価値への反逆

 

 一

 

 水道管に関する事業を全般に取り扱う新海水道株式会社に勤める新海幸太は、一代で大会社を築き上げた偉大な父の恩恵を授かり、入社して三年後には代表取締役社長の座に上り詰めていた。近年の景気はバブル全盛に追い付きそうなほど上昇傾向にあり、総勢二千人ほどの社員は多額の給与が与えられる度に至福の笑みを零して、不満を口にせず割り当てられた各自の職務に順してくれる。

 社員を顎で使える権威を手中に収めた新米社長の新海の過去には、葛藤や不満などの苦悩を抱え込んだ経験が全くと断言していいほど存在しなかった。若しかすると苦悩という概念すら新海の辞書には載っていないのかもしれない。新海は常に値段の付けられない自身の絶対的な価値に陶酔しており、不都合な思考は彼の根底から取り払われていた。

 そんな便利な知能を身に付けた新海は、会社が根城にしているビルの三十六階に設けた社長室で欠伸を洩らしていた。社長として日が浅い新海に割り当てられた唯一の仕事は、毎日の昼食を何処の高級店で出前を頼むかということであったが、勤務時間の大半は社長の特権を利用して自由に行動できるので、新海はそろそろ退屈な時間を打破する思案を練り上げた。

「おい、美村、テニス」

 二十代前半であろう巨漢の新海は電話を使って秘書に用件を告げた。高級な漆塗りの机に贅肉がこびり付いた両の太腿を乗せ、若くして禿の前兆が始まった密度の薄い頭髪を執拗に構っている。漆塗りの机に乗せられたノートパソコンの画面には、先程まで閲覧していた卑猥な画像が映し出されていた。新海の趣味であろうか、看護婦の衣装を身に羽織った美少女が男性に乳房を鷲掴みにされている。

「社長、お待たせいたしました」

 駆け足で社長室に入ってきた秘書の美村が言った。新海と同年代に属する美村は、同姓の間からも憧れの的となる凛々しい顔立ちと他人に厭味を与えない淡白な性格を兼ね備えており、赤いフレームで縁取られた軽量の眼鏡が知的な印象を主張していた。腰辺りまで伸びる長髪は清潔感を装うために頭頂部でとぐろ状に巻かれており、社長命令で大幅に丈を短くされたスカートからは、持ち前の線の細い美脚を大胆に覗かせている。

「遅いぞ、ラケット」

 新海は皮が弛んできた二重顎を振って命令を下した。美村は即座に華奢な肩から提げたテニスバッグのチャックを下ろして、初心者用の軽いテニスラケットを取り出した。我侭な自制心の制御が困難となり、漆塗りの机に身を突っ伏して手足をばたつかせる新海にラケットを手渡す。

「テニスラケットで御座います」

 美村は冷静な表情を変えずに説明を加えた。新海は待望のラケットを受け取ると、すぐに社長机に置かれていた小型のリモコンを操作して、ガラス張りになっていた壁を開閉させた。ガラスの壁は中心部の隙間から左右に別れていき、下界の民衆を苦しめていた冷風が室内に入り込む。

「美村、ボール」

 新海はさも嬉しそうな表情を浮かべて、三十六階の高度から忙しなく横断歩道を行き交う人の群れを見下ろしていた。秘書の美村から柔らかなテニスボールを託されて、新海は露骨に歓喜を示した不細工な笑みを作った。

「テニスボールで御座います」

 美村は股間の前で慎ましく両手を重ね合わせ、暇を持て余し過ぎた新米社長の行く末を見守った。

 新海はボールを左手の五指で握り締め、冷風が流れ込む障害物の失せた空間に体を横に向けた。高まる緊張を静めるように息を吐いて、左手で握っていたボールを頭上に放り投げる。

「ふううう、きゃおおおお」

 ボールの上昇に合わせて上体を反らした新海は、楽しげな掛け声を発してラケットを振り下ろした。頂点に達したボールに網の目が打ち据えられ、ボールは三十六階の社長室から真逆様に勢いを増して、横断歩道を通行していた見知らぬ小学生の後頭部にパコンと命中した。点滅する青信号を渡り切れずに膝を揺らして崩れ落ちる。強烈なボールの衝撃が重度の脳震盪を引き起こしたようだ。

「お、おい、大丈夫か。誰か救急車、救急車を呼んでください」

 少年がボールに襲撃されたその瞬間を目撃していた通行人の一人が、親切に少年の質量を抱きかかえて救いを求めた。横断歩道を通過していた無関係の民衆は慌てどよめき、挙動不審に他人に視線を向けて通報するよう促している。

「ふううう、きゃおおおお」

 悪質な行為に快感を覚えた新海は、赤信号を臆せずに小学生に集っている野次馬に狙いを定め、頭上に投げたボールを打ち据えた。重力に従って速度を増していく弾丸染みたボールが、喫茶店の前で友人らしき女性と談笑していた女子高生の薄い唇に命中した。歯並びの美しい前歯を二、三本折られた女子高生は口元を押さえて地面に蹲る。

「うひょ、たまらん」

 新海は双眼鏡の倍率を上げて泣き崩れる女子高生の顔を眺めた。常軌を逸脱した危なげな神経が人間を使った的当てゲームを続行する意欲を増幅させる。両親の過剰な保護の元で成長を遂げた新海には、下界にはこびる民衆が三文の価値もない只の有機物に映っているのだろう。新海はラケットを二度振っただけで腕が疲労の限界に達しており、ラケットを使用せずにボールが大量に詰まった箱を引っくり返して、無機質なテニスボールの散弾を百個近く下界に撒き散らした。

「きゃおおおお、きゃおおおおお」

 雨のように降り注ぐボールが、連続で落下してきたボールの軌道を察して、怪訝そうな顔付きで上空を睨み付けていた男性の眼球に直撃した。次々と降ってくるボールに恐怖する民衆は悲鳴を上げて全力でその場を離れていった。遠方まで避難した民衆は、三十六階に潜伏する新海の姿までは確認できないが、明らかな疑惑の眼差しを新海の会社へと向ける。

「美村、当たった。絶対百五十万人ぐらいに当たった。あれ、おいおいおい、まだ一杯集まってくるよ」

 新海は再び双眼鏡を覗き込み、テニスボールが降ってくると噂を聞き付けて、大量に殺到してくる不用意な民衆の顔色を窺った。新海が嘲笑うように追加のボールを何個か落としてやると、民衆は突然の凶行に唖然として、好奇の表情が間抜けな面に変質していた。新海は予想通りの反応に跳び上がって舞い上がり、傍らで乱心する社長を見守っていた美村に双眼鏡を手渡した。

「怒っているので御座いますね」

 美村は受け取った双眼鏡を覗いて、罵声が飛び交う下界の様子を入念に調べた。新海の機嫌を損ねぬように相槌を打ちながら、事を荒立てぬように事態を収拾する最善の方法を考える。無邪気に肥大した腹を抱えて笑い転げる新海には危機感がないようだった。

「おい、美村、やっぱり、俺って凄いだろ」

 枯れ果てるまで笑いを振り絞った新海は、過度の熱狂で血圧が上昇してきた赤面を指差した。美村は無関係な民衆を混乱に陥らせた社長としての評価を聞いているのだと思い立った。傍若無人な新海の対応に慣れた様子で、冷静に双眼鏡を首から提げて、両手の平を胸の前で重ね合わせた。

「流石は社長です。素晴らしい、美村は感服いたしました」

 パチ、パチと、美村は社長を敬う愛苦しい笑みを湛えて乾いた拍手を送った。秘書としての爽やかな笑顔こそ美村は絶やさなかったが、その乾いた拍手には明確な哀れみの響きが込められていた。

 新海が引き起こしたこの大惨事を円満解決させるために投じた金額は十億円を凌ぎ、社長就任七日目の新海の評判は早くも著しく低下することになった。

 尤も、新海が白痴であるのは社員の誰もが把握している周知の事実である。

 

 二

 

 翌日の昼下がり、新海は昨日の大惨事で発生した膨大な赤字の解消を目指して、興味本意で解雇対象に成り得る社員を探し歩いていた。いわゆる査定を社長自らの手で執り行おうというわけだ。役員連中から目を離さぬよう厳重に指導を受けた秘書の美村も新海の後に続いて各部署を歩き回っている。

「次はここか、何て読むんだ」

 新海は目の前の扉に貼り付けられた漢字が読めないようだ。渡り廊下を行き交う社員は、社長の傲慢な風格を漂わす新海の顔を見かける度に挨拶を交わして、点数稼ぎに躍起になっている。

「第二商品開発部で御座います。先代の社長と供に新時代を担う水道管の開発を成功させた我社の精鋭が配属されています。御覧になられますか」

 美村は知的な眼鏡の中間を指先で軽く押し上げ、説明に納得できていないような険しい顔をする新海に尋ねた。新海は黙って合図を待っている美村の顔を見上げて、品定めするようにねっとりした視線を全身に這わせる。

「ここで、お前みたいな、エッチなロボット造ってんのか。うひひ」

 新海は醜悪な顔を歪めて奇妙な笑いを吐いた。何やらロボット開発と勘違いしてるらしい新海の発言に美村は首を振った。新海は見当違いの解釈をしていた事実に顔を蒼白させ、行き場のない怒りをぶつけるように第二商品開発部の扉を開けた。

「く、くそおおおお。社長命令だ、お前らロボット、ロボット造れえ。明日までに一体女の子造れえ」

 新海は耐え難い屈辱に赤面して怒号を発した。ホワイトボードに図解を描いて会議を開いていた社員は慌てて振り返ったが、息を乱して会社の歴史を根底から覆す異論を唱える新海に返せる言葉はなかった。

「申し訳ございません、私からよく言っておきますので」

 慌てて会議中の開発部に入室した美村は、何度も丁寧に頭を下げて扉を閉めた。室内に取り残された社員は暫く放心していたが、気を取り直して正面を向き、各自の意見に非を唱えずに発展させていく形式の会議を再開した。

「何してんだ美村、俺なら、水道管より女の子のロボットが欲しいぞ」

 新海は激昂に頬を引き攣らせて素直な胸の内を訴えていた。美村は呆れたように頭に手を沿えて虚空を見上げ、秘書の爽やかな笑顔を作って新海の背中に手を回した。興奮する新海を宥めるように背中を撫ぜ回す。

「社長、美村がロボットの代わりを務めますから。ここはどうか穏便にお願いします」

 美村は仕事熱心に自己を犠牲にする説得を選んだ。それを聞いた新海は満面の笑みを浮かべて、美村を急かすようにスーツの裾を掴んで引っ張った。美村は即座に卑猥な行為を強要されると悟り、社員がエレベーターの到着を待ち侘びているホール前で早急な対応策を考える。

「うひひひ、早く美村のケツにしゃぶり付きてえ」

 情欲に飢えた新海に気付き、社員は本心を態度で示さない溌剌とした声で挨拶した。美村は額を指先で軽く叩き、有効な手段を思い付けずに疲れた溜息を付いた。

 このままでは新海の魔の手に肉体を穢されると美村が諦めかけた矢先、火災を告げる警報機が激しい音を社内に鳴り響かせた。ホールの隅に設置されたスピーカーから、放送の役割を務める社員の声が聞こえてきた。

「火事です、火事です。三十六階の社長室から火の手が上がっています。全従業員は至急仕事の手を止めて、落ち着いて避難して下さい。避難の際には極力エレベーターの使用を避け、避難経路に指定された非常階段を利用して下さい」

 ホールに集っていた三十人近い社員は驚愕の叫びを上げた。到着したエレベーターに目も暮れず、照明を節約している薄闇の非常階段に雪崩れ込む。美村は一刻も早く避難しようと非常階段に駆け出すが、あんぐりと口を開けて立ち疎んでいる新海に気付いて足を止めた。

「社長、火事ですよ、早く避難しましょう」

 美村は新海の元に駆けながら呼び掛けるが、新海は余りの衝撃に腰を抜かして床にへたり込んだ。社長室で厳重に保管していた稀少な切手が燃え盛る光景を想像しているようだ。幼少の頃から全世界の切手を収集する野望を抱いて生きていた新海にとって、二十年以上の歳月を掛けて掻き集めた切手を失うなど、決してあってはならない事態だった。

「美村、誰でもいいから社長室に行かせろ。誰が死んでも構わんから俺の切手帳を取りに行かせるんだ」

 新海は泣きそうな顔付きで命令を下した。苦悩から懸け離れた人生を送っていた新海に漸く訪れた初めての災難だった。美村は新海の鬼気迫る形相に怯えて了承に頷いた。壁際の消火器に添え付けられた非常用の内通電話で社内の人間に連絡を取った。

 新海と美村が無事に社外の歩道に脱出した頃、重大な社長命令を下された社員は、非常階段を駆け上がって地上三十六階に到着していた。三十六階の廊下は既に焦げた臭気が漂っており、社長室から洩れる黒煙が社員の視野を極端に狭めていた。

「ゴホッ、切手、幸太の切手は何処だあ」

 社員は煙に巻かれて意識が朦朧としているのか、愚かにも切手帳に返事を求める際に黒煙を吸い込み、声帯を痛めた激しい咳をしていた。命も顧みずに切手帳の捜索を買って出た社員はかなりの高齢であり、老体に鞭を打って足を引き摺るのがやっとの状態だった。

「切手、幸太の切手は何処だあ」

 高齢の社員が懸命に切手帳を捜索する内に、偶然にも床に転がっていた空缶を踏んで派手に転倒した。空缶は扉が全開になった社長室の方向から転がってきた。高齢の社員は転倒した際に額を強打したようで、額に血を滲ませて地面を這って歩いていたが、やがて黒煙に呼吸を封じられて完全に意識を喪失した。

 高齢の社員が辿り着く筈だった社長室の机の脇には、餅を膨らませる目的で新海が用意させた石油ストーブが設置され、ゴミ箱に丸めて投下されたティッシュの類を燃焼させていた。

「おーい、全員避難しましたかあ。点呼を取るので避難した社員は集まって下さい」

 野次馬が殺到してきた社外の歩道では、放送を担当していた防災に慎重な社員が声を張り上げて統率を図っていた。社員の大半は三十六階を中心に職場が焼け落ちる壮大な光景に目を奪われていた。美村と供に巨体を揺さ振って避難した新海は、職を失わないかと意気消沈としている社員の不安を煽るように喚き散らしていた。

「美村、俺の切手はまだかあ。早くしろよお、燃えてる、焦げちゃうって」

 新海は甚大な被害を受けている社長室を指差して地団駄を踏んだ。梯子車を使用しても届かないビルの三十六階は、熱気と黒煙のみを周辺一体に立ち昇らせている。

 ビルの内部に潜入してホースの先端から強力な水流を噴射していた消防士は、消火活動に当たっている際に発見した逃げ遅れた社員を背負って、自動ドアになった正面玄関から飛び出してきた。美村は私欲のみに捉われた新海の傍を離れて、運搬されてくる社員の容態のほどを確認しに走った。

 美村が縞柄の縄で敷居を設けられた野次馬の最前列に割って入る。丁度、敷居の内側には渋滞する車をサイレン鳴らして追い払っていた救急車が路肩に停車されていた。消防士に運搬されてきた高齢の社員は全身が炭化しており、生前の面影は外見から欠片も感じ取れない。美村は女性の脆さを露呈した悲愴めいた顔付きで、変わり果てた社員の亡骸が担架で救急車に運ばれる光景を見送っていた。

「点呼完了致しました。各部署の社員全員揃っています」

 不幸中の幸いであろう、逃げ遅れた社員は三十六階に突入した高齢の社員一人だけだった。新米社長の補佐として徹する役員の無事も点呼で確認されており、火災による被害に関しても迅速の消火活動が功を奏して最小限に食い止められたようだ。

 だが、無常にも新海の居城であった社長室は原型を留めず全焼したと報告された。消火活動を完了させた隊員から合図が下されて、避難していた社員は安堵の笑みを浮かべてビルに引き返していく。殉職した社員の名前を病院に連絡して確認を取る美村の傍らで新海は頭を抱えて蹲り、長年の歳月を掛けて収集してきた切手帳が燃えた悲劇に胸を痛めていた。

「それは本当ですか。はい、分かりました。社長、大変なことになりました」

 美村は神妙な面持ちで電話を切った。搬送先の病院関係者から伝えられた社員の名は、社長としては愚か、正常な人間としての感覚すら欠如した新海にも深く関係していた。頭皮に爪を食い込ませて執拗に悔しがる新海は顔を上げて、声を詰まらせて悲しげな表情を浮かべる美村を睨み付ける。

「これ以上、大変なことがあるわけないだろお。畜生、無能どもめ。職務怠慢で減給だ、リストラだ」

 新海は激情に駆られて頭を掻き毟り、鈍い歯軋りを鳴らせて憎悪の牙を剥いた。美村は新海を哀れむように目を細めて、消え入りそうな声で重大な告白を呟いた。

「会長が、いえ、社長の御父様がお亡くなりになられました。発見された消防隊員によれば、幸太の切手は何処だと探し回っておられたようです。胸に金バッチを付けてらしたようですので、恐らくは社長の御父様に間違いないかと」

 美村は語りながら涙が溢れてくる両目にハンカチを当てて迫力を与えていた。新海は会長の任に退いていた父親の死を許容できず、訳も分からずぼけっと虚空を眺めて都合良く思考を停止させた。後に残った新海の肉体は魂が抜けきったように全身の力が抜け切っていた。

「社長、酷なようですが病院に参りましょう。御父様が、待っておられます」

 美村は路上でへたり込む新海を心配して、女性の温もりを保った手を差し伸べた。新海の心中が穏やかでないのは容易に理解できていた。傲慢で残忍な性質を持った新海が社長に就任できたのは、社を築き上げた会長の功績から成せる強力な後押しがあったからこそ達成できたものであり、会長が鬼籍に入った今では、役員の解任要求を喰らって社長の肩書きを剥奪される恐れが十分に予想されるのだ。

 美村の冷静な見解とは異なり、新海はそこまで的確に状況を判断できる余裕はなかった。ただ、両目に悲痛な涙を湛えて両手を天に翳していた。

「パ、パパー、パパー、パパー、パパー」

 談笑交じりに路上を通行していた民衆を竦み上がらせるほどの声量で新海は叫んだ。遥か上空を虚ろに眺める新海の視線の先には、天に召された会長が宙を漂流する白雲の体を借りて別離の笑みを浮かべているように見えた。

 

 

 三

 

 偉大な功績を残した新海の父が絶命した凶報は社内中に広まり、役員は今後の方針を決定するため緊急会議を設けた。

 地上三十二階の会議室で繰り広げられる五十代後半の弁論を、新海は隣で立ち尽くしている秘書の美村と雑談を交わしながら聞いていた。耄碌した高齢者の座談会だと切り捨て、うとうと首を上下させて睡眠の体勢に入りつつある新海には、会議に参加する意志が微塵も感じられない。持ち前の便利な思考を活用して、父親の死と切手帳が損失した件からは立ち直りつつあった

「と、いうことで、新海社長には名誉会長に就任して頂き、自宅にいながら社内を見守って頂く前代未聞の、いえ、画期的な形式で我が社を末永く見守って頂きたいと思います。美村君、君は引き続き名誉会長の秘書として職務に励むようにしてくれたまえ。役員は満場一致のようですので、これで終了してもよろしいですかな、新海社長」

 専務の地位に着いた社員は、高級な漆塗りの机に頭を押し付けている新海に問うた。総勢二十人余りの役員の視線が上座に腰掛ける新海に集中する。美村は既に就寝中の新海の耳元で囁き、役員に気付かれぬよう背後から左の膝で新海の背中を蹴っていた。

「う、うわあああ、おいおい、今、凄い夢見たよ。三途の川で突っ立ってたパパにいきなりあそこ見せられて、どうだ幸太、私のあそこはどうだ、どうだって聞かれたんだ。何がどうなんだって話なんだけど、君たちはどう思うかな。良ければ感想などを聞かせて欲しいね」

 新海は寝惚け眼を擦って突飛な質問を投げ返した。簡潔に結論を述べた専務の発言は聞いていなかったらしい。役員の一人が鋭い目付きで美村を睨み付け、美村は慌てて新海の耳元で専務の質問を小声で復唱した。

「え、何て、よく聞こえねえよ。はっきり喋れ美村」

 新海はわざと聞こえない振りをして、美村の口から洩れる生温い吐息が耳を刺激する快楽に酔い痴れていた。二人の場違いな座興を見物させられている役員の額に青筋が浮かび上がっている。

「ですから、社長には名誉会長になって頂き、今後社内には立ち入らないようにしろと警告されているのですよ。会長亡き今、役員の意見を無視することは社長でも無理です。解任要求されなかっただけでも、御の字なんですよ」

 美村は鈍感な新海に現状を噛み砕いて説明していた。歓喜に頬を緩ませる新海は美村の吐息に発情して、瞼の垂れ下がった目を見開いていた。息を乱して緊張に高鳴る胸を押さえ付け、重い沈黙に包まれた静寂な空間を打ち破るように不気味な喘ぎ声を洩らす。

「はあ、そう、そう、いいねえ、うん、うん、良かった、良かったねえ」

 新海は胸に愛苦しいリボンを結んだ制服に身を固める美村の胸辺りを注視した。卑猥に舌を垂らして、制服を押し上げて膨張する美村の乳房に目が釘付けになっている。役員連中は取り敢えず了承の返事のような発言を述べた新海の意向を汲み取り、気分で判決を覆されぬ内に本日の緊急会議を終了した。

 いつの間にか社長の座を役員の一人に明け渡す羽目になった新海は、社内を飛び出して美村と高級ホテルの最上階に立地された中華料理店を訪れていた。午前中に行われた会議を終えて機嫌を良くした新海が特別に奢ってやると美村を誘ったのだ。既にとっぷりと日は暮れており、ガラス張りの壁から一望できる都会の景色はネオンの広告に彩られた夜に変わっていた。

 新海と美村は雑用の社員に緊急手配させた個室で円卓テーブルを囲んでいた。新海は二人だけの甘い夜に胸を躍らせて、従業員の華麗な手際でシャンペンが注がれるグラスを眺めている。対面に腰掛ける美村は中華料理店を訪れる前に寄り道した婦人服売り場で購入した深紅のドレスに身を固め、シャンデリアに照らされた室内の煌びやかな灯りを反射させる月型のピアスを左耳だけに填めていた。二点供に新海が自腹を切って全額を支払った美村への贈り物だった。

 従業員が美村のグラスにシャンペンが注がれ終えるのを待ってから、新海は指と指との合間にグラスを挟み込んだ。対面の美村は機嫌を損ねぬように咄嗟に同様の仕草を取る。

「二人だけの夜に、そして、俺の名誉会長就任の記念に乾杯といこうじゃないか」

 新海は高らかと声を張り上げて乾杯の挨拶を告げた。美村はやけに形式だけの名誉会長に左遷された歓喜に舞い上がる新海の心境が読み取れなかった。間接照明の役割を担った中央のキャンドルを掠めるように、新海のグラスと自分のグラスをぶつけ合った。

「乾杯、おめでとうございます、新海名誉会長」

 新海さえ満足しているのならば、美村は職務通りに秘書の愛苦しい笑みを浮かべて賛美の拍手を送った。新海は円状の銀の蓋を開けて正体を露にした鳥の丸焼きに目を剥いていた。下品にシャンペンを一気に飲み干して、湯気を立ち昇らせる鳥の脚に顔を迫らせて齧り付いた。

「うめえ、うめえ、この鳥うめえ。げひ、うひひひひ」

 新海は濃厚な笹身の美味に舌鼓を打ち、大皿の両端を掴み上げて豪快に鳥の丸焼きを食らい出した。凡そ嗜好する顔立ちとは程遠い醜悪な男が、笹身を食い千切る不快な音で折角の高貴な雰囲気が台無しになっても、美村は顔色を変えなかった。親の死に目や宣告されたばかりの左遷を容易く乗り越えて、食事を楽しむ図太い新海に不思議な愛着を抱きつつあり、せめて今宵だけは高級料理店に招いてくれた新海に感謝して、秘書として気が済むまで酒を交わす決意を固める。

「名誉会長はここの料理を随分と気に入っておられるのですね、以前に一度来店したことがあるんですか」

 美村は新海の記念日を盛り立てようと話し掛けた。実際の鶏のように強引に首を振って笹身の繊維を断ち切っていた新海は、食事を邪魔する美村を思わず獰猛な目付きで睨み付ける。だがすぐに感情を訂正して穏やかな笑顔を取り戻した。美村との親交を深めようと唾液が付着する唇に貼り付いた食べかすを拭い取る。

「あるよ、俺、子供の頃から金持ってたから、無価値な貧乏人とは一線を画した生活を送ってた。パパに金貰って一人で来たことあるぐらい凄い金持ちだから、美村はそろそろ俺の嫁になる支度を整えておいた方がいいぞ」

 新海は細かく磨り潰した笹身を口内で暴れさせながら不器用に求愛していた。美村は両膝に手を着いて困惑したように目を逸らすが、新海は瞳孔を開いて捕捉した獲物の動きに合わせて首を傾ける。

「ほら、俺って、金持ちだろ。欠点とかも全くないし。だって俺は世界で一番価値のある男だしさ。なあ、嫁になれよ美村、俺の嫁によお」

 新海は財産の多寡が人の価値を決定するのだと信じて疑わなかった。社長の息子という恵まれた環境で生まれ育ち、現在に至るまで欲しいものは全て手中に収めてきた底知れぬ強欲が、今度は深紅のドレスの裾を掴んで肩を震わせる美村に向けられていた。

「申し訳御座いません、名誉会長。美村には、他に好きな人がいるんです」

 美村が発した雑音を新海は聞き入れず、席を立ち上がって円卓テーブル沿いに歩み寄ってきた。美村はもはや理性を放棄した極度の性欲に飢える新海の瞳に驚愕して、椅子が後方に引っくり返るほど体を仰け反らせた。

「うひ、やりてえ。美村と、やりてえ」

 椅子と供に倒れた際に、美村は赤い絨毯が敷かれた床に仰向けになっていた。新海は好機を逃がさず迅速に動き出して、美村の胴体を跨ぐように深紅のドレスを両足で踏み付けた。美村は恐怖に顔を引き攣らせて、醜悪な顔立ちの新海を生理的に受け付けられない本性を曝け出していた。

「やめて下さい、名誉会長。今日は記念日じゃありませんか、そんな、如何わしい行為に走るなんて無粋です」

 新海はサイズが合わずに肥大な腹部が迫り出したズボンを脱ぎ始めた。必死の説得に応じる美村の言葉に耳を傾ける余裕は残されていない。

「ひっ、やめて、下さい。名誉会長、お気を確かにして下さい」

 下半身を露にした新海の性器は、美村が拒絶を述べる度に興奮して脈を打ち、虚空に反り返るまで怒張した。美村は身を捩らせて脱出を図るが、衣服を取っ払って全裸になった重量感ある新海の肉体が落ちてきた。

「うっせえ、やりてえ、やりてえんだよお。美村を犯してえ」

 新海は肥大した腹で押し潰した美村の下顎を掴み、有無を言わさず強引に唇を奪った。美村は目を限界まで見開き、新海の生温い口臭と唾液に塗れた舌が口内に滑り込む嫌な感触に耐え忍んだ。両目には自然と屈辱の涙が湛えられ、濃厚な口付けを交わした後には、美村は頬に涙を伝わせてぐったりと全身を脱力させていた。

「名誉、会長、酷い、今まであなたを支えてきた私を襲うなんて。名誉会長がどんな無茶を押し付けても面倒を見てきたのに、こんな仕打ちは、良くないと思います」

 美村は両目に溢れる涙を隠すように目を閉じた。新海は入社以来の付き合いであった美村を虐めた罪悪感に駆られはしなかった。所詮美村も都会の地を這って歩く無価値に等しい生物であり、寧ろ高貴な自分に穢されてこそ輝きを増すのだと達観さえしていた。

「美村、俺がやらせろといったらやらせろお」

 新海は乱暴に美村の胸元を掴み上げ、購入したばかりの深紅のドレスを躊躇いなく引き裂いた。深紅の繊維が円状に破り取られて、下着に包み込まれた美村の柔らかな乳房が露になる。新海は口から涎を滴らせて下着の上から乳房に舌を這わせた。乳房を舐めると同時に怒張した性器が美村の股間に押し当てられていた。巨漢を前後に這わせて、まだドレスで本来の残酷な色合いを外部に晒していない美村の股間を圧迫する。

「ひぎ、名誉会長、痛い、痛いです」

 涙目の美村は歯を食い縛るが、柔らかな乳房を噛み付かれる激痛に声が洩れていた。相手が屈強な男であろうが新海には遠慮のない横柄な扱いを平然と実行に移せる度量を持っていた。美村の乳房にはくっきりと歯型が残され、薄皮が捲れて血が滲んでいた。前後に揺れ動く怒張した新海の固いものは、深紅のドレスの下に隠された美村の股間を繰り返し突いており、固いものが布地に覆われた美村の割れ目と擦れる度に快楽が訪れ、美村は無意識に愛液の染みを下着に噴出していた。

「ああっー、助けて、たす、けて」

 美村は快楽混じりの絶叫を上げて助けを呼んだ。新海は慣れた手付きで美村に大股を開かせ、鍛錬を積んだ黒光りする固いものを陰毛に覆われた割れ目に迫らせた。腰を振りながら亀頭の先端で邪魔な陰毛を左右に片して、黒味を帯びてきた生温かい美村の割れ目に潜り込ませる。乱暴に突き進むそれは膣内の奥深くに侵入して、美村に耐え難い屈辱と合体の際に生じた快楽を味あわせた。

「うひ、うひ、気持ちええ、かなり気持ちええ、もっと鳴いてくれえ」

 新海は狂おしく乱れた顔付きで喘ぎ声を洩らした。美村は両手で顔を覆い隠して口から洩れる喘ぎに堪えている。新海は美村の背中に腕を回して抱え上げて、無理やり美村を膝の上に坐らせた。互いの性を証明する性器同士を合体させたまま、新海は美村の質量を上下に揺さ振って固いものを滑らせる。剥き出しの乳房は大口を開けた新海に齧り付かれていた。

「いや、もう嫌あ、誰か助けてえ」

 美村は気力を振り絞って助けを呼ぶが、期待通りに参上してくれる救世主は現れなかった。美村の顔は失意に翳っていき、得体の知れない新海と交わる現実を逃避して、一切の抵抗を辞さずに新海のされるがまま身を委ねた。これで新海の凶行を阻止する術はなくなり、新海は従順な美村に命令を下して、円卓テーブルの縁に両手を着かせた。下着を剥かれて成熟した桃尻の裂け目に顔を埋めて、赤い絨毯に愛液と精液が溶け合った卑猥な汁を垂らす美村の股間を執拗に舐め回す。

「美村、俺以外の男に二度と体を遊ばせるなよ。ずっと俺との貞操を守っていけ。うひひ」

 新海は精液を捻出した固いものを復活させて、本来は愛する彼氏だけに預けていた美村の性器を突き破った。性器を貫かれた際に桃尻を両手で圧迫され、美村は悲痛に顔を歪めてテーブルに敷かれた純白のクロスを握り締める。美村の悲しげな瞳は生涯忘れられない新海への憎悪を映し出していた。

「失礼します、次の料理をお持ちしました」

 銀色の盆に料理を乗せてきた従業員は、凶暴な二頭の龍の絵が描かれた扉を開けた。すぐに素っ裸の背中を向ける新海に気付き、従業員は出会い頭に驚いたような表情で恐る恐る新海に歩み寄った。

「ふひふひふひ、ああ、でるでるでる」

 新海は従業員の気配を察知しているようだが、性器から全身に伝達される快楽を堪能する余り、従業員はこの場に存在しない空気と見做して無視を決め込んでいた。円卓テーブルを迂回して前方に回った従業員は、生気を失った虚ろな顔で口から唾液を滴らせる異常な美村の状況を察して、思わず料理が載せられた盆を新海に投げ付けた。

「この変態が、その人から手を離せ。今すぐ警察に突き出してやるからな」

 正義感に駆られた従業員は、高熱を封じ込めたスープで顔に火傷を負った新海に襲い掛かった。新海は頬に付着したナルトを手で押さえて仰向けに倒れ込んだ。すぐに馬乗りになってきた従業員の右拳を顔の中央に振り下ろされる。ガスンと鈍い感触が従業員の腕を伝わり、新海は鼻をあらぬ方向に捻じ曲げて泣きそうに顔を歪めた。

「さあ、早く服を着て逃げて下さい、こいつは私が取り押さえておきますから」

 従業員は新海の服の襟を巧みに引っ張って新海の喉を絞め付けた。円滑な血の循環が止まって顔をどす黒く変色させる新海は、深紅のドレスの生地を寄せ集めて乳房を覆い隠す美村を睨み付けた。美村は過度の恥辱に頬を紅潮させた泣き顔で、従業員に取り押さえられる新海を冷酷に見下ろす。

「この、人間のクズ。前々から思ってましたが、今度ばかりは言わせて下さい。あなたなんか死刑になってしまえ」

 美村は罵声を吐き捨て、足早に部屋から立ち去った。店内の廊下を悔しそうに疾走する美村の両目には、一時の感情に駆られて尊敬の念を抱いた新海に失意した涙が湛えられていた。紳士を装った白色の制服で全身を着飾った従業員と美村は肩を衝突させて擦れ違い、疑念を抱いた従業員は美村が走ってきた方向に位置する個室の扉を開けた。

「おい、さっき女性が泣きながら走ってきたんだが、何かあったのか」

 勤続年数が長いらしい風格を漂わす店員は、正義感に溢れる店員が容赦のない追撃を加える残虐な光景に驚愕した。新海が聞き取り難い微弱な声で呟いた何かを聞いて、店員は理性を保てずに怒りの丈を晴らしていたのだ。

「お前みたいなクズが何様だと思ってんだ。青山さん、こいつ強姦魔です、早く警察を」

 従業員は激しい剣幕で青山と呼んだ従業員に指示を出した。青山は声を荒げる従業員に気圧され、全力で電話が置かれた店のレジに引き返していった。

「は、お前ら、ふざけるなよ。俺は、神と同等だ。金を持ってるから、誰もが平伏す偉大な男になれるんだ。パパに育ててもらった、たった一人の偉大な人間だぞ。俺が犯したい時に美村を犯して何が悪い」

 新海は意識が飛びそうな殴打の激痛に堪えて、聞き分けの悪い従業員に再度呟いていた。絶対的な強者の自信に満ちた新海の顔は、最悪の状況下に置かれて尚も自分の絶大な価値が不変であることを主張していた。従業員は戯言をほざく新海に激怒して、情け容赦ない拳を顔面に炸裂させる。

「板井、五分後には到着するそうだ。それまで取り押さえておくぞ」

 通報に走った青山という従業員が戻ってきた。板井と呼称された従業員は頷いて、青山が持参してきたロープで、新海の両手と両足を動けぬように固定する。当人は罪悪感の欠片も覚えていないのに訳も分からず拘束される間、新海は使命感に駆られて淡々と作業をこなす二人の姿を恨みがましく目に焼き付けていた。 

 やがて、六台のパトカーを飛ばして店内にやってきた警察官は、従業員に無言の圧力を掛ける新海の両手に手錠をかけた。

 何不自由ない幸福な人生を送ってきた新海にとって、これほど不可解で屈辱な一日を過ごしたのは初めてだった。

 

 四

 

 拒否を示す秘書を無理やり犯した強姦魔の末路は、被告の精神鑑定を訴える弁護士の擁護の介あって、裁判官に言い渡された判決である僅か禁固二年の刑で済んでいた。新海は満場一致の批難の声が一斉に飛び交った傍聴席を見渡して、満足そうな笑みを零していた。傍聴人が嫉妬しているのだと都合良く解釈して、新海は無価値な民衆に妬まれる優越感に浸っていたのだ。

 当然のように大会社の名誉会長という権威すら役員の猛烈な弾劾で剥ぎ取られ、莫大な金額を投じて無職の男性が凶悪犯罪を起こしたと各マスコミ関係者に捏造させた。有益な情報に飢えたカメラから発せられる眩いフラッシュの連射を浴びて車に乗せられ、新海は私服警官三名の案内で冷たい監獄に連行された。鉄筋を組み合わせた広大な刑務所は有刺鉄線を敷いた無地の高い塀に四方を囲まれ、鉄格子の窓に寄せ集まる先人の受刑者が歓迎の呻き声を上げていた。

 新海は刑務所の中でも取り分け静かな独房に放り込まれた。人間一人が膝を抱えて坐っても余分が残らない窮屈な空間だった。無地の壁紙は至る所が破れて微妙に突起しており、迂闊に手を伸ばせば鋭利な壁紙の突起で指の皮が裂けてしまう。天井の豆電球だけが室内に灯りを照らしてくれ、鉄格子の窓から差し込む筈であった陽光は、簡素な木の板を挟まれて光の経路を遮断されていた。

 新海は退屈そうに背後の壁に凭れ掛って、眼前の木の扉を隔てた廊下から聞こえてくる足音に耳を澄ませた。刑務所に勤続している警務官の大半は、犯罪に手を染めた受刑者に分け隔てなく付き合ってくれ、朝昼晩の食事を欠かさず支給してくれた。新海は使用人を得たような錯覚に陥り、呑気に昼寝していれば食糧が支給される独房暮らしに満更でもない様子だった。

 いつしか新海は、退屈な日常を実感させない不謹慎な妄想を脳内に描き始めた。性欲に身を委ねて強制的な猥褻を犯した美村へ謝罪する意志は相変わらず持っていなかった。新海の便利な思考は入社以来の付き合いだった美村の想像を遥かに超越しており、警官に脅迫染みた取り調べを受けようが、裁判で刑事に謂れのない詰問をされようが、涙ながらに犯行現場の証言を述べる美村の悲痛な顔付きに快感すら覚えていた。無価値な民衆の批難は、全て己の絶対的な価値を高める嫉妬、或いは負け犬の遠吠えに過ぎなかったのだ。

「新海、飯だぞ」

 警務官が木の扉の投函口に囚人料理を載せた盆を滑らせた。新海は投獄されても肥大が止まらない腹部を抱えて、犬のようにござが敷かれた床に両手を着いた。大した味付けもされてない無臭の料理に顔を迫らせて、食欲に飢えた涎を撒き散らしながら豪快に齧り付いている。一見して食事に没頭しているように見えるが、新海はその間にも不謹慎な妄想を充満させていた。新海の妄想は主に出所した後の出来事であり、無価値な美村に裁判沙汰にされた屈辱を、いや無価値な民衆に顔面を殴られた恨みを果たすため、いや、それも少し違う。

「うめえ、うめえ、うめえよこの魚、うひひひひ」

 元より貧困な新海の味覚には、高級料理を食べているような美味が広がっていた。支給された料理を残さず食べ尽くすと、新海は脳内で脹らませた妄想を忘れぬよう、穏やかに目を閉じて何度も頭の中で同じ残酷な光景を繰り返していた。

 新海は執念深く同じ残虐な光景を頭の中に留めることで、二年の服役を引き伸ばすような自我の崩壊には陥らず、とうとう無事に刑期を終えるに至った。

 出所当日、新海は無地の高い塀を前にして、二年の服役期間を影で支えてくれた警務官と肩を並べていた。幼少の頃より他人を無価値と断定して寄せ付けなかった新海であったが、三食の食事を支給してくれた彼には生前の父以上の親しみが湧いていた。新海は都合の良い独断と偏見で、彼を価値のある人間に昇格させていた。

「おめでとう、新海。もう、二度と帰ってくるんじゃないぞ」

 警務官は両目に寂しげな涙を湛えて新海の肩に腕を回した。新海は珍しく感激しているのか、心温まる警務官の台詞に何度も頷いて歓喜の涙を目に湛えていた。二人は名残惜しそうに熱い抱擁を交わして、服役を終えた囚人が必ず通り抜ける緑色の扉に歩み寄っていった。

「ありがとうございました」

 新海は照れ臭そうに世話になった礼を述べた。警務官は緑色の扉を通過した新海に手を振って、嗚咽してしまう前に受刑者と民間人を隔てる扉を堅く閉ざした。バタンと別離を告げる鈍い音が響き渡り、新海は背後から近寄ってくる女性の気配を察して振り返った。

 息子の不祥事で顔中に無数の皺が刻まれたその年老いた女性は、新海が親元を離れるまで常に行動を供にしてきた母親だった。路肩に停車させた高級なベンツに執事を務める老人を控えさせて、出所の連絡が自宅に入った新海を出迎えに来たようだ。

「幸ちゃん、おかえり、おかえりなさい。待ってたのよ、ママ、ずっと心配してたんだからね」

 鼻緒を結んだ下駄を履いて駆けてくる母親を認めて、新海は歓迎するように両腕を目一杯広げた。この世で尤も信用できる存在である母親に駆け寄り、自動車が往来する路上を横目に再会を果たす。老婆なひ弱な肉体を抱き締める新海の両腕には、余りの感動を堪え切れず遠慮のない力が込められていた。

「ママ、聞いてよ。僕、僕ね、うぐうううう、うわああああああ」

 新海は発狂したような奇声を発して、童心に帰ったように母親に甘えた。母親は新海の腕を引き剥がして顔を上げ、苦渋の涙を頬に伝わせる実の息子を見た。新海は気弱に肩を震わせて、胸を鈍く軋み上がらせる怒りに息を詰まらせていた。

「どうしたの幸ちゃん、何か辛いことでもあったの」

 母親は脂肪塗れの両手で目頭を押さえる新海を心配した。この突然の変貌振りは、新海が幼稚園の時分に戦艦を買って欲しいと執拗にせがまれた時と状況が酷似していた。新海は充血する両目を擦って、また母親を逃がさぬように抱き締めた。

「美村がね、僕を苛めるんだよお。あいつが僕をこんな狭いところに閉じ込めたんだよお。それにね、僕をクビにしたり、大事な僕の顔を殴ってきたり、両腕を縄で縛ったりした人がいるの。酷いでしょ、ママだって酷い奴等だと思うでしょう。だから、許せない、絶対に許せないんだよお。ぐ、ぐううううう、たかが、ゴミの分際で、分別を弁えず、調子に乗りやがってえ。くそお、うおおおおおおお」

 新海は便利な思考で誤魔化してきた有りっ丈の憎悪を吐き出した。新海は二年の服役期間で膨らませた妄想は、耐え難い屈辱を存分に味あわされた末に発生した苦悩の塊であり、新海は復讐を果たすための思案を練り続けて生き延びていたのだ。母親は息子の歪んだ雄叫びに丸め込まれ、新海を精神的に追い詰めた連中に殺意を覚えていた。

「分かったわ、ママが何とかしてあげる。幸ちゃんは、ママが守ってあげるからね」

 母の肉体を抱き締める力を強めた新海はにやりと笑った。絶対的な自分の価値に唾を吐いた連中を許せる器量は持ち合わせていなかった。

 新海は傷付いた自尊心を取り戻すために、父の遺産を相続した母親の身分と財力を利用して、圧倒的な強者による非情な搾取を遂行してやることにした。

 

 

 五

 

 新海が無事に出所して一ヶ月が過ぎた頃、社長に昇格していた元専務の耳に良からぬ知らせが舞い込んだ。

 大会社を築いた新海の父親と、開発部の社員が最新鋭の技術を投入して遂に完成にさせた水道管に異変が起きたのだ。自社が独占していた画期的な水道管は、全国の至る施設に繋がる水道管の大半を占めており、凍結を防止する機能を搭載した他社の追随を許さない不変の安全性を保っていた。だが全く聞き覚えのない他の会社に技術を盗用されたばかりか、何故か自社の水道管だけが各地で頻繁に破裂しだしたのだ。社長は原因の検討すら付かずに狼狽するばかりで、早急に対策を打たねばならない現状に頭を悩ませた。

 混乱した社長の社長の頭では具体的な妙案は導き出せず、社員の意見を取り入れようと、特別に緊急会議が開かれた。

 地上三十二階の会議室には、役員二十名余りと、新海の情欲に敗れて肉体を穢された美村を含めた秘書数名が集まっていた。社員を代表して会議室を訪れた開発部の社員もちらほら見受けられる。上座に腰を据えた社長の隣には、社の存続を賭けた緊急事態に駆け付けた新海の母親も参加していた。

「しかし、何故こんな事態に陥ってしまったのか。我が社の管理体制の穴を突かれたと考えるのが妥当か。いや、それなら盗用したとされる他社の製品にも何らかの欠陥が生じる筈だな。どうかね、君たち、是非とも意見を募りたいのだが」

 社長は青ざめた顔付きで責任を転嫁するように解決策を求めた。社員は気分の優れない社長の顔色の窺い、会議室は敢えて沈黙に徹しているような重い静寂に包まれた。小声で隣同士の社員と議論を交わす者が僅かにいる程度だ。秘書に配られた緑茶を啜っていた開発部の社員は、意見を述べていいものかと挙動不審に辺りを見渡す。俯き加減になった社長はその社員に気付き、すぐに手の平を向けて発言を促した。

「どうぞ、是非、参考になる意見を言ってくれたまえ」

 社長は重圧をかける口調で言った。会議室に集った三十人近い社員の冷たい視線が一点に注がれる。

「あの、私は我が社の水道管に欠陥があったとはどうしても思えないんです。産業スパイが開発部に紛れ込んでいたのは否定できない事実でしょうけど、私は十五年間も社に誠心誠意を尽くして、先代の会長とあの水道管を開発したんです。改良や耐久テストは十分に重ねてきました。例え耐用年数を過ぎた水道管があったとしても、水道管自体に欠陥はないと断言できます」

 連日の徹夜に耐え抜いて完成した水道管に並々ならぬ熱意が込められているのであろう、開発部の社員の意見は容易に他の社員を納得させていた。社長は水道管自体に欠陥はないという前提の元で次の意見を求めた。

「ならば、我が社の水道管だけが破裂するのは、誰かの悪戯ということかな」

「いえ、苦情の報告は全国で既に五百件以上にも上っています。個人の悪戯にしては度が過ぎていますね」

 社長の適当な推察を資料を持っていた美村が正した。社員一同は首を傾げて困惑したような唸り声を上げる。誰がどのような目的で自社の水道管を破裂させたのかを中心に議論は展開されていった。

「では、企業絡みの陰謀と見ればどうです。我が社の品位を下げて、相対的に自社株を上げようという算段ですよ。急成長を遂げているタクエイ社と登臨水道房の二社が怪しいと私は睨んでますがね」

 発言を控えていた役員の一人が意見を述べた。役員の大半が納得したように頷き、賛同の拍手が疎らに沸き起こる。社長はその意見を考慮して会議室に集った社員の顔を見渡すと、緊張に頬を引き攣らせて挙手をする開発部の新人社員を見つけた。

「どうぞ、次は君の意見を聞かせてくれたまえ」

 社長が手の平で促す前に、社員は緊張で裏返った大声で発言していた。

「れ、冷静に考えてください。五百件もの苦情が報告されたんですよ。公に破壊工作が暴かれたら社の信用はがた落ちになって、倒産してしまいますよ。ひ、そ、それに真っ先に疑うべきは我が社の技術を盗用しているとされる勝栄社でしょう。これは私の推測ですが、恐らく極めて個人的な恨みを抱かれてると思っています。なりふり構わず、盗用がばれて倒産になることも厭わない、勝栄社の執念ともいえる深い恨みが、水道管の破壊へと繋がったんではないでしょうか」

 新人社員の意見は会議室内を静まり返らせる説得力に富んでいた。社長の傍らで立ち尽くしていた美村は称えるように拍手を送った。役員の大半と開発部の社員も感嘆の声を上げ、社長はどうやら核心に迫ってきたような予感に顔を綻ばせた。

「なるほどな、では、方向性も見えてきたことだしこうしよう。こちらからもその勝栄社にスパイを放って、徹底的に素性を調べさせるのだ。苦情が通達された場所には早急に社員を向かわせ修繕を行い、真相が解明するまでは万全の体勢で警備に当たって貰う。当然、警備に当たる社員の数は到底足りないだろうが、そこは警備員を雇って補うなど努力しよう。とにかく一刻も早く勝栄社の悪事を公に発表できるだけの証拠を掴むのだ。苦しいとは思うが今は耐えてくれ、この通りだ」

 本来の冷静さを取り戻した社長は机に手を着いて頭を下げた。社員一同は危機に瀕した社の経営を再建させようとする社長の熱意に打たれて拍手を爆発させた。三十名近い拍手が響き渡る中で、社長の隣に腰掛けていた新海の母親だけは無表情に手を挙げていた。社員の賛同に感涙していた社長は目を擦って新海の母親に手の平を差し伸べる。

「どうぞ、元会長婦人」 

 新海の母親は社員の拍手が鳴り止むのを待ってから、ゆっくりと立ち上がって邪悪な笑みを浮かべた。

「スパイの件については私目にお任せ下さい。腕利きの産業スパイが何人か知り合いにおりますの。これで社員の方はこれ以上被害を被らないよう厳戒態勢を敷くだけで済むでしょ。主人が創設した社を汚した不届き者の処罰は、妻である私の義務ですからね」

 凡そ会社の運営とは無関係な新海の母親の発言に、社員は疑惑を抱いたような戸惑い顔を見せた。社長は顎を摩って暫く考え込んでいたが、大会社を築いた先代の夫人を拒絶するような無礼は打てずに要望を呑んだ。

「分かりました。スパイの件は婦人にお任せします。何か些細なことでもいいので勝栄社の情報が見つかり次第、連絡して下さい」

 新海の母親は社長に昇格した男の性格を熟知していたようだ。あっさりと口車に乗った社長を嘲笑うように頭を下げて、用事を済ませたように会議室を去っていった。

「よし、それでは会議は終了する。皆、忙しい中御苦労だった」

 社長は会議を終了させる直前に、此度の緊急会議で決定された今後の方針を煮詰めて、翌日までには各部署ごとに具体案を提出するよう命令を下した。重大な使命を与えられた社員一同は会議室を飛び出して、忙しなく持ち場に戻っていった。

 自社を倒産の危機に陥れた元凶の正体を捜索する新海水道株式会社の連中を他所に、出所した新海は相変わらず肥満の腹を揺さ振って、教会内で人生の転機を迎えたとある夫婦の結婚式に参列していた。

 結婚式は既に終盤に差し掛かり、新郎新婦は順調に指輪の交換を終えて誓いの口付けを済ませていた。二人の前途を祝福していた参列者は一先ず先に会場の外で待機している。会場を退出する際に教会の入り口で手渡される花びらの山を受け取り、教会の扉から新婚旅行用の高級車まで延びる赤い絨毯が敷かれた階段で花道を形成していた。

 夫婦の誓いを立てた二人が教会から現れた。花道に参列した会社の同僚や家族は祝辞の言葉を二人に浴びせる。

「きゃあ、青山さーん、素敵よお。かっこいいー」

 新海は右隣に参列する女性が新郎を青山と呼んだ。青山は正装である礼服を身に羽織り、胸辺りに着いた外側のポケットに白色の手袋を差していた。高級ホテルの最上階にある中華レストランの従業員であり、頑固な新婦の父を納得させるために日夜あくせく働いて、結婚式に必要な費用を全て自分で稼ぎ出した苦労人だった。

「皆、今日はどうもありがとう。俺達、幸せになります、必ず、貴美子を幸せにしてみせます」

 青山は新婦の貴美子と堅く手を繋いで、愛嬌のある笑顔を振り撒きながら階段を一段ずつ下りてきた。参列者は二人を祝福する両手一杯の花びらを上空に撒き散らす。冷風に運ばれて宙を泳ぐ花びらは参列者を通過する度に数を増していき、新婦が被ったベールの至る所に鮮やかな花びらが堆積されていた。

「おめでとう、おめでとう、おめでとう」

 参列者は結婚式独特の高揚感に駆られて、一切の疑念を抱かずに無心で祝辞を述べていた。青山夫妻の顔に至福の笑みが浮かび上がり、新婦は感極まって両目に歓喜の涙を湛えていた。青山は愛する妻の肩に手を回して、中腹に差し掛かった階段を供に下りていく。

「ありがとう、それじゃあ皆、私のブーケを受け取って」

 新婦は大事そうに両手で持っていた花束を投げ上げる合図を出した。未婚の参列者は目の色を変えて、何度も振り上げて勢いを付けようとする新婦の挙動に注目する。新婦は二、三回花束を上下に振って、渾身の力を込めて花束を上空に解き放った。参列者の殆どが上空に舞い上がった花束に視線を集中させる。新郎の青山さえ放たれた花束の軌跡を微笑ましそうに眺めていた。

「やれ」

 その隙を見逃さず、新海は周囲に聞こえぬ程度の声で囁いた。礼服を纏った屈強な体躯の男が、知らぬ間に新婦の背後に回っていた。男は無造作に新婦が頭に被ったベールを剥ぎ取り、両手を伸ばしてベールの下に隠された女性の細い首を掴んだ。落下する花束に駆け寄る参列者や新郎の青山は全く気付いていない。

「あ、あぐ、あぐええええ」

 屈強な体躯の男は迷わず両手で首を締め付け、いとも容易く新婦の質量を持ち上げた。新婦の喉に男の並外れた握力が食い込んでいき、頚動脈を締め付けられた新婦は顔を赤らめ口から舌を垂らす。参列者を装った新海は、新婦が身悶えして眼球が飛び出してきそうな苦痛に顔を歪める残酷な光景を意地悪に眺めていた。胸の内に湧き上がる歓喜を堪えるその顔は、痙攣を起こして邪悪な別の表情に変質しかけていた。

「やった、取った、私が取ったよお」

 花束を捕まえた未婚の女性は勝利の笑みを張り付かせて新婦に振り返る。花束に集中していた参列者の視線も新婦に返ってきたが、参列者と新郎の青山の顔は呆気に取られて凍り付いた。

「え、あんた、何やってんの」

 青山は顔を蒼白させて見知らぬ男に呼び掛けた。新婦は細い首を掴み上げられた状態で眼球を裏返していた。生気を失った虚ろな顔をして手足を垂れ下げ、純白のドレスに覆われた股間に失禁を示す黄色い染みを行き渡らせている。これから幸福な家庭を供に築いていく筈だった新婦は、面識のない男に背後から首を締められて、死を意識する暇もなく事切れていた。

「新婦を殺した。文句あるか」

 屈強な体躯の男は歯茎を剥いて嬉しそうに説明した。参列者と青山は目の前に広がる惨劇を許容できず、遺体と化した新婦を見つめて暫く呆然と立ち尽くしていた。

 妊婦の死に様を影で見物していた新海は、全身を硬直させる参列者の花道を抜け出していた。人気のないマンションの簡素な駐車場に駆け込み、マンションの土台を担う支柱に顔を押さえ付ける。

「う、うひひひひ、ざまあみろ、ざまあみろ、ざまあみろお」

 支柱に押し付けられた新海の顔は堪え切れぬ愉悦に歪んでいた。新海は中華レストラン内で青山に暴行を加えられた恨みを根に持ち、母親の財力で雇った捨て駒を駆使して新婦を殺害したのだ。だが新海は勘違いを犯しており、実際に暴行を加えてきたのは板井という新米の従業員だった。

 ともあれ当事者を絶望させる陰湿な新海の復讐の矛先は、警戒網を張り巡らせて犯人を待ち構える新海水道株式会社へと移っていた。

 

 六

 

 時が次第に経つに連れ、整髪料で固めた白髪が特徴であった社長の姿は見えなくなった。

 血と汗の結晶であった最新鋭の水道管が破裂した苦情の件数は遂に十万件を越えていた。

 安全と快適な生活を求める生活保護団体の執拗な糾弾もあり、大会社であった新海水道株式会社は信用を失って株価を下落させていた。壊滅的な打撃を受けた経営は朽ち折れそうなほどに傾いている。

 社長が開催した緊急会議が発端となった社員の的確な対応は、当初の予想通りに成果を上げていたのだが、若者が遊び半分に地面を掘り返して水道管に穴を開ける前代未聞の社会現象が巻き起こったせいで、社長は自棄を起こして数千人の警備員を全国の各所に埋められた水道管の防備に当たらせていた。

 追い詰められた社長が取ったこの苦渋の決断は水道管の破裂こそ減少させたが、月々の警備員の莫大な人件費に追われて全社員の給料は軒並み三割減となった。これに不信感を募らせた社員は、団体交渉を以て社長の解任を申し立てるが、一枚岩で固まった役員の牙城は崩れず、狂乱した社長が打ち立てた第二の改悪案である、社員の半数を一斉に解雇する尋常ではない政策が可決された。

 累積された当面の膨大な赤字は全額返済の様相を見せたものの、再就職が決まらず路頭に迷った社員の大多数は発狂していた。新海水道株式会社の水道管が埋められた地盤を掘り起こしては、研ぎ澄まされた鋭利な刃物で水道管に穴を開ける憂さ晴らしを繰り返していた。

 元社員の逆襲によって被害報告は爆発的に増加され、不変の地位を保っていた社長を弁解の余地もない窮地に陥らせた。社長は孤軍奮闘して最後まで保身を図り、苦情の解決に至る新しい政策の考案に努めるが、反旗を翻した役員が起こした責任追求に耐え切れず、火災騒動後に新設された社長室で首を吊っていた。

 代行の社長を取り決める役員の醜悪な論争は折り合いが付かずに現在まで長期化しており、新海水道株式会社の社長の座は未だに空席となっている。

 そして肝心の先鋭技術を盗用したとされる勝栄社の素性調査に関しては、新海の母親の裏工作の助力があってか、芳しい情報は一切得られなかった。適当な情報を流されていた可能性は極めて高いだろうが、莫大な負債を抱えた新海水道株式会社に経営を立て直せる資本や信用はなく、柔軟な発想を持った有望な社員も今や他社に引き抜かれていた。

 もはや、風前の灯火となった会社に仕えてきた秘書の美村は、清掃員の恰好に着替えて社長室に歩いていた。専属の清掃婦は給与が払えず解雇されており、秘書は社内清掃などの雑務を押し付けられていた。

 美村は極端な減給でひびを生じた眼鏡を掛け直して社長室に入った。両手に携えたモップと水一杯のバケツで清掃を開始しようと室内の汚れを見渡す。

「よお、美村」

 美村はここにいてはならない汚らわしい生物を目撃した。ガラスを通して差し込む夕日を背に浴び、疾うに解雇された新海が社長専用の高級な机の上に腰掛けていた。監獄送りになった当時より肥大した腹を撫でて、テニスボールが詰め込まれた箱を傍らに置いている。

「新海社長、いえ、新海被告、お久し振りです」

 美村は涼しげな表情で皮肉を言い除けた。新海が嗜好する淡白な性質は倒産寸前まで追い込まれても健在のようだ。新海はテニスボールを左手で掴み取り、扉の前で立ち尽くす美村に軽くボールを放り投げた。

 美村は冷静に放物線を描くボールの球筋を眺めて、美形の顔に衝突する寸前に首を捻った。かわされたボールが硬質な扉に衝突して高い音を跳ね返す。

「おーい、受け取れよ美村。折角俺が美村を迎えに来たのにさ、随分と、冷たいじゃないか」

 またボールを一個掴み取った新海は机から飛び降りた。意外な告白に顔を曇らせる美村に歩み寄る。美村は新海を無視してバケツを床に置き、両手で握ったモップを水の中に沈めた。高級な絨毯を片付けられた汚れた床にモップの先端を押し当てる。

「美村、こんな会社捨てて、俺が社長やってる勝英社に来いよ。そんで、また俺の秘書として生涯働いてくれよお、別にいいだろお、金なら、いくらでもやるからさあ」

 新海は憎き敵であった勝英社の社長だと自ら名乗り出た。美村は知られざる事実に顔を強張らせて、怒りを晴らすように力を込めてモップを地面に滑らせた。埃被った床がモップの線上に艶を取り戻して輝きを放つ。

「なあ、口利いてくれよ美村、無理に犯したのは悪かったよお、反省してるって。でもさあ、美村と違って俺は金持ちだろお、ちょっと傲慢な面も必要だと思うんだよねえ。うひ、それにしても美村、可哀想、こんなところで掃除して安月給なんて、き、きひひひ、可哀想だねえ」

 新海は弱者を哀れむような笑みを湛えて、床を向いた美村の顔を覗き込んだ。美村は憎悪に頬を痙攣させて、モップを握り締める両手を震わせていた。

「意地張らないで、俺のとこに来いよ。今の暮らしじゃ欲しいもの買えないだろ。もうこの会社は僕に負けたんだ、俺を厄介払いして首を切ったから潰れるんだ。でも、美村だけは助けてあげる。俺が、美村を嫁に貰ってやる」

 新海は両目に涙を湛えた美村の背中を撫でた。美村は胸を締め付ける複雑な感情に押し潰され、眼鏡の奥に溜まった涙の粒を頬に伝わせた。両手で握ったモップを乱暴に投げ捨て新海を睨み付ける。

 新海は鋭い目付きで憎悪を訴える美村に笑みを返して、左手に握ったテニスボールを眼前に差し出した。

「今なら、まだ間に合う。あまり、俺を怒らせるなよ。俺さ、迷ったんだ。美村を嫁にして生涯奴隷にしてやろうか、それとも、美村を殺して生涯性欲解消の道具になって貰おうかってね。今ならまだ、前者で済ませてあげる。さあ、美村と一緒に遊んだこのボールを受け取ってくれ。それが、承諾の証と受け取るよ」

 新海は嫌に冷酷さを秘めた真顔で迫った。美村は真実味を帯びた新海の言葉に畏怖して両膝を着いた。恐怖に泣き崩れる顔を押さえて、指の隙間から垣間見れるボールを見つめる。残酷な決断を持ち掛けられて思考は混乱していたが、美村は数分後に震える華奢な右手をボールに伸ばしていた。

「はい、分かりました。私を新海社長の秘書として、働かさせて下さい」

 美村は忠実に職務を全うできる秘書の凛々しい面持ちを取り戻していた。新海は唇を吊り上げて歓喜を示した。ボールを受け取った美村の髪に右手を伸ばして、左手はズボンを腰の辺りで締め付けるベルトを解除していた。

「後で婚姻届にサインしろよ。その前に、美村を見てたら興奮してきた。やってくれ」

 美村の長髪をとぐろ状に束ねるゴムを、新海は右手で強引に引っ張り上げて取り外した。束縛の解けた美村の豊かな長髪は腰辺りまではらりと垂れ下がる。新海は万全の体勢で反り返った固いものの根元を掴んで、彼氏が十日前に失踪して御無沙汰だった美村の口に咥えさせた。

 固いものが前歯の先端を掠めて、唾液塗れの舌を滑っていく感触が敏感に伝わる。新海は野太い喘ぎ声を洩らして美村の側頭部を両手で挟み込んだ。

「うひ、うひ、美村、丁寧にしゃぶれよ。それと言い忘れたが、引越しの準備はこっちで勝手に進めてる。美村の荷物は今頃新居に届いているから今日は俺と一緒に帰るぞ」

 頭部を左右に振られる美村は、新海の固いものに合わせて頬をへ込ませた。亀頭から溢れる白濁液がジュルジュルと卑猥な音を鳴らして、両足を大股に開いて桃尻を強調させる美村の口内に飛散する。白色の液体は口の粘膜にへばり付き、口内に異様な苦味を充満させた。

「家に帰ったら早速やらせろよ。だが明日は大事な仕事があるから朝早くからでかけるんだ。うひ、なるべくお手やわからに頼むぜ」

 新海は美村を制圧した達成感に頬を緩ませた。美村は目を瞑って口内で暴れる固いものを受け入れる。時折、苦味に襲われて呻き声を洩らすが、新海の従順な下僕しての役割を拒まずに果たしていた。

「もちろん、美村も俺に同行しろよ。秘書兼嫁だからなお前は、あー、出すぞお」

 快楽に溺れる新海は、美村の後頭部を掴んで股間に押し付けた。美村は目を見開いて、断続的に亀頭から噴出される多量の液体に耐える。ぞろりと固いものが口から這い出て、不味そうに顔を歪める美村は口から白い液体を滴らせた。

「あー、良かった。うひ、美村、可愛くなったねえ。うひ、うひひひひひ」

 新海は興奮の絶頂に達したような満ち足りた笑みを浮かべた。美村は豊かな髪を乱して放心状態に陥り、そっと唇に手を当てて白濁汁を指で絡め取った。正気を失ったように白色塗れの指を根元まで咥えて、舌を巧みに使って一滴残らず舐め取っていく。

「ありがとうございます社長。明日の仕事には、美村も、お供させて頂きます」

 新海の不純な愛で口内を満たした美村は、愉悦に目尻を下げて壊れた笑みを浮かべた。眼鏡の下に隠れた美村の瞳は表情とは裏腹に悲愴めいた色を帯びている。

「もっと喜べ、今日は記念すべき新婚初夜だ、早く調印するぞ美村」

 刑務所で募らせた復讐の達成を目前に控えた新海は、従順な新妻と化した美村の腕を引いて立ち上がらせた。

 二人は事前に用意しておいた婚姻届けに互いの氏名を記入して、足早に夕方の役所に向かって歩き出す。美村と手を繋いで夕日の眩い光を頭に浴びる新海の顔は、絶対的な己の価値を取り戻した自信に満ち溢れていた。

 

 

 七

 

 夜空に至福の喘ぎを響かせた新婚初夜が過ぎ、新海が早くから熱望していた本日を迎えた。

 まだ朝日が眠った早朝に目覚めた新海は寝惚け眼を擦り、昨日の内に勝英社の秘書に就任させた美村と供に現場へ急行していた。高級車の威厳を象徴するマークを車体の先端に取り付けたベンツを走らせ、半径五十メートルを現場工事と称して封鎖した目的の地に入ってきた。

 路肩に車を停車させ、新海と美村は立ち入り禁止を表示する遮断器具を跨いで潜り抜けた。そこは日中になれば人通りの往来が目立つ繁華街に面した道路だった。

「社長、社長がお見えになったぞ。作業員は手を止めて急いで歓迎しろお」

 危険な作業に必須な黄色のヘルメットを被った現場監督に呼び掛けられ、ゆったりした作業服を身に纏った数百人余りの作業員は慌てて振り返った。秘書の美村を数歩後に従わせた新海が大儀そうに道路の中央を歩いている。

「しゃ、社長、おはようございます。お勤めご苦労様です」

 アスファルトの堅い大地を掘削していた作業員は機械を投げ捨てた。作業員を軽視するような厭味な視線を周囲に這わせる新海の傍に駆け寄り、地面に頭を擦り付けてまで敬意を示した。性行為の疲労で目の下に隈を作っていた美村は、過度の緊張に全身を震わせる作業員の心境を察していた。勝英社の社長に君臨した新海は恐怖で社員を従わせているようだ。作業員の気弱な瞳は泣き出しそうに潤んでいた。

「ご苦労、ご苦労、もう作業に戻っていいぞ」

 新海は進路を塞ぐように置かれたショベルカー二機の前で立ち止まった。作業員は即座に土下座を解いて、投げ捨てた機械を拾いに戻っていった。路肩の大地を掘り進めていた作業員は、新海水道株式会社が管轄する水道管を剥き出しにさせていた。数百人余りの人員を投じて外部に露出させた水道管は三十メートル近く延びており、新海は美村と一緒に路肩の深い穴を覗き込んでいた。

「美村、分かるか。この水道管は奴らの命だ。この水道管を破壊すれば、奴等は完全に死滅する。他の現場に向かわせた社員も、今頃破裂させてるだろうよ」

 新海は仕事の内容を説明していなかった美村に告げた。新海水道株式会社が血眼になって探していた水道管破裂の元凶はやはり新海の仕業だった。退社したばかりの会社のロゴが貼り付いた水道管を美村は寂しげに眺めていた。

「社長、準備は粗方整いましたよ。そろそろ破裂させましょうか」

 離れた場所から新海に指示を仰いだ現場監督は、背後にショベルカーの運転手を二人引き連れていた。新海は現場監督が近接してくるのを待ってから応えた。

「いいぞ、グチャグチャに破壊してやれ」

 新海の非情な指示を汲み取り、現場監督は運転手二人をショベルカーに走らせた。作業員は急いで掘削機を両手に抱えて路肩の穴から脱出していき、新海と美村が見上げるショベルカーの周辺に続々と集結していた。

 運転席に乗り込んだ作業員はエンジンを吹かせて、繁華街の通りを揺るがすような轟音を鳴り響かせる。新海は高鳴る興奮に不気味な笑みを浮かべていた。

「それでは、いきます」

 運転手はキャタピラを回転させて路肩の穴に車体を迫らせた。作業員一同は固唾を呑んで、シャベルカーの先端に装着された巨大な鉄の爪に注目していた。運転手の的確な操作でアームは大きく振り被られ、情け容赦なく硬質な水道管に鉄の爪を叩き付けた。

 グシャリと鈍い音が鳴り響き、数百キロの質量を誇った二機の鉄の爪が水道管を半ばから押し潰していた。水流を内部に伝わせていた水道管は捻じ曲がって空に向きを変え、裂け目から膨大な水量を虚空に噴き上がらせた。

「うひ、うひひひ」

 天を貫きそうな勢いで噴き上がる水流を眺める新海は、興奮を満たしてくれる歓喜に頬を緩めていた。新鮮な空気を限界まで肺に溜め込み、腹の底から狂気に歪んだ笑いを吐き出した。

「ひ、うひひひひ、どうだあ、思い知ったか。ざまあみろ、ざまあみろお。俺が勝ったんだあ」

 新海は両手を頭上に突き出して勝利を宣言した。苦悩を抱かせた新海水道株式会社を倒産に追い込んだ達成感に酔い痴れ、絶対的な己の価値に一切の疑念が介入しない神の領域に踏み込んだのだと自分を賞賛していた。作業員は罪悪感に苛まれた顔付きで新海を称えるように拍手を送った。

「いけ、いけ、どんどん壊せ、根こそぎ押し潰せえ」

 新海は興奮の余り拳を何度も突き上げて運転手に命令を下した。運転手は指示通りにキャタピラを旋回させ、作業員と新海が密集する辺りの水道管に車体を進める。作業員は水浸しの鉄の爪を恐れて背後に逃げていくが、新海は水道管が破裂する瞬間を間近で見物しようとその場を離れなかった。

「社長、一つ美村の頼みを聞いて欲しいのですが」

 秘書の美村も迫ってくる巨大な車体に臆せず残っていた。新海は状況を弁えずに注文を付けてくる美村を睨み付ける。水道管が破裂される光景を静観していた美村は口元に微笑を湛え、新海の背中に身をべったり寄せ付けていた。

「うるさい、後で何でも買ってやるから後にしろ。俺がこの日をどれだけ待ち望んでいたか考えろよな」

 新海は柔らかな女体を押し付けられても動じなかった。美村の瞳は明確な憎悪を蘇らせており、アームを振り被ったショベルカーの挙動に注目していた。新海に気付かれぬよう背中を僅かに押し進めて路肩に近寄せている。

「それでは、いきますよお」

 運転手は間近に迫った新海に合図を送った。新海が満面の笑みで手を振り返すと、運転手は手元のレバーを引き倒して、最大限に振り被られたアームを降下させた。鉄の爪の軌跡を窺っていた美村はその瞬間を狙い、背中に密着させた華奢な両腕に渾身の力を込めて新海の背中を跳ね除けた。

「あ」

 路肩の穴まで突き飛ばされた新海は宙に浮かんでいた。眼下には地下に埋め込まれた三十メートル近く延びる水道管が見えている。新海は当然のように穴の中に落下していった。脂肪を蓄積した新海の肥満体が着地の衝撃を受け止めた水道管に重く圧し掛かる。新海は腹部に減り込んだ水道管の激痛に呻き声を上げた。 

「あれ、俺、何でここにいるんだ」

 新海は美村に突き倒されたのを自覚していたが、便利な思考を活用して無常な現実を拒絶していた。頭上には既に巨大な鉄の爪が凶暴な刃を迫らせており、新海は呆気に取られた様子で鉄の爪を虚ろに眺めていた。

「がびゃ」

 凄惨な処刑は一瞬で作業を完了させていた。仰向けになった新海の腹部に鉄の爪が減り込み、水道管ごと押し潰して新海の胴体を半ばから切断していた。社長を惨殺してしまった運転手が慌ててアームを引き揚げようとすると、鉄の爪は上半身と下半身を連結させる小腸を引き千切りながら新海の下半身を掬い取っていた。半身だけを残された新海は口から血を吐いて全身を痙攣させており、その瞳は死を認識していない驚愕のみを映し出していた。

 美村は瞬きもせずに、新海が鉄の爪に押し潰される残酷な光景を目に焼き付けていた。女性の繊細な胸に湧き上がるのは不思議と罪悪感ではなく、復讐を成し遂げたような底知れぬ歓喜だった。

「社長、私はあなたにずっと死んで欲しかった。この、クソッタレ」

 美村は凛々しさを宿した顔立ちを歪めて暴言を吐き捨てた。絶対服従を強要される玩具として生活する苦痛には耐えられず、美村は新海を抹殺してでも自由を勝ち得たかった。美村は覚悟を決めたように下唇を噛み締め、新海を突き倒した瞬間を見守っていたとされる作業員に振り向いた。

 新海の悲鳴を聞き付けた作業員は、血の気が引いた青ざめた顔で虚空を睨み付ける新海を冷静に観察していた。美村は唇を結んで何の反応も辞さない作業員の表情を窺う。やがて作業員を指揮していた現場監督は不安そうな顔をする美村を見た。

「社長、亡くなられましたね。事故で」

 現場監督は平然と真実から目を背けて見せた。他の作業員も事故と断定したように互いを納得させ合っている。美村は唖然として自白しようとするが、作業員は美村を圧倒するような邪悪な微笑を先に返していた。

「事故ですよ。見つかると厄介ですから、埋めときますね」

 新海の恐怖から解放された現場監督は脅迫観念を以て美村を黙らせた。返す言葉が無くなった美村をほって、団結した作業員は掘削したアスファルトの埋め立て作業に取り掛かった。多量のセメントを流し込んで底の抜けたアスファルトの大地は平坦に盛り上がっていき、鉄の爪で胴体を引き裂かれた新海は全体を厚手のビニールで覆われ、裂けた水道管の穴を塞ぐように強靭な縄で括り付けられた。

 仕事を無事に完了させた作業員の顔には、勝栄社に入社して以来久しく忘れていた至福の笑みが零れていた。

 

 絶対的な価値を自称していた新海が死去して三ヶ月後、死体を隠蔽した事実を許容した美村は、殺人であった事故を黙秘する作業員に感謝して秘書として職場に復帰していた。多発的に水道管を破裂させられた新海水道株式会社は倒産に追い込まれ、新海の母親は息子が行方不明になった心労を抱え込んで病死していた。勝英社の社員には憎悪を抱かれていた新海であったが、卑劣な手段で水道管産業の頂点に君臨した功績は素直に称えられ、新海の写真が社長室に飾られるほどの価値ある人物となっていた。

 だが、民営化されていた水道管事業は新海の破壊工作の影響で権威を失墜させ、再び公務員のみが仕事に携わる閉塞的な産業に逆戻りした。社を解体させられた勝英社の元社員は諸悪の根源となった新海に恨みを募らせて過去の功績を全て取り下げた。新海の価値は新海自身が把握している筈なので恐らく問題はないのであろうが、結局、新海は生涯を通して他人にその価値を認められることはなかった。

 

>>戻る
動画 アダルト動画 ライブチャット