キッス

 

 

誤解されては困るのですが。

唇がねっとり絡み合う感触は、決して愛しているの合図などではなかった。

伊隅有香にとってキスとは、芳醇な美味を唇から吸引させる単純な行動に過ぎない筈である。

伊隅の唇が剥がれて快楽の時間が終了すると、通勤で人が犇めき合う環状線の車両内に数十秒間の静寂が訪れた。男の唇に伝達された口紅の跡が濃密な行為であったと主張している。

伊隅は肩にバックを掛け直して出入り口の扉に背を向けた。雑踏に紛れて痴漢行為に走った見ず知らずの男性を咎めたりはしなかった。スカートを押し上げる張りのある尻に添えられた男性の手は、行為の最中に自然と剥がされていた。

男性の頭の中は混沌として、得体の知れない伊隅の小さな背中を確認した。

伊隅は軽量の洒落た眼鏡で、初めて視界を開ける若い女であった。万人に似たような評価を下されるであろう顔立ちは平凡そのものであったが、唇だけは異様に発達して愛苦しい膨らみと柔らかな弾力を兼ね備えていた。全身に張り付いた堅苦しいスーツは、まだあどけない伊隅の要望には不似合いだった。

恐らく視力が酷く悪いのは、男性の容姿でキスを躊躇せぬように神が意図して与えてくれたのだ。人類の中に何匹か単純な行動に特化した生物を織り交ぜてやろうとした神の茶目っ気が伊隅であるのだ。

伊隅はそうやって自分という存在を解釈していた筈だ。

「間もなく、ひるがや、ひるがや駅に到着いたします」

何処からともなく駅員の上擦った声が車内に流れた。

時を奪われていた伊隅の周囲が目を覚ました。混沌としていた男性は妻子の笑顔を思い出して、伊隅の背中に小声で謝った。

伊隅は次々と移し替えられる窓枠の景色に思いを馳せて、豊満な唇をがばりと大きく開けた。唾液に湿った舌の先端をガラスに当てて、唇全体でガラスの表面を包み込む。後ろで到着を待ち構えていた乗客の顔が引き攣った。

「瞬間の美味に舌鼓を打つ行為を奇怪だと捉えるならば、食事はどうでしょうか。あれも要はキスと同じではないのでしょうか」

伊隅は心の内で疑問を吐いて、冷たいガラスの感触を堪能していた。

電車が速度を落として白線の外側に定めた位置に停止した。

長蛇の列を作って電車を待っていた乗客の殆どが、ガラスに唇をへばり付かせる伊隅を異常者か別の生き物かと錯覚して、驚愕の叫びを上げた。

電車の扉が左右に弾けて、雪崩れ込むように人波が伊隅の肉体を外へ連れ出した。

「申し訳ございません、私の感性がおかしかったのです。あなたに痴漢されている内に昔の彼氏が頭を過ぎってしまったのです。ガラス、あれはそうですね。私にも分かりません。いや、やはりそれこそが私をキスに駆り立てる生来の性なのかもしれません」

伊隅は窮屈そうに聳え立つ人山から顔を覗かせて、痴漢を受けた男に聞こえるように謝罪した。天井から吊り下げられる案内板の矢印が指し示す通り、伊隅は出口に向かう大階段に運搬されていた。

前方を走る男は手持ちの鞄で顔を隠して先を急いだ。伊隅が人波に足を取られている内に、二度と関わりたくない一心で逃げ続ける。

伊隅は男の唇が恋しくなっていた。男が情欲に駆られて華奢な伊隅に肉欲を委ねたように、伊隅にとっても男はキスの心地良い感触に酔い痴れる私欲の道具と成り果てていた。謝罪は飽くまで獲物を誘き出すための罠だった。

声が届いていた男は、改札を抜けて豪華な内装が施されたホールに飛び出した。産地名産の品が取り揃えられた土産屋で立ち止まり、疲労が蓄積して痛みを発した横腹を擦っていた。

後方から軽快に高い足音を鳴らす伊隅が追い付いた。振り返った男の視界に百五十センチ余りの質量が飛び付き、男を磨きこまれた綺麗な床に叩き付けた。

「愛していません」

伊隅はきっぱりと宣言して、男の頬に両手を当て、男の震えた唇を呑みこんだ。

がばりと食われた唇の中は、食欲に飢えた伊隅の舌が器用に口内を這いずり回って、粘膜の下部に秘められた細胞の微妙な味を削り取っていた。

洒落た眼鏡は外して内ポケットに収められていた。伊隅は男性の全体像を知らずにキスに興じていた。サンバイザーを被った土産屋の従業員は呼び声を落として、愛の営みに目を奪われていた。

伊隅は口内を存分に掻き回して、咥え込んだ男の唇を剥がした。唇を奪われた男は、口から涎を滴らせて虚ろに天井を見上げていた。

数十秒間の静寂が、再び周囲で巻き起こった。

 

 

カツーン、カツーン。

伊隅は肩に提げたバックから深紅のハイヒールを取り出して両足に装着させていた。尖った踵を堅い地盤に叩き付けて、気持ちだけ短く擦り減らしている。耳にはイヤホンを填めて、複雑に絡まったコードの先端にある小型の再生機から、厳選した数曲を好きな順番に並べて再生している。

ガチャガチャとカセットレコーダーのボタンを弄くり、カツーン、カツーンとヒールを叩き付ける高い音が返り、ブッチュ、ブッチュと、現在はカエルが轢かれた音に似た卑猥な曲を流していた。

伊隅は眼鏡を掛け直して颯爽と駅前に歩き出した。止まっていた時が再会されたかのように、土産屋周辺の静寂が活気付いたざわめきに変わった。

伊隅は赤信号が点滅した横断歩道で立ち止まり、雑多に散らかったバックの中から名刺と待ち合わせの場所を書いた地図を取り出した。ひるがやという町に訪れたのは、ウェブ上で知り合った男性に名刺を送り届けて、自分の本名を明確に認知させる用事があったからだ。

「あれ、まだ五時間もあるんだ」

伊隅は道路を挟んだデパートの外壁に設置された、巨大な液晶時計を眺めて呟いた。名刺には伊隅と書かれた本名にの横に、ウェブ上で使用していた時の略奪者という奇妙な綽名が添えられていた。

伊隅はバックに仕舞った壊れた腕時計を確認して溜息を吐いた。初めて訪れた町で時間を潰せるところはないかと挙動不審に周囲を見渡す。

伊隅の狼狽した様子に、赤信号で足止めを食らっていた男性が目を留めた。

男は何人足りとも近寄らせない強面を宿している金融関係の有能な社員だった。主に酷薄な印象を漂わせる顔と邪悪な黒のスーツで対象者を威圧して、返済期限を過ぎた膨大な借金を取り立てに参上する重要な役目を担っていた。

男は今日も取り立て用の偽造借用書を鞄に詰めて、しがないアパート暮らしの男を脅迫する予定がある。

「ううん、チーズバーガー食べたいなあ」

伊隅は手頃な飲食店を探し回って男の前を横切ろうとした。男は伊隅の進行方向を目で追うだけにしようと思った。

横切ろうとしたその瞬間に、伊隅は偶然にも横目で男の分厚い唇を捉えていた。二重になって不細工な造形に湾曲した貴重な唇であった。

伊隅の好奇は突如として空腹から情欲に切り替わった。或いは食欲から派生した情欲だったのかもしれない。伊隅は口内に溢れる涎を体外に出すためにねっとりした舌を伸ばした。

男は上目遣いに色目を使う伊隅の不気味な姿を見下ろした。強面の顔が睨みを利かして引き攣り出した。他人の些細な挙動を許せない歪んだ性格が露呈される。

「あの、ちょっとだけでいいから」

伊隅は口籠もって男の顎を軽く引いた。踵に擦れた傷痕の付いたハイヒールから足を浮かせて背伸びする。

男は目を丸くして、高低差に苦労する伊隅の唇を手で塞いだ。身を引きながら伊隅を遠くに押し退けて距離を作った。

「やめろ、何考えてんだお前、俺に近寄るんじゃねえよ」

男は尻餅を着いて倒れた伊隅を拒絶した。伊隅はヒールの片方がへし折れて転倒していた。

伊隅は足を挫いた痛みに泣き出しそうな顔を両手で押さえた。両膝を折り畳んだ体勢で悪態を吐き出す。

「酷い。私はなにもしてないのに」

伊隅は人目も憚らずに泣き声を洩らした。男は動揺して伊隅の傍で屈み込んだ。生来の強面を見せびらかせて続々と集まってくる野次馬を追い払う。

「おい、泣くなよ、俺が悪いことしたみたいじゃないか」

男は適当に肩を叩いて伊隅を宥めた。脅迫に精通していた職人の威厳は不慣れな女の前では脆くも崩壊していた。希有な女は指の隙間から鋭い目付きを覗かせて男の隙を伺っていた。八方塞りになってその場を去らぬように男の肩を手で抑え付ける。

「ごめんなさい、これはほんのお詫びですけど、受け取ってくれませんか」

伊隅は片目を押さえたまま舌の穂先を伸ばした。瞬く間に伊隅の顔が接近して、油断していた男の口内にするりと舌が潜り込んだ。

男が領域を侵された驚きに咄嗟に伊隅の胸を掴んだ。伊隅は腕を回して男を逃がさぬよう全力で捕まえた。男が懸命に抗う姿を野次馬は情事として受け取っていた。服の上から乳房を潰して舌を絡ませる淫猥な行為は、街中で盛った恋人として違和感なく映っていただろう。

男は抵抗できずに仰向けに転がされ、伊隅の執拗なキスで迎合された。唇の表面が伊隅の唾液に濡れて艶を放ち、次第に男は全身を脱力させて抗う意志を示さなくなった。

男がぐったりして数分後、野次馬が息を呑んで各自の日常に返っていった。伊隅が口付けに没頭する姿は爬虫類の捕食を香らせる、恋人同士の愛撫とは懸け離れた異質な光景だった。

伊隅は男の味を搾り出してから伸びた舌を口内に引っ込めた。男は快楽の絶頂に達した女性のように息を荒げ、淫らに腕を広げて首を横に向けていた。骨抜きにされた唇は伊隅の唾液で埋め尽くされ、強面の表情は原型が霞むほどに緩んでいた。

「美味しゅうございました。これで、心おきなくチーズバーガーが食べれます」

伊隅はバックから替えのハイヒールを取り出して、素肌が露出された右足に履いた。路上で這い蹲る男を置き去りにして、取り敢えず待ち合わせ場所の方向に歩き出す。

青に変わった横断歩道を渡り、飲食店やデパートが軒を連ねる通りを歩いていると、背後から伊隅に忍び寄る足音が聞こえてきた。

伊隅は英単語の一文字が印象的な有名な飲食店の看板を探していた。忍び寄る足音が、伊隅の真後ろまで迫った。

伊隅を自らの影で覆った気配の正体は、頭髪を覆う毛糸の帽子を被り、顔剃りを怠って顔面に無精髭を蓄えた陰気な男だった。男は念仏染みた呪文を唱えて、高級な光沢に煌く伊隅のバックを凝視していた。

伊隅は人影に覆われた事態に気付かなかった。曲がり角に設置された目的の飲食店を発見して、意気揚々と駆け出した。

「あっ、ちょっと」

男は声を出して無意識に伊隅の後を追った。男は貧困な家庭に育ち、上京して故郷に錦を飾ろうと企てていた目論みが外れて、各地の路肩を渡り歩き、紙製の家を建築する無収入の生活を送っていた。男は義理人情をを旨とする両親に道徳心を植え付けられていた。男が如何に苦難の道を進もうとも、凶行に走らぬよう抑止の鎖を幾重にも巻き付けた。

男は足を前に踏み出す度に、親に縛られた抑止の鎖は解けていった。男は身軽になっていく解放感を凶行へと駆り立てる材料に変えて、制御不能となった凶悪な瞳をぎらつかせた。

「ハンバーガー」

伊隅はゆっくり走って店頭で足を止めた。ガラスの自動ドアから透けて見える活発な店内を眺めて、入場を認知するカーペットを踏み締める。

「ちょっと、待って下さい」

そこで追い付いた男は伊隅を呼び止めた。伊隅が振り向いて男の唇に注目した隙に、男は肩に干したバックを掴んで強引に取り上げた。

「あ、ちょっと」

何か言おうした伊隅の体は、男と揉み合った拍子に体勢を崩して転倒した。両足に履いたハイヒールの踵が根元から折れていた。

伊隅が尻餅を着いて折れた踵を見詰めている間に、男は無心に遠く離れた場所まで走り去っていった。怪訝そうに店頭を通り過ぎる群集は、口元を嘲笑に歪めて伊隅を見下ろし、軽蔑したような眼差しを送っていった。

「ハンバーガー、でも、私のバックとあの人の唇が」

店内の扉は開いて肉を焦がす香りが伊隅の鼻腔を刺激していた。伊隅は恨めしそうに縮小する男の背中と温かい照明に包まれた店内を見比べた。チーズバーガーとバックを天秤に載せて、どちらを優先すべきか考え込む。伊隅の胸中はハンバーガーに傾いていたが、脳裏に焼きついた男の貧相な唇が捨て難い。

「やっぱり、特有の香りを放ちそうな、あの人の唇をもう一度見たいかな」

伊隅は平坦になった靴を爪先まで履き直した。地盤を踊るように叩いて履き心地を確かめる。前のめりに転倒しそうな高度は控えられ、地面と平行の世界に佇んでいる本来在るべき現実感に帰ってきた。

伊隅は表情を凛と引き締め、取り分け慌てる様子もなく、手の平を店内に促す飲食店の人型のマスコットに近付いて、固く尖った唇に貪りついた。

変質者の来襲を偶然目撃したカップルの時が数十秒間奪われた。駅前で遭遇した男の唾液を拭った伊隅の唇が剥がれていく。

「お口直し完了、さあ、次はあの人の番だ」

伊隅は眼鏡の下に秘めた瞳に食欲を滾らせ、悠然とした優雅な足取りで男の後を追っていった。

バックを強奪した男は走り疲れて、多数のダンボール片を密着させた自宅に倒れ込んだ。接着剤で付着した家が男の質量で呆気なくバラバラに倒壊した。

「はあ、やっちまったよ。もうお袋に会わす顔がねえや」

男は今更になって、一時の激情に身を委ねた手癖の悪さを責めた。母親が真心を込めて調理した郷土料理が頭を掠めて、心臓が張り裂けそうな罪悪感に苛まれる。心臓に茨の棘が突き刺さったように繰り返される拍動が軋みを生じていた。

男はバックを胸に抱き留めて、硬質な鉄のシャッターに体を預けた。バックを質屋で換金する最期の爪を実行に移す気力は振り絞れそうになかった。仮に女の元へのこのこ舞い戻れば、警察に出頭する羽目になるだろう。男は頭を押さえて、間近に迫る将来の選択に葛藤していた。

四時間後、男は暖簾に質の字が刻まれた店先でバックを持って立っていた。青ざめた男の上唇は薄く口の輪郭を縁取り、下唇は異様に迫り出して、上下で対照的な唇の造形を強調していた。

「五万くらいには、なるよなあ」

男の瞳は自我を崩壊させた醜悪な欲望に研ぎ澄まされていた。恐らく男は刻一刻と近付く質屋での換金に夢中になって、背後から忍び寄る足音に気付いていなかっただろう。

男を捜し歩いている途中に、別の飲食店でチーズハンバーガーを買い食いした伊隅が、男の真後ろで影を重ねていた。

「それ、フリーマーケーットで三千円ほどです。定価もそれほどしないと思いますよ」

男は突然の呼び掛けに驚愕してビクリと肩を震わせた。バックを両手で抱いたまま、ゆっくりと伊隅に振り返った。

伊隅の華奢な右手が男の頬に触れた。伊隅は有無を言わさず男の顔を引き寄せ、深紅の分厚い唇で男の珍妙な唇を挟み込んだ。器用な舌を口内から這い出して男の唇を舐め上げる。

「ん、うぐうう」

伊隅の激しいキスが男を呼吸困難に陥らせる。男は焦って伊隅の脇を掴んで引き剥がしに掛かったが、伊隅は軽く跳躍して、男の貧弱な肉体を両足で挟み込んだ。

男は背骨を軋ませて体を後方に仰け反らせた。抱っこの要領でしがみ付いた伊隅の膂力は並外れていた。分厚い唇は唾液の粘着性を利用して更に強く吸着していた。伸びた舌が男の口内を暴れ狂って、男特有の発酵したような味覚を舌に絡め取っていく。

「う、うう、美味しゅうございます」

伊隅は唾液に塗れた唇を剥がして、男の顔中に何度も接吻を繰り返した。無防備な男の顔に深紅の口紅の跡が次々と点在していく。男は足腰を踏ん張って辛うじて体勢を保っていた。伊隅の淫行を阻む脱出案を構想する余裕はない。

「後でバック返してくださいね。もうすぐ終わりにしますから」

伊隅は男の眼球を舐めんばかりに、両目に集中してキスの嵐を見舞った。男は瞼を閉じて懸命に阻むが、伊隅の舌が瞼の蓋を抉じ開けて、血走った眼球を露出させた。

伊隅は容赦なく、べろりと男の水晶体を舐め上げた。

「あ、ぎゃああああ」

男は角膜を刺激する激痛に身を捩らせて質屋のドアの前に倒れた。伊隅は前方に回転して柔道で習った受身を取った。

「大変美味しゅうございました。これで私が私でいられそうです」

伊隅は髪の毛が逆立つまで頭を折り畳んで礼に尽くした。男は片目を押さえて情けなくのた打ち回っていた。

男は力なく手からバックを離していた。伊隅は無造作にバックを拾い上げて、引き戸になっている質屋のドアを開ける。防弾ガラス越しで待機する長髪の定員が、伊隅に滑舌の良い呼び声をかけた。

「いらっしゃいませ、どうぞこちらへ」

伊隅は案内された席に座った。丁度、男と正面に向かい合わせになっていた。

「これ、いくらになるのかしら」

伊隅は受け取り口の隙間にバックを突っ込んだ。長髪の定員はルーペ染みた小型の虫眼鏡を取り出して、バックを回転させながら入念に銘柄や鑑定に纏わる要素を調べていく。バックの表面は煌びやかな光沢を放つが、果たして専門家は一体いくらの値を付けるのだろうか。

「三千円になります」

店員は申し訳なさそうに鑑定結果を告げた。

伊隅は右目の目尻を吊り上げて、左目の目尻を下げた複雑な表情を作った。フリーマーケットと同額の値段に歓喜していいのやら、落ち込んでいいのやら、焦点が合わない感情を整理できなかった。

「ありがとうございます」

伊隅は受け取り口を滑り通ったバックを持って、店先で片目を押さえる男の正面に戻って来た。

男は警察に出頭する覚悟を決めて伊隅を待っていた。苦悩した末に犯行に及んだ意志の弱い愚かな自分を責め、眼球の痛みが外的刺激によるものだけではないことを痛烈に実感していた。

伊隅は何も言わずにバックの縁を両手で掴んで、賞状でも授けるように差し出した。男は呆気に取られて言葉を洩らした。

「あ、あの、警察に」

男が授与を拒絶すると、伊隅はゆっくり顔を上げた。瞬きをせずに乾いた眼球と冷め切った表情で男を恫喝する。男は顔を蒼白させて片手を伸ばした。バックの縁を掴むが、動揺して地面に零れ落とす。

「三千円になります」

伊隅は構わず鑑定額を告げた。男は訳の分からぬまま、瞬時に放たれた伊隅の右足に足を払われて転ばされた。

目を見開いた伊隅の体が手の平を胸に寄せて男に落ちてきた。男の胸に手の平が沈み、伊隅の唇から這い出た舌が、男の唇に挿入された。

伊隅は妖怪のような目付きの鋭い濁った瞳で、男の唇を二十分以上かけて貪り尽くしていた。

 

 

伊隅は千鳥足同然で公園に歩いていた。

両足を保護していたハイヒールと肩から提げていたバックは失われていた。鑑定額に不満を抱いたのか、浮浪者の男に二点とも譲り渡していた。

浮浪者の男は質屋の店先で眠りに就いている。生存は確認されていないが息はしていない。

伊隅は賑やかな通りを歩く男の唇を発見して、歩行もままならないほどに両足を脱力させた。転倒しそうに傾いた肉体を意中の男に凭れ掛からせて、唇をがばりと大きく広げる。

「うわあ、なんですかっ」

男の唇がいとも簡単に呑み込まれた。豊満な唇は男の鼻先を口内に押し込めて、粘着した唾液を男の顔面に付着させていく。

唾液が浸透していくねっとりした感触に苦しみ、男は血色を失った顔で昇天した。男は伊隅の肉体を這うように崩れ落ちて、伊隅の股下から地面に吐き出された。

「美味しかった」

伊隅はにやりとした微笑を初見の歩行者に向けた。伊隅の視線は女性を無視して、唇を携えた男だけを一頻り眺めていた。

伊隅と目が合った男達の時が奪い去られた。時を略奪する大袈裟な効果が持続している隙に伊隅が歩み寄り、無防備な男の唇を次から次へと奪っていく。

伊隅は唇を奪った男を鑑賞しながら頭頂部と顎を掴んだ。グキリと顔を横に折り曲げて強引に顎を外した。だらりと垂れた顎は唇の拡張に成功していた。

伊隅は巨大となった唇を限界まで広げて、道路を挟んだ向こうの通りに手を振るサラリーマンの顔を呑み込みんだ。鼻全体をすっぽり覆われた男の顎先から涎混じりの唾液が滴り落ちてくる。

「ハムハム、ゴックン」

伊隅は変調した低音を出して、男の皮膚表面に染み付いた味を吸収した。同僚に愛想を振り撒いていた男は、薄気味悪い笑顔で地面に倒れ込んだ。

「後十分、公園まで徒歩二分」

伊隅は地面に伏した男の腕時計を認めて時間を計った。残り時間を飢えた食事に費やす意向を固めて、千鳥足同然の足取りで男達に凭れ掛かっては、唇を奪う単調な食事を続行した。

巨大化した唇に襲われた男達の時は根底から奪われ、拍動を完全に停止させていた。大抵の男達は地面に伏して穏やかな眠りに就くが、生命を維持する呼吸は行われていない。

伊隅は人命など気にも留めず、合計三十四人余りの時間と唇を奪いながら、探し求めていた公園の入り口を潜った。

公園は棘付きの柵に覆われ、更に古参の大木を遊具の周囲に固めた、凡そ憩いの広場としては適していない閉塞した空間だった。ウェブ上で知り合った相手がここを待ち合わせ場所に選んだのは、伊隅を誘惑するためだろうか、公園には人気が全くない。

その張本人であろう男は、茨が巻き付いた四辺の柱に囲まれた木製のベンチに凭れ掛かっていた。伊隅は迷わず男に歩み寄って行った。情欲に溺れた伊隅の瞳は、清閑な顔立ちをした美形の男に吸い込まれていくようだ。

「こんにちは、時の略奪者さん」

男は優雅な動作で立ち上がり、両手を広げて伊隅を胸の中に招いた。

「ああ、こんにちは、人の支配者さん」

伊隅は目に大粒の涙を湛えて、初対面である筈の男の胸に感動的に飛び込んだ。

人の支配者とウェブで上で呼称される伊隅と同年代であろう男は、清閑な顔付きを歪ませ、邪悪に満ちた支配者の醜悪な笑みを浮かべた。伊隅は啜り泣いてひたすら男に甘えていた。男の胸の中が伊隅の安堵を司る、帰るべき家であるかのように。

「人の支配者さん、私は、私はあなたが好きです。私にはあなたしかいないんです」

男は伊隅の頭を撫でて宥めてあげた。伊隅は男の服で溢れ出る涙を絶えず拭い落としていた。

「僕もそうだ」

やがて、男は伊隅の涙で崩れた顎の垂れ下がった顔を起こして、挨拶代わりの深い口付けを交わした。

伊隅が男の唇を貪ったその瞬間、伊隅の脳裏に記憶の切れ端が電撃となって走り抜けた。

過去の伊隅は、他人の唇を奪う行為は単調であり、食事と同様である当然の行為であった筈だ。

伊隅はそうやって自分という存在を解釈していた筈だ。その解釈が真実に脅かされ、ゆらゆらと揺らぎながら儚く崩壊していき、新たな生命を誕生させるような、未知の興奮と歓喜が胸の内で暴れ狂った。

 

 

産声を間近にした妖怪の胎児が、唇を流動して伊隅の腹部の中に宿る。

伊隅は男に与えられた胎児を拒絶せず、優しく迎え入れていた。そういう意識が予め脳に植え付けられ、母となって胎児の成長に努めるよう指令を下されているからだ。

伊隅は唇を剥がして無垢に微笑んだ。恋する彼と知り合ったのは、醜聞が飛び交う情報の渦の外側だった。仮の空間を構築したウェブの外側に張り巡らされた実感できる現実の世界のことだ。

季節によって変質する空気が頬を叩き、恋人同士が互いの顔を確認できる、有り触れた学校の校庭で知り合っていた。

無意識に膨らんでいた思いの丈を伊隅が告白すると、同級生だった男は快諾して、唇の皮が剥がれるまで深い口付けを交わした。

伊隅が初めて男に指令を下されたのはその時だった。胎児を身に宿して十年後の再会日までに立派な大人に成長させるよう唇を流動して伝えられていたのだ。

伊隅にとってキスが中毒になり、単調な捕食に変わっていったのは、愛する彼と初めて口付けを交わした直後だった。

キスは愛を伝達する恋仲の純愛から発展した行為や単調な捕食でもない。正確には、キス魔という妖怪に養分を与える行為がキスに当たるのだ。私は意中の男ではない初対面の男性を求め、些細な唇の造形の変化に拘った。

胎内のキス魔が私の腹を蹴って、貪欲に求めたのだ。

「もっと、男を選んでキスをしろ。そして、数を増やせ」

有りとあらゆる唇を網羅してキス魔は成育する。キス魔の養分となるのは奪った唇の数と唇の形であったのだ。

「君はこれから、自己嫌悪の陶酔者だ。自己を忌み嫌い、感動したまえ。さすれば、胎児は立派に育つ。キス魔を育て上げた君なら、自己陶酔者の産声を上げることもできるはずだ」

私は彼を愛している。目の前にいる変質者であろう彼を愛している。双眸で捉えた彼が悪魔に映っても心配はない。蘇った私の記憶はまた薄れて、新たな妖怪を育て上げる媒体として活動する。

それが恋人である私が彼にできる、精一杯の奉仕と敬愛だ。彼を心底愛しているから。

「私は大勢の罪のない人の唇を奪いました。死に至らしめたこともあるかもしれません。こんな私は蔑まされて忌み嫌われるべきです。最低だ、私という存在が許せない。何て、最低な女、いや、人として何処かおかしいのではないでしょうか」

彼は無邪気な笑顔を見せた。私の意識は薄れて、自己嫌悪の陶酔者を育てる母親へと変貌していく。唇の形が元通りの薄い形となり、顔が年老いた皺を重ねて醜くなっていくのを感じている。自己嫌悪に陶酔しやすいよう、容姿から丸ごと変わっていくのだ。

私はこれから十年に渡り、自分を自己嫌悪に陶酔する生き物だと解釈して生きていく筈だ。

「素晴らしい、その調子で俺、いや、私を満足させてくれよ裕香。君の存在だけが、俺の心の拠り所なんだからね」

彼を満足させて挙げられない私が嫌いだ。私は崇高な人様の空気を吸っているから嫌いだ。私は他人の人生を噤んだ犯罪者だから嫌いだ。私は私だから嫌いだ。

私は私という存在が嫌いになった。ただ一つだけ、私は好感が持てる取り柄を忘れずに覚えている。いや、それは誰しもが渇望する快楽の延長線上にある純粋な行為だ。

「人の支配者さん、最後にキスをしてくださいませんか。これからの励みにしたいんです」

人の支配者は私の手を引いて、再び胸の中に私を受け入れた。私は背伸びをして、性欲や食欲を遥かに超越する奇跡の行為に没頭する。

暖かな唇を交えて人の意識を伝達するキスは、新たな生物を芽吹く神に授けられた悪魔の行為とも言える。

「愛しています」

私の中に狂った彼の感情が澱みなく溶け込んだ。キスを介せば、例え相手が未知の生物だって愛していける自信が持てる。

奇跡の行為を終えれば、私は彼を生涯の伴侶として愛していける動機が持てる。

キスは、生物に平等に分け与えられた、生命の神秘だ。

 

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