いて泣きそうに救急車を求めていた。道路に染み渡る血溜まりと悲鳴を聞き付けて野次馬が殺到してくる。肉塊と化した同級生の傍で立ち尽くす小学生は、仲間の死を嘆いて無闇に泣き喚いていた。
 主人は野次馬の人込みに紛れて、先程まで追い回してきた苛めっ子の亡骸を見ていた。青ざめた顔付きで全身を震わせていたが、やがて肩を脱力させて吐息を洩らし、右頬に向けて唇を引き攣らせた妙な表情を作った。
 主人の胸に抱き留められるクロは、得体の知れない主人の表情の変化に驚いていた。主人が歓喜に笑っていたのが読み取れていなかったのだろう、クロは猫の目を見開いて瞬きもせずに主人の顔を観察していた。
 ずっと、主人を見守っていたクロは、主人との共存に不安を覚えて、その日の内に行方を晦ませた。

 二

 クロが主人と別れて、五年と半月が経った。
 都会の淡白な足音が踏み鳴らされる立体交差点の中央には、中学校に上がったばかりの藤川律子が戸惑い顔で進路の選択に迷っていた。先日、都会とは離れた片田舎から両親と上京してきた律子には、終着点を自由に選択できる立体交差点のシステムが呑み込めていなかった。
 青信号が点滅する立体交差店で途方に暮れる律子ではあったが、これから向かうべき進路が何処であろうが差支えはなかった。律子は肩からスポーツバックを提げており、バッグの中には家出用の生活用品の類が敷き詰められていた。律子は温厚な父親である義雄と真っ向から対立して、都会での生活を断固として拒否していた。小学校を供に過ごしてきた友人との別離が寂しくて耐えられないと何度も訴えて義雄を窮地に追い込んだ。だが仕事の都合で転属となった覆しようのない現実に苦渋を飲んだ。悩み多き年頃になってきた律子は、行き場のない怒りの矛先を義雄へ向け、浅はかな発想で幻想的な世界への扉を探し回っていた。
 二日も希望を求めて都会の街並みを歩き通す内に、律子は自分の軟弱な精神をまざまざと痛感していた。羞恥が喉まで出かかる声を詰まらせて、ろくに赤の他人と会話を交わせなかった。助けを求めたくても酷い仕打ちを受けるのが怖くて、人気のない公園で朝日が昇るのを一睡もせずに待っていた。
 律子の精神は孤独の恐怖に蝕まれ、もう家出を止めて両親が待っている家に帰りたかったのだが、義雄を許せない反抗的な感情が家出の中断を先延ばしにして、結局は二日もの時を無駄に費やす結果に繋がっていた。
 深い後悔の念ばかりを募らせる律子は、大声で泣き喚きたい衝動に駆られていた。泣けば通りすがりの誰かが温かい寝床を提供してくれ、何不自由ない幸福な生活を保障してくれそうな甘い期待を抱いていた。
 立体交差点の信号が赤に変わる間際になり、律子は人目も憚らずに泣いてしまおうと息を吸い込んだ。肺に溜め込んだ空気を吐き出そうと思い立った律子の目の端に、短く刈り込まれた黒の体毛に覆われたクロの姿が飛び込んだ。律子は慌てて口を両手で押さえ、立体交差点の中央で陽気な鳴き声を上げるクロを見下ろす。
 クロは優雅に尾っぽを揺らせ、律子の爪先から頭頂部を舐め回すように視線を這わせた。全身を眺め終わった後は、律子の垢抜けない少女の顔立ちをじっと見つめる。律子が恐怖を覚えて後ずさりすると、クロは途端に全身を躍動させて交差点を渡り始めた。交差点を渡り切る際に律子を一瞥して、待機するように脇道の曲がり角で立ち止まった。
 律子は希望の光が差したのだと信じ込んだ。決してクロから視線を逸らしてはならないような情動に駆られた。赤信号に変わった自動車の警笛に全身をびくつかせ、意を決してクロの方へと進路を取った。
 クロは退屈そうに欠伸を洩らして、スポーツバックの重量に苦労して駆け寄ってくる律子を待った。息を切らして漸く間近まで迫ってきた律子を気遣わず、曲がり道で折れ曲がって商店街の入り口が垣間見れる坂道を駆け登る。律子は人間の言葉で速度を落とすよう頼み込むが、クロは身軽な体で風を切って疾走していった。
「はあ、はあ、待ってよお」
 律子とクロは人目に構わず商店街を抜けて、小学校の通学路に指定された細く曲がりくねった道に差し掛かった。午後三時を迎えた通学路の人通りは疎らだった。死角から硬質な車体を飛び出してくる乗用車が、歩道を設けられていない只の道路に緊張感を持続させている。 
 起伏に富んだ片田舎の通学路で足腰を鍛えていた律子だったが、流石に体力を消耗して両膝が震えていた。息を乱しながらスポーツバックを地面に引き摺っていく。クロは走れなくなった律子に遠慮して歩いていた。
「律子、返事をしてくれ。お父さんが悪かった、帰ってきてくれ」
 走り疲れた律子の耳に、最愛の娘を捜索する父親の懐かしい声が届いた。律子は両目に涙を溢れさせて顔を上げ、灰色のブロック塀に囲まれた民家の前を徘徊する父の義雄を見つけた。
「う、うああああ、お、お父さん」
 律子は憎しみを抱いていた筈の義雄の姿に感極まって泣き崩れた。視界をぼやけさせる涙を両手で覆い隠して、肩に提げていたスポーツバックを地面に下ろす。丸渕の眼鏡を掛けた義雄は娘の泣き声を察して、声が聞こえてきた方向に駆け出した。
 もやのように灰色に霞んで見える義雄の視界に律子が映し出される。義雄は律子の名を大声で呼んで、再会の喜びに律子を抱き締めた。目尻が垂れた義雄の目には涙が滲んでいた。
「ごめんな律子、お父さんが悪かった、律子が嫌なら仕事を辞めてでも故郷に戻ろう、だから家に帰ってきてくれ」
 義雄は律子が家を離れた二日の間に、律子の要求を全て呑む覚悟を決めていた。律子が憎しみを抱いていた虚像の父はその瞬間に消滅した。寛大な心でいつも我侭を許してくれた親馬鹿の義雄に愛情を抱き、律子は義雄の体に顔を押し付けて目一杯泣き喚いた。
「私もう帰りたいなんて言わないよ。三人で一緒に暮らせたらそれでいい。今までごめんなさい、お父さん」
 律子は一時の感動に身を委ねて都会での生活を容認した。義雄は安心したような微笑を浮かべ、律子が泣き止むまで優しく頭を撫で続ける。疎遠になっていた親子の関係は幾許か修復されたようだ。律子を案内してきたクロは、電柱の陰に身を潜めて静かに傍観していた。日中は縦に細められる猫の目は、再会を果たした親子のやり取りを不気味に観察している。
「律子、ここが嫌になったらすぐお父さんに言うんだよ。お父さんは律子の幸せを一番に望んでいるんだからね」
 義雄は律子の腕を引いてスポーツバッグを代わりに肩に提げた。互いに譲り合って親交を深めた親子は肩を並べて、同じ構造の民家が隣接する都会の新居へと帰っていく。
 薄汚れた灰色のブロック塀に四方を囲まれたその中古の物件は、最愛のクロを捜し求めて事故死した、元主人の住処だった。

 
 三
 
 時折、頭を掠める我侭な欲望を押し殺して、藤川律子は前向きに中学校に通い始めた。
 皺一つない学校指定の紺のブレザーを羽織り、白色のブラウスの胸元に蝶ネクタイ巻いて、短めに裁断されたスカートに未発達の素足を潜らせる。学校へ出発する前に鏡台に映し出された律子の黒髪には、黒色のヘアピンが何本か挿し込まれて、豊かな髪が顔の輪郭に沿ってぴったり張り付いている。生真面目な髪型に愛嬌を持たせるように頭頂部はゴムで縛られ、背後に垂れ流れる馬の尾っぽを形成していた。
 律子は潤いのある二重の瞼を瞬きさせて、自分の顔の角度を何度も変えて鑑賞していた。居間の方から定期的に現在時刻を告げる義雄の声が聞こえてくるので、煩わしそうに顔を強張らせる時がある。
 律子の部屋として指定された二階の窓の外には、鏡台と立ち向かう律子を見守るクロが屋根瓦に身を伏せていた。近所の公園を拠点として野良の生活を満喫していたクロは、藤川の表札が貼られたこの民家に無断で侵入するようになった。
 相変わらず観察に没頭するクロの気配には気付かず、律子は身支度を済ませて一階に延びる階段を駆け下りた。そそっかしい娘を心配してぼやく義雄と談笑を交えて、義雄が腕に縒りを掛けた軽食を胃に詰め込んだ。クロは飼い猫としての資格を貰っていないので、親子が朝食を取っている居間の声が聞こえる外壁に移動している。  
 クロが藤川家の内情を何処まで意識して観察しているのか、執拗に藤川家を調査して飼い猫に戻ろうとしているのか知る由もないが、外壁から伝わる内部の音には母の君江の声が混じっていなかった。二週間前に律子が家出をしたショックを抱えて寝込んでしまい、未だに病床から起き上がってこれないようだ。民家を裏手に回り込んだベランダから、布団を被せて苦悩の唸りを上げる君江が確認できる。
 食事を済ませた律子は、君江のか細い手を握って安心させてあげた。死者のように冷えた顔をした君江は、律子を二度と逃がさないように抱き締める。律子は君江の耳元に少女の薄い唇を近づけて出発する意志を囁き、背中を軋みあがらせるほど力を込める心配性の君江を引き剥がす。
 朝昼晩と通例になってきたこの行事を済ませる度に、律子は自由を奪われたような寂しげな表情を浮かべていた。玄関に歩いて外に出た律子の顔は、心労を抱え込んだ重みで俯いていた。
 律子は小学生と一緒になって車通りの活発な通学路を進んだ。元より律子が通う中学校の付属校として小学校が存在しており、互いの校舎は近接する位置に建造されている。通学路が共通するのはそのためだろう。
 雑草が生い茂る藤川家の庭に身を伏せるクロは、中学校に向かう律子の背中を玄関先から見送った。律子が出払って数十分もすれば、義雄が堅苦しいスーツに身を固めて家を飛び出していた。
 クロは、義雄が玄関の扉を開けた際に生じる僅かな隙間に駆け込んで家に入った。二階に通じる階段を尻目に、足音を殺して渡り廊下を歩いていく。渡り廊下の果てには淡い電球を点したままの台所がある。クロは俊敏な動作でまな板の上に飛び乗り、パン切り包丁の傍らに散乱しているパンの耳を口に咥えた。フローリングの床に飛び下りて、襖と襖の合間に体を押し込めて居間に移動する。
 クロの正面には、六畳の居間の半分を占領するテーブルが置かれていた。片付け損ねた朝食の残飯が二枚の皿の上に散らばっている。クロは咥えていたパンの耳と、律子か或いは義雄が残したパンの耳とを交換した。テーブルの向こう側にはソファが設置されて、壁際に置かれた大画面のテレビを鑑賞しやすいようになっている。
 パンの耳を咥えたクロは、柔らかな弾力を持ったソファに飛び乗った。無造作に放置されたリモコンの電源ボタンを前足で踏み付け、ブラウン管に今朝のニュースを放映させる。
 猫であるが故に、当然内容を把握できないであろうクロは、テレビを点けっ放しで襖の開いた和室に入った。客間に利用されていたのだろう和室は、部屋の隅に布団が何段も積み重ねられていた。和室の中央で布団に横たわっている君江が見やすい位置にテレビが置いてある。当の君江は悪夢の中で律子の名を繰り返し呼んでいた。
 クロは君江の枕元に歩み寄り、大胆にも首筋に自身の体重を乗せて、主人にやっていたように黒い体毛を巻き付けた。
「あ、ああ、律子、帰って、帰ってきて」
 君江の寝苦しそう吐息が、体を丸めて寛いでいるクロの体毛をそよがせる。クロは嫌に動揺する素振りを見せず、大口を開けて新鮮な空気を大量に取り入れる君江の口元を見つめた。大胆かつ慎重に君江の顎に前足を乗せて、半身をぐいっと顔の上に被さるように突き出す。丁度、クロが咥えたパンの耳が君江の口元の真上に位置していた。
 クロは迷わず口を開けてパンの耳を落とした。鼻の穴から空気を排出して口を開ける一連の動作をクロは読み切っていた。君江の口内にパンの耳はすっぽり収まり、寝苦しい顔付きをしていた君江の表情に変化が訪れた。パンが口内に入った直後に鼻の穴は全開に広がり、君江は意味不明な言動を発して、熱気を帯びた舌を暴れさせた。
 君江は、見ず知らずの野良猫に投下された残飯を食べていた。クロは君江の両の頬に前足を乗せて、変質した君江の仕草を興味深そうに見下ろしていた。小動物を前足の毒牙に掛ける際の、野生の眼光が君江の顔に浴びせられる。
「にゃあお」
 クロは突飛に甘い鳴き声を上げて、君江の鼻先に顔を迫らせた。謝辞を示すように鼻先をちろちろ舐めてやる。君江は鼻の穴をひくつかせてくすぐったそうに身震いした。 
 クロは君江の一挙手一投足に好奇の視線を這わせた。人体の反応を確かめる悪質な観察に味を占めたようで、前足で何度も君江の頬を叩いて苦悶の呻きを上げさせた。
 日が落ちて夕暮れを迎えると、朝から寝静まって体調の療養に努めていた君江は目を覚ました。重苦しい頭を抱えて立ち上がり、夕飯の支度を済ませようと覚束ない足取りで居間に足を踏み入れた。
「お母さん、もう起きても大丈夫なの」
 居間には、学校から帰宅した律子がソファに背を預けて駄菓子を頬張っていた。君江が寝込んでからは滅多に居間に現れないので驚き留まっている。大画面のテレビは娯楽番組にチャンネルを合わせられていた。
「おかえり律子。良かった、帰ってきてくれたのね」
 君江は踏ん張りの利かない足を引き摺って娘に歩み寄る。律子は何やら違和感を覚えて顔を強張らせ、両腕を広げて背中に腕を回そうとする君江の動きから逃げた。ソファを滑るように移動した律子は、呆然とこちらに振り向いた君江を凄んだ顔で見た。
「やっぱりそうだ。お母さん、私に嘘付いてたのね」
 律子は少女の直情的な思考を働かせて、家出から帰った当初から抱いていた疑惑を確信に変えた。
「突然何を言ってるの律子、お母さんが律子に嘘付くわけないじゃない」
 君江は大袈裟に身振りを取って娘の機嫌を窺った。
「嘘だ、お母さんは病気じゃなかったんだ。だから二週間も寝込んでたんだ。今日私が帰ってきたらね、テレビが点けっ放しだったんだよ。お母さんが居間に来て、テレビを見てたんでしょ。本当は病気じゃないのに、仮病を使って私を騙したんだ。酷い、最低だよ」
 律子は心の中に仕舞っていた疑惑を打ち明けた。家出から帰ってきてすぐに、都合良く寝込んでいた母親が演技をしていると思った。二度と家出させぬよう家の規則に縛り付けようとする巧妙な策略が隠されていると疑っていた。事実、律子は君江を気遣って言い付けは必ず守り通す従順な娘となり、夕方の五時までという不満な門限を容認してきたのだ。
「何を言ってるのかお母さんには分からないわ。どうしたの律子、何があなたをそれほど変えてしまったの」
「もういい、嘘なんてもうたくさん。どうせお父さんも拘ってるんでしょ、二人して私を騙したんでしょ。お父さんもお母さんも、大嫌い」
 惚ける君江の態度が律子の激情を加速させた。都会の同級生と親交を深める時間を裂いてまで、早々と家に帰ってきた自分が馬鹿らしくなっていた。君江は豹変した律子の心境が理解できずにおろおろと狼狽するばかりで、胸に抱いたこの確信こそが真実だと自負する律子を、丸め込めることはできなかった。
「これからは私の自由にさせてもらうからね。お父さんとお母さんが卑怯な手を使ってきた報いよ」
 律子は両親を見下した口振りで吐き捨てた。和解を求めて歩み寄ってくる君江を睨み付け、怒りに顔を赤らませて二階の階段を駆け登る。
 意図してやったのか、たまたまテレビを点けたせいで親子の関係が崩れる事態を招いたのか、原因を作ったクロは庭に生い茂る雑草から顔を覗かせ、父の義雄を交えて深夜まで及んだ親子の口論に聞き耳を立てていた。

 四

 非行の前兆を示すような律子の茶髪を追いかけ、クロは中学校の校内に侵入していた。
 屋上にプールの付いた四階建ての校舎は、外部からざっと様子を窺った程度で、学級崩壊を起こした教室が幾つか見受けられる。運動場の隅に設けられた花壇に身を潜めるクロは、授業時間に教室内を跳ね回る無邪気な少年達の声を聞いていた。
 校門前で周辺の警戒に就いていた強面の警備員は、暇を埋めるために二時間に一回は巡回にやってくるが、気配を殺して木の枝に避難するクロの発見には至らなかった。警備体制が杜撰なお陰で校内への侵入も容易だった。
 クロは休憩時間が訪れるまで呑気に寛いでいた。休憩時間の鐘が鳴れば、見付からないように別の場所へ移動しつつ、校庭内に散らばった生徒の中から律子の姿を探した。
 最近になって急速に校則を無視するようになった律子は、秩序が乱れた露出度の高い服装をしており、控え目な黒髪の生徒に混じれば一目で発見できる。転校当初は、純朴で大人しそうな少女と友好を築いていたようだが、両親との関係が修復できずに険悪となった今では、非行少女の集団に混じって、他人の些細な不手際に過剰な苛立ちを覚える繊細な少女となっている。
 化粧を施した容貌や乱れた服装は目立っていたが、律子は教室に閉じ篭って滅多に校舎へ出ないらしく、クロは不思議そうに運動場を飛び交う柔らかいボールの軌跡を目で追っていた。ボールをぶつけられて満足そうな笑みを零す少年の奇妙な心境が理解できないようだった。
 昼休みを迎えるが依然として律子は校舎に現れない。クロの得意な観察が思うように始められないのは、これが律子の中学校に侵入した初めての体験だったせいだろう。普段は不幸を呼び寄せる悪魔のように藤川家に侵入して、心労を抱えて遂に病院に搬送された君江のいない家の内部を窺っている。昼と夜とで水晶体の密度を変化させる猫の目は、会話の途絶えた父と娘の重苦しい雰囲気に余計な干渉はせず、ただじっと見守っているのだ。
 クロにも凡庸な猫としての性質は正常に働いているが、クロ自身も自覚していない、人間の観察を専門に取り扱う探求者としての資質があるのだろう。今は亡き元主人の家に住み着いた藤川家を対象に選んだのは、得体の知れない主人の心理を読め取れずに逃げ出してしまった雪辱を果たすためといったところか。クロの飽くなき好奇心は身に降りかかる恐怖を拭い去って、身の危険を顧みずに大胆な行動を取らせる原動力と化していた。
「あ、佐知ちゃん、あそこの木に猫がすわってるよ」
 何気なしに聞こえた少女の声は、初春の陽光を浴びる大木に身を潜めたクロを指していた。クロは交差する数十本の枝で人間の視界を塞ぎ、木の幹の裏側に回るなどの擬装は施していたが、花壇の植え込みの手入れをしていた純粋な少女には何故か位置を見抜かれた。佐知と呼ばれた友達が興味深そうに別の友達を引き連れて木を見上げる。クロはふと油断を突かれた失態を自嘲するように鳴いて見せた。
「にゃあお」
 クロが鳴き声を上げた直後に少女達の悲鳴染みた歓声が上がった。猫の居場所を発見できない少女は声を荒げて友人に場所を尋ねた。活発に跳ね回っていた校庭の生徒は、僻地に位置する花壇の異変を察して不思議そうに振り向いた。クロはそれらの圧力から逃れるべく木の枝から華麗に跳躍した。
「ひやあああ、飛んだ、あっち行ったよお」
 少女達の声援を受けて虚空に四肢を伸ばすクロは、ゆっくり前足を沈めて花壇の盛り上がった肥料に足を着き、流れるような動作で後足を蹴り上げ黒土を撒いた。土煙に視野を狭められた少女達は辛うじて、柔軟な全身を撓らせて花壇を飛び跳ねるように疾走するクロを目で追いかけた。クロは校舎の四方を包み込む背の高い外壁と、薄汚れた校舎の壁に両脇を固められた薄闇に消えていった。追跡を断念して嘆く少女達の声が無常に響き渡る。
 クロは人気のない校舎裏に逃げ込む形となり、雑草が伸び放題の校舎裏には、ヘチマを栽培している花壇の行列を成している。クロは校舎裏を横切り、反対側から校庭に戻ろうと歩き始める。
 校舎裏の中央付近には鍵の閉まった裏門が設置されている。裏門の外は傾斜になっている歩道が覗き、その傾斜を利用して一気に自動車で滑っていく人が稀に裏門を通り過ぎる。歩道を利用する人は裏門で足を止めて、学校の内部を窺おうなど思わない筈だ。校舎裏に立ち入ってヘチマを育てる生徒や作業員の姿も滅多にこない。校舎裏の壁に寄り掛かる二人の生徒は、不純な行為を発覚される可能性を考慮して校舎裏を選択したのだろう。
 クロは生徒に気づかれぬよう俊敏に動いて雑草の茂みに身を隠した。校舎裏の壁に右手を着いた茶髪の少年が、耳に穴を通して豆粒くらいのピアスを填めた律子を逃がさぬように追い込んでいた。馬の尻尾を形成する後ろ髪の縛りは解かれ、律子の顎の輪郭に沿って両肩にかかっている。何かを呟く少年の言動に律子の純情な心は惑わされ、恥じらいに少女の顔を赤らめた。
「まだ早いよ、それに誰かに見付かったら大変だって。ねえ、聞いてる」
 律子は緊張に声を震わせて、自分の背丈より十センチは長身の少年を見上げる。少年はすらりと伸びた足を地面に這わせ、端正な部類に数えられるであろう美形を律子の顔に近付ける。冷淡で不気味な印象を漂わせる少年は微笑を作り、律子の膨らんだ胸を手で愛撫している。
「付き合ってもう一ヶ月。そろそろ構わないだろ、俺が律子の全てを受け止めてあげる」
 少年は気障な口説き文句を口にして律子を困らせる。挙動不審に身を捩らせて周囲を見渡す律子を欲する、性への興味に飢えた少年の渇望が身体を突き動かした。少年は律子の前髪に興奮した生温い吐息を吹きかけ、朱の口紅に染まった律子の柔らかい唇を奪った。両手で律子の肩を掴んで外壁に押し付け、少女の唇を剥ぎ取りそうに滑った舌を這わせる。
「悟史、駄目、駄目だよ」
 律子は少年の名を呼んで拒絶するが、緊張に張り詰めていた両手を弛緩させ、吹っ切れたように悟史という少年の背中に腕を回した。睫毛の長い目を閉じて、唇を舐め回してくれる悟史の接吻を受け入れる。清純を保ってきた律子の舌はふしだらに垂れ下がり、ペチャペチャと湿った音を立てて、初めての男性の舌と踊るように絡み合う。律子の口紅は悟史の唇に分け与えられて二人は同じ色を共有した。
 縦に細められたクロの観察眼に、歯止めの利かなくなった性衝動を解放させる二人が映える。律子は乱れた喘ぎを上げて、折り目の入ったスカートの裾を胸元まで捲り上げる。悟史はナプキンが貼り付いた律子のパンツの匂いを意地悪に嗅いで、筋肉が締まった律子の足にパンツを滑らせた。露出された縦の筋は第二成長期の最中である黒藪を微かに蓄えている。悟史は後ずさりして距離を置き、律子に両足を広げるよう指示を下した。
「こんな恰好恥ずかしいよ、風が当たって冷たい」
 律子は恥じらいを挟みながらも、玩具のように素直に命令を受け入れた。靴底を地面に滑らせて両足を広げる。律子の縦の筋から生理用のタンポンの細い糸が突き出して覗いていた。悟史は律子のスカートの暖簾を潜って股間に顔を埋めると、真っ赤な顔で身構える律子の縦の筋に沿って舌を這わせた。びくりと律子は肉体を跳ねさせ、悟史の後頭部に震える手を差し伸ばす。
「あまり声は出すなよ。見付かったらことだからな」
 律子は股間を這い上がる刺激に制圧されて、苦痛と快楽が入り混じった喘ぎを上げる。ぎしりと奥歯を噛み合わせて喘ぎに抵抗するが、悟史は律子の縦の筋を指で広げて、冷えた人肌の表面とは異なる生温かい少女の内部に舌を這わせた。律子は男性に支配される妙な達成感と刺激に思わず両手を垂れ下げ、胸元まで捲くっていたスカートを悟史の顔全体に被せた。律子は生首が隠された男性の肉体を欲して、誰にも見られていない状況をいいことに、快楽に飢えた亡者の表情を浮かべた。 
 クロは雑草の茂みに伏せたまま目を見開いた。脳裏に連続して過ぎった記憶の断片に、事故現場で見せたあの日の主人の表情が、今の律子の邪悪な表情にぴったりと重なり合った。クロは持ち前の好奇心をくすぐられる光景に身震いして、快楽に口を半開きにする律子に気付かれぬよう地面を這って距離を詰める。
「あ、我慢できない。もうどうでもいい、早くして、チャイムが鳴るから」
 間近に迫ったクロの瞳に、校舎の壁に凭れ掛った律子の姿が映し出される。悟史は惜し気もなく下半身を披露して、童貞の色彩を保った男根を勃起させている。律子は快楽の悦に入って初体験を済ませようと暴走して、初めての男性に小ぶりの尻を突き出した。律子の背後に覆い被さる悟史の性器が、残酷な形状をした花弁に捻じ込まれる。
「いや、いやあ、ぎう」
 律子は体内が焼け付くような激痛に喘ぎを上げて、両の拳を握り締めて苦痛に顔を歪めた。柔軟に折れ曲がった肉体の一部に異物が挿入される感触に涙が溢れた。片田舎で育った世間を知らぬ生娘だった律子は、男性との淫らな性交渉を果たして、漸く非行少女の輪の中に加われたような実感に打ち震えていた。
「いたい、いたいよああ、悟史」
 乱暴に律子の処女膜が裂かれて微量の血を噴き上げる。捻じ込まれた悟史の男根が鮮血を浴びて内部を掻き回し、律子の未熟な乳房をブラウスの下から波打たせた。激痛に悶える律子の両膝は脱力していき、校舎裏の外壁を這うように崩れ落ちて地面に倒れ込んだ。
 クロはその隙を見逃さず、行為に没頭する二人を真横から観察できる絶好の場所に移動した。血気盛んな人間の交尾を観察する猫の目は冷静だった。悟史は女性の肢体を破壊したい強欲を抑え切れず、昏睡しかけた律子を仰向けに裏返して、互いの腰が打ち合わされる激しい音を鳴らした。
「はあ、はあ、律子、律子」
 悟史は嬉しそうに目を輝かせて、男根を抱えた腰を前後に揺すった。律子は男性の本質を垣間見た恐怖に悲鳴染みた喘ぎを上げ続けた。悟史は渾身の力を込めて律子の首筋を締め付けており、傍から見れば愛情の欠片も感じさせない強姦のように見えた。律子は両目をきつく閉じて髪を振り乱し、全開に大股を広げて男根を咥え込む性欲の捌け口と成り果てる。クロは悟史に犯されながらも可愛げのある声で泣いている律子の哀れな様を見届けた。
 数分経てば、校舎から昼休み終了の鐘が鳴らされた。性行為に没頭していた悟史は我に返り、律子に感謝を述べて早急に校庭の方へ引き返していった。
 置いてけぼりにされた律子は、亀頭の大きさに合わせて開いたままの縦の筋から悟史の精液を溢れさせていた。くすんと鼻を鳴らせてパンツを拾い、初めての体験を思い出しつつ、ゆっくりと時間を掛けて悟史の精液を指で掻き出す。どろりとした粘着性の白濁汁が滴り落ちていき、雑草の先端に当たって上下に揺れさせた。
 律子は非行の階段を登り始めた歓喜に酔い痴れていた筈だったが、雑草に付着する精液の痕跡を眺める内に、悲愴めいた表情を浮かべた。非行を選んだ自分の決断が過ちだったような疑問が頭を掠めるが、律子は気丈に着衣を整えて湧き上がる疑問を打ち消した。もう引き返せないところまで来たのだと自分を無理やり納得させ、悟史の後を追いかけて校庭の方に駆けていった。
 クロは校舎裏に人気がいなくなったのを確認してから、こっそり雑草の茂みから顔を出して裏門を潜り抜けた。人間の交尾と律子の様子をたっぷりと観察できた収穫に舞い上がるクロは、歩道の傾斜に逆らって藤川家に帰っていった。

 
 五

 社交性の欠如した野良猫の生活は常に死と隣り合わせだ。クロは母猫の胎内から野原に生み落とされてすぐに、人間が支配する世界に放り込まれて、人間が如何に残忍で恐ろしい生き物であるかを思い知らされた。
 クロは藤川家の近所にある公園に居付くまで、客足の少ない飲食店のゴミが散乱する薄汚い路地裏に生息していた。手付かずの自然を保っていたクロは、連日のように母猫と二匹で共同してゴミ箱の中身を漁っていた。ゴミ箱の残飯を漁って飢えを凌ぎ、ゴミが敷き詰められたビニール袋に寄り添って睡眠を取ることだけがクロの全てだった。
 クロはそんな生活でも母猫が傍にいてくれるだけで幸福だった。母猫は口を酸っぱくして人間と拘らぬよう教えてくれた。母猫に実はお前の父親は、人間では未熟と評される少年に捕まって虐殺されたという驚愕の事実を打ち明けられた時は、クロは子供ながらに怯えて母猫の胸で泣きじゃくっていた。
 クロの家庭は社交性の欠如した野良猫一家であった故に、人間の目の敵に遭い易かったのだろう。黒という体毛だけで人間に忌み嫌われた歴史をクロは鮮明に覚えている。十年前以上にも遡るあの日の朝に母猫が訳も分からず殺されたのは、今となってはその性質が仇になったのだと冷静に受け止められる。
 まだ幼かったクロは、目の前で繰り広げられるその残虐な光景が理解できずに呆然と立ち尽くしていた。 クロが過労で寝込んでいたある日、母猫が食糧元であるゴミ袋を漁っていると、丁度ゴミ袋を回収にきた作業員とばったり遭遇してしまった。本来なら危険を察知して逃げていた母猫だったが、腹を空かせたクロに餌を与えやろうと躍起になって、愚かにも作業員に対して凶悪な爪を剥いたのだ。作業員は姿勢を低くして身構える母猫を嘲笑い、背中の肉を簡単に掴み上げて、三枚の硬質な刃が回転するゴミ収集車の中に投げ捨てた。クロは、硬質な刃に肉体をひき潰されて内臓を飛散させた母猫を臆病に見ていた。母猫を捨てた作業員はニタニタとした冷酷な笑みを張り付かせていた。当時のクロは原因がさっぱり理解できなかったが、幼心に野良猫を超越する暴力を誇った人間に太刀打ちできる術はないと悟った。
 ならば人間に取り繕って味方に付けるしか、野良猫を迫害してくる無常な社会で生き延びる方法はない。そう思い立ったクロは住み慣れた路地裏を離れ、より安全な土地を求めて旅に出た。クロの大胆は行動は功を奏して、幸運にも人間は種族の垣根を越えて接してくれる善良な一面を持ち合わせていた。特に野良猫は動物の中でも優遇されており、自宅の庭にキャットフードを詰めた餌箱を毎日のように置いてくれる親切な人間も中には存在した。クロは妥協せずに旅を続けて、心優しい社会的弱者が集結する公園に辿り着いていた。
 クロのように逞しい成長を遂げて、愛嬌のある社交性を持って人間と接したとしても、野良猫が幸福な生涯を送るのは極めて困難である。感情次第で冷徹な化け物に変質する人間の悪意にかかり、保健所に集められた野良猫が日に何千或いは何万匹と処分される例は後を絶たない。公園で知り合ったクロの仲間は、当たり前のように人間との共生を受け入れ、何の疑念も抱かずにその日暮らしの自堕落な生活を送っていた。だが、仲間内でも人間をあらゆる角度から観察し続けるクロだけは少しばかり事情が異なっていた。クロが終始一貫して探求とも言うべき人間の観察を続けるのはそれなりの淡い期待を抱いており、本人は自覚しているか把握しかねるが、それは結果として野良猫の存亡をも占う重要な使命を担っているのである。
 クロは今年でもう十二歳を迎えていた。肉体の動きが緩慢になり、些細な動作で体力が衰えているのを痛烈に実感させられる。猫の目はどんよりと濁っていき、正常な観察を行えているかはっきりしない。元より知恵比べでは人間より劣るので、巧妙に隠れた積もりでも発覚されることが増えてきた。クロは主人の性質を掴め切れずに家を飛び出した後に、主人が事故死した事実を知り、人間を探究するには顔見知りになってはならないという方針の元に動くようになっていた。猫の寿命を考えれば、クロが人間を観察できる余命は後幾許もないだろう。
 律子が非行に走ってから数ヶ月が過ぎ、クロは老体に鞭を打って、相変わらず藤川家に張り付いていた。台所に設置された窓から覗ける内部の照明は消えている。クロは窓枠に寄り掛かって内部を睨むように凝視している。後ろ足が窮屈な足場からはみ出して、下手に動けば落下しそうだ。
 律子が初体験を終えてから藤川家に照明が灯る日は減少していた。律子は彼氏の悟史と供に同棲生活を始めたらしく、家には滅多に帰らなくなった。父の義雄が最愛の娘の様子を心配する余りに、同棲先の家を探偵に調査させて尋ねたことはあるが、律子は定着してきた茶髪を振り撒いて義雄を追い払った。義雄は娘の幸福を最優先すると約束してしまったばっかりに、律子が二週間以上家を開け放しても口出しはできなかった。極稀に着替えを取りに帰ってくる律子の姿を見つめる義雄の瞳は寂しさに翳りが差していた。精一杯の愛情を込めて育ててきた律子の反発を現実として許容できず、とっくり片手に近所を徘徊する異様な行動を取っていた。
 母の君江は、非行に走っていく律子の変貌に多大な心労を抱えて病魔に冒された。入院先の医師に依ればストレス性の胃潰瘍と診断され、病気の根本である律子が態度を改めて真っ当な学生に戻るまでは、苦悩に満ちた入院生活が続きそうだ。
 ほんの些細な出来事で、呆気なく家庭崩壊の危機に陥った藤川家の闇は、クロの目にどのように映ったのだろうか。
 午後九時を迎えた人間の世界は、都会の民家が眠りに就かず、至る所に無数の照明を点している。夜空に浮かび上がる十五夜の満月が下界を照らして、漆黒の体毛を纏って闇夜に紛れるクロの存在はくっきりと浮き彫りにされている。そろそろ会社帰りに君江の病院に立ち寄る義雄が帰宅してくる頃合だ。クロは体内時計で大よその現在時刻を察して、義雄を待ち伏せるように玄関先に移動した。芝生に植え替えられた庭に低く身を伏せる。耳をぴんと張り詰めて、人気の少ない通りを歩く足音に耳を澄ませる。
「ひは、にはははははは、やってられっか馬鹿やろう」
 定刻通りに不気味な笑い声を上げる義雄が帰ってきた。クロは接近してくる義雄の足音に警戒を払い、ブロック塀から延びる陰に身を擦り寄せた。義雄が開き戸になった玄関先の門を開けて、玄関に延びる石畳の上を歩いていく。クロの鼻先を掠めるように履き潰した革靴が通り過ぎた。
 胸元のネクタイを解いて頭に巻いている義雄の顔は泥酔に紅潮していた。肘の辺りまでスーツを脱いで、懐に仕舞った家の鍵を探している。酒の力を借りて現実逃避に酔ってはいるが、目の下の隈や、上唇の周りと下顎に蓄えた無精髭、更に痩せこけて黒ずんだ頬などは、義雄が律子を心配して満足に寝付けない現状を顕著に表している。
 クロは鍵を開けて義雄が家に入るその瞬間に、足音を殺して義雄の背後にぴたりと着けた。近頃は臆病とも言える冷静沈着な観察を進めていたクロが取った久し振りの大胆な行動だった。義雄は暗闇の玄関マットに同乗したクロに気付く様子はなく、覚束ない足取りで一階の寝室に入った。寝室に入る直前に粗方の電気のスイッチを押して、一階を眩いばかりの光源に包み込ませる。
 クロは御丁寧に四肢の肉球に付着した泥を拭い落として、慎重に渡り廊下を進んだ。寝室に通じる襖から酔っ払った義雄の過激な発言が聞こえてくる。主に会社で色目を遣ってきた淫らな女性社員に対する罵詈雑言だった。スーツを脱いで縦縞のパジャマに着替える義雄の姿が、クロが目を光らせる襖の隙間から垣間見える。
「律子」
 義雄は愚痴を吐き連ねた果てに、消え入りそうな声で娘の名を呟いた。虚ろに天井を見上げて、親馬鹿の贔屓が混じった理想の娘であった律子を思い浮かべる。連続して過ぎる甘美な幻想に浸り終えると、義雄は丸渕の眼鏡を外して胸元のポケットに干し掛けた。酔いどれていた義雄の顔は、陶酔から一気に醒めたように神妙な面持ちに変わっていた。
 クロは写真機のように照準を合わせて、生気を失った義雄の顔を目に焼き付けた。義雄は俯き加減に寝室の襖を開けて渡り廊下に戻る。素早く階段裏の空間に逃げ込んだクロの気配には気付かず、重い足取りで台所に歩いていった。
 クロは忍び足で台所に歩いていき、痩せ細った背を向けて乱暴に冷蔵庫を漁っている義雄を見つめる。義雄は生卵とビニール袋に詰まった大量のビール缶を引っ張り出してきた。生卵を割って台所に立ち向かい、油を引いたフライパンの上で盛り上がってきた卵を器用に丸める。クロは窮屈な台所の空間を見渡して、身を隠せる場所に困り果てていた。義雄が振り返れば、発覚される位置に立っているので観察を中断するしかない。
 クロは苦し紛れに義雄の足元に擦り寄った。クロの眼前にフローリングの床を踏み締める義雄の巨大な素足がある。クロは幾多の危険な観察を成し遂げた目を見開いて、素足の動きに微妙な変化が生じるその時を待った。
 卵をまぶした簡単な丼を完成させた義雄は右足に体重をかけた。クロは咄嗟に時計回りに移動して、居間を正面に見据える義雄の背後に着いた。襖が開いた状態の居間に一人と一匹は仲良く同行する。
 義雄はテレビの電源を点けて、居間の端に位置するテーブルに腰掛けた。テーブルからは居間の全体が見渡せる。クロは又もや隠れる場所に困り果て、木目を浮かび上がらせる背の高いテーブルの下に身を潜めた。テーブルに頭上を隠されたこの位置からでは、無感動に食事を口に運んでニュース番組を観ている義雄の表情は窺えない。 
 クロは仕方無しに、児童虐待の特集を組んでいるテレビ画面に目を移した。人語を完全に理解できているとは到底思えないが、義雄が孤独を紛らわせるためか、児童虐待の悲惨な体験を赤裸裸に語り始めた、顔全体にもやの掛かった人に声を出して同情していた。クロはこれまで聞いてきた義雄の感情に直結する様々な声を頭の中に過ぎらせ、聞こえてくる義雄の声を頼りに表情を想像で補完していた。
 義雄はブラウン管の人間と対話を続ける内に、自分が如何に娘の律子を愛して、どれだけ大事に育ててきたかを熱弁していた。律子を傷付けるような行為は決して犯していないと自分を納得させるように。
 確かに律子が非行に走る発端となったのは、友達との別離を嫌がる律子を無理やり都会に連れ出した自分の責任だった。律子に故郷に戻ってもいいなどとその場凌ぎの誓いを申し立て、余計な懐疑心を抱かせた義雄は十分に自分を責めていた。
 だが小学生だった頃の律子は、例え義雄が酒に酔って汚い言葉を吐き連ねても寛容に受け止めてくれた。父親の些細な言動に惑わされて懐疑心を抱くような娘では無かった筈だ。子供ながらに将来はお父さんのおお嫁さんになりたいと照れ臭そうに告白をしてくれ、学校で印象に残った出来事や律子が好意を抱いた男の子のことを話してくれた。律子の視界に飛び込んだ情報は全て家族に分け与えられて親子の関係を深めていた。義雄は母の君江と供に歓喜していた。義雄の娘は世界で一番だと胸を張って答えられた。義雄の教育方針は誰よりも優れているのだと世間に広めたくもなった。
 それがどうだ。今や律子は都会の毒に侵食されたのか、実は義雄を以前からずっと恨んで生きていたのか分からないが、愛苦しい少女の容姿を化粧の毒牙にかけて、親に一切の情報を与えない冷たい子になってしまった。いや、それは単なる言い訳に過ぎない。そう、義雄が間違っていたのだ、義雄が娘の不安を察知してあげれなかったことで律子は道を踏み外したのだ。全ては、義雄が無能な親であって、不甲斐ないばかりに、律子は手の届かぬ心の闇へと落ちてしまった。
「情けない、俺は親として律子に何もしてあげれない。叱ってやればいいのか、このまま遠くから見守っていけばいいのか、どうしていいのかすら分からない。ごめんよ律子、全部父さんが悪かったんだ。父さんが律子のことを分かってあげられなかったばっかりに、ごめんよ、ごめんよ」
 コップ一杯の自棄酒を飲み干した義雄は、両目に湛えた大粒の涙を頬に伝わせた。強大な自責の念に胸が締め付けられて、取り返しの付かない失態に深い後悔ばかりを募らせる。涙に塞がれた義雄の視界は、眼鏡を外した影響もあって濃霧がかかったように曇っていた。 
 恐らくその時の義雄は、律子への謝罪に全身全霊を込めていたせいで、気付かなかったのだろう。義雄の表情を想像しながら観察を行っていたクロの目には、悟史と同棲していた筈の律子が映し出されている。冷蔵庫を漁ろうと台所にやってきた律子は、義雄の熱弁を途中から黙って聞いていた。本来は親思いの性格がそうさせるのか、泣きそうに顔を歪めて義雄を見つめている。
「お父さん、ううう、ああああ」
 律子は感極まって両目に涙を溢れさせた。非行の象徴であった律子の茶髪は、艶のある黒髪に染め直されていた。律子の声に振り向いた義雄は、当惑するように胸元のポケットに差した眼鏡を掛け直して、鮮明になった視界に清純な印象を漂わせる律子を見つけた。
「律子、帰っていたのか、いつからそこに」
 義雄は動揺を隠し切れずに目を丸くした。頑なに両親を憎いんでいた律子の変貌振りが夢の出来事のようで許容できなかった。律子は義雄の目に感涙が溢れたのを認めて、口元を押さえて居間のテーブルに駆け寄った。
「お父さん、ごめんね、ごめんね」
 律子は父の胸に飛び込み、声が枯れ果てるまでがむしゃらに謝った。義雄に伝えられる情報は反省の意を示す謝罪でしかなく、律子は帰宅に至った経緯や無用な言い訳は全く語らなかった。義雄はただ華奢な律子を宥めるように抱き締めてやり、頬を擦り寄せて律子の非行を許していた。
 クロは安全地帯であったテーブルの下を離れて、再会を果たした恋人を思わせる親子の様子を台所から観察していた。涙に崩れた顔を接近させて互いに謝り合う二人の視線が、誤って台所に向けられる可能性は低いと踏んだのだろう。
 一日の殆どを藤川家の張り付きに費やすクロは、当然律子が帰宅してきた時の光景も観察していた。
 義雄が帰宅してくる二時間ほど前、律子は恋仲であった悟史から逃げるように商店街から抜ける通りを走っていた。丁度、藤川家を包囲する灰色のブロック塀の上によじ登っていたクロは、前方から染め直した黒髪を振り乱して駆けてくる律子を凝視した。
「どうして、黒に戻したぐらいで怒られなきゃいけないの。少しぐらい私の我侭を聞いてくれたっていいじゃない」
 律子は走りながら背後に首を回して悟史に反論していた。靴底の高い律子のハイヒールが高い音を鳴らして、藤川家の近所に軒を連ねる民家に響き渡る。義雄に謝罪する律子の服装は白を基調として地味であるが、二時間前の律子の服装は全身を高価な深紅のスーツで固めて派手だった。
「調子に乗ってんじゃねえよ。茶髪のお前が可愛かったから付き合ってやったんだ。黒髪に戻すくらいならお前みたいなうるさい女はいらねえんだよ。今日限りで別れてもらうぜ」
 男性の脚力を活かして背後から距離を詰めてくる悟史が言った。詳しい経緯のほどはクロも認識していないが、律子が染め直した髪色が異常なまでに問題視されている。律子は藤川家の玄関先に駆け寄り、鍵の閉まった扉を開けようと急いだ。肩から提げた高級な銘の鞄の口を開けて鍵を探す。
「それなら追いかけて来ないでよ。私だって悟史には幻滅したわ。あんたみたいな理不尽で乱暴な人は大嫌い。二度と私に近寄ってこないで」
 律子は右手に握った鍵を鍵穴に差し込んだ。手首を右に返して鍵を開けようとするが、追い付いた悟史の左手が律子の手首を捕まえた。悟史は怒りの形相を張り付かせて、律子を逃がさぬように右手首を握り締める。
「言われなくてもその積もりだよ。だがな、俺が買ってやったその服とヒールを返してからだ。持ち逃げしてんじゃねえよ、別れるんだから返すもん返せ」
 律子に失意を覚えた悟史が追いかけてきた理由は、律子が羽織っていた全身の高級な服装にあったようだ。律子は顔を強張らせて悟史に掴まれた手首を引っ張った。
「だからこれは手切れ金だって言ったでしょ。全部悟史が悪いんだから、手切れ金を貰うのは当然の権利だわ」
 律子は限界まで無闇に声量を上げて近所の民家に救援を呼んでいた。権利を主張する律子の目は金品に執着する亡者のそれと酷似していた。悟史は近所の民家の窓から顔を覗かせる傍観者の影に怯えて挙動不審になり、律子の手首を捕まえる握力は他人の気配が強まるごとに緩和されていた。
「いいから返せよ、お前にも原因があるんだからな」
 悟史は周囲に聞こえないように冷たく囁いた。律子の手首から手を離して、蓋が開いたままの鞄を両手で奪おうとする。律子は咄嗟に金切り声で叫びながら鞄の紐を握り締め、二人は全力を込めて左右から引っ張り合った。
「この馬鹿、離しなさいよお」
 律子は高価な物品を渡さないと真剣な表情で怒声を発した。民家の窓から顔を覗かせていた傍観者は、滑稽な痴話喧嘩を目撃したように嘲笑を零している。
「何言ってんだ、お前が離せばそれで済むんだよ。さっさと離せよクソ女」
 悟史が雄叫びを上げて芝生の地面に踏ん張りを利かす。徐々に左右から圧力を加えられる鞄は、革の紐が軋んだ音を立てて平面に近付きそうに伸び切った。手の皮に紐の曲線の跡をくっきりと残した律子が後方に全体重を掛けると、鞄の紐は重量を支えきれずに千切れて、律子は芝生の地面にもんどり打った。
 律子は後頭部を強打した苦痛に悲鳴を上げた。悟史は慌てて奪い取った鞄と律子を見比べて、逃げるように全力で商店街に抜ける通りを駆け出した。
「また来るからな、それまでにその服を渡す用意をしとけよ」
 民家の窓から見物していた傍観者は、足をもたつかせて逃走する悟史の後姿を黙って見送った。鞄を強奪した犯罪者のように認識しただろうが、近所の誰かが通報しているという安堵に浸って事件の光景を純粋に楽しんでいた。
「クソ、鞄を取られた。お気に入りだったのに」
 律子は名残惜しそうに愚痴を吐き、芝生の泥に汚れた服を叩いて立ち上がった。被害者意識に駆られた悲愴めいた顔付きをして、泣き叫びたい衝動を必死に堪えている。横暴な悟史との同棲生活に嫌気が差して自己の所業を悔い改めたのだろうが、その時の律子は両親に謝罪したい意志を削がれて、鞄を奪われた耐え難い屈辱のみに捉われていた。
 塀の上から黙って観察していたクロの目は驚いたように見開かれた。民家から顔を覗かせる住民の表情を見渡して、再び屈辱に打ち震える律子の顔を見つめる。住民と律子の表情は、大勢の人間の観察を行ってきたクロが未だに理解に苦しむ奇妙な人間の感情を体現したものだ。それは事故現場で歓喜に笑っていた元主人の表情や、初体験を目前にして不気味な笑みを浮かべた律子にも重なる。クロは原因が掴めない得体の知れない恐怖に身を震わせた。
 それからの律子は藤川家の自室に戻って、部屋の照明を点けずにベッドに顔を埋めて啜り泣いていた。クロは二階の窓越しに律子の観察を行おうとしたが、毛布を頭から被って泣くだけの律子を見限り、義雄が帰宅してくる頃まで藤川家の至る所を覗き見ていた。
 居間のテーブルで謝罪を繰り広げていた親子は、ゆったりとしたソファに腰掛けて談笑を交わしていた。クロは居間のテーブルの下に戻って、些細なきっかけで元の鞘に納まった親子の様子を観察している。二人の見つめるクロの双眸は混乱したように忙しなく眼球を回していた。悟史と滑稽な痴話喧嘩を繰り広げて帰ってきた律子の経緯を知らず、呑気に笑みを零して律子を迎え入れている義雄の胸中が理解できない。猫の目から見ても、律子が上っ面だけの罪悪感に駆られて帰ってきたような気分に苛まれる。
 クロは訳が分からなくなって臆病に体を震わせた。野良猫を屈服させる高等な知性を誇る人間が、何故このような失態を犯すのか、律子の非行を防止するために事情を聞きだして咎めるべきではないのか、或いは猫の知性で考えられる対処法を凌駕する展開が待ち受けているのか、クロは混乱した思考で状況の整理に努めた。人間の未知の領域を解明できないクロではあるが、着実に得体の知れない恐怖の核心に迫ってきたような手応えに自然と心は躍っていた。
 クロはその後も親子に発覚されぬよう好奇の視線で見守った。義雄は笑顔で空腹の娘に料理を作ってやり、律子もまた笑顔で続々と運ばれてくる父の愛情を受け止めた。律子は父親に感謝する余りに一緒に風呂に入ろうと誘い、義雄は照れ臭そうに鼻を掻きながらも着替えを持って風呂場に入った。未熟な肉体にタオルを巻き付けた律子が父の広い背中に寄り添い、親子水入らずで互いの背中を流し合った。クロは脱衣室として使用される洗面所から聞き耳を立てて内部の様子を探っていた。観察を嗜好する猫の視覚と聴覚を研ぎ澄ませて粘ってみるが、結局クロが期待するような親子の展開は訪れなかった。義雄は親子のわだかまりが解けた喜びに興奮する余り、律子が非行に走った事実など先送りにしているのかもしれなかった。
 やがて律子と義雄は就寝の口付けを交わして自分の部屋に戻った。居間に設置されたビデオデッキの液晶時計は深夜二時を刻んでいた。クロは緊張を持続させて気付かれぬよう熱心な観察を行っていたが、義雄が眠たげな目を擦って玄関の戸締まりを行う際に背後にぴたりと着け、玄関の扉が僅かに開けた瞬間に外に飛び出した。
 近所の民家は既に照明を消して辺りは静寂に包まれている。仄かな照明を灯していた藤川家の電気も全て消えていく。
 クロはブロック塀の上によじ登り、月夜の光を浴びて感慨深げに寝静まった藤川家の二階を見上げた。義雄と律子のどちらかが猫の気配を察して当たり障りのない会話を行っているようには見えなかった。夢遊病でもない限り、照明が消えて寝静まった後に人間が何らかの行動を起こすのは極めて不自然だ。クロは十年の長きに渡った過去の観察からそれを十分に承知している。人間の未知を見極めれそうだったが、クロは後一歩のところで辿り着けなかったのだと残念そうに欠伸を洩らした。
 明日に期待を寄せて今夜は藤川家の床下で眠りに就こうかと、クロは気だるそうに疲れた体を起こした。重心が崩れない抜群の体重移動で足早に塀を駆けていくが、深夜の二時を過ぎた通りに突如として現れた女性に気付いて身を屈めた。
 クロは気配を殺して、覚束ない足取りの女性に猫の目を向けた。女性は精神が錯乱したようにろれつの回らない呻きを上げて、液体が詰まったポリタンクを右手で引き摺っていた。入院服を羽織った女性の肉体は絶食を強要されたように痩せ衰えている。確実に藤川家の表札を睨み付けて忍び寄るその女性は、律子の非行に胸を痛めて入院していた母の君江だった。
「あはははは、律子、お母さんが心配してるわよ」
 君江は乾いた笑い声を発して首を斜めに傾けた。焦点が定まっていない君江の虚ろな瞳は虚空のあちこちを彷徨っている。血色の悪い唇を左右に吊り上げて笑うその仕草は、飲酒による陶酔より遥かに理性が伴なわない危険な精神状態を示していた。
 クロは常軌を逸脱した君江の異様な雰囲気を肌身に感じた。金縛りに遭ったように身動きせず、君江の壊れた表情が近付いてくるのを固唾を呑んで待っていた。
「律子、駄目じゃないの、お母さんを心配させちゃあ」
 君江は虚ろな目を鋭く吊り上げて声を荒げた。クロは発覚されたのかと緊張に身を硬くして、目の前を横切る君江に警戒を払った。藤川家の敷地に足を踏み入れた君江は、律子が非行から立ち直って帰宅している状況など全く知らずに、穏やかで活発だった小学生の律子を回想して感慨に耽った。怒りに吊り上った目を細めて、照明が消えた二階の部屋をじっと眺める。
「律子、まだ帰ってきてないの。どうして、お母さんが嫌いだから、いえ、違うわ。きっとお父さんが悪いのよ。お父さんが律子を困らせたら怒って帰って来ないのよ。そうだよね、律子」
 君江は照明の消えている二階の部屋を無人だと思い込んだ。冷静に現状を確認する余裕が欠如した君江の頭の中では、娘を困惑させた義雄が諸悪の根源であり、義雄という悪魔さえこの世から抹殺すれば、律子は更生して母の元に戻ってきてくれる甘い幻想を抱いていた。
「律子、待っててね、今お母さんが悪者殺したげる」
 君江は運んできたポリタンクの蓋を捻り開けた。鼻腔を刺激する灯油の異臭が空気中に立ち昇る。クロは猫の目を見開いて、歓喜に唇の端を歪めた君江の邪悪な表情を捉えた。
 君江はポリタンクを斜めに傾けて、玄関先の芝生に灯油を並々と注ぎ始めた。クロは近所の公園で暖を取っていた社会的弱者との共同生活で、灯油が可燃性の液体であることを理解している。人間の未知である君江の表情は解明に至らないが、これから灯油を利用して何を燃やそうとしているのかは大よその検討が付いた。
 クロは律子が寝静まっているであろう二階の窓を見上げた。君江が律子の更生を望んでいるのは察している。だが肝心の律子に刻一刻と死の危険が迫ろうとしている。人間が超心理的なテレパシーを介して自分の意志を相手に伝えるのは不可能な筈だ。ならば一体どうするというのだ。クロの主観は、家の内部を確認せずに人間が灯油を撒くなど考えられないと囁いている。
 君江はただ単に玄関先の湿った芝生から線引きするように灯油を撒いている。藤川家の敷地面積を囲めるだけの灯油は、皮肉にも義雄に刈り揃えられた芝生に付着していき、義雄の殺害を目論んでいる君江の凶行を手伝っている。
「お父さんもこの家ももういらない。律子にはお母さんだけが必要なの、お母さんの優しさがあれば何も怖がることはないわ。お母さんが大事に育ててあげる、そうでしょう律子」
 君江は腹黒い願望を呟きながら藤川家の裏手に差し掛かった。クロは自己の安全を確保しようと芝生に灯油を撒いて迂回してくる君江から距離を取った。藤川家の西端であるブロック塀の上に身を屈めて、藤川家の外周に灯油を撒き終わった玄関先の君江に注目する。
 君江は玄関の扉に手を触れ、都会での生活を支えてくれた家に冥福を告げた。クロはいよいよ鍵を開けて家の内部を確認するのかと期待したが、君江はそっと扉から手を離して灯油の煽りを受けないように湿った芝生を跨いだ。
 君江は入院服のポケットに手を差し入れてマッチを取り出す。君江の挙動から目を離さなかったクロはその瞬間に妙な感覚を覚えた。
 夜間は水晶体を黒く塗り潰すクロの目に映っていた君江という人間が、別の奇妙な生物に変質したような錯覚が断続的に訪れる。瞬間的にクロの視覚に飛び込んでくるこの奇妙な生物には、高等な生物であった人間とは思えないほど知性が排除された滑稽な形態をしている。何やら奇抜な笑い声も上げている。クロはその笑い声には意味も秩序も存在しないような根拠のない自信を抱いていた。
「バイバイ、お父さん」
 やはり君江は殺意に捉われて律子の所在に気付かなかった。勢いよく先端を鑢に擦り付けられたマッチは小さな火を灯す。極大まで目を見開いたクロに見守られて、君江は一切の躊躇を見せずに湿った芝生にマッチを落とす。小さな火は灯油に着火して直線の火柱を走らせ、瞬く間に藤川家の外周を火の壁が覆い尽くす。
 律子と義雄を焼殺する無情な火が、じわじわと藤川家に燃え広がる。

 六
 
 君江の悪意に触れた藤川家は、造作もなく火花を散らす赤い炎に全体を包み込まれた。
 近所の民家から飛び出してきた隣人は、真夜中の景色を照らす巨大な炎が自分の家に引火しないように急いで消防局に連絡を取った。放火を引き起こした君江は、藤川家に殺到してくる野次馬に紛れて、満足そうに義雄が苦痛に悶えて焼け死ぬ様を想像している。
 商店街を抜ける通りからやってきた消防士は、野次馬を押し退けて放火現場に身を投じている。勇敢な消防士の援護にあたる隊員は、放水車のホースを引き引き伸ばして、藤川家を取り囲むように各自が持ち場に着いている。ホースの先端を虚空に向けて、強力な水流を炎上する藤川家に浴びせる。
 クロは、野次馬に紛れる君江の足元で、黒煙に覆われた藤川家を見つめている。クロは耳を澄ませて、ほんの数分前に藤川家から律子の悲鳴が上がったのを聞き取っていた。救いを求める律子の声はクロにしか聞こえていないようで、君江は義雄を焼殺した確かな手応えに残忍な表情を絶やさない。
「人が見つかったぞお」
 藤川家に身を投じた消防士が戻ってきた。銀の色彩を焦がした耐熱服の背中には、右半身が炭化して右目の眼球が溶けた義雄が被さっていた。救援を呼び掛ける消防士の声を聞き付けて、消防車の後続に並んでいる救急車から救急隊員が下りてくる。素早く担架を持って消防隊員が抑え付ける野次馬の最前列を横切り、瀕死の重傷を負った義雄の肉体を担架に沈めた。
「まあ、お父さんじゃない。ふふ、あんなに焼かれちゃって」
 君江は担架で運搬される変わり果てた義雄を見つけて笑みを零した。義雄は肉体の大部分に火傷が広がっており、迅速な治療を施したとしても生存の見込みは低いだろう。野次馬は目を覆いたくなる残酷な光景にどよめきを上げて、救急車に運搬される義雄に視線を集めた。義雄を救出した消防士は他の隊員に加勢して藤川家の鎮火にあたる。
「私も連れて行ってください、その人の妻なんです」
 君江は密集する野次馬を掻き分けて、最寄の病院に出発しかけた救急隊員を引き止めた。抑え切れない歓喜に胸を躍らせて救急車に同乗させてもらう。クロは野次馬の足元を離れずに、横目で救急車の方向を見つめていた。救急車が病院に走り出すと君江の観察を諦めて藤川家を見つめる。
 消火活動を開始して二十分も経てば、藤川家は焦げた臭気を周囲に充満させていた。水分を含んだ煙が火事の痕跡を示すように立ち昇り、ホースを放水車に片付けた消防隊員は鎮火完了の合図を出した。静観していた野次馬は大歓声を上げて、被害を最小限に食い止めた隊員達を賞賛する拍手を送った。
 クロはその光景が妙に可笑しくなって口元を歪めた。照れ臭そうに頭を下げる消防隊員を見つめる。いつしかクロの視界に存在していた高等な知能を持った人間の姿は跡形もなく消えており、君江が瞬間的に変身していた奇妙な生物の群れが映っていた。その奇妙な生物の風貌は知性の欠片も感じられず、口から涎と舌を垂らして、左右の眼球をクルクルと回転させ、鼻水の噴出と一緒に奇妙な人語を叫んでいる。本来は両手を重ねて音を鳴らす筈の拍手が、猿のように両膝や胸を叩いて歓喜に舞い上がっている。
 クロは瞬きを繰り返して元の景色に戻そうとするが、その奇妙な生物は一向に人間の姿に戻ろうとはしない。或いは元に戻せないのか、クロは急に思いついたように首を反らして藤川家の二階を見上げた。火事現場の見物に没頭する余りにすっかり記憶から抜け落ちていたが、まだ律子の消息が掴めていない。義雄を救出した消防士は再突入しなかったので、火に焼かれたであろう律子は二階の自室に取り残されている。野次馬は呑気に拍手を爆発させて消防士を称えている。消防士も声援に従って頭を下げているだけだ。
 つまり、誰一人として律子の存在に気付いていないのだ。クロは記憶している限りの観察記録を引っ張り出して、奇怪な現象の解明に至ろうと冷静沈着に思考を巡らせた。人間の未知の領域に踏み込んだような予感が不思議と芽生えてくる。そういえば奇妙な生物を見ているだけで妙に可笑しくなった。あの時の感情は元主人が最期に見せた不気味な笑みと似通っているような気がする。
「残念だったわねえ、あの人よくうちの壊れた電気製品直してくれたのに、惜しい人を亡くしたわ」
 奇妙な生物が狂おしく乱れた顔付きで雑談していた。集中力を乱されたクロは、本来は小太りの主婦であった奇妙な生物を睨み付ける。わらわらと密集して無知な発言を唱える奇妙な生物供の声が妙に癇に障っていた。人間同士ならいざ知らず、人間のような形をしたこの痴呆な生物が、野良猫を差し置いて高等生物である人間を貶すなどおこがましい。クロは苛立ちを募らせて前足の爪足を伸ばす。クロはふとその瞬間に奇怪な現象を解明できる発想を頭に過ぎらせた。そしてクロは、急速に現実味を帯びていくその発想が紛れもない真実のような確信を抱いた。
 そもそも前提がまず、間違っていたのだ。クロは慎重に人間の観察を進める利口な野良猫であり、人間は常に野良猫の能力を遥かに上回る高等生物だと認識していた。野良猫が人間の気分を損ねれば即座に虐殺されるのだからそう考えるのが賢明だった。クロは生半可に知能を身に付けていたために、人間は高等な生物であるという固定概念に縛られて今まで気付かなかった。
 クロの推測が確かならば、人間は統合性の取れた完璧な知能を持っておらず、常に不安定な各自の主観で発言を述べ、現状を確認せずに自宅に放火する残虐性をも秘めた危険な生物だったのだ。そう考えれば温厚な元主人や君江が見せていたあの残忍な表情も説明が付く。母猫を殺したゴミ収集車の作業員の行動原理さえもだ。
「でも面白かったなあ、顔とか焦げてて可笑しかったよ」
 クロは間近にいた青年の声を聞いて、身も凍る恐怖に全身を震わせた。見渡す限りに広がるこの奇妙な生物こそが本来の人間を表していると考えるだけで怖かった。上辺だけの仮面を剥ぎ取って、純粋なまでの悦楽に浸っているこの光景は純真無垢なる人間の本質を示していた。若しかしたら、他の野良猫には初めから人間がこのように見えていたのかもしれない。現に公園で知り合った野良猫は人間を馬鹿にしたような目付きで見下していた。高等な生物に怯えていたクロだけが十年以上の歳月を掛けて臆病にも人間の観察を行っていた。
 それはクロを絶望の底に陥れる恐ろしい考えだった。クロが他の野良猫より知性が劣っている何よりの証明となり、人間の本質をいつまでも見抜けずに粘着していたクロの生涯を否定するに十分な、堪え切れない破滅的な打撃を与えてくる。
 クロは愕然として、信じ難い現実を確認するように奇妙な生物を見渡した。歓喜に声帯を裏返して踊り狂っている。腹を抱えてゲラゲラと耳障りな笑い声を上げている。クロの胸の内で急速に行き場のない憎悪が湧き上がってくる。観察対象であった高等な生物の思い掛けない実態を許容できない。クロにとって、高等な生物である人間に屈服されるなら野良猫としての不遇な生涯は受け入れられたが、この醜悪な奇妙な生物に従って生きていく哀れな野良猫の生涯は、想像するだけで全身のあらゆる体毛が受け入れられぬ嫌悪に逆立っていた。クロは憎悪を沈めるようにゆっくりと目を閉じて、切り立った耳を顔にぺたりと押し付ける。
「にゃあお」
 クロは同等かそれ以下になった危険な生物を追い払うように陽気に鳴いた。猫の言葉を理解できない人間がクロに興味を示してきたが、クロは達観したような表情を浮かべて、野次馬の集団を素早く抜けていった。
 野良猫と人間が憎しみ合いながらも共存できたのは、人間が慈悲深い側面を持ち合わせた愚かな生物だったからなのだなと、クロは静かな思考だけを巡らせて近所の公園に歩いていた。完全に閉じられた猫の目は漆黒の闇を映し出しており、顔に張り付いた両の耳は誰の言葉にも耳を貸さない姿勢が整っている。
 クロはもう何も見たくはない、もう何も聞きたくはない。外部の情報を全て遮断して見えるクロだけの世界に閉じ篭っていた。
 クロだけが見える世界にはあれほど観察していた人間の姿は消えている。人間に殺された母猫と共同して人間のような無数の小人を踏み砕く、幼年の頃の無邪気なクロが活発に跳ね回っていた。

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