村崎のセプター

 

 

しんぶんしゃ。

男性の社員がゆったりした口調でそう呟いた。食堂の席に鎮座する社員同士は顔を見合わせ、ゲラゲラと醜い笑い声を上げた。

連動するように周囲で談笑する社員が一斉に笑い出した。瞬く間に笑いの波紋は広がり、ざっと百人は越える笑い声がホールに木霊して轟いた。恰幅のいい社員の一人は、口から涎とスクランブルエッグを織り交ぜた粘着性の混合物をテーブルに吹き出した。対面になった厚化粧の女性社員を指して、お化けだ、お化けだあと幼稚に連呼している。

社員の笑い声は勢力を増していき、ガラス張りになった窓際の死角に設置された隅の席から、好奇の眼差しを向けていたセプターの鼓膜を破かんばかりに響き渡った。

尖兵新聞社に勤める社員は皆陽気で、仕事中にも笑いが絶えないとの情報を親友である村崎の母親から聞かされていたが、これほど凄まじいとは想定していなかった。社員の食事風景を観察していたセプターは、観葉植物の傍で車椅子に坐る村崎に耳栓を受け取った。

「何がそんなに面白いのか分かるかい、村崎」

セプターは疑問を吐きながら簡単に耳を穿り、黄色のスポンジを填め込んだ。

十代後半から二十代前半であろうセプターは個性的な顔立ちの美しい女性だった。尖兵新聞社とは無関係のため、社員に義務付けられたスーツや制服などは着用せず、撫で肩を覗かせた夏用の軽装で全身を覆っている。頭に被った帽子は日陰に溶け込む黒一色で、抑え切れない豊かな黒髪が背中の辺りで疎らに散っている。帽子の鍔と垂れた前髪の隙間から覗く瞳は常に悦楽を求めて挙動不審に彷徨っていた。

「セプター、あなたが言ったセプター、面白いかって」

爆発した笑い声と耳栓に遮られ、セプターが何を尋ねたのか聞き取れなかった村崎が質問を投げ返した。

セプターより年下である十四歳の村崎の性別は男性だった。車椅子は車輪が両側に付いたタイプの凡庸な型であり、先天性の障害のために不自由となった村崎の足代わりを担っている。伸び放題の蓬髪は村崎の輪郭を覆い、前髪は視野が狭まらないように額の辺りで切断されている。感情が鈍麻したような虚ろな瞳はセプターとは異なる不安を訴えかけていた。

「そうだよ村崎。皆面白そうにしてるけど彼を見てご覧。他の社員と一風様子が違うだろ」

セプターは大きく息を吸い込み、声を張り上げて笑い声の渦を裂いた。けたたましく笑っていた社員の数人が耳を押さえて声の主を怪訝そうに見詰めた。耳栓をした村崎だけは鼓膜の破裂を脅かす声量に怯まず、平然とセプターの顔を一瞥して、視線の先を辿っていた。

食堂の隅のテーブルに独りで黙々と食事に勤しむ男性の社員がいた。陰気な雰囲気を漂わす男は他の社員に同調して笑い声を上げたりはせず、一杯のかけそばを寂しげにすすっていた。引き換えに用いた食券の切れ端と釣銭の十円硬貨がテーブルに散乱している。

「セプター、なぜ。なぜ彼は笑わないのセプター」

村崎は群衆の笑い声には敵わぬ少年の微弱な声帯で訊ねた。視線を泳がせ貪欲に娯楽を探していたセプターは鋭敏に声を聞き取り、薄笑いを浮かべて村崎を眺めた。

「村崎、私は物事を順序立てて考えるのは割と得意だ。つまりこう推察する。彼らが笑うのは恐らく楽しいことがあったからだ。あの男が泣いているのは悲しいことがあったからだ。原因は不明だ。苛めの線も否定できないな。あの男は迫害されているのかもしれないよ」

セプターの推察は正解とは程遠い珍回答だった。村崎は母親から詳しい事情を聞かされ、社員の喧噪染みた笑いについては合理的な解釈が付く答えを食堂を訪ねる前から知っていた。それより興味を惹かれるのは静寂な空間に置かれた先ほどの男性社員だ。

男性社員は手の平に単語帳を収めて英単語を発声していた。僅かに笑みを湛えているが、しんぶんしゃという間抜けな台詞に感嘆しているのではない。明らかに隔離された世界で食事と勉強を両立している。男だけが自我を保っているかのようだ。

セプターが人指し指を頭上で旋回させて物思いに耽り、多数の社員がしんぶんしゃで異様に盛り上がっている最中に、村崎の虚ろな瞳は男性社員を捉えて離さなかった。

「おお、答えが舞い降りてきたよ村崎。恐らく彼らはボーナスを支給されたんだ。それなら舞い上がって興奮してると推測できるだろ。ハイテンションだから、何に対してもゲハゲハ笑っちまうのさ。ゲハゲハ、みっともなくな。ゲハゲハ、ゲハゲハ」

セプターは社員の真似をして野太く笑って見せた。熟考した末に至った結論はまたもや不正解だった

「違うよセプター、この新聞社は倒産するそうだ。母さんから聞いた。経営赤字だそうだ。彼らは現実逃避してるだけだ」

村崎は残酷に答えを告げた。セプターは馬鹿笑いを止めて、興味を失ったように目を据わらせた。

「現実逃避だったのか。それはつまんないな村崎、そろそろ別の場所へ行こうか。せっかく楽しめると思ってわざわざやって来たのに、この仕打ち、ガハガハ、やってられないかな、ガハガハ」

セプターは不気味に笑いながらガラスの外を眺めた。貧相な細い木が植え込まれた通りには娯楽施設らしい建造物は認められなかった。障害者用の遊具が取り揃えられた公園やら、普段利用している遊び場に向かうには自宅付近まで戻る必要がある。セプターは遠出して新聞社に遊びに来ていたのを思い出して舌打ちを鳴らした。

「セプター、あの人のことが気になる。一度でいいから、話してみたいな」

村崎は華奢な腕を持ち上げて、食事を終えた男性社員を指した。彼もまた村崎に気付いて、微笑ましそうに頬杖を着いていた。

好意の視線を絡ませる二人に嫉妬して、セプターは鋭い目付きで男性社員を睨み付けた。冷水が満たされたコップを飲み干して腰を上げる。村崎は慌ててセプターに声援を掛けた。

「セプター、僕のためにあの人をここに連れてきて、二人きりにして」

セプターは背後に手を振って食器回収所近くに設置されたテーブルに歩いていった。男性社員は表情を徐々に凍り付かせて間近に迫ったセプターを見上げた。

背丈は一般的な女性の平均身長と大差ない筈だが、全身から放出される特異な気質がセプターを通常より巨大な生き物に錯覚させている。男性社員の焦点はセプターの遥か頭上に合っていた。

「ゲハゲハ、あなたは、笑わないな。おかしくないのか。私はつまらんけどな。あなたは、賢いんだな、ゲハゲハ」

セプターは椅子に腰掛けて、前のめりに男性社員の瞳を覗き込んだ。男性社員は身を引いて、手元の水を啜ってから言った。

「会社が倒産して笑ってられるほど余裕はないさ。俺は現実主義なんでな。それとあなたじゃなく海野と言う立派な名がある。君は誰だ。俺と話がしたいなら名前ぐらい先に名乗ってくれてもいいんじゃないか」

笑い声の波は引き寄せ、海野と名乗った社員の声は淀みなく伝わっていた。

海野は折れたシャツの襟を片手で整え、コップを置こうと前のめりになった。下げた頭がセプターの鼻先を掠めそうになり、セプターは咄嗟にテーブルの縁を蹴って椅子ごと後方に滑走した。海野が短い呻きを上げ、運搬されていったセプターの肉体は隣の座席に椅子の背を打ち付けて静止した。

「私は、セプターという奴だ。そしてあそこにいるのが友人の村崎だ。用件を簡潔に述べると、村崎が海野と話したがってる。相手をしてあげてくれないか」

遠ざかった椅子を元に戻さず、セプターは身振りで村崎の位置を促した。海野の挙動に細心の注意を払っているようだ。

海野は蹴られたテーブルが腹部に直撃した怒りに打ち震えていた。コップが横転して中身が零れ、スーツに水が沁み込んでいる。床には小銭が金属音を鳴らして転がっていた。

「友達想いの君に免じて許してあげるが、今後は礼儀をわきまえて欲しいな。特に用事は入っていないことだし、その村崎君が俺と話したいと言うなら、話してあげるよ。あんまり長居はできないけどね」

セプターは了承の合図に頷いた。海野はスーツの濡れた箇所をハンカチで拭き取り、溜息を吐いて席を立った。

セプターは少しずつ椅子を回転させ脇を通り過ぎる海野の後姿を見送った。椅子を百八十度後方に回転させた頃には、満面の笑みで出迎えた村崎の顔と屈み込んだ海野の後頭部が正面に映えていた。

「多分初めまして、だよね。よろしく村崎君、俺は海野洋平だ」

海野は当惑した様子で話し掛けた。村崎は無垢に笑って、海野にじっとりした視線を暫し這わせた。

「こちらこそよろしくお願いします。会社が倒産したのにおじさん冷静でかっこいいよ。セプターより何倍もかっこいいかもしれないね。あはは」

村崎は服の裾で汗ばんだ左手を拭い、手を差し伸べて海野に握手を求めた。海野は突拍子のない行動に動揺していたが、笑みを零して村崎と堅く手を握り合った。

セプターは目深に帽子を被り直して、遠く離れた席から二人の対談に聞き耳を立てた。両の掌を虚空に撫で回して空気の振動を耳に送り込もうと抵抗している。無用な行為に及ばずとも、元から備わった尋常ではない聴力が会話の端を送り届けてくれていた。

二人は当たり障りのない談笑を交わして、すぐに打ち解け合っていた。

「母さんは有名な翻訳家だ。だから、お父さんがいなくても高給が約束されてるんだ」

村崎は自慢げに高額所得者の母について述べ、心を許してきた海野に絶命した父親のことを語り出した。

村崎の父親はまだ一歳の時分だった村崎をベビーカーに乗せて外に連れ出した。当てもなくのんびりと国道沿いを村崎と散歩していた父親は、青信号が点滅した横断歩道を素早く横断しようとした。だが信号を無視して爆走してきたダンプカーにあっけなく跳ね飛ばされた。父親は頭から地面に叩き付けられて気を失い、病室で静かに息を引き取ったそうだ。村崎はそれ以来、母親の寵愛を受けて家宝のように大事に育てられていた。

海野は俯いて悲劇の過去を語る村崎に同情して胸が締め付けられた。

「そうか、辛かったろうな。君も足に障害があるみたいだが、気を落とさず頑張ってくれよ。他人事みたいで悪いけど、俺が何をやっても君の父さんは生き返らないしね」

海野は村崎の頭を軽く撫でて体を起こした。腕を捲くって時計を確認すると社内に滞在できる時間を超過していたので、速やかに背を向けて、帰宅しようとした。

「待ってよ海野さん、暫くの間だけでいいから、僕の家で働いてよ」

村崎は大声で叫んで海野を呼び止めた。再就職先の伝を探している現無職の海野は、働いてくれという甘い蜜に過敏な反応を示して踵を返した。

「何だって、君みたいな子供が大人を雇えるわけないだろ。そんな都合のいいことありえないよ」

海野は興奮して雇用条件を提示される前に拒否した。村崎は口元に手を当てて笑い出した。

「大丈夫だよ。海野さんを雇うのは母さんだから。おっと、いけない。海野さん、こっち来て耳貸して」

村崎はこちらへおいでと海野を手招いた。会話を盗聴しているセプターの存在を警戒していた。当のセプターは床に散らばった海野の釣銭を掻き集めて、厨房を忙しなく動き回る調理師にかけそばを注文していた。

村崎は背を向けたセプターの動向を横目で窺いながら、海野の耳元に口を当てて小声で囁いた。

「む、雇うって何だ。はっきり聞こえなかったぞ。村崎」

微かな声を探知したセプターは調理師に渡されたかけそばの器を持って村崎に振り返った。海野の背中で半分隠れた村崎の横顔は不気味に歪んでいた。

セプターは本能で異常事態を素早く察知した。食券を調理師に手渡し、器を落とさぬように両手で抱えて駆け出した。

「しんぶんしゃ」

社員は失業した悲しみに我を忘れ、また現時逃避に酔い痴れていた。聴力に秀でたセプターの耳に不要な雑音が混じり、海野が低頭して村崎に述べた謝辞は聞き取れない。

セプターは頬を引き攣らせて村崎の元へ辿り着いた。海野は嫌に浮き浮きした笑顔で跳ねるように出口に向かっている。

「村崎、あいつに何を言った。私に隠し事は嫌だぞ」

セプターは凄んだ顔で村崎に迫った。かけそばの器に注入された透明な出汁が揺れて、床に飛び散った。

「何を言ってるのセプター、僕は無傷だから平気だよ。それよりさ、かけそば美味しそうだね、僕にもわけてよセプター」

村崎は純真な眼で話をはぐらかした。セプターはたじろぎ、手に抱えた器と村崎の顔を交互に見比べた。

「早く頂戴セプター。あなたは僕の友達でしょ、セプター」

村崎は声を荒げて恫喝した。セプターは弱い笑みを作って頷き、かけそばの器をそっとテーブルに乗せた。

「ありがとう、セプター」

村崎は割り箸を縦に割って、豪快にかけそばを啜り出した。脇目も振らずに細い麺を喉に通して、空腹の胃に吸引していく。

セプターは帽子の鍔を上げて穏やかに村崎を見守った。村崎がガラスから差し込める直射日光に晒されているのに気付くと、庇うようにガラスに体をへばり付かせ、村崎が眩しくないよう自らの人影で覆った。

「村崎、そばを食べ終わったら公園に行こう。外は明るい。きっと楽しいことがある」

セプターは外の通りを無邪気に走り回る子供を捉えて侘しく呟いた。海野との秘め事を有耶無耶にした村崎の急変しやすい容態を心から気に病んでいた。

「うん、そうしようか」

村崎は両手で器を掬って出汁を飲み干した。結局、一人で全部平らげていた。

 

 

夕日を背に浴び、セプターは公園で遊び疲れて熟睡した村崎の車椅子をゆっくり押していた。

五十メートル近くある陸橋の上を砂礫に梃子摺る車輪の音が響く。幅広の川が流れる眼下には、子供連れの親子が何組か川釣りに興じていた。

セプターは村崎と川原で釣りを楽しんだ過去を懐かしそうに回想していた。

思えば十年来の付き合いをしてきた。父親の面影を探して臆病になっていた村崎の瞳は惰弱で脆かった。セプターは当時の村崎に深い愛情を以て接し、手を握り合って不変の友情を堅く誓っていた。

その場所が、丁度、村崎が住処にする高層マンションに延びる陸橋の真下だった。セプターは妙な不安に駆られていた。常に快楽を求めていた楽天的な思考が、海野の出現によって反転しそうになっている。村崎を中心に過ごしてきた生活が壊れてしまうのだけは避けたい想いが頭の中を飽和して、長年封じ込めてきた不安を呼び覚ます。

それはセプターにとって耐え難い苦痛な毎日であり、二度と訪れてはならない絶望の闇とも言うべき拷問だった。

「セプター」

村崎の寝言が呼んだ。セプターははっとして微笑を湛え、村崎の前髪を側頭部に撫で付けた。

陸橋を越えたところにある地下鉄の階段から、帰路に着くサラリーマンが大量に押し寄せてきた。陸橋を渡ると集合団地が密接しているのでこちらに向かってくる人数は多い。

セプターは混雑を回避するために足を速めた。車輪の片方が整備が行き届いていない裂け目に挟まったが、強引に持ち上げて突破した。

無表情に陸橋に迫ってくるサラリーマンの人込みに、水を得た魚のように生き生きした海野洋平が混ざった。会社帰りに村崎の家に寄り道したらしい海野の内ポケットは僅かな膨らみを持っていた。

革靴の乾いた足音が陸橋に踏み込んだ。セプターは前方から雪崩れ込む人波を警戒して、車椅子を押すのを諦め、両腕でしっかり抱え上げた。両腕に浮き出た血管と供に内に秘めた筋肉が隆起した。

「うう、セプター」

セプターの苦労もいざ知らず、村崎は寝苦しそうに呻いた。セプターは焦って駆けるが、俯いて歩くサラリーマンの太腿を左側の車輪が巻き込んで擦った。

「申し訳ない」

セプターは足を止めずに後ろを向いて平謝りした。サラリーマンは無言で睨みを利かして、車輪の跡が付いた太腿を気にしながら歩き出した。

鼻歌を鳴らせて虚空を見上げていた海野は、後ろを向いて不注意に駆けてくるセプターと正面衝突した。

両者は突然の衝撃に堪え切れず左右に弾け飛んだ。車椅子に乗っていた村崎の体は宙を舞って安全に着地した。左側の車輪がぐら付き、外れそうになったが何とか持ち堪えたようだ。

セプターは頭を押さえて体を跳ね起こした。村崎の容態を心配して駆け寄り、怪我を負っていないか全身を隈なく調べた。

「大丈夫みたいだ。良かったな、村崎」

セプターは安心して車椅子を再び押した。セプターに全幅の信頼を置いているのか、村崎は呻き声を上げるが目を覚まさず安眠していた。

「あ、ああああ。俺の封筒、何処いった」

貴重品を落とした海野が悲痛に叫んだ。セプターは擦れ違いそうになった海野を認めて顔を強張らせた。村崎を攫っていきそうな海野に対する極大の嫉妬心が胸の内で煮え繰り返る。

「海野、こんなところで何をしている。地面に這い蹲る地味な仕事にでも就いたのか」

セプターは棘のある口調で声を掛けた。四つん這いになってひび割れた裂け目の隙間を覗き見ていた海野は顔を上げた。

「村崎君。それにお前、確かセプターとかいったな。俺にぶつかったのはお前か。お前なんだな」

海野は石ころを右拳に握り込んで怒気を荒げた。セプターは訳も分からず理不尽な怒りをぶつけてくる海野を軽蔑した。

「何を言っている。私はぶつかってなどいない。村崎を家に送る用事があるから忙しいんだ。じゃあな」

セプターは車椅子に手を掛け先を急いだ。海野は憎悪に燃え滾り、怒りに任せて背後から左腕を伸ばしてセプターの肩を捕まえた。十数人のサラリーマンが遠巻きに見守る中で、海野は女性であるセプターの美貌に容赦のない右拳を見舞う。

「おっと」

攻撃を察知したセプターは車椅子から手を離して、海野の拳を片手で容易く受け止めた。石が握られた堅い拳を離さず並外れた握力で圧迫する。グキリと手の甲の骨が鈍い軋みを上げた。

「がああ、離せよ。お前が悪いんだろ。俺の金をお前が」

海野は腕を走り抜ける激痛に片膝を着いて、冷酷に拳を握り潰そうとするセプターを見上げた。セプターはここぞと言わんばかりに海野を苦しめる愉悦に浸っていた。

「さっきから何の話をしてるのか知らないが、暴力はよくないよ海野。村崎に当たったらどう責任を取る積もりなんだ」

セプターは目を見開いて、粉砕しそうになるまで掴んだ拳を握り潰した。海野は必死に腕を何度も叩いて悶絶した形相を浮かべた。意志力ではどうにもならない歴然とした力の差があった。

「封筒が、村崎君の母親から前払いで貰った月給をお前のせいでなくしたって言ってんだよ。早く離せよ」

海野は震えた涙声になっていた。セプターは握力を緩和させて漸く手を離した。海野は拳を押さえて地面をのた打ち回る。サラリーマンは唖然として関心を留めていたが、やがて無表情に俯いて、陸橋を渡り出した。

「村崎の母に雇われたのか。何の仕事だ。答えろ海野」

セプターは海野の腕を引っ張り起こした。海野は鼻息を荒げて肩で呼吸をしていた。怒りを露にした形相で負傷した右手をポケットに差し入れた。

「月々四十万で村崎君の父親代わりをやることになった。といっても、ヘルパーみたいなもんだけどな。お前の話も聞いたよ。村崎君に気に入られているそうじゃないか。だがな、俺の給料をなくしたことは許さない。弁償してもらうからな」

受け入れ難い言葉にセプターは顔を蒼白させ、寝息を立てる村崎の顔を見下ろした。

「村崎が欲しがったのか。社員食堂で話したあの時に、父親が欲しいと言われたのか」

セプターは複雑な感情に苛まれ、悲しげな目で村崎をじっと見詰めていた。

「そうだ。村崎君本人が言っていた。お前に今まで余計な苦労をかけさせてきたから、休ませてあげたい気持ちもあるんだと思うぜ。父親が欲しかったというのは本音だろうがな」

禁じられていた筈の台詞を海野はさらりと開けかした。セプターの心境を見透かしての温情だったのだろう。

「そうか、ありがとう」

セプターは感謝を述べて車椅子の後に周り、ゆっくり前に押し始めた。陸橋には一組と海野しか残っていなかった。

「おい、待てよ。四十万円はきっちり返して貰うぜ。お前のせいでなくしたんだからな」

海野は思い出したように遠のいていくセプターに叫んだ。

「心配するな、今は持ち合わせがないから数日後に返す。それまで我慢してくれ」

セプターは掠れた声を張って応えた。早急に支払ってくれないと住宅ローンを返済できない海野は呆気に取られた。暫く内ポケットを弄り、地面を小まめに確認するが発見できず、長い溜息を吐いて消え入りそうに陸橋を渡った。

セプターは村崎と過ごした日々を噛み締めるように気重に踏み切りまで歩いた。規則的な機械音を鳴らして遮断が下りる。村崎が住む高層マンションは目前に迫っていた。

「う、ううん。セプター、おはよう」

村崎が眠たそうに背伸びをして起きてきた。ずれた帽子の角度を調節していたセプターは微笑して、車椅子の村崎に顔を寄せた。

「おはよう、村崎。もうすぐ家に着くぞ」

村崎はセプターの両目が充血しているのに気付き、深く考えずに疑問をそのまま口にした。

「セプター、どうして目が赤いの」

下り車線から電車が高速で走り抜け、待ちぼうけを食らう人々の聴覚を根こそぎ奪っていった。セプターは聞こえていないのか、或いは聞いていない振りをしているのか、最後尾が通り過ぎ、侵入を抑止する遮断が上がっても何も言わなかった。

「明日は晴れるそうだ。また外で遊べるな。ところで村崎、さっき何か言ったか」

セプターに送り届けられる村崎は踏切を過ぎて、高層マンションの玄関口に差し掛かっていた。

「言ったよ。明日は釣りができるといいなって言った。出来れば、海野さんとセプターと、三人で」

村崎はわざと大声で海野を交えた三人の交流を仄めかした。セプターは意外な言葉に動揺しつつ、自動ドアを開ける暗証番号を連続して押した。

「ごめんよ村崎、私は明日は用事があるんだ。海野と二人で出かけてくれ」

セプターは車椅子をエレベーターに乗せて、村崎に手を振って見送った。

「え、どうして。セプター」

村崎の驚いた問いにセプターは沈黙していた。扉がピシャリと閉まり、村崎が扉を叩く音を響かせて上昇していった。

村崎が何を考えて海野を雇ったのか真意は不明だが遊びにかまけてはいられない。今は他に優先しなければならない用事があるのだ。

「お、釣れた、釣れたよお。お父さん、何だか変なのが釣れたよ」

陸橋の下を流れる河川で釣りに興じていた息子は、大はしゃぎして釣り上げた獲物を見せびらかせた。

「ん、なんだいそれ」

息子の父親は眼鏡を掛けて、ぼやけた獲物の表面を注視した。

釣り針に吊るされたそれは水に濡れた封筒だった。中身が詰まって破れそうに膨らんでいる。

「開けてみようよ」

息子に促されて父親は中身をごっそり抜いた。約四十万円の札束が納められていた。

 

 

中天に昇った太陽が燦々と道路を照り付ける。村崎が住む高層マンションは翌日の昼下がりを疾うに迎えていた。

寝惚け眼を擦る村崎はベッドの上で悠長に寝転がっていた。母親が慣れた手付きで寝間着を脱がせて、濡れタオルで体中を拭き取る。

望んだ玩具は全て買い与えてくれる大らかな母親の寵愛を受けて、村崎は障害者である境遇を幸福に感じていた。

我侭を押し通して養護学級には通わず、自宅で家庭教師を就けて貰い、効率の良い勉強に取り組めた。常に母親かセプターが傍にいて介護してくれるので淋しさを実感する暇もなく、身体に負担を掛ける無駄な運動はしなくて済んだ。移動は車椅子で行われるので気楽なものだ。

村崎は外界で向けられる他人の哀れみを含んだ視線が、実は妬みから発生する憎悪であることを子供ながらに悟っていた。

村崎は欠伸を洩らして、壁に掛かった時計を確認した。早朝に起きる積もりが五時間以上も寝坊していた。

「もう昼じゃないか。どうなってるのお母さん。海野さんは何時に来るの。セプターもまだ来てないんだね。一体何時に来るの」

村崎は怒り心頭しながら股を広げて下着を足に通して貰った。

「海野さんはもうすぐ来るわ。セプターは分からない。結局電話が繋がらなくて」

母親は疲れた顔をしていた。村崎の要求に答えてセプターの自宅に夜通し電話を掛けていたからだ。

「駄目じゃないか、ちゃんと電話してくれなきゃ。繋がるまで掛け続けてよ。あなたは僕の母親でしょ」

村崎は見下すように母親としての責任感を問うた。

「ごめんね、終わったらすぐに掛け直すわ。繋がるまで何度でも」

母親は許しを乞い、急いで服のボタンを留めて、着替え終えた村崎の肉体を車椅子に運んだ。

ベッドに横付けされた車椅子に村崎が大儀そうに腰を下ろすと、来客を告げる呼び鈴が鳴らされた。母親は汗に濡れた顔をタオルで拭いて玄関に走っていった。

母親が扉を開けると、堅苦しいスーツで決め込んだ海野が緊張して立ち疎んでいた。金策に走っていたのか、目の下に隈を作って愛想笑いをしている。

「ささ、どうぞおあがり下さい」

母親に促されて海野は遠慮なく村崎の部屋に入ってきた。母親はリビングで受話器を手に取り、熱心にセプター宅の電話番号を打ち込んでいる。

車椅子に背を預ける村崎は遅れて到着した海野を恨みがましく見据えた。

「海野さん、ちゃんと朝には来てって言ったよね。あなたは僕の父親なんだから、自覚して貰わないと困るよ」

海野は申し訳なさそうに頭を下げた。

「ごめんね村崎君、ちょっと立て込んでて釣り道具とかを揃えるのに時間がかかったんだ。外の車に積んでるから急いで行こうか」

村崎は海野の見苦しい言い訳に唇を尖らせた。

「まだ駄目だよ。セプターが着てないんだから。お母さん、セプターに電話繋がったあ」

村崎は大声で叫んで襖を隔てた母親の耳に届かせた。母親は難航しているような台詞を返してリダイヤルを押し続けていた。

海野は機嫌を損ねた村崎の顔色を窺い、どう対処すべきか思索を張り巡らせた。

「あの、村崎君、ここでじっとしてても仕方ないし先に釣りに行こうよ。セプターさんだったかな、彼女を待ってたって来ないかもしれないし」

不在の理由を知った風な海野の口振りに、村崎は昨日のセプターの様子を思い起こした。

「そういえば、僕にも用事があるとか言ってたね。海野さん何か知ってるの。セプターはどうして来れないの」

「いや、それはその」

海野を雇ったから介護に来る必要がなくなったのではないかとは言えなかった。それも海野の憶測に過ぎず、無償の愛を尽くしてきた親友のセプターが訪ねて来ない明確な動機など、知り合ったばかりの日の浅い海野には知る由もない。

海野にとって重要なのは与えられた務めを全うして収入を得ることだった。

「分かったよ」

村崎は口籠った海野より先に結論を出した。

「セプターはいつだってそうだ。僕を中心に行動してくれた。それは今日だって変わらない筈だ。何かとんでもないことを企んでいるんだよ。うん、きっとそうだよ」

村崎は自分に言い聞かせて不安を払拭していた。いつも身近にいてくれた筈のセプターの存在が懸け離れるなど到底考えられなかった。

自己を励ましながらも重苦しい空気が張り詰めた村崎の部屋に、電話連絡を断念した母親が入ってきた。襖から篭もれ出た村崎の納得した言葉に安堵して、砕けた笑顔を振り撒いていた。

「釣りに行ってきたらどう。その内、セプターは来てくれるわよ。あなたがそう望んでいるんだから」

母親は諭すように村崎の肩を叩いた。海野もまた仕事に取り掛かりたい一心から、真摯な眼差しで強く外出を訴えかけていた。

村崎は目にうっすらと湛えた涙を拭って小さく頷いた。

「セプターが先に着いて待ってるかもしれない。早く行こう海野さん」

「分かった」

海野は勢いよく腰を上げて、村崎の車椅子の裏手に回った。

「海野さん、息子をよろしくお願いしますね」

海野は玄関口で母親が薬箱から取り出した常備薬を幾つか預かり、一礼を交わして高層マンションのロビーまで下りていった。

海野は早足で駐車禁止を設けられた道沿いに停車されていたワゴン車の後部座席に車椅子を運び、抱え上げた村崎を助手席に乗せて、運転席に乗り込んだ海野は陸橋の下を流れる川原に向けて車を発進させた。前日から段取りを練っていた海野は初仕事ながら見事な手際を発揮していた。

「ところで海野さん、釣りしたことあるの」

村崎は曲がり角に建てられた熱帯魚屋を眺めて尋ねた。目的地に到着するまで、たった一言しか会話を交わさなかった。

「いや、ないよ。やりながら覚えるさ」

海野は踏切を見ながらきっぱりと言い除けた。村崎は失意の念に顔を曇らせ、窓ガラスに淡い吐息を拭き掛けた。

 

 

村崎が早朝の釣りに胸を膨らませて就寝していた同日の深夜三時。

村崎の住まいである高層マンションから数十キロ離れた地点にある私娼街では、酔いどれたサラリーマンに高額で性を売り捌いて歩く女子高生の嬌声が飛び交い、電球を至る所に填め込んだ煌びやかな看板が店先に軒並み続いていた。ぼったくりなどの悪質な詐欺が頻繁に行われ、警察も手を拱く危険区域として週刊誌にも取り上げられる有名な盛り場だった。

そんな怪しくも華やかな街をホテルの一室から見下ろす膨よかな男がいた。

男は刻一刻と高まる興奮を抑えきれず、卑猥な妄想を繰り広げて口から涎を滴らせていた。街頭で受け取ったティッシュの裏面に記載されていたデリバリーへルズに電話を掛けたからであろう。

妄想だけでは我慢できず、遂に落ち着きなく部屋中を歩き回った。クローゼットを開けるとバスローブが干されていたので袖を通した。鏡台で身形を確かめると意外に似合っていた。小型の冷蔵庫には高級なシャンパンが収められていたのでグラスに注いで口にした。それでも注文した女は一向に届かなかった。

細かい注文を付け過ぎたのが不味かったのだろうか、電話を掛けてから既に二時間が経過していた。チェンジは三回まで可能な筈だから、店側も取り分け美人を厳選して派遣させる下手な商売は打たないだろう。待機中の不自由な女でも送ってこれば済む話だ。ならば、どんな事態が発生して未だに来ないというのか。

男は不安を募らせ、騙されたのかと店側の経営を勘繰った。柔らかな感触のベッドに飛び乗って枕を無闇に殴り付ける。

「ニ万五千円のフルコースだったんだぞ。畜生、せっかく出張で羽が伸ばせると思ったのに」

男はこの世の終わりを迎えたかのように絶望して頭を抱えた。恐妻から解放された念願の出張に賭けた想いは独身男性には理解し得ない並々ならぬものがあった。

男が半ば諦めて部屋の電気を落とそうとすると、女性の声と供に部屋の扉を叩く音が響いてきた。

「遅れて申し訳ない。何分、不慣れな街なので道に迷ってしまったんだ」

男は跳び上がりそうな歓喜を堪えて扉の鍵を内側から外した。

扉の向こうに現れた女性は、注文通りの清楚で愛する旦那に貞操を生涯貫きそうな短髪の女性とは異なる威風堂々とした面持ちで男を無表情に見据えていた。個性的な美貌は男の嗜好する清楚な匂いを微かに香らせるが、短髪ではなく後頭部で縛られた長髪が背後に垂れ流されている。二重の瞳は底知れぬ金欲に飢えた亡者のそれを放ち、激しい運動を終えた後のように汗が沁み込んだ軽装は顧客と本番を開始するには不十分な対応の悪さを露呈していた。

凡そ性欲の捌け口に選ばれないであろう奇特な女は、海野が無くした四十万円を返済する目的で風俗店に鳴り物入りしたセプターであった。

「入っていいか」

セプターは返答を待たずに部屋に侵入した。浴槽の扉を無造作に開けてシャワーを浴び始める。

男はセプターの客を無視した取り留めのない行動に呆然としていたが、取り敢えず暴れ狂って乱れたシーツを元通りに直した。

男は要望とは随分違う端正な顔立ちだけが救いのセプターに妥協して、股間を弄りシャワーを体中に浴びるセプターの姿を想像した。金を無駄に捨てないよう先に性欲を処理していた。

股間から這い上がる刺激に男は至福の笑みを浮かべた。思わず善がり声が口から洩れる。

「う、うう。もうすぐだ、もうすぐだ」

男はシーツに股間を擦り付けて腰を小刻みに振った。

「待たせたな」

セプターが早くも浴槽から出てきた。濡れた長髪にタオルを巻き付けた以外は素っ裸で豊満な肉体を曝け出していた。

男は顔を赤面させて慌てて体勢を正座に入れ替え、自慰に没頭していた哀れもない姿を目撃された残酷な事実に胸を痛めた。

セプターは首を傾げて迷わず男の傍に熟れた桃尻を沈ませた。男の胸が早鐘を撞くように高鳴り、張り裂けそうな心臓に手を当ててゆっくり息を整えた。

「ふう、はあ、ねえ、君の源氏名はなんていうのかな」

男は横目でちらりと髪を拭き取るセプターの膨れた胸を眺めた。

「源氏名、何だそれは。私はセプターという奴だ」

セプターは出勤前に命名された綽名を忘れていた。

「セプターちゃんか、変わった名前だね」

男はセプターの乳房に触れようと震えた手を忍ばせる。セプターは乳房に指先を掠めさせる男の手首を掴み、自ら乳房を揉みしだかせた。

「胸の感触を堪能したいならそのまま手を添えておけ。すぐ終わるからな」

セプターは男の手首を乳房に固定したまま、男のバスローブを開けさせた。肥大した男の腹が露になり、絶頂に達した固いものは今にも暴発しそうに反り返っていた。

「随分、積極的だね。何処かで体験したような」

男は羞恥に頬を紅潮させず、黙々と作業を進めるセプターに恐妻の面影を重ね合わせていた。

セプターは垂れた前髪を背後に追いやって、白濁汁が薄い膜を張った亀頭の先端をちろちろ舐め、舌に滑らせ咽喉まで咥え込んだ。

「うお、これはこれは、ちょっと、ちょっと」

男はセプターの後頭部を押さえて呻き声を上げた。

セプターは口を窄めて迅速に奉仕を行い、男の精巣に溜まった白濁汁を搾り取ろうと躍起になっていた。

男が性器を猛烈に刺激される快楽に頬を緩めていき、女房に戒律を定められ、門外不出だった有りっ丈の我慢汁を射出した。

セプターは目を細めて、亀頭の穿孔から飛び出す断続的な散弾をゴクリと喉を鳴らして呑んでいく。

「あ、ああ、何て勿体無い。もう出してしまった」

性欲処理が間に合わなかったせいで早漏の惨事を招いてしまった。男は深い後悔の念に苛まれた。

セプターは口内に溜め込んだ呑み切れない膨大な精子の苦味に堪え切れず、滅多に見せない苦悶に満ちた表情で手の平の器に全部吐き出した。

男はセプターの表情の変化を目の端で捉えていた。まるで頑なに受け入れを拒否した絶世の美人を征服したような悦楽が胸に込み上げてくる。セプターは男に穢された証明である精液を口から滴らせていた。

「やっと終わったな。料金は二万五千円になる。急いでいるので早く払ってくれ」

セプターは濡れタオルで上品に精液を拭った。男は聞き捨てならない台詞に顔をしかめて、怪訝そうに訊いてみた。

「何が終わったのかな。確か注文したのはフルコースだったよね。もしかして五千円コースと勘違いしてたのかい。それとも巷で噂のぼったくりなわけ」

「フルコースとはなんだ。すまないが新人なので接客のマニュアルは詳しく読んでいない。さっき受け持った客はこれだけで済んだのが」

セプターは正直に話した。男は性交渉に関して知恵遅れそうな女を眺めて唸った。詐欺行為に加担していないか言及するだけ無駄だろうと悟っていた。

「悪いが私は急いで金を稼ぐ必要がある。他にしたいことがあるなら早く言ってくれ」

男は要求を急かすセプターの黒い芝生に覆われた股間を凝視した。真剣に悩むまでもない取るに足らない愚問だ。

「そうだね。セプターちゃんとひとつになれれば死んでも本望かな。僕の望み、叶えてくれませんか」

男は薄気味悪い笑みを口元に張り付かせた。セプターは従順に首を縦に振ってベッドに仰向けになり、足首を掴んで大股を広げた。陰毛の合間を縦に縫っていた裂け目が開いて、淫らな触手が膣内に突起した滑らかな断面を露にした。

「早く犯してくれ。私は恐らくあなたの想像以上に急を要している」

セプターは真顔で秘部に指を差し入れ、男の固いものを包み込み易いよう押し広げた。膣内の壁に接触した指先が滑って糸を繋げている。

男は多量に発汗する膨れた腹をシーツに擦らせにじり寄る。セプターが天井の電球が放つ閃光に数度瞬きすると、男は両足を肩に架るぐらい掲げて、物怖じしない氷の美貌を上から見下ろしていた。

「君は落ち着いてるね。まだ若いのに苦労してきたのかな」

男は語りかけながら唇を重ね合わせた。掴んだ両足を離さず勃起した男根の先端が裂け目に挿入された。

セプターは首を起こして舌を絡ませていった。軟体な両足はシーツに沈み込むほど曲がっていた。

男が唾液を口内に注いで唇を引き剥がした。

「私は苦労などしていない。如何に快楽を味わって生きるかを模索する探求者だ。楽なものだろ」

セプターは唾液漬けの舌を虚空で振り回して引っ込めた。男はセプターの冷たい顔に身の毛がよだった。快楽を貪欲に求める危うい女の生態を一度でいいから見物してみたい。

男はその願望を性交渉で憂さ晴らす決意を固めた。右手をセプターの左手と握り合わせ、左手をセプターの右手と握り合わせた。

男は腰を沈ませた。裂け目を剥き出しの穂先が貫通して、根元まで押し入った。

男はセプターが零した笑みを見逃さず、達成感に酔った顔で腰を震動させた。シーツが酷くずれて、空気が淫猥に震えた。

木製のベッドは淫猥な悲鳴を軋みに変えて善がり倒した。

「いくら欲しい。君はいくらあれば満ち足りるの。僕が全額面倒見てあげるよ」

男は健気に犯されるセプターが愛しくなっていた。男根が擦れる悦楽も相俟って、どんな要求にも答えられそうな成金の気分に浸っていた。

セプターは身悶えせず、目を瞑って性行為に耐え忍ぶ。頬に滲んだ汗は疲弊の色を窺わせる。全身に滝汗を滴らせる男は腰を振る単純な作業に恐妻との思い出が消し飛び、頭の中は繁殖行為を繰り返す生物の本能に潜伏されていた。

男は弱った腰を奮い立たせて振り続けた。セプターは喘ぎ声は上げないものの、両足で男の肉体を挟み込んでいた。

「私は人に貸しは作りたくない。今だってそのために金を稼いでいるんだ。本当の快楽とは心に一切の疑念や蟠りがない、空っぽの状態に置いて初めて実感できるものだ」

セプターは独自の持論を揺るがぬ完全な形に昇華させていた。海野の出現によって雑念が混じった心は、セプターの言う空っぽの精神状態には及ばず、今のセプターは快楽を存分に堪能できない不完全な生き物だと確信していた。

男はセプターの奇妙な講釈に性欲の熱を冷まして、勃起した性器に篭もった力を無意識に緩めた。男の抑え付けていた内容物が爆発して膣内に注ぎ込まれた。ビクビク跳ねては脈打つ固いものが割れ目から滑るように飛び出てきた。

「あっ、出ちゃった」

男は恐る恐る揺れ動く固いものに触れた。

セプターは安堵の溜息を付いて、寝転んだ体を起こした。ティッシュに手を伸ばして男に抜き取った数枚を手渡した。

男は避妊具を使用せずに射精した罪悪感に苛まれ、火照っていた顔は見る見る内に血の気が引いていった。

「ご、ごめん。悪気はなかったんだ。すっかり忘れてたんだ。決して妊娠させてやろうとかやましい考えはこれっぽちもなかったんだよ」

男は動揺して大袈裟に身振り手振りを交え、如何に清らかな性交渉を望んでいたのかを表した。

セプターは煩く喚き立てる男を一瞥して、陰毛に付着した粘液を拭き取り終えてから言った。

「私は強姦される可能性を危惧して、俗にピルと呼ばれる経口避妊薬を常用している。妊娠させられては快楽どころではないからな。ゴム無しでやれて良かったな。あなたは気持ち良かったろ」

セプターは狼狽する男を嘲笑った。独りだけ性交渉に快楽を見出していた妬みを込めて。

「そうだったのか、すまない。うっかりしてた」

男は懺悔するように項垂れて、精液の沁みが点々と付着したシーツを静かに拭き出した。セプターは慰めに男の肩を叩き、帰り支度を整えるために、浴槽の扉を開けて再びシャワーを浴び始めた。

やがて、セプターが衣服を纏って部屋に戻った。バスローブを羽織り直した男は財布を持って扉の前で待機していた。

「今日は本当にありがとう。出張のいい思い出になったよ。これ、少ないけど」

男は財布から無造作に札束を抜き出した。目算できない分厚い束をセプターの手に握らせる。

セプターは鋭い目付きで男を睨み付けた。料金分の三枚だけを抜き取り男に突き返した。

「貸しは嫌だと言った筈だ。あなたは私の話を忘れたのか。ほれ、釣りだ」

セプターは釣銭の札を渡した。男は悲愴めいた顔付きで返された札束を差し出した。

「やっぱり、慰謝料と思って受け取ってくれないか。気が済まないんだ。私も空っぽの状態になりたいんだよ」

男が小娘の戯言を引用するのでセプターは拭き出し、ゆっくり男から視線を外して、棚の上に祀られた額縁を見た。

男は釣られて額縁に振り返った。額縁には恐妻と慄く女房と二人で撮られた写真が納まっていた。結婚前に撮られた妻は夫の首に腕を回して無垢に笑っていた。すっかり垢抜けた現在の傲慢さは欠片も見受けられない、当時の清廉潔白で淑やかな女性だった。

セプターは見透かしたように男の胸を叩き、札束をローブの内側に収めた。

「空っぽにしたいなら、あの女性と仲良くすればどうだ。セックスの最中、あなたは若干抵抗していた節があったからな」

セプターは男に助言を託して玄関に歩いていき、ドアノブに手をかけた。

男は妻との懐かしい記憶を蘇らせた。淑やかな妻を変貌させた直接の要因は性欲に溺れて風俗店を梯子した自堕落な亭主のせいだった。

男は寂しげに天井を見上げた。自責の念に駆られて所業を積み重ねた自分の存在を抹消してしまいたくなった。

「教えてくれ、君はどんな時に尤も快楽を感じるんだ。尤も好きな人と交わった時か。疎遠になった妻との関係を修復すれば、私は本当の快楽を見出せるのか」

男は誰もいない部屋で叫んだ。閉じた扉は自動で鍵が掛けられていた。

「私は今のところ、村崎という男と一緒に過ごす時間が尤も快楽を感じる。あなたのことは知らないが、人生を共有する相棒との仲が良ければ、それなりに楽しくなるんじゃないか」

セピターが扉の前で応えた。疲れた体をドアに預けて一旦休憩していた。

「そうか、そうだよな」

男は納得させられてベッドに戻っていき、棚に置いた額縁を手に取った。

セプターは深呼吸を数回繰り返して、別れを告げずに次の仕事場へと去っていった。

部屋に残された男は額縁を胸に抱き留めた。頭の中で妄想を膨らませ、関係を修復した設定の妻との性交渉を過激に演出していた。

 

 

海野は全身全霊を込めて釣竿を振り被り、目の前で流れる幅広の川に投擲を繰り返した。糸が高く飛び過ぎて、鉄製の疑似餌が何回も高度の低い陸橋を強打していた。

車椅子に乗った村崎は学習能力の無い海野に呆れて勝手に釣りを開始していた。手首を利かせて狙った箇所に釣り糸を垂らしている。釣り名人のセプターに伝授された業だ。

陸橋の真下にある川原は絶好の釣り場だが、大半の人手は離れた位置で釣りに励んでいた。天井まで二メートルほどの高さしかないので釣竿が容易に振れないからだろう。現に海野は釣竿を構えるだけで陸橋を擦りそうになっていた。

村崎は腕を左右に振ろうとする獲物の食い付きに反応して引きを合わせた。腕を軽くニ、三回引っ張り上げると小魚が水面から跳び上がった。

「うわ、上手いね」

感嘆を洩らした海野は傾斜になっている土手を登って、陸橋に引っ掛かった疑似餌の針を外していた。河豚型の疑似餌から枝分かれした三つの針が錆びた陸橋の隙間に刺さって抜けない。

村崎は海野の見苦しい醜態を気に留めず、腕を優雅に左右に振って小魚を限界まで疲れさせた。確実に仕留められる頃合を熟練の勘で見極め、腕を一気に後方に引いた。

細い糸が水面を断ち切って、疑似餌の針に口内を貫通された小魚が飛んできた。村崎は左腕を伸ばして魚の胴体を掴んだ。

「お父さん、見て見て、こんな魚が釣れたよ」

村崎はにこやかに笑って活きよく全身をビチビチ震わせる魚を見せ付けた。痛々しく刺さった釣り針を外してあげ、車椅子の傍に置いたバケツの中に魚を落とす。水に潜った魚はエラ呼吸を取り戻して小さなバケツの中を悠々と泳いでいた。

「凄いな村崎君、おじさん、釣りがこんなに難しいとは思わなかったよ」

海野は照れ臭そうに頭を掻いて戻ってきた。釣竿の先端に巻き付いていた疑似餌は失われていた。結局、取り外せずに釣り糸を断ち切ったようだ。

村崎は釣果をもっと見て欲しくて片手でバケツを持ち上げ、穴が開いた側を海野に見せ付けた。余った右手で浅く手首を曲げ、疑似餌を遠くの地点に投擲する。

「アユだっけこれ。あんまり魚の名前詳しくないなあ。料理は嫁さんにまかせっきりだし」

村崎は顔をしかめてバケツを落とした。着地の衝撃で少量の水滴が撥ね、海野のスーツに襲い掛かった。

「お父さん、これは魚って言うんだよ。魚の名前なんて考える必要はないんだ。釣り針が掛かった魚は苦しんで死に絶えるんだから」

村崎は気だるそうに常識を説明した。腕を左右に振って疑似餌の毒牙に掛かった獲物を水中で残酷に遊ばせている。村崎は魚を釣り上げるまでの過程を引き伸ばして無理に堪能しようとしている様子だった。

海野は虚ろな瞳で釣り針の波紋を追いかける村崎の心境を察した。この場に要るべきセプターが欠けているから退屈しているのだろう。

「村崎君、おじさん車に戻って予備のルアーを取ってくるね。陸橋に持ってかれちゃったからさ」

村崎は首だけ動かして了承した。海野は釣竿を地面に置いて後ろめたそうに傾斜を登っていった。

海野が土手を駆け上がると踏切まで直線の道路が続いていた。海野は動悸に胸を押さえながら踏切手前にある駐車場まで走っていく。息を切らして老婆が受付を務める改札を抜け、ワゴン車の後部の鍵を開けた。

海野が急いで釣り道具の箱を弄ると、スーツの内側に収めた携帯電話が愉快な音楽を奏でた。

「ち、何の用だよ」

海野は苛立ちを募らせて電話を取った。

「もしもし、海野か。私だ、セプターだ。どうだ、村崎の様子は」

声の主は、確かに聞き覚えのあるセプターの声だった。海野の弱った心臓が張り裂けそうな恐慌に陥った。連絡先は伝えていない筈なのにどうして電話番号を把握している。海野は唇を動かして意味不明な声を上げた。

「約束の四十万は明日には返せると思う。高収入のバイトを見付けたからな。村崎に暫くすれば必ず会えると言付けを頼まれてくれないか。その時まで、村崎が私に会う気があればの話だが」

セプターは主導権を握って一方的に話していた。海野の奇声は全て無視しているようだ。

「お、おい、そんなことよりどうしてお前が俺の電話番号を知っている」

海野は人心地を取り戻して、やっと肝心な言葉を作り出せた。

「海野の元同僚の満田という男から聞いたからだ。偶然、出会う機会があってな。これも何かの縁かもしれないな。それじゃあ海野、村崎をよろしく頼む。あいつは体が弱いから傍にいてやれよ」

セプターは寂しげに呟いて、電話を切ろうとした。

「待て、お前の連絡先を教えろ。一体何処から掛けてるんだ。村崎君はお前に会いたがってるんだぞ、何を企んでいるのか知らないが急にいなくなるなんて可哀想じゃないか」

海野は怒鳴り声で制した。セプターは歓喜に打ち震えているのか、暫く返事を返さなかった。

「ここは公衆電話だ。生憎だが文明の利器には無頓着なので携帯できる電話は持っていない。小銭が尽きるからもう切るぞ」

海野は怒りの形相を浮かべて耳を澄ました。セプターの言う通り小銭が連続で投下される高い音が聞こえた。大通りの道沿いに設置されているのか、女性のふしだらな会話と高速で駆け抜けるバイクが暴走しているような鳴り物の音が混ざっている。

海野は眉間に皺を寄せた。セプターが村崎を捨てて遊び呆けているのかと勘繰った。

「お前、遊んでるのか。バイトを見付けたとか言ってたが、それは村崎君に会えない言い訳の積もりだろ。おい、正直に答えろよ、おい」

海野が胸に蟠る本音を吐き出した。燃料の切れた公衆電話はブツリと切れて返事はなかった。セプターの耳に海野の言及は届いていたのだろうか。

海野は行方を晦ましたセプターの行動に確信めいた疑心暗鬼を覚えた。確証を得るために苦楽を供にしてきた同僚の満田に電話を掛ける。

「おい、満田。お前セプターとか言う女に俺の番号教えただろ。まさか金を返さなかったことをまだ根に持ってんのか。調子乗ってんじゃねえぞ」

海野は蓄積された怒りを消化できずにぶつけていた。

「お、おお。教えたよ。やっぱりお前もあの子にして貰ったの。いい子だよなあ、こっちの言うことは何でも聞いてくれるし、綺麗だし。教えちゃまずかったのか、てっきり知り合いだったのかと思ったよ」

海野は訳の分からない満田の妄言に怒りを増幅させた。

「お前、何の話をしてるんだ。あいつに何をして貰ったって」

満田は無粋な質問に高笑いした。当然のような口振りで小声で囁き出す。

「何って、あれだよ。あれ。セックスに決まってるだろ。お前もして貰ったんだろ、このスケべ」

想像を絶する満田の言葉に、携帯を握る海野の手が小刻みに震えた。

「セックスだと。そうか、あいつやっぱり」

「いいよなあ、あれで二万円な」

満田が何か言いかけたが、海野は失望して電話を切った。これ以上、セプターの愚行を聞くに堪えなかった。

海野は予備の疑似餌を携えて川原に引き返していった。

道すがら、海野は第一線の新聞記者として働いていた盛時に培った洞察力を活かして状況を分析してみた。印象に残った情報を整理して再構築していく。

恐らくセプターは淫乱で村崎君に隠れて度々男を跨ぎ歩いていた。そう考えれば、昨日、新聞社を訪れた理由が傷心した手頃な社員を探すためだと推測できる。性欲に飢えた単純馬鹿の満田を引っ掛けて、女房が健在な俺にまで襲い掛かる積もりだったんだろう。バイトを見付けたと言っていたのは俺の気を惹くためだろうか、どんな意図があるにしても、やはり見苦しい言い逃れに過ぎない。

無情な世間を知らない箱入り息子の村崎君なら口車に乗せられたんだろうが、俺はそう簡単には攻略できない。

「あ、遅かったねお父さん。ほら、もうこんなに釣れたよ」

村崎は順調に釣り上げたバケツ一杯の魚を帰ってきた海野に披露した。

海野は無言で立ち疎み、セプターの登場を心待ちにする村崎を哀れに見下ろしていた。釣竿を拾い上げて予備の疑似餌を先端に装着する。

村崎は持ち上げたバケツを静かに置いた。顔を強張らせて釣竿を振り被る仁王のような海野に畏怖していた。

「くそ、世の中は間違ってる。どうしてあんな奴がこんな可哀想な子に付き纏ってんだ」

海野は行き場の無い怒りを晴らすように様にならない投擲を行った。釣竿から解き放たれた疑似餌は勢いが付き過ぎ、陸橋の壁に阻まれ地面に叩き落された。

村崎は海野に気付かれぬよう、リールを巻き上げて疑似餌に食い付いた魚を手繰り寄せた。怯えた視線を海野から外さない。

海野は釣竿を地面に投げ捨てて暫く葛藤していた。釣った魚をバケツに回収している村崎に歩み寄り、隣に腰を下ろす。

「村崎君、セプターから電話があったよ」

海野が小さく呟いた。バケツの中に目を落としていた村崎は顔を上げた。

「ほんと、ほんとにセプターから連絡があったの」

村崎は頭にしがみ付いていた海野への恐怖を忘れ、車椅子から身を乗り出して迫った。

「ああ、ほんとだよ。それでね、セプターは昨日から村崎君のことが大嫌いになったんだって。もう村崎のことは忘れて遠くに行くから、村崎にさよならと伝えてくれって言ってたよ」

海野は精一杯の思い遣りを込めて残酷な言葉を突き付けた。長考の末にセプターの存在を忘却すれば、村崎の傷口は広がらずに済むとの結論を導いていた。

村崎は顔を凍り付かせ、やがて海野を抉るように睨み付けた。

「嘘だ、お父さんの嘘つき、セプターは僕を置いていかないよ。絶対に嫌いになんてならないよ。僕達はここで親友になろうと誓ったんだ。例え死が二人を別つとも、ずっと僕達は友達だって誓ったんだよ」

村崎は断固否定していたが、若しもが怖くて目に涙を湛え始めた。海野は罪悪感に胸を軋ませながら辛抱強く耐えた。

「頼む、分かってくれ。これは事実なんだ。セプターは君のことなんてちっとも考えていない悪い奴だったんだ。何を考えて君に近付いたのかは分からないが奴は君を欺いて生きていたんだ。俺は心を鬼にしてはっきり言うよ。あいつのことは忘れろ。君には俺がいる。これからは俺が代わりに守ってやる。だから」

真相を結論付けた海野は村崎を救いたい一心で続けた。村崎は涙が溢れる片目を押さえて海野の服の裾を掴んだ。

「そんなの嫌だ。いくらお父さんの言うことでも信じられないよ。セプターに直接会って確かめたい。ねえ、お父さん、セプターは何処にいるの、教えてよ。今すぐ会いに行こうよ」

説得も叶わず、村崎は父親に据えた海野の言葉より、長年連れ添ったセプターを信じていた。濁りのない純真な眼差しが追い打ちをかけ、海野はセプターへの憎悪を極限まで膨らませる。

「君は洗脳されているんだ。だから奴のことを簡単に信用してしまうんだ。現にあいつはここにいない。君を捨てて遊び呆けているんだぞ。これは紛れもない事実なんだ。いい加減、目を覚ませ」

海野は激情に駆られて思わず怒鳴り立てた。

「違う。僕は洗脳されてなんかいない。証拠でもあるっていうの。それにセプターに会えば全て分かることだろ。お父さん、僕をセプターのところへ連れて行ってよ。今すぐに」

村崎は怯まず涙に崩れた顔で気丈に言い放った。海野は意志を曲げない村崎の頑固さに気圧され、仕方なしに要件を呑んだ。

「それで君の気が済むなら付き合うよ。ただし、何処にいるのかは分からないよ。場所は伝えなかったしね。あいつの自宅に行って待つかい」

海野が苛々した声で問いかけた。村崎は協力してくれるらしい海野に微笑んだが、彼女の自宅と聞いて顔を曇らせた。

「僕、セプターの家は知らないんだ。電話番号は教えて貰ったけど、何処に住んでるかは知らない。窓から眺めれる景色に飽きるから、よく引越しするんだって」

村崎の意外な告白を海野は素直に受け入れた。自宅を突き止められると都合が悪いからではないかと直感していた。

「そうか、なら仕方ないな。こうなったら新聞社の連中に協力を要請して探し出すか。目撃情報があれば連絡を寄越すようにする。可能性は低いが俺に心当たりのある場所があるから、俺と村崎君はそこに向かおうか」

「うん、ありがとうお父さん」

海野は腰を上げて二本の釣竿を束ねて左肩に掛けた。十匹を越える魚が泳ぐバケツは村崎の膝元に置き、車椅子を押して土手の傾斜を登って行く。

「お父さん、あんまりセプターを悪く言うのはやめてね。仲良くしてくれなきゃ、僕が困るよ」

車椅子が駐車場の改札を抜けた辺りで村崎が言った。久遠に思いを馳せる淡い希望に満ちた表情。

「俺とあいつが。冗談だろ。悪いが仲良くする気はない。おじさんは確信を持ってあいつを悪い奴だと疑ってるからね」

海野はワゴン車の後部を開けて釣り道具一式と車椅子を収納した。バケツで泳いでいた魚はクーラーボックスに移し替えられる。

海野の両腕に村崎の肉体を抱きかかえて助手席のドアを開けた。助手席に坐らされた村崎は残念そうに俯いていたが、野心に燃える瞳は色褪せていなかった。

海野は運転席のドアを閉めて、エンジンを吹かし出した。

「ねえ、お父さん、そろそろ新しいお嫁さんが欲しくない」

村崎は横目で海野を見ながら心の中だけで微弱に訊ねた。再就職活動中の元同僚にセプター捜索要請の電話を掛け、車を私娼街の方角に発進させる海野には、当然聞き取れる筈がない幻想の中の小さな声だった。

 

 

海野が無心で車を飛ばして二時間は経った。田舎と都会の趣が程よく配合されていた今までの景色は、徐々に裏社会を垣間見たような陰湿で薄暗い街並みに変わっていた。スプレーで落書きされた看板に寄り掛かる女子高生が、年上であろう禿げ上がったサラリーマンと濃厚な口付けを交わしている。車の速度を落として、海野が注目した公衆電話周辺には、暴走族染みた特攻服を纏った男達が千鳥足で行進している。下着姿の娼婦が疑念を抱かずに仕事場へと走っている光景も目撃される。

車内は重い沈黙に包まれて村崎と海野は会話を交わさなかった。暗黙の了解で息を殺し、迂闊に外へは出れないと互いに顔を見合わせた。

日中の私娼街は、店が一斉に開店される深夜よりも多大な危険が至る所に潜んでいた。昼間だから安全だと高を括っていた海野は、目を覆う異様な街並みに吐き気を催して、ハンドルに顔を押し付けた。

「お父さん、引き返そうよ。こんな街にセプターがいるわけないよ」

村崎は車内に垂れ流れる異臭に鼻を摘んだ。路肩に屈みこむ特攻服の男が革靴を火鉢で炙っていた。舞い上がった黒煙がフロントガラスを覆い尽くし、暫く視界を灰色に遮っていた。

村崎に忠告されるまでもなく、海野は一刻も早く街から出ようと車を走らせていた。胃を掻き回されるような吐き気に身悶えしそうになり、虚ろに周囲を警戒を払って鈍行運転になっている。

「やはり無闇に探し回るだけ無駄かもな。もうセプターを探すのは諦めないか。恐らくあいつはこの街から電話を掛けてきたんだ。社会悪の巣窟であるこの街からな。きっとあいつもその仲間なんだよ」

海野は汚らわしい街に訪れる羽目になった恨みを込めて言った。村崎は海野の腕を掴み、持てる限りの力で爪を食い込ませた。

「セプターを悪く言わないでって言ったでしょ。セプターは違う、こんな人達と一緒にするなんて失礼だ」

村崎はセプターを完全に信用し切った真っ直ぐな瞳をしていた。海野は性欲に飢えた奇特な女を微塵も疑わない村崎の頭を疑うと同時に、セプターが巧みな話術で洗脳を施したのだと自分なりに解釈した。

「なあ、君とセプターはどういう経緯で知り合ったんだ。そもそも納得いかないんだよな。セプターという名前は日本名じゃないだろ。外国人なのかあいつは」

ふと、気になった疑問を海野は連ねて問いかけた。ゆっくり前進する車は横断歩道に差し掛かり、胡散臭い男達が赤信号を無視して通り過ぎるのを待っていた。

男達の行列は青になっても途切れなかった。海野はわざと牛歩しているのだと呆れ果てていた。

海野は痺れを切らして、いつまで経っても返答しない村崎に振り向いた。村崎は目を瞑って何やら回想に浸っていた。

「おーい、村崎君、起きてるか」

海野は微笑んで意地悪に尋ねた。村崎は含み笑いを洩らして開眼した。にっこりと海野に笑いかける。

「セプターはね、いつも川原で寂しそうにしてたんだ。釣りが上手くて周囲の人に声を掛けられていたけど、孤独で寂しい、誰か私をこの拷問から救い出してくれって嘆いてた。きっと友達がいなかったんだと思う。だから僕は思い切って声を掛けたんだ。良かったら、僕が友達になってあげるよって。そしたら、セプターはこんな風に笑ったんだ」

村崎は過去を再現してセプターの物真似をした。それは歯茎を剥き出しにした不気味な笑顔だった。海野は口元を押さえて、ぷっと拭き出した。

「あはは、それで続きは、あいつがそんな風に笑ったんだ」

海野は童心に返ったような純粋な瞳で催促した。車側の信号は赤に変わり、公衆電話周辺を行進していた男達が追い付いて、青に変わった横断歩道を安全に渡っていた。

「僕達は握手をしたんだ。そして死が二人を別つとも、ずっと心は一緒でいられますようにって契りを交わしたの。それから僕はセプターと毎日のように遊び回ってた。セプターは僕の言うことを何でも聞いてくれたよ。僕はそんなセプターが好きだし、この街にいる人ような、危ない人とは違うと思うな」

村崎は遠回しにセプターの嫌疑を晴らしていた。海野は想定していたより中身が薄い昔語りに唸り声を上げた。

「村崎君は、セプターと遊んでただけなの。彼女について何か聞いたりしなかったの。生い立ちとか、家族構成とか、趣味とか、当然聞いてるよね」

村崎はすぐさま首を横に振った。海野を見据える村崎の瞳は揺るがぬ全幅の信頼を映し出していた。

「そんなこと聞く必要ないよ。魚は魚と一緒だよ。セプターは、セプターなんだ。あの人は僕の友達で、セプターという名前を持っている。それだけで十分だよ」

村崎は無邪気に笑って見せた。海野は唖然としていたが、健気な笑顔を見ている内に笑いを誘われていたことに気付いた。海野は頬を緩ませて断続的に笑い声を篭もれ出していたのだ。懐疑心の欠片も抱いていない村崎の懐の深さに感服しているようだった。

「なるほどな、セプターはセプターか。確かにそうかもしれないな」

海野は心なしか澄み切った表情で前を向き直った。長引いた赤信号は既に青に切り替わっていた。行進していた暴走族は見受けられない。だが後続で警鐘を打ち鳴らす高級車が脅しを掛けていた。

「あん、何なんだ一体」

海野は怪訝そうにバックミラーで後方を確認した。そして海野は恐らく前方に注意を払っていた村崎と同時に目を見開いた。

ワゴン車はいつの間にか、不穏な匂いを漂わす暴力団らしき男達に取り囲まれていた。顔に憤怒を張り付かせた派手な服装の男達が車体を蹴り上げている。中には空砲を無闇に打ち鳴らして強迫する強面の男もいた。

「どの面下げて無断でわしらの界隈に入ってきとんのや。下りてこんかいボケえ」

前方から迫ってきた男がフロントガラスを何度も殴り付けた。村崎と海野は肩を疎めて青ざめた顔をしていた。余りの恐怖に声が出せない。

吉報が舞い込んできたのは丁度その時だった。海野の内ポケットに収められた携帯が愉快な音を奏でた。

「は、はい。警察ですか。お願いです。そうだと言って下さい」

電話を取った海野は震えた声で警察を求めた。電話先の主は用件を伝えようとした声を詰まらせ、強迫めいたがなり立てる集団の怒声と車体が蹴り上げられる鈍い音、更には銃声らしき固形物が爆発したような轟音を受話器から聞き取った。電話先の主は一刻を争う危険極まりない状況を即座に察した。

「恐らく車で来たんだろ。急いで車体の特徴とナンバーを教えろ。私がすぐに駆けつける」

海野は泣き喚きそうな恐慌を堪えて、救いの手を差し伸べてくれる誰か知らない相手にワゴン車の外観を説明した。男達の凶行は思いのほか捗り、フロントガラスは亀裂を生じて割れかけている。両側のドアは工具で乱暴に鍵穴を弄られ、身を守る防御壁は全て取り払われそうだった。

「分かった。黒のワゴン車だな。すぐに行く」

命綱であった電話がプツンと切れた。海野は無我夢中で折り返し電話を掛け直そうと試みたが、助手席側のドアが強引にこじ開けられ、開いた空間から伸びてきた魔の手が村崎の襟を掴まえた。

「うわあ、やだあ。お父さん助けて」

引き摺られていく村崎は踏ん張って、何とか救いを求めて手を伸ばした。

救い主に選んだ筈の海野は体を硬直させて手を差し伸ばせなかった。

障害を来した村崎の肉体は車外に攫われた。酷薄な敵意をぎらつかせた眉毛の薄い男に羽交い絞めにされ、悲鳴を叫ぶ村崎の口は塞がれた。

終わりだ。殺される。海野は死を予感してきつく目を閉じた。

「よう、兄ちゃん。許可なしに通行したら、あかんでえ」

開いた助手席から男の生易しい声が囁いた。海野は目を開けずに、ハンドルを握ったまま全身を恐怖に震わせた。

「村崎を離せ」

その数秒後、聞き覚えのある女の声が海野の耳に聞こえた。

通行料の徴収と理不尽な暴力に飢えた十人近い男が集う車外では、無造作に迫ってきた女が連中の一人の首を片手で持ち上げ締め上げていた。片腕に救い出した村崎を抱えている。

村崎は目に大粒の涙を湛えて救世主に抱き付いた。

「遅いじゃないかセプター、僕、怖かったんだからね」

獰猛な目付きで男の首を締め上げる女はセプターだった。店員に義務付けられた淫らな下着を前日から着替えていない汗に濡れた軽装で隠している。黒一色の帽子に抑え付けられた豊かな髪は肩口で切り揃えられていた。

「すまない、少々時間がかかった」

セプターは女性が振り絞れる次元を超越した膂力を発揮していた。眉毛の薄い男は身じろぎを止めて口から泡を拭出した。顔を真っ赤にして臨死状態に陥っている。

「てめえ、いつまでも調子に乗ってんじゃねえぞ」

呆然と見守っていた暴力を生業とする男達は、合図を出してセプターをぐるりと取り囲んだ。各自が懐からドスを取り出して、じりじりと輪を狭めていく。

「そいつはもういいよセプター、次はあれを何とかして」

村崎はすっかり安堵した笑みを浮かべて男達を指した。

「分かった、私に任せておけ」

セプターは臨死した男を豪快に振り被って放り投げた。人形のように放られた男は連中の一人を道連れにして風俗店の看板に直撃した。

ドスを握る男達の顔色が攻撃と撤退の選択に彷徨った。セプターは両腕で村崎を抱っこして、とろんと愉悦に目尻を下げた。

「次はどいつだ。私に勝つ自信がある奴だけかかってこいよ。さもないと、死ぬぞ」

セプターは狂気に頬を緩ませた楽しげな殺意を放った。途端に不気味な空気が辺りを包み、男達は足元から這い上がる寒気に身を竦めた。

セプターは誰一人反撃して来ない男達を見渡して、いつしか真似していた醜い笑い声を上げた。

「ゲハゲハ、私が怖いか、ならどけよ。人は自分の命が何より大事だからな。私に殺されずに済んで良かったな。ゲハゲハ、ゲハゲハ」

勝ち誇ったようにゲハゲハ高笑いするセプターの口を噤む挑戦者は存在しなかった。集団を統率する幹部の男は舌打ちを鳴らしてドスを懐に仕舞った。男の仕草を確認して、手下の若い衆もドスを仕舞う。

セプターはワゴン車に向けて歩き出した。殺意の重圧が忍び寄るにつれ、男達は恨めしそうに花道を開けた。

「畜生、今度あった時は只じゃおかねえぞ」

男の一人が捨て台詞を吐いて、縦長のリムジンに全員引き返していった。看板の傍らで気絶した二人は放置されたようだ。

セプターは表情を変えて爽快な笑顔になった。村崎は歓喜に咽び声を上げて、セプターの柔らかな肉体の感触を離さぬように抱き付いた。

「やあ、海野。元気そうだな、その分では怪我はなさそうだ」

セプターは海野が閉め直したドアを開けた。腕を解いて村崎を助手席に乗せる。

海野は安心した溜息を付いて、物言いたげにセプターを見詰めた。村崎を捨てようとしていた薄情な女が助けに来るなんて思いも寄らなかった。

「セプター、後ろに乗って。早く一緒にこんな街から抜け出そう」

村崎は後部座席に親指を立てて促した。セプターは下唇を噛み、複雑な面持ちで海野と村崎の表情を交互に見比べた。

村崎には海野という父親の役割を果たせる頼もしい友人がいる。父親になれない不出来な私は村崎に必要とされている存在なのだろうか。孤独に返る不安に締め付けられ、セプターは哀しげに目を伏せた。

「早く乗れよ。俺は、お前に言いたいことが山ほどあるんだ」

海野は声を荒げてセプターを急かした。疑念混じりの瞳は一縷の潔白を信じてセプターの本心を探っているようだった。

「セプター、帰ろう。僕たち、ずっと一緒でしょ」

セプターを誘惑する村崎の笑顔は、川原で初めて声を掛けてくれた当時の愛苦しい笑みそのものだった。

「そうだな、私は、村崎と一緒にいたい」

セプターは目深に帽子を被って小さく頷いた。

セプターが後部座席に乗り込み、海野は赤になった信号に構わず再び車を走らせた。

海野は運転に気を配りながら胸に溜め込んだ憎悪の丈をぶつけようと、バックミラーでセプターの様子を確認した。

セプターは押し黙ってガラスに体を預けていた。ただ、過ぎ去っていく歓楽街の景色を嗚咽混じりに眺めている。村崎の迎合に感涙する女性らしい脆さを見せるセプターを認めている内に、海野は心の内で燃え滾っていた憎悪と疑惑が嘘のように取り去られていくのを痛烈に感じていた。

「お父さん、セプターに言いたいことがあるんでしょ。言わなくていいの」

村崎は海野の心境を見透かして歓喜に唇の端を歪めた。

海野は横目で村崎を一瞥してハンドルを横に切った。信号の下に取り付けられた標識は故郷である地名の距離を刻んでいた。

海野はブレーキを踏み込んで路肩に車を静止させ、セプターのみそぎを自己完結させた終焉の吐息を洩らした。

「セプターはセプターなんだろ。無粋な発言は差し控えさせて貰うさ。さあ、もうすぐ着くぞ」

海野は意気揚々と声を出してアクセルを力強く踏み込んだ。

「うん、お父さん、頑張って。川原まで一直線だ」

村崎も負けじと頭上に拳を掲げて海野に声援を送った。

「ほら、セプターも泣いてないでお父さんを元気付けてあげなよ。ずっと運転してるんだよ」

目的地に猛進する車内の揺れに構わず、背後を向いた村崎は椅子の頭部に腕を絡ませてセプターを咎めた。

「私は泣いてなどいない。失礼だぞ村崎」

セプターは手の甲で懸命に涙を拭い落とし、村崎を愛憎に睨み付けた。涙に目を潤ませたその表情は、笑顔が半分含まれて奇妙な形に歪んでいた。

「お父さん、セプターが変な顔してるよ」

村崎の指摘が引き金となり、車内に笑い声が順番に飛び交った。

遥か彼方に姿を現してきた故郷の街並みは、私娼街の艶やかな煌きとは異なる柔和な闇に覆われていた。

 

 

陸橋の下を流れる川はどす黒く変色していた。本来は陸橋を照らし出す用途の街灯が僅かな光りを川面に当てている。

人気のない土手の上を疾走する薄闇と似た黒のワゴン車は側面に街灯の白光を浴び、海野は頃合を見計らって独断でスピードを緩めていく。

談笑していたセプターと村崎は会話を中断して、決意めいた海野の顔を窺った。ワゴン車は陸橋の正面で完全に停止した。

「俺はこのまま家に帰る。村崎君はセプターが家まで送ってくれ」

海野は後部座席に回った二人に言い放って車外に躍り出た。足早に後部の扉を開けて、釣り道具一式と車椅子を運び出す。

「家まで送ってくれるんじゃないの」

てっきり家まで送ってくれるのかと思い込んでいた村崎は顔をしかめた。セプターは村崎を宥めて両腕に抱きかかえた。ドアを開けて傾斜になった土手の中腹に降り立つ。

村崎を抱っこしたまま土手を登って行くと、海野が車椅子の縁を握って待っていた。左肩にクーラーボックスの紐を提げ、右肩には束ねた二本の釣竿を掛けている。

「あの、村崎君、無責任なようで悪いけど、俺、今日で仕事辞めるよ。後任はセプターが無償で引き継ぐだろうから勘弁してくれ」

海野は仲睦ましい二人を眺めて頭を下げた。セプターは承諾したように頷いて、そっと村崎を車椅子に乗せた。

「何言ってるの、お父さん」

村崎だけは突然の告白に訳が分からず顔を曇らせた。セプターは満田と朝日を拝んだ戯れの過程に海野が仕事に熱心な男だと聞かされていた。そんな海野が仕事を放棄する理由は職場に情熱を燃やせない理由があるからだ。

海野は、じっと二人の表情を窺っていた。友情を瓦解する余地を探しているようだった。

「いいな子供は。憧れてたんだ、いつか人の親になりたいって。でも、俺には村崎君の親代わりになる資格はない。セプターも、村崎君も頭が狂った奴だと疑っちまったからなあ。悪かったよ」

海野は疑念を抱いたせめてもの償いに礼儀正しく頭を下げた。

村崎は謝罪される理由が呑み込めずに首を傾げた。海野は何も語らずにセプターに釣竿とクーラーボックスを託した。

最後に車椅子を託して、海野はワゴン車に引き上げていった。村崎は解答を求めようと首を反らしてセプターを見上げた。

「心配するな。村崎のことが嫌いになったわけじゃないよ。あいつは誇り高くて、潔い負け犬だったというだけだ」

セプターは嘲笑っていた。友人はおろか父親代わりにもなれる逸材の海野を負かした歓喜だろうか。村崎は普段通りのセプターの態度に納得したような深い溜息を付いた。瞳の内に秘められていた淡い野望は脆くも霧散していった。

海野は窓を開けて、陸橋の中央を縫ってワゴン車を走らせる。村崎の顔を目に焼き付けて置こうと速度を緩めていた。

「それじゃあね。村崎君。いつか君の親になれる自信が付いたらまた俺を雇ってくれよ。本当にありがとう」

海野は手を振って別れを告げていた。村崎は泣きそうな顔で手を振り返す。

「待て、海野。約束の四十万だ。受けとれ」

セプターはポケットから抜き取った物体を振り被り、海野の顔を目標に定めて投げ付けた。

「うわ」

海野は身を引きながら高速で放たれた物体を左手に捕まえた。海野が目を落とすと膨らみを持った茶封筒だった。

海野は口元に微笑を湛えて収められていた丁度四十万円の札束を抜き出した。窓から身を乗り出して現金にもセプターに勢いよく手を振り出す。

「私の貯金とバイト代を合わせて四十万だ。これで、貸しはなしだからな。村崎は私が守り通す。お前の出る幕はもうないと思え」

セプターは声を大にして不器用に別れを告げた。海野は名残惜しそうに笑って窓を閉めていき、集合団地が密接する陸橋の向こうへと車を飛ばした。

村崎は代理の父親と別離した悲劇に意気消沈していたが、セプターと海野のやり取りが夫婦のようだったので生きる活力を取り戻せた。

土手の上にはセプターと村崎だけが取り残された。二人は顔を見合わせ意志の疎通を図り、セプターは踏切の方向に車椅子を押していった。

「ねえ、セプター、僕、海野とセプターに結婚して欲しかったの。新しい父さんと母さんになって欲しかったの。だから海野を雇って、セプターと親睦を深めて欲しかったの。良かったら実現してくれないかな」

道すがら、村崎は野望の全貌を初めて打ち明けた。セプターは鼻で笑って村崎の唇の端から指を突っ込んだ。

「母さんがいるだろ村崎にはあ。全く呆れた奴だ。村崎の我侭のせいで私が今までどれだけ苦しんだか分かってるのかあ」

セプターはあらぬ方向に唇を引っ張り上げた。

「いでででで、ごめんよセプター。だって本当になって欲しかったんだもん」

村崎は激痛が走る唇を押さえて身悶えした。セプターはすぐに唾液が付着した指を引き抜いた。

「村崎はいつもそうだ。いつも我侭を言って私を困らせる。動物園のゾウが欲しいと言われた時は大変だったぞ。飼育員には怒られるわ、警察は出動してくるわで、本当に疲れた」

セプターは過去を懐かしんで楽しげに愚痴を零した。村崎はむっとして封印された過去の情景を思い返して、セプターの過失や粗を探し出す。

「セプターだって、いきなり何処かへ消えたくせに。僕達はずっと一緒だって誓ったのに海野さんを雇ったから嫌われたとでも思ったの。車の中で泣いちゃって情けないの。僕、泣き虫は大嫌いだなあ」

手っ取り早く探り当てれたのは前日の過失だった。セプターは顔を強張らせて黒の帽子を村崎の頭に被せた。

「障害者のくせに生意気言うな。私がその気になれば村崎なんていつでも殺せるんだぞ。生かしてやってるだけありがたく思え」

セプターは回復の見込みがない身体を責めた。帽子の上から村崎の頭を磨り潰して痛め付ける。

「そっちこそ、変態のくせに。僕がいなかったら寂しいんでしょ。快楽を得れないんでしょ。そんなに僕が好きなら僕と結婚してよ」

村崎は詰問した積もりが新たな願望に摩り替わっていた。セプターは勝利を確信した冷やかな顔で村崎を見下ろした。

「嫌だね。私に恋愛感情はない。だが、ずっと一緒にいたい気持ちはこの先も変わらないだろう。それで我慢しろ」

セプターは村崎の頭を強く叩いて微笑した。村崎は不服そうに口を尖らせていた。

セプターは遮断機が下りた踏切の前で車椅子を止めた。近接したコンビニでビールを購入した買い物客や主婦が待ち惚けを食らい、電車の通過を今か今かと待ち侘びている。

村崎は頬杖を着いて思案に暮れていた。野望を実現する妙案を思い付けずセプターに振り返った。

「あ、そうだ。セプター、釣りで勝負だ。僕がセプターより魚を釣り上げたら将来結婚してよ。それでいいだろ」

村崎はセプター左肩に掛けられた釣竿を認めて提案を出した。突拍子もない幼稚な案を提示され、セプターは呆然と釣竿の先端に巻きついた疑似餌を眺めた。やがて口元を悦楽に歪めて村崎を見下ろした。

「今から行くのか」

セプターは敢えておどけた。村崎の瞳は挫折を知らない熱狂した欲望に飢えていた。

「ずっと一緒にいてくれるんでしょ。付き合ってよ」

村崎は至極当然のように言った。

「そうだったな。じゃあ、行くか」

セプターは車椅子を反転させて川原へと押していった。

微弱な力を込めただけで壊れてしまいそうな村崎の容態を気に病み、無理難題な要求に付き合う被虐的な自分が不思議と心地良い。それこそが村崎と長く時間を共有して病み付きになった、中毒染みた快楽の正体なのかもしれないとセプターは感付いた。

「手加減は一切しないぞ。村崎の我侭を制するのは私の役目だからな」

思い出の地に到着したセプターは愉快に釣竿を振り回して、村崎と本当の快楽を満喫する第一投を放った。

 

>>戻る
動画 アダルト動画 ライブチャット