ブルートフォースクイズ

 

 

血潮に染まる、男の眼球。

灯りが点らない暗闇の個室で三代倉は椅子に腰掛けていた。三脚になった回転式の椅子は板張りの床に脚を埋められ固定されている。

ゆったりした椅子に背を預けず前のめりに頬杖を着く三代は、高校生の容姿とも中高年とも似付かない少女のような顔をしていた。性別を問われなければ女性と見紛うあどけない美貌を整った顔立ちに宿している。伸びた後ろ髪を跳ねさせて丁髷のような髪形に結っていた。

見開かれた三代の虹彩は混じり気のない純粋な黒だった。白目の部分は疲労のせいか、充血して赤に染まっている。

三代の視線が見詰める個室の中央には若い女がいた。

奇術師を真似た藍色のマントを羽織り、顔を隠すように蝶々を模したマスクを着けていた。天井にワイヤーで吊るされた時計を見上げている。

現在の時刻は丁度一七時五九分三十秒だった。

「三十秒後に始めるよ」

女が告げると、三代は両目に全神経を集中させて頷いた。

女は優雅に手を伸ばして、傍らに置かれていた物体を覆う布を取り去った。

厚手の布に隠されていたのは台に乗った平凡なテレビだった。十四インチ型で画面は小さい。

女はマントに隠された背中に手を回してリモコンを取り出した。三代とテレビの中間まで歩き、女はモニターに向けて電源ボタンを押した。

ブツンと低い音が鳴り、真横に砂嵐が一本走った。同時に個室の四隅に取り付けられたスピーカーから恐怖を演出した不気味な音楽が轟いた。

「スタート」

女は語尾を伸ばした間抜けな調子で開始の合図を告げた。

テレビに横並びの数字の羅列が出現した。白で描かれた数字を際立たせるよう背景は暗い。照明を落としているのもこのためだろうか。

数字は一秒で消え、別の数字の羅列が先程より長く並んだ。三代は数字を目で素早く追っていた。白目に刻まれた疲弊の赤は濃度を増している。

また数字が入れ替わった。消滅する間隔は速くなっていた。三代は迫り上がってきた眼球を左右に這わせていく。

暫しの間、腕を組んで静観していた女は時計を見上げた。開始から四十秒程度経過していた。

数字が瞬間的に連続で何度も入れ替わった。コンマ一秒にも満たない極限の速度に三代は頬を限界まで引き攣らせていた。

「残り十秒」

女がリモコンを構えて告げた。

懸命に数字を追っていた迫り出した右目に異常が発生した。過度の酷使に眼球が悲鳴を上げ、血走った毛細血管が切れて血を噴き上げていた。

三代は激痛に堪えて、鮮血で片目を塞がれながらも数字を最後まで追った。女は同情の余地を見せず、平然と定刻を待ってからテレビの電源を消した。

テレビが消えると、恐怖を煽り立てる不気味な音楽は一転して、癒しの効果を担う爽やかな曲が流れ出した。

「三代君、どうだった」

女は三代の傍で屈み込み、穏やかに訊ねた。脱いだマントで血を垂らす三代の右目を拭う。

「完成したよ」

三代は女の頭から細い線で繋がった青白い立体を認めて薄笑いを浮かべた。

三代は数字の早回しを目で追う鍛錬の末に、女の念願であった特殊な能力を身に着けていた。片目を犠牲にしてまで堪えていたのは、淡い蛍光色の四角形で縁取られた立体を明確に具現化させるため。女から伸びた立体の内部にはカセットテープのような歯車が二機並んでいた。

「じゃあ、見える、私の中身」

女は蝶々を模したマスクを脱いだ。マスクの下に隠された素顔は清楚な匂いを放ち、透き通った瞳は悪意の欠片も秘めていなかった。

三代は笑顔で頷き、眼球に力を加えた。立体化した像に映る歯車が回転し始めた。やがて、カセットテープのような像は魔法のように三代の頭の中に吸い込まれていった。十九年間蓄積されていた女の情報が、三代の記憶を司る脳の一部に焼き移されていく。

三代は女から盗んだ、或いは吸収した情報の上澄みを掬い取った。女の記憶は全て数字で表されていた。十進数で表記された数字の羅列をなぜか三代は迅速かつ完璧に解析できた。九十三はリンゴであり、三十二は頭髪であるといった具合に、女自身が疾うの昔に忘却していた記憶さえも三代の新たな記憶に摩り替わった。

「昨晩はカレー、一昨日もシチューか、随分偏ってるな。桐沢は汁物が好きなんだな」

三代は華麗な手付きで調理に勤しむ桐沢忍の過去を見ていた。親元を離れて独り暮らしに励んでいる短大生のようだ。三代とは不思議な縁があり、中学生の同級生だった二人は友人関係を築いたが、高校に入って別々の道を歩み、連絡もばったり途絶えていた。ところが数ヶ月前に、忍は三代が住む自宅の近所に単身引っ越してきた。二人は必然的に再会を交わし、懐かしい話に華を咲かせている内に再び親密になっていた。家族にも晒せない秘密を共有できるほどに。

「凄い、当たってるわ。一週間前の真夜中に、私がどうしていたかも分かる」

忍は意味有り気に胸を押さえて微笑した。

「一週間前だな、やってみる」

三代は首を傾げながらも読み取った記憶を探り始めた。

忍の記憶はいとも簡単に取り出せた。三代はすぐに一週間前の数値化された記憶情報を解析した。忍の自宅であろうか、ベッドの上で惜しげもなく股を広いて喘ぐ忍の姿が映えていた。股間に指を忍ばせ三代の名を情感を込めて叫んでいる。

三代は思わず解析を中断して、頬を紅潮させた。

「おめでとう、本当に完成したんだね」

忍は鍛錬の成果を察して、我が事のように三代の手を握って祝福した。

「ああ、長い間付き合ってくれてありがとう。これからも友達として、よろしく頼むよ」

三代は照れ臭そうに鼻の頭を掻いた。

「もちろん、仲良くやっていきましょ」

三代は記憶の解析を進め、忍が中学の頃から想い続けていた初恋の相手が自分だと知った。

そして、常人には成し得ない、三代の特殊能力を忍が私利私欲のために利用しようと企てる醜悪な一面があることも。

三代は感極まって抱擁してくれる親愛なる女性が、黒い欲望を内に秘めた生物だとは到底思いたくなかった。

 

 

負傷した右目を眼帯で応急処置した三代は、息苦しい地下室から抜け出し、新鮮な外の空気を吸い込んだ。

廃屋になったビルの外は人込みも疎らな繁華街だった。三代と忍は当分先送りになる建て壊しを見越して、防音対策が施された地下室を無断で使用していた。

「それじゃあ、今日は、寄るところがあるからまた明日ね」

三代の後に続いてきた忍が手を振って、短大の方向に駆け出した。奇術師の格好は解いて、女子大生らしい清潔感溢れる装いに着替えていた。

三代は遠のいてく忍に手を振り返し、独り帰路に着くことにした。

今年で十九歳を数える浪人生である三代は退屈な日々を過ごしていた。幼少の頃から記憶力に優れて文系の成績は前から数えるほどの実力はあった。だが勉学に励むだけの毎日に何処か虚しさを覚えていた。削がれた意欲は冬期を迎えても回復せず、案の定、大学受験に失敗していた。

「お母さん、あれ取ってえ」

ポケットに両手を差し入れ、俯き加減に歩いていた三代は足を止めた。

退屈な日々を埋めるために情熱を燃やした、対象の記憶を数値化して読み取る特殊能力の片鱗が無意識に発動していた。

ゲームセンターから露出されたUFOキャッチャーの前で駄々を捏ねる幼い少年の頭上に、青白いカセットテープの立体像が浮かんでいる。三代が周囲を見渡す限り、通行人全ての頭上に、試行錯誤の末に具現化に至った記憶の原水が浮かんでいた。

三代は長い溜息を付いた。忍が考案してくれた三代の能力を極限まで高める練習法に基づき、失明の恐れがある危険性を顧みずに挑んだ毎日を虚ろげに思い出した。

三代は生まれ付き他人の記憶が無意識に読み取れた。自発的には起こせなかったが才能はそれなりに秘めていたんだろう。

科学的な論拠もない筈の鍛錬などでまさか実現するとは予想していなかったが、覚えてみて実感した。やはり特殊な能力など身に着けるべきではなかった。忍が躍起になって付き合ってくれた日々が楽しくて流されていただけだ。三代は日毎の上達に一喜一憂していた過去の自分に哀れみと羨望の眼差しを向けた。

「お母さん、早くう、あれ、取ってよお」

三代は執拗に駄々の手を辞さない、UFOキャッチャーにたむろする少年を見た。

「ねえ、取ってよお、お母さん、早く、取ってよお」

取り分け急いで帰宅する必要もないので、三代は異変を感じた少年に近寄っていった。

少年は乱暴に景品が納められたガラスケースを殴り付けていた。ガラスケースに収められていた景品は殆ど腕時計だった。数万単位の値が付く希少なものも見受けられる。

「お母さん、早くう」

少年は疲れた声で母を呼んだ。

三代は背後から気付かれぬよう左目に力を加えた。少年の記憶であるカセットテープが規則的に回り出して、三代の頭の中に吸い込まれていった。

テレビモニターで見慣れた数字の羅列が脳裏を連続して過ぎる。三代は数字が流れる傍から的確に情報を解析した。

「裕也、ごめんね」

アパートの一室だろうか、母親らしき女性が少年の肩を抱いて泣いていた。

扉を蹴り破ろうとする音と野太い怒号、闇金の取り立て連中が迫ってきている。少年は貧しい家庭の子供のようだ。

少年の母親は涙を拭って、天井の電灯を取り外した。配線を差し込む穴に太いロープを括り付け、真下の踏み台に乗った。

「お母さん、何してるの、誕生日にこれ買ってくれる約束でしょ」

少年は多様な腕時計が載ったカタログを持って母にせがんでいる。

「今度、もしあなたの母親に生まれ変われたら、必ず買ってあげるから、それまで待っててね」

母親は薄幸の笑顔を振り撒いて、天井から吊り下げられたロープの輪を掴み、頭を突っ込んだ。

踏み台は蹴り倒された。借金回収を目論む男が遂に室内へ侵入してきた。少年はカタログを抱いて呻き声を上げる母を見上げていた。

少年の胸を鋭く抉った苦い記憶が、鮮明な像となって三代の頭に浮かび上がる。

「ごめん、ね」

それは幼い少年にとって生涯忘れられない、最愛の母の苦悶に満ちた無惨な姿だった。

「お母さん、腕時計、早く」

三代は顔を蒼白させて我に返った。

少年はまだガラスケースを叩いていた。少年は心に堅い殻を何重にも重ね合わせ、救いのない現実の世界を完全に遮断していた。

少年の時は、母を亡くしたあの日から停止していた。

三代は目頭を熱くするものを両手で覆った。深い後悔の念に苛まれ、身に着けた能力の強大さに恐れ戦いていた。

「ちょっとお兄さん、大丈夫かい」

買い物籠を提げた通りすがりの老婆が、奇妙な啜り声を上げて地面に蹲る三代に声を掛けた。

「すいません、目にゴミが入っただけです」

三代は歯を食い縛って、目に湛えた涙が洩れるのを堪えていた。

三代は老婆に頭を下げて、記憶を掬った少年の横に並んだ。無造作にポケットから百円硬貨を取り出しゲーム機に投入する。

悲しみに翳った心境とは対照的な陽気な音楽が開始の合図を告げた。

「俺が、必ず取ってやるよ」

三代は呟いて右手の指でスイッチを押した。ケースを叩いていた少年は、使命感に燃えた三代を怪訝そうに見上げた。

クレーンは横に揺れながら手前の腕時計を通り過ぎ、奥にある銀色の希少な腕時計を狙っていた。少年が待望していた誕生日プレゼントだ。

「よし、ここだ」

三代はクレーンを目標と平行に並ぶ位置で止めた。続けてガラスケースの側面に回り、左のスイッチを押してクレーンを縦に動かした。

「あ、腕時計」

少年はクレーンが停止した位置を察して、三代が銀色の時計を狙っていると呑みこめた。

三代が数字の羅列で鍛えた動体視力を活かして、腕時計の丁度真上で停止させたクレーンが腕を広げて降下する。

クレーンは腕を閉じてゆっくり目標の時計を掴み上げた。少年と三代は思わず感嘆の声を上げた。

「いけ、帰って来い、絶対落とすなよ」

三代はガラス戸に両手を押し付けてクレーンを大声で呼び寄せた。少年は熱の篭った三代の声援にクスリと笑った。

クレーンは機械的な安定した動きで戻り、無事に終着点まで辿り着いた。腕を広げて銀色の時計を下に落とす。

ゴトンと景品が転がる音を聞いて、少年の顔が解れたような満面の笑みに変わった。

「はは、本当に取れたよ。良かった」

三代は屈んで腕時計を取り出し、何も語らずに少年に手渡した。

そして三代はポケットに両手を突っ込んで歩き出した。少年は戸惑った様子で三代の後姿を見据えた。

「ありがとう、お兄ちゃん」

少年は声を限りにして叫んだ。深謝を背で受けた三代は溜息を付いた。

ぶつかりそうなぐらい肩を擦れ擦れに行き交う民衆の大半に、少なからず蓋を閉めたい記憶が存在する。そう思うと三代は心中穏やかではいられなかったのだ。

この人智を超えた絶大なる特殊能力が、救いを求める人の役に立つ有効な利用法はないのだろうか。

能力を得た者の侮蔑ではない、三代自身が願っていた慈善活動に順する意識が色濃く、急速に高まっていた。

 

 

三代の家族は穏和な人達で、勉強を辞めて、浪人生に落ちぶれた三代に激励の言葉はかけるが、決して怒り咎めはしなかった。静かに影から見守る当たり障りのない教育方針を旨として、三代を現在に至るまで一貫して育て上げた。

その筋の通った方針は功を奏して、三代は虚実を取り混ぜない真っ直ぐな青年に育っていた。彼は人情に厚い博愛主義であり、異常なまでに人を疑うことはしなかった。

例え、読み取った記憶に誤魔化しきれない愚行が混ざっていたとしても。

「三代君、あれから調子はどう。目は大丈夫」

二日振りに三代の部屋を訪れた忍の発言は真実を示していた。三代は瞬時にそれが読み取れた。

三代は開花した能力の使い道を思い付けず、結果としてだらだらと無駄な時を重ねていた。

三代が昨夜、眠りに就こうとベッドに横たわり、目覚まし時計を正午に設定して体を布団に預けると、頭の中を駆け巡る記憶の断片に気付いた。左目に力を加えるとそれは像となり、廃ビルから別れて大学で講義を受けている忍の行動を克明に映し出した。

学校生活を満喫する忍の映像を見終えた三代は、ある決意を固め、忍と能力について話し合う約束を取り付けた。

そして今日、部屋の扉を開けた忍の第一声で確信は深まった。青白い立体像を吸い取った対象者の記憶は継続的に読み取れる。恐らく、母を亡くした少年の記憶の方も可能な筈だ。

「どうしたの、さっきから怖い顔して黙ってるけど」

忍の発言はまだ真実を述べていた。三代は頬を撫ぜて強張った顔を溶かした。

忍の言葉に込められた感情が手に取るように理解できる。三代は忍の言動が嘘を示した際の恐怖に怯えていた。

三代は既に彼女に疑心暗鬼を抱いている。偽証は不可能な記憶に目を瞑ってまで、果たして本当に彼女を信用できるのだろうか。

「何でもないよ。それより、聞きたいことがあるんだけど」

三代は気重に忍の秘密を探ろうとした。

「うん、なに」

三代は踏ん切りがつかずに口籠った。信用を置いている女性だからこそ、映像で捉えた事実を鵜呑みにしたくない。

「ねえ、ちょっとおかしいよ。何かあったんじゃないの」

緊張して喉が渇いた忍は、テーブルに置かれたジュースを口に含んだ。

三代の部屋は忍が訪ねる度に掃除されていた。埃被っていたテーブルは新品の輝きを放ち、母から差し入れを受けたオレンジジュースのカップが二個並んでいる。軋みを上げていた木製のベッドは手先の器用な忍に修理され、部屋の隅に置かれた本棚やテレビなどの裏側も隈なく磨き込まれてあった。今日も彼女は壁に掛けられたバスケットゴールの籠を掃除する積もりでいる。

更にテーブルの対面に坐る忍は、頭脳明晰な状況を的確に判断する分析力と底知れぬ創造性を併せ持ち、女性に人気高い男性の告白を断固拒絶する気丈な意志がある。

三代が映像で見たあの忍、外国人らしい男性に豊満な肉体を委ねていた醜悪な忍は、目の前にいる清廉潔白な忍とは別の生き物だと本人の口から直接聞きたかった。

三代は慈善活動に能力を活かす最優先していた目的を放棄して、想いを寄せる忍の愛情を知ることに全力を注ぐ意向を固めていた。それこそが忍を呼び付けた最大の目的だ。

「昨夜、何処に行ってたの。まさか、ホテルとか、行ってないよね」

三代は真意を探るべく、眼帯の奥に隠された未完治の右目にまで力を加えて返事を待った。

忍は面食らったように固まっていたが、澄ました顔付きでコップをテーブルに置いた。

「寝てたよ。そりゃあもうぐっすりとね。私、夜は弱いんだ」

読み取った忍の記憶は瞬時に嘘を示した。忍の頭の中には舌を絡ませる外国人との性交渉が駆け巡っていた。恋愛感情はなく欲望を満たすだけの付き合い。語学を教わる代償と引き替えに肉体を捧げている映像だ。

三代は、明白となった事実にどう立ち向かい、彼女にどんな答えを返せばいいのか分からなかった。

「そうか、夜は眠いもんな」

三代は淋しげにコップを取って、静かにジュースを啜った。

「うん、三代君となら行ってあげてもいいけど。おや、まさか、誘ったりしてるわけ。能力について話し合おうだなんて呼び出しといて、私をたばかろうとしてたんだ。意外とやらしいんだね」

忍は口元に微笑を湛えて立ち上がり、三代の隣で坐り直した。華奢な腕を伸ばして三代の手を握り締める。三代は情欲に芽生えた彼女の記憶を察知した。外国人相手に分泌していた性欲の矛先が、何やら自分に向けられているのを痛烈に感じていた。

「ごめんね」

忍はボツリと謝罪した。皮肉にも三代はその真意を知っている。

忍は三代の頬を撫で、そっと三代の首に両腕を絡ませた。目を瞑って唇を重ね合わせる。忍は己の所業を帳消しにするため、三代にも肉体を委ねようとする意志を記憶は物語る。

三代は下唇を噛んで乱暴に忍の体を抱え上げた。重い足取りで忍をベッドに運搬していく。

「駄目じゃないか、勝手なことしちゃ」

三代は手を離して忍の肉体をベッドに沈ませた。

すぐさま三代は服を脱いで、仰向けになった忍に覆い被さり、服の上から強引に乳房を手で弄った。忍は顔を綻ばせ、半裸になって乳房に吸い付く三代の行為を快く受け入れた。

三代は自暴自棄に陥っていた。最愛の女性が男に現を抜かした悲劇を有耶無耶にしたかった。しがらみは捨て去り、欲情に身を任せる生物らしい本能に従った。

忍の記憶もまた、三代との性交渉を貪欲に求めていた。

「三代君、知ってたんだね。君の能力はやっぱり凄いや」

忍は申し訳なさそうに成熟した乳房を開けさせた。三代は彼女の両腕を伸ばして服ごと下着を取り払った。三代は忍に大股を開かせ、スカートの下に手を忍ばせた。忍の肩が小さく震えた。

三代の指が股間を圧迫していた。忍は頬を緩めて壁に背を預けた。忍の記憶は前戯から発展して三代と合体している妄想を描いていた。

「その能力についても、話したいことがある。今まで黙ってたんだけど、実は記憶を読み取る度に頭が痛くなるんだ。最初は気にならない程度だったが、今は君の記憶を読み取る度に激痛が走る。能力が人の役に立つようなら無理してでも使っていきたかったけど、やっぱり人の心を探るような真似は俺の性に合わないよ。だから、今後は極力使わないでおこうと思う。それでいいかな」

三代は忍の両足を掴んで引っくり返して、淫靡な割れ目を舐め回しながら重大な告白をした。

哀れもない姿になった忍は、少し残念そうにぺろりと舌を出す仕草を取った。

「いいよ、三代君が決めたならそれで。私が口を挟む理由は何もないもんね」

三代は安堵して、突き立てた中指を割れ目の中に滑らせた。

「ありがとう」

三代は容赦なく指を何度も出入りさせた。忍は身を捩って甲高い声で喘いだ。

忍の敏感な反応に性欲を駆り立てられた三代は自身の下着を脱ぎ去り、反り返った固いものを割れ目にちらつかせた。

忍は目を丸くして身を引いた。少女の容貌に似合わぬ巨大な男根に驚愕して体勢を移行させた。激痛に見舞われても暴れぬよう後ろ手に腕を組んで股を広げる。上目遣いに三代を見据える瞳は情火に滾っていた。

「待たせてごめんね。どうぞ、好きにして」

三代は両膝の裏を抱えて割れ目に亀頭を押し付けた。一呼吸置いて、固いものが割れ目を突き破り膣肉を掻き分けた。両者の股間はぴったり密着して、三代のものは根元まで埋まっていた。

「はああ、三代君のは、大変だよ」

忍は愉悦に頬をひくつかせて口を半開きにした。三代は白濁汁に塗れた指を歯列の隙間に突っ込み、綺麗になるまで舐め取らせた。

三代が腰を左右に揺らして固いものは膣内を蠢き回り、忍は悲痛めいた呻き声を上げて首を振っていた。股間を激しく滑走する性器に膣肉が擦り卸されるような激痛が忍の脳を支配していた。

「それとこんな時に無粋だろうけど、桐沢、俺と付き合ってくれないか。ずっと前から好きだったんだ。受験対策とか掃除してくれた君と本格的に交際したい」

三代は忍の耳元で早口に囁いた。忍は後ろ手に固定した腕を解いて三代の首に絡ませた。

返答を待つ三代の泳いだ視線が、忍の澄んだ瞳と絡んだ。忍は穏やかに目を閉じて三代の顔を引き寄せた。

唇が軽く触れて、互いに舌を伸ばして粘っこく絡ませた、濃厚な口付けを一頻り交わして、忍は突然の告白を受け入れた。

「うん、私もうしないから、三代君が傍にいてくれれば、他に何も望まないから」

忍は感激の余り大粒の涙を目に湛えていた。均衡を保たれていた友情は一線を越えて恋の成就に繋がった。

三代は咽び泣く忍の前髪を掻き上げ、ゆっくり腰を揺り動かした。忍は喘いで両手と両足を三代の体に巻き付かせた。密着した状態から僅かな隙間を腰が動いた。膣肉を掻き乱される感触に忍は崩壊しそうな悦楽に酔っていた。

「ああ、好き、三代君、愛してるよ」

忍は反動を付けて体を一回転させ、上下を入れ替えた。忍は大股を沈めて三代の固いものを割れ目に挿入して、自ら腰を上下に激しく振って三代の手を煩わせなかった。三代は真摯に尽くしてくれる忍の態度に応えて、上体を起こして豊満な胸の谷間に顔を埋めた。突起した乳首を力強く摘んで忍を苛め抜く。

忍は胸を捏ね繰り回す、三代の頭を抱き寄せて善がり倒した。

「愛してるなら、するなよ」

乳房に被り付く三代の顔は冷めていた。疑念を抱きたくない忍の暴走を根に持っていた。

「うん、ごめん、ね。これからは、二人で幸せになろう。デートしたり、笑い合ったり、こんな風に淫らな行為に溺れたり、恋人同士らしい、甘い付き合いをしていこう」

忍の発言は真を示していた。三代は溜息を吐いて、漸く落ちていた忍の信用を回復させ、痺れるような頭痛が駆け巡る特殊能力の使用を止めた。

三代は肉体を求め合う果てに、忍と供に歩んでいく平凡で穏和な生活があれば十分だと改めて悟った。

他人の本心を勘繰る非道理な能力は、もう要らない。真実には目を覆い、在り来たりな浪人生として気楽に生きていく。

三代の顔が重荷から解放されたような晴れ晴れとした笑顔になった。

「よし、明日、何処かへデートしよう。明後日も、明々後日も。その次の日も。約束だぞ」

三代は後方に回って忍の桃尻を掴んだ、渾身の力を込めて鋭角に腰を振り下ろす。

「了解、付き合いましょう。でも、勉強はしなくていいの」

泣きどころをつかれた三代は顔をしかめて、忍の口を手で塞いだ。

性交渉の虜となった三代は、同居する家族を気遣うことなく、快楽に絶叫する忍と深夜まで合体を繰り広げた。

 

 

平穏な日常が、過ぎていく。

忍の強力な後押しを受け、三代は毎日のように図書館に通い詰めていた。今では母を亡くした少年との出来事に影響を与えられ、福祉関係の大学に進もうと漠然とした目標を定めている。それは苦痛を伴なう能力に頼らず、自分の手で慈善活動に順じたいひたむきな気持ちの表れであった。

三代は図書館内に設置された四人掛けのテーブルに坐り、参考書を睨み付けていた。漫画を持ち込んで馬鹿笑いする小学生の喧噪が館内に響き渡っている。

三代は問題集の難題に頭を悩ませ、逃避するように本棚がある壁に掛けられた時計を確認した。

時計は午後四時三十分を刻んでいた。いつの間にか閉館まで残り三十分に迫っていたと知り、息抜きに忍とデートの約束を取り付けていた三代は参考書に頭を横たわらせた。秒針が刻一刻と触れるのを横目にしながら時が過ぎるのを待ち続ける。

「寝よっかな」

三代は痺れを切らして呟いた。勉強の手を休めると嘘のように時間が経たない。テーブルの周りを坐りたそうに往復していた老人の顔が曇った。

「どいて、どいて、危ないですよお」

小学生から漫画を強奪したらしい、金髪の青年がテーブルの脇を通り過ぎた。後続には肥満体の小学生が息苦しそうに駆けてくる。

三代は寝返りを打って彼らが走っていく方向を眺めた。無意識に垂れ流れる能力が頭と繋がった青白いカセットテープの像を浮かび上がらせている。

「返してよ、それ、僕のだぞ」

肥満の小学生が金髪の裾を捕まえて憤怒した。

「うるせえよ、ちょっとぐらい読んでもいいだろ」

金髪は大人気なく少年の手を引き剥がして逃走を図る。図書館に安らぎを求めて訪れた主婦の数人が、金髪に突き放した鋭い視線を送った。

「図書館も物騒だな」

三代は金髪の過去に興味が湧いていた。本棚の合間を縫って逃げ、小学生に暴言を吐き連ねる、年端も差して変わらぬ荒んだ青年の中身を覗きたい。

三代が一瞬でも記憶を読み取りたいと願ったのが不味かったのか、金髪の頭上に浮かんだ立体像が原型を歪めて、青白い線を三代の頭に連結させた。

「あ、があああああ」

三代は爆発しそうな頭を抱えて悲鳴を上げた。金髪の立体像が三代の頭の中に吸収されていく。

到達した金髪の数値化された記憶情報が脳を暴れ狂った。円滑に処理できていた筈の情報解析に乱れが生じ、三代の脳で数値が暴走し始めていた。

「五十八、三十二、四十三、二十二」

三代は嘗て体験したことのない激痛に白目を剥いて、脳裏に過ぎる数字を声に出した。

解析できた断片的な記憶が連続して脳に投影される。金髪が包丁を振り回して両親を刺し捲くっている。金髪は警察から身を隠すべく図書館に潜伏して、千三百三十二の肥満体を忌み嫌い、漫画を奪って逃走する計画を以前から企てていた。社会に対する極大の反発心が金髪を凶行へと駆り立てている。

「うげえあああああ」

三代は痛みに耐えかね、上体を振り上げて頭をテーブルに叩き付けた。三代の獣じみた悲鳴と異常な行動に来客の注目が否が応にも集まった。金髪の青年は小学生が呆気に取られて固まっている隙を逃さず、盗んだ漫画をせしめて図書館を引き上げていった。解析不可能な数値が金髪の逃走先を告げている。

「あの、大丈夫ですか」

テーブルを構成していた女性が恐る恐る三代に声をかけた。周囲に他の三人が立ち疎んで見下ろしている。

三代は虚ろに周囲に集う来客を見詰めた。頭上に浮かぶ立体像の歯車が回転している。三代は恐怖に頬を引き攣らせて席を立ち、出口に向かって走り出した。

「うわああああ、助けて」

歯車が乾いた音を奏でて立体像は霧散した。館内に訪れた全員分の立体像が同様に霧散して空気中を漂い、逃げていく三代の頭上に寄せ集まって濃密な塊となった。

三代が後ろを振り返ると、眼前に迫りくる青白い塊が頭の中に吸い込まれていった。

「あ、がばああああ」

三代は出口の自動ドアを目前にして崩れ落ちた。停電が生じたように視点は暗転して深い闇となった。

数十人分の膨大な記憶情報を脳に詰め込め切れずパンクした。三代は微かに残された意識の中で頭を暴れ狂う痛みの根源を悟った。今更になって、頭痛の原因に辿り着けた。

狼狽する来客のどめよきが飛び交い、三代の耳に聞こえてくる。三代は視界に光りが返ってくるのを待った。

幸いにも意識は途絶えていない。俺はまだ生きている。

「ねえ、やばくない。三十二に電話したほうがいいんじゃないの」

三十二、なんだ、業界用語か。不安げに三代を眺める若い女性が友人に決断を委ねている。

「五千六百二十ニの人が電話してくれるでしょ。あんまり関わりにならない方がいいよ。早く帰ろうよ」

二人は互いに頷いて図書館を出て行った。来客は二人に釣られるように微動だにしない三代を避けて歩き、次々と厄介事に巻き込まれまいと図書館を去っていく。漫画本を盗まれた小学生は血相を変えて三代の脇を駆け抜ける。立場上、持ち場を離れるわけにはいかない図書館の司書は電話を回していた。

「う、うう」

三代は掠れた声を出した。指先に力が戻ってきている。試しに五指を収縮して拳を作る。違和感なく握り込めた。虚ろに闇を映していた視界に眩い白光が刺してきた。三代は天からの迎えがきたのか、或いは意識を取り戻して電灯の光りを捉えたのか判別できず、爪先に力が戻った足でタイルの床を蹴り、本棚を支えにして立ち上がった。

「あ、今立たれました。二千五百七十七、二千五百七十七、でもふらふらして、容態の悪化が懸念されますので急いで来てください」

司書が耳を劈く金切り声で受話器に叫んだ。三代の視界に広がる果てしない白光の空間に、二千五百七十七という数字が離れた位置から流れたのを捉えた。一度ではなく、二度続けて同様の数字が流れて消滅した。

「おい、誰かいるのか。ここは図書館か、真っ白だが何かあったのか」

三代は声を発した見えない人間に尋ねた。声の主である司書はカウンターを出て、三代の元へ近寄ってきた。

「動かれて大丈夫なんですか、今、三百二の方がお越しになりますから、安静にしていて下さい」

三百ニという数字が前方から疾走して三代の耳を掠めていった。傍まで来た司書は三代をソファに寝かし付けようと肩を貸した。三代の右腕に不可思議な力が加り持ち上げられ、何者かの身体に触れたような生温かい感触が手の平を伝わった。三代は背中を押されて歩かされた。

「そこに誰かいるのか、一体どうなってるんだ」

三代は焦って再度呼びかけた。司書は三代の頭が狂ったのだと解釈して何も応えなかった。

「どうなってるんだ」

やっぱり死んだのだろうか。三代の脳裏に絶望が過ぎった。暫く歩いた三代は身体を仰向けに反転させられ宙で静止した。背中が沈み、柔らかい無機質な感触が全身を伝わる。三代は女性の声と数字が表示される白光の世界を掴め切れず、生殺しにされたような釈然としない状況に苛立ちを募らせていた。心の拠り所にしている忍の笑顔を浮かべて、じっと真っ白な天空を眺める。知らぬ間に、酷い頭痛は完全に治癒されていた。

「もしもーし、どうしましたか、返事なし、呼吸はしてるし脈もあります。どうやら眠っているだけのようですね」

慌しく図書館を訪れた数名の救急隊員が声を掛け、静かに目を閉じた三代の質量を担架に沈めた。

「他に異常も特にないようですが、このまま六千二百五十一に搬送しましょうか」

救急隊員が発した数字は、三代が目を閉じているにも拘らず瞼の裏に入り込んできた。

「そうだな、五に連絡して、六千二百五十一に来て貰え。その鞄に携帯入ってないか」

鬱陶しい数字の羅列が闇を奔放に流れ、三代は寝苦しそうに目をきつく閉じた。三代の質量は運搬されて救急車に乗せられた。二名の救急隊員が周りを囲み、司書に授けられた三代の鞄を一人が弄った。運転に回った隊員が最寄の病院へ向けて救急車を発進させる。

「ありました。しかし無断でかけていいんですか。人権侵害とかになるんじゃ」

携帯を握って躊躇する新入りの隊員に、現場慣れした老練の隊員が一喝した。

「こんな緊急時に人権侵害もあるか。早く電話して五を呼び出せ」

また五という数字が瞼の裏に侵入してきた。三代は呻き声を上げて両手で目を覆った。

「ですけど、それは、いえ、しかしね。私、人見知りする方でして」

新入りは怯えた目で俯いた。

「いいから早くかけろよ」

業を煮やした老練の叱責が響いた。隊員同士が揉めている内に救急車は砂利道に入り、荒れたおうとつの路面に苦労して車体を激しく揺さぶった。搬送先である総合病院の看板が遥か彼方に認められる。

新入りの隊員が携帯を握って硬直していると、電波を受信した携帯が小刻みに震動し始めた。迷惑をかけぬようバイブ機能に切り替えていたようだ。

「出ろ」

病院に受け入れの電話を掛けていた老練の隊員が新入りに促した。

「分かりましたよ」

新入りは自棄っぱちになって電話を取った。すぐに女性の声が聞こえてきた。

「もしもし、三代君。待ち合わせの四十九でずっと待ってるのよ。今、何処にいるの」

新入りは電源を切りたい衝動を堪えて対応した。三代の両手を擦り抜け四十九が瞼の裏に焼き付く。

「あの、私、三百二の十億九千三百万五千六百六十七と申しますけど、あなたはどちらさまでしょうか」

三百ニと十億九千三百万五千六百六十七は三代の耳だけに聞こえていた。実際に新入りはきちんと本名を述べていた。しかし女性にとっては意味不明な言動だった。三代である筈の相手に女性は怒気を含んだ台詞を叩き返した。

「何言ってるの、三代君、私はあなたの三を担当させて貰ってる一ですよ、忘れちゃったの」

電話から勢いよく飛び出た巨大な数字の三と一が三代の瞼の裏側を占領した。三代は嫌気が差して陥没しそうになるまで両目を押さえ付けたが、闇に張り付いた三と一は他の数字とは何処か異なり、懐かしい柔和な光りを全体に纏っていた。

恋人、忍。三代は無意識に数値を解析できた。

三代は両手を取り払い、うわ言のように恋人と忍という言葉を呟いた。そう言った積もりだったが、実際には三と一を交互に呟き、救急隊員は訝しげに聞き入っていた。

 

 

誤診が多発するとの噂がある総合病院に搬送された三代は空いた病室に収容された。四人は収容できそうだが今は三代一人しかいない。

新入り隊員の拙い説得を受け、三代の容態を知った忍は気楽に病院を訪れ、丁寧な口調で三代の病室を聞き出し、三階の三○五号室に向かって階段を悠長に登っていた。

三代は精密検査で入念に頭部を調べた結果、医者に異常無しと告げられた。数字が見えるし視界は相変わらず白光に包まれていると訴えたが原因不明だと言葉を濁された。どうやら自然回復するまで入院させる魂胆がありそうだ。

三代は窓際のベッドから木の葉の房を垂れ下げた葡萄のような大木の方向を眺めていた。サワサワと葉が擦れる音が三万五千と聞こえ、実体を伴なった数字が窓を貫通して、周囲を遮った厚手のカーテンに吸い込まれている。

「ここは、病院だっけ。見えない、何も見えない、いや、数字は見えるけど」

半端に数字が流れるせいで三代は感傷に浸り損ねていた。悲劇に酔い痴れない数字の羅列は時に親指程度の大きさになり、時には蟻以下の小ささに変わる。音量の差異によって数字は形を変化させるようだ。

「三代君、お待たせしましたあ。一がお見舞いにやってきてあげたよお」

忍が病室を訪れた。三代は体内の汚物を浄化してくれそうな一の数字に和まされた。歩いてくる忍は右手に青果類を詰め込んだビニール袋を携えていた。豪快にカーテンを開けて、異常無しと聞かされた三代の面を拝んだ。

「やあ、元気してたあ。聞いたよ、本棚に頭打って気絶したんだって。どんくさいねえ全く」

忍はやれやれと首を振って、積み上げられたパイプ椅子をベッドに横付けした。

「忍か、何処だ、何処にいる。俺だ、三代だ。分かるか」

三代は前方に両腕を伸ばして忍の位置を探った。三代の奇妙な行動を気に留めず、忍はリンゴを手に取って果物ナイフで皮を剥き始める。

「何それ、からかってるの。それにしても良かったねえ、外傷が全くないなんて。ぶつかっただけだから当たり前か」

忍はクスリと嘲笑って皮剥きに没頭し出した。

「違う、異常はあるんだ。話を聞いてくれ一、そこにいるんだろ、一」

三代は明後日の方向に向けて忍ではなく、数値変換された一という名を無意識に呼んだ。リンゴの皮を慣れた手付きで剥いていた忍の手が止まる。赤い光沢を放つ皮は切れずに床まで垂れ延びていた。

「一って誰よ、私は一じゃなくて一。三の名前も忘れちゃったのあなたは」

忍は果物ナイフの柄で三代の額を小突いた。三代は殴られた角度に振り返り、両手を高速で虚空に遊ばせた。右手が忍の頭を軽く叩いた。

「いったあ、なにすんのよ。私に何か文句でもあるわけ」

忍は剥きかけのリンゴを棚に置いて三代を非難した。

「そこにいたか。聞け一。これから話すことは冗談じゃない、真面目な話なんだ」

三代は真摯な眼差しで忍を睨み付けた。鬼気迫る三代の表情に忍はごくりと息を呑み、乱れた髪を整えながら頷いた。

「いいか、話すぞ」

三代は知り得る限りの事の顛末を一気に語り出した。主に数十人分の記憶を読んで頭痛に倒れた図書館と救急車内での出来事を述べ、視界が白光を帯びて数字以外は何も見えない話に付け加え、相手が発する言葉が一部数字に聞こえ、自らも口から数字を発してしまう現象が起こると告げた。三代が終始一貫して、忍の名を一と呼称するので、忍は不審を抱きながらも納得せざるを得なかった。

「なるほど、つまり私に連絡をくれた人の話は嘘で、三代君は重症なわけね。くそお、騙されちゃったなあ」

忍は眉間に皺を寄せて考え込んだ。リンゴを手に取り、原型を崩さず綺麗に皮を剥き終える。

「一、俺どうしよう、五に言ったらきっと驚くぞ。余計な心配はかけさせたくないのに」

忍は対策を練りながら肉厚のリンゴを取り皿に盛り付け、果物ナイフを突き刺した。

「その五ってのも分かんないなあ。私と一緒で何か示した単語なんだろうけど、そうだ、紙に書いてみてよ」

三代は口から飛び出た数字の五を確認して頷いた。忍は棚の引き出しに収まっていた紙と鉛筆を両手に持たせ、突き刺したリンゴを三代の口に運んでいった。

「これ、九十三か。うん、美味い。じゃなくて、紙と鉛筆を持ってるのは自覚できるんだけど、見えないから文字が書けないよ」

忍は不可解な数字の言葉に溜息を吐いて、紙と鉛筆を取り上げた。三代は舌でリンゴを転がし、甘美な食感を味覚で堪能していた。

「いいこと思い付いた、口頭で言えばいいのよ。漢字の水と漢字の田で水田とか言う風に、別々に伝えたい単語を分けてその五を説明してみて」

三代は忍の素晴らしい妙案に納得して言った。

「漢字の六と漢字の八百三と書いて、五になるんだ。伝わったかな」

忍は芳しくない結果に頭を掻き、取り敢えず紙に六と八百三を書き出して見た。

「ごめん、意味わかんない。やっぱり駄目そうね、安静にして、視力の回復を待つしかないわ」

忍は紙を丸めてゴミ箱に放り投げた。放物線を描いた紙はアルミ缶を直撃して高い音を慣らした。ゴミ箱から数字の八万が飛び出し、天井を突き破って上階の病室へと消えていく。

三代は呆然と天井を見上げ、あっさりと数字の解析を断念した忍を恨めしそうに睨んだ。

「いつ治るか分からないんだぞ。入院費が嵩むと五に迷惑がかかるし、それに何て説明すればいいんだよ、失明しましたじゃ済まないんだぞ」

三代の行き場のない怒りをぶつけられ、忍は感嘆の唸りを上げた。数字の前後の繋がりを深く読めば、五が家族を示した数字情報だと解釈するに至った。

「五なら旅行に出でるから二日間ほど家を空けるんでしょ。それに今日限りで退院して貰うから入院費の心配はないわ。自宅で治療に専念して頂戴、私が介護してるあげるから食事の心配もないしね。視力の方はどうなるかわかんないけど、数字の解析については対処できそうよ」

忍は自信に溢れた笑顔で三代の頭をあやすように撫でた。

「五が旅行に行ったってどういうことだ、俺は聞いてないぞ」

三代は黙されていた家族の旅行に激怒した。

「なんだ、知らなかったの。普段から親子の会話が少ないせいね。おばさん言ってたよ。三代君とどう接していいか分からない。だから口を挟まずに、影から見守って育ててきたって」

「ほんとか、ほんとに八万六千五十三がそんなことを言ってたのか、俺を思って放任主義に徹してくれたわけじゃないのか、五万八千二百六十の旅行に、どうして俺が参加できないんだ。何で俺は入院してなきゃならないんだ。どうしてなんだ一」

三代は家族に裏切られたような不安と失意に苛まれた。

「五万八千二百六十。それ、どういうこと」

忍は解釈した筈の家族を示した数字が大幅に変更されたことに気付いた。数字は固定されていないのだろうか。三代のリハビリに実施したかった数字の前後を読む思案を早速潰され、忍は渋った。

「どういうことって、何だよ。あー、むかつく。何で黙って旅行なんて行くかなあ」

三代は上体を起こして、頭の下敷きになっていたマクラに暴行を加えた。裏切りや虚言を極度に忌み嫌う性格面が顕著に露呈される。

三代の幼稚な行動を見る忍の目には軽蔑の色があった。

「それで、いいの」

忍が口を挟んだ。

「ああ、何がだよ」

三代は全力で腕を振り上げ、マクラを壁に投げ付けた。

「だから、三代君はそんな人でいいの」

忍の視線は愛憎を訴えていた。荒れていた三代は口元に手を当て、軽率な態度を取った自責の念に胸が締め付けられた。

「ごめん、俺、どうかしてた」

疲れていたせいだ。予期せぬ出来事が重なり過ぎたせいだ。三代は心で呟いた。

「おかえり三代君。それじゃあ、一緒に家に帰りましょうか」

忍は快活な笑顔で手を差し伸べた。三代は右手を左右に運動させ、指先に触れた忍の温かい手を暫く離そうとはしなかった。

 

 

明朝、三代はリビングのテーブルに腰掛け忍の手料理に舌鼓を打っていた。

忍と囲む食卓は、三代に初めて家族団欒の風景を教えてくれた。

全力でお互いの主張をぶつけ合い、つまらない与太話でバカ笑いしているだけなのに、重い沈黙が張り詰めていた家族とのやり取りが幻想であるかのように感じられるほど、密度の濃い生活空間が心地良かった。

「十一のチャンネル変えてもいい」

三代は達観していた。ここに存在する二人だけの家庭を生涯留めておきたい。

「ねえ、聞いてる」

三代が家族に抱いていた敬愛は薄れていた。三代は退院してから家族の話題を口にしなくなった。寧ろ連絡すら寄越さない家族に憎々しい悪態を心の内で付いていた。

白光に染まった視界は僅かではあるが氷解していき、半径二メートル前後は見渡せるようになった。ぐっすり眠ったせいだろうか、休息を取れば自然に回復していた。白光の先は、やはり真っ白のままであり、暗闇の壇上で円い照明を浴びせられたような気分だ。

三代はお茶を飲み干し、腕に縒りを掛けた忍の手料理を胃に収めて席を立った。

「ああ、変えていいよ、俺は部屋で二度寝するから」

「そう、あんがと」

忍は箸を咥えてテレビのリモコンを手に取った。

三代は冷蔵庫から氷嚢を取り出した。忍が冷やせば目の療養に効くと提案して購入しておいたものだ。三代は首を傾げたが実際に回復の兆しが表れてしまったので、暇を見つけては眉間の辺りに乗せて寝転がっていた。

「本当に寝るよ。何か言いたいことがあるなら今の内に聞いておくけど」

三代は忍が坐っていた位置に向かって名残惜しそうに告げた。

「どうぞ、御勝手に。おやすみなさい」

忍の素っ気無い返事に三代は堪え、重い足取りで二階の部屋に戻っていった。

忍はチャンネルをころころ切り換えて、男性のアナウンサーが画面を席巻する番組に合わせた。

「おはようございます、朝のニュースです。まずはこちらから」

画面が切り替わり、旅客機が山村に墜落したニュースが流れた。行方不明者と死者は合わせて三百人にも上るとアナウンサーは告げた。

アナウンサーは乗客者の名簿を次々に読み上げた。画面では行方不明者の出身地と名前を白字で発表していた。忍は欠伸を洩らしてぼんやり画面を眺めていた。

「はあ、気の毒ね。三代君は大事にならなくて良かったあ。視力も戻ってきてるみたいだし」

忍は二階で熟睡する三代の寝顔を思い浮かべて顔をにやつかせた。

アナウンサーは確認の取れた死者の名を読み上げた。画面に非業の死を遂げた死者のリストが表示される。忍は上から順番に目を這わせて復唱した。

○○府在住の、佐伯宅間、佐伯妙悦、佐伯数子、三代香也、黒河貴久美、黒河郁美、黒河市郎、妻外紀子、妻外泰雄……。

「佐伯和子、三代香也、三代、あれ」

忍は箸を滑り落とした。画面は切り替わって別の死者を読み上げていた。

忍は聞き覚えのある三代の妹の名を懸命に探った。漢字は異なるかもしれないが、確か香也という純朴な少女を紹介された記憶がある。忍は三代の家族が旅行に行った事実を思い出した。旅客機を利用していたとしたら。ひょっとしたら。忍の顔から血の気が引いていった。

「嘘でしょ、間違いよね。三代君の妹さんが死んだなんて。お願い、もう一度見せて」

忍は動揺して大声で喚き、テレビを掴んで揺さぶった。アナウンサーは忍の呼び掛けには応じず、同じ調子で死者の名を淡々と告げていく。

忍は急いでテーブルのリモコンを取ってテレビの電源を消した。三代に話せば病状が悪化して、前日の状態に逆戻りする危険性がある。家族の死に発狂してしまうかもしれない。せめて事実が明白になるまで、何を問われても沈黙を守らなければ。

「何かあったのか、一。二階まで凄い音がしたけど」

階段を駆け下りてきた三代が声を掛けた。忍は顔に平静を張り付かせて振り返った。厳かに座席に戻る。

「別に、何でもないよ」

忍は箸を取って白米を摘み上げた。三代は額の氷嚢をテーブルに置いて、忍の顔色を覗き込んだ。

「怒ってるの」

三代は忍の機嫌を窺っていた。

「別に、怒ってなんかないよ。それより三代君は寝てたんじゃないの。病気は完治したの」

忍は無心に白米をかき込んで、表情に出ないよう努めた。

「完治なんて、してないよ。ただ、一が大声出して暴れてたみたいだから、気になったんだ」

三代は解せない態度に疑念を抱いていた。

「本当に何もないの。気にしないで寝てなさいよ」

忍は逆上して三代を突っ撥ねた。三代は悲愴な顔付きをして、現在の忍の記憶を読み取ろうと、眼球に力を加えた。

「あれ、読めない」

三代はこめかみを強く押して再度試みたが、忍の記憶は読めなかった。キュルキュルと空回りする音が脳裏に響いた。

「三代君、今、私の記憶を読もうとしたの。身体に障るかもしれないのよ。私たち三でしょ。そんなに私が信用できないの」

三代はむかっ腹が立ち、腕を振り被って忍の頬を張り倒した。

「じゃあ、本当のことを言えよ」

三代は冷たい声で詰問した。倒れた忍は恐怖に体を震わせ、やがて、覚悟を決めた面持ちで真相を明かし出した。

「三代君の妹さんが、亡くなったかもしれないの。さっき、旅客機が墜落した百二十九で名前が呼ばれてた。本当かどうかは分かんないけど、家族想いの三代君に言ったらきっと取り乱して、暴れそうな気がして。だから、真実が分かるまでは黙ってようと思ったの」

後半は鼻を詰まらせ、掠れた声になっていた。目に涙を湛える忍の前には、さも朗報を入手したような熱狂に酔った三代倉がいた。

「三代君」

忍は三代の名を確認した。

「いや、ごめん。隠すほどのことでもないと思ってね。たかだか、五兆九千八百億五十三万千三百二十八の安否だろ。俺にとっては君と二人で過ごす幸福な家庭があれば。いや、それ以上は言ってはいけないのかな」

三代は不気味に微笑んでいた。家族の死を待望しているかのようだ。

「五兆、何でそんなに増えてるの。三代君、あなた本当に三代君なの。他人の記憶を読み取り過ぎて人格が入れ替わったんじゃないの」

忍は男に寄り掛かって三代倉に呼び掛けた。

「大丈夫、俺は俺のままだよ。どうやら、能力は使えなくなったみたいだけどな。家族も死んだことだし、俺の手元に残ったのは、一、君だけだな」

三代は忍の頬に手を添え、逃さぬよう背中に腕を回した。得体の知れない三代に抱き締められた忍の背骨が、軋みを上げた。

「い、痛いよ。三代君、君は何を求めているの。どんな生き方がしたいの。君は昔から人が大好きで、中学生の頃は弱い子を助けようといじめっ子に勇敢に立ち向かってたよね。クラスで飼っていたハムスターが死んで号泣する感受性があったよね。今の三代君は福祉関係の職に就いて人のために生きる道を選んだんだよね。なのに、どうして、あなたは人の死を望んでいるの。そんなの、三代君じゃない。私が好きな三代君じゃないよ」

忍は胸に蟠る思いの丈を吐き出した。顔に触れる体温が別の生き物ではないことを忍は切望している。

「そうだったな。俺は、そういう奴だったな」

三代は遠い目をして緩慢に腕を解いた。過去の自分との違いを認識したのか、その顔は消え入りそうな寂しさに翳っていた。

「でも、人は変わるからな。この先、どうなるか分かんないさ」

三代は苦言を残して階段に歩いていき、二階の部屋に引き揚げていった。意図して忘れたのか、氷嚢はテーブルの上に置き去りにされていた。

「そんなこと、私が許さないからね」

忍は決意めいた顔で二階にいる三代に怒声を上げた。当の三代は何の反応も示さなかった。

「あなたを脅かす悪い病気は、私が絶対に取り除いてあげるから」

忍は糸口さえ掴めない三代を闇に誘う何かと徹底交戦する意志を固め、気丈に食事の後片付けを始めた。

数分後、三代の母から電話が掛かり、三代香也の安否が無事に確認された。忍に報告を受けた三代は生き延びた家族に憎悪を抱き、早とちりした忍を幾許か嫌いになった。

 

 

同日の午後六時、三代が瞬きする間に視界が数字だらけになっていた。脳に支障が生じたのか、視力は完全に回復したようだが、四方八方の家具に数字が張り付いてあった。解析できなかった数字の解答が明記されている。

三代はベッドから部屋を一望した。扉には九十ニ、バスケットゴールは六十二、机の上にあるノートなど、些細な小物にまで数字が付いており、三代の肉体だけが原型を保っていた。

九十ニの扉が横に動いた。そこには胸に一を刻んだ忍が立っていた。腰を曲げて三代に挨拶をする。

「起きてたのね、三代君。だったら一階に下りてくればいいのに。私、考えてやっと分かったよ。三代君が見えたり聞いたりする数字って、きっとニで決定されてると思うの」

忍の声が聞こえた。言葉の一部が数字に変換されて聞こえ、二が実体化して飛んでくる辺りは以前と変わっていない。

「二が、何だって」

三代の質問を見越して、忍は二を具体的な文字にした三十一を刻んだ紙を見せ付けた。

三十一の紙には、数字は優先順位で決定されていると達筆で書かれていた。三代は無言で紙を突っ返した。

「分からなかったかな。単純に、三代君が好きなものの順番よ。∞の順位が著しく落ちたのは三代君が∞を嫌いになったから。恐らく、三代君の気分によって数字は変動されるのよ。この分じゃ、数字の解析はできそうにないかな」

三代が無限大に嫌いになったものと聞いて、三代はすぐに家族を思い浮かべた。

「そうか、なるほど。確かに当てはめて考えれば合点がいく。凄いぞ一、よく気付いたな」

忍は手を振って照れ笑いしたが、顔を曇らせて俯いた。

「でも、何も問題は解決してないんだよ。私が本当に怖いのは、三代君が心変わりして、別人になってしまわないってこと。三代君には数字の解析より、気を引き締めて自我を保って欲しいな」

忍は本音を曝け出した。三代は執拗な忍の戯言にうんざりして、わざと押し黙った。忍は三代の顔色を窺い、不安に身を捩らせる。三代は滅多に見れない忍の仕草に唇の片端を吊り上げた。

「そういえば俺、視力回復したよ。その代わり物体に数値情報が張り付いて見えるようになったんだ。これで数字解析の方は、殆ど解決したんじゃないかな」

「ほんとに、じゃあ、私には一って見えてるの。ちゃんと答えてね」

忍は自身の顔に指を差した。三代は心境を察して微笑んだ。

「安心しろよ、一は一って見えてるよ。俺が君以外のものを一番に据えるなんてありえないよ」

忍は安堵して胸を撫で下ろした。一で有り続けなければ三代を救う手立てを無くしてしまうからだ。

「視力が回復したなら、気晴らしにデートに行きましょうよ。数字の解析も兼ねてね。いいよね」

答えは既に出ていたが、三代は意地悪に当惑して見せた。他人の心を揺さぶる行為が妙に癖になっている。

「駄目、かな」

対等であった恋仲は崩落しつつあった。忍は知らず知らずの内に三代の一挙手一投足に注目していた。

「いいよ、散歩がてら街中を歩こうかね、実はこっちから誘おうと思ってたしな」

三代は汗に濡れた服を大胆に脱ぎ去り、三十四の数字が張られたタンスを開けて着替えた。忍は顔を隠して扉の影に隠れていた。

「着替え完了、行くよ」

階段を駆け下りる三代の清々しい顔に引かれて、三代はつんのめりそうになりながら後に着いて行った。

家を出た三代は扉に鍵を閉めた。鍵には四百五十六と記されていた。

二人は道なりに歩いた。落書き染みた数字が民家の塀に貼られている。塀の数字は一律して二千五百十六であった。

忍は些細な変化を見極めようと三代を流し目で見ていた。三代は普段通りに振る舞い、電柱に刻まれた新しい数字を発見して言った。

「あれは三千七百四十三だ。他の電柱も一緒だな。ちなみに電柱に打ち込まれている金具には数字がない。どういうことだろう」

三代は好奇心に飢えた瞳で忍を見据えた。

「あ、えっと、多分、名称が分からないから、順位の付けようがないってことじゃないかな。仮に三代君が雑学に精通してるなら名称を知っているネジやボルト、外壁の色の種類に至るまで、全てに数字が付くと思う」

的を射ている忍の見解に、三代は無邪気な笑みを作った。

「俺が勉強すればするほど、物体に数字が付くわけか。これで言い訳ができたな。当分の間、勉強は辞めにしよう」

三代が決意していると、繁華街に繋ぐ曲がり道に差し掛かった。夕闇を鮮やかに照らす電飾が街路樹に巻き付いている。

「受験はどうするの、あんまりさぼってたら落ちるよ」

忍は非難を畏れて小声で呟いた。

「そう言うなよ。元から勉強に興味はないんだ。前から知ってただろ」

三代はひょうひょうとして忍の手を掴み、繁華街の先頭に並ぶ目新しい喫茶店に走った。図書館の帰りにデートする予定だった待ち合わせの場所だった。

「ちょっと三代君」

忍は静止できずに店内に引き摺り込まれた。受付のウェイトレスが営業用の笑顔を振り撒き、有無を言わさずガラス張りになった窓側の座席に案内された。

三代は深呼吸をして座席に腰掛けた。忍は上着を脱いで椅子に掛ける。

「何なの一体、訳わかんないよ。三代君は何がしたいの」

今度は物怖じせずに主張した。三代はウェイトレスを呼び付け、アイスコーヒーを二人分頼んだ。

「そうだよ一、俺はずっと目的を探していたんだ。興味を持てずに半端に終わっていた。今でも何を目標に進めばいいのか分からない。だが、それとは別にやりたいことがある」

対座に腰掛けた忍は顔を蒼白させた。三代は目を据わらせ虚ろに遠くを見つめていた。

「俺、図書館で記憶を読み取った人の過去を一部だけ忘れずに覚えてたんだ。病室で忍を待っていた時、退屈凌ぎに解析済みの像をぼんやり眺めていた。そして、今日まで他人の過去に触れる内に、気付いたんだ」

ウェイトレスがアイスコーヒーを盆に乗せて運んで来た。会釈して二人の手元に素早く並べる。三代の話に聞き入る忍の目には入らなかった。

「何に、気付いたの」

黙って耳を傾けていた忍が催促した。三代はミルクを注入して独特の苦味を中和させていた。

「俺は他人の本質と関わってなかった。耄碌して何でも真実だと受けて入れて、何が事実なのか考えもせずに気楽に生きてきた。だが記憶を読み取った人は違っていた。懐疑心を抱いて腹の探り合いをしてたんだ。信用の置ける人間を選別して、周囲に警戒を払ってた。中には∞を殺して心の安定を図っていた奴もいたよ」

三代は砂糖を降りかけ、ゆっくり白と黒の螺旋をスプーンで掻き混ぜる。

「他人は、他人でしょ。関係ないよ。先入観を抱いて生きるなんて窮屈だよ。三代君までわざわざそんな人になる必要はないよ」

白黒の渦が溶け合い均一になってきた頃合に、三代はコーヒーを微かに啜った。

「別にそんな人間になる積もりはないよ。俺は経験が乏しいから、悪意に満ちた人を見分けられない。この先、誰かに騙されて殺されてしまうかもしれない。そう考えただけで、不安で怖いんだ。常に誰かに狙われてるような錯覚さえ起きる。俺が俺でいられなくなりそうになる。殺される前に、自殺してしまう前に、対策を立てたい」

忍は意外な告白に絶句した。三代自身が悪に染まり、犯罪を平気で企てる異常者に変わり果てるのかと危惧していた忍の不安は取り払われた。

「対策って、どうするの。家に閉じ篭ったりするの。それもいいかも知れないね。暫く、二人だけで静かに過ごそうよ」

三代は表情を緩和させて語りかけた。三代は首を振った。コーヒーのカップを持つ手が震え、唇が青く変色している。

「怯えて暮らすなんてごめんだ。普段通りの生活ができるようになりたい。その為には能力が必要だ。一、コーヒーを飲み終わったら、特殊能力を開発した地下室に行こう。そこでもう一度訓練をして、特殊能力を復活させる。他人の記憶を読めれば悪意を抱いた人間であるかは一目瞭然だ」

三代は高ぶる感情を抑えるように下唇を噛んだ。コーヒーのカップを力無く落とし、中身を殆どテーブルに撒いた。忍は僅か数日でこれほど追い詰められていた惰弱な三代を哀れに見ていた。

「能力は、きっと俺が未熟だから不足分を補うために身に着いたんだ。俺には能力が必要なんだ。一、君と再会して、能力を得る鍛錬をしたのも必然的な運命だった。これから能力を取り戻すこともきっと」

忍はブラックに満たされたカップを怒りに任せて払い除けた。床に落下したカップが跳ねて中身を撒け、客席がざわめき出した。三代は挙動不審に周囲の反応を見回す。四桁を越える数字が刻まれた信用に足らない人間が暴動に及ばないか不安で仕方なかった。

忍は頬杖を着いて、凍て付いた視線を三代に送った。

「むかつく。三代君は恐怖に負けたのね。無鉄砲な人が初めて体感した不安や恐怖に押し潰されることはあるから気持ちは分かるよ。けど、ね」

忍は言葉を切って目を瞑った。間近では五千六十三のウエイターが雑巾で濡れた床を拭き取っている。

「頼む一、付き合ってくれよ。俺はもう、君しか信用できる人がいないんだ」

三代は泣きそうに顔を歪めて懇願した。

「分かった。付き合ってあげるよ」

忍は片目を開いて三代を見、長い溜息を付いた。三代に対して芽生えた慈愛が協力を承諾した引き金となったのだろう。

三代と忍は席を立ち、迷惑をかけた店員に何度も頭を下げて、繁華街の闇へと歩き出した。やがて三代は廃ビルの外壁に目を奪われた。取り分け愛着を抱いていなかった廃ビルの数字が、恋人に代わって三を大きく刻み込んでいた。

 

 

三代は殺風景な階段を下り、先に部屋の扉を開けた。数字が刻まれているせいか、地下室は以前より不気味な静寂を保っていた。

粗大ゴミで拾ってきた十一のテレビは埃被り、天井には蜘蛛の巣が張っている。緊迫感を演出するために用意された五十八のスピーカーは古びて、いつ故障してもおかしくはない。果たして再生できるのだろうか。板張りの床は脆く、三代が踏み締める度に鈍い軋みを上げる。

三代は闇に集中に入るため、いつものように椅子に腰掛けた。テレビと対面になる椅子の傍らには救急箱が備えてあった。

準備に手間取っていた忍が遅れて部屋の扉を開けた。奇術師を真似た格好に着替えていた。蝶々を模したマスクは感情を排除して、容赦のない別人格を造り上げるためだ。藍色のマントには三代も知らぬ小道具が隠されてある。

忍はテレビ台のリモコンを手に取り時計を見上げた。七時五十分二十秒を刻んでいた。

「八時から始めるね」

忍が低い口調で告げた。三代は目を瞑って頷いた。

時計の長針が触れて五分前に変わる。時が流れるのが異様に早かった。三代はじっと息を殺して、椅子と同化していた。忍は微動だにしない三代に近付き、耳元で囁いた。

「三代君、もし失敗したら、あなたはどうするの」

マスクの下に湛えた忍の素性が言っていた。三代は顔を一瞥もせずに、目を閉じて沈黙に徹した。若しもの答えを用意していないのだと忍は察した。

「一分前、そろそろ目を開けて」

忍に告げられ三代は目を開けた。闇に目が慣れて、忍の姿をはっきり捉えていた。忍の胸には二の数字が刻み込まれていた。

「ニ、どうして」

三代は我が目を疑い、変装しているから数字が変更されたのだと思い直した。忍はスピーカーの角度を調節していて、三代の声は聞こえていないようだ。

「これでよし、じゃあ始めるよ」

忍は三代の傍まで歩き、時計が八時丁度になったところでテレビの電源を入れた。スピーカーが唸りを上げて重低音を鳴り響かせる。

テレビのモニターには数字の羅列が流れ、三代は神経を研ぎしました眼球で後を追った。脳裏に過ぎった数値情報が暴れ狂い、爆発しそうな頭痛が再発した。

「ぐ、がっ」

三代は限度を越えた激痛に耐えかね、一瞬にして意識が飛び、前のめりに崩れて椅子から落ちた。忍は救いの手を差し伸ばそうとはせず、時計が八時一分に変わるのを待ってから、数字の羅列を無意味に流すテレビを切った。

忍は蝶々のマスクを外して、気を失った三代に歩み寄った。マントから濡れたタオルを取り出し、三代の顔を愛撫する。

三代は肌の沁みた感触に薄目を開け、目に涙を湛えた忍を見上げた。

「もうやめよ、他人が怖いなら、三代君を能力に目覚めさたを私が責任を取って、ずっと守ってるあげるから。だから、こんな自殺行為はもうやめよ」

三代は失敗を予期していたのか、残念そうな素振りはしなかった。ただ、虚ろに泣き咽ぶ忍の顔に焦点を合わせていた。

「君は俺の気を惹きたいがために付き添ってくれたもんな。はあ、疲れた」

三代は強引に忍の手を払い除けて、重い腰を上げた。のっそり板を軋ませてテレビに歩いていき、電源の切れたブラウン管に自身の胸を映し出した。

「うわ、あああ、やっぱり。そうか、そういうことか」

三代は肘を振り下ろしてテレビを殴り付け、台を掴んで屈み込んだ。忍は突拍子もない三代の行動ができずに声を掛け損ねた。

三代は数分間、その場で頭を抱えて葛藤していた。

「ニ」

テレビの配線を引き抜き、三代は吹っ切れたようにテレビを掴んで立ち上がった。忍は順位が下げられた事実を重く受け止めた。

「どうしたの、三代君」

忍の声は込み上げる恐怖に震えていた。こちらに振り返った三代の瞳は明確な殺意に渦巻いていた。

「俺は嫌だ。嫌なんだよ。分かってくれるよね」

三代はテレビを頭上に掲げて歩み寄る。忍は短い悲鳴を上げて後じさりした。背中が壁に当たり、逃げ場を失った暗い個室で、更に三代の人影が覆い被さる。僅かに視認できる三代の白目は血走り、右目は鮮血に染まっていた。

「何が、私には分からないよ。三代君はそれでいいの、あなたはそんな人だったの」

忍は助かりたい一心で三代倉に呼び掛けた。表情が読めない暗闇の中で、三代はどんな冷酷な表情をしているのだろうか。

「数字は雄弁だ、計算された答えは必ず真になる。決して嘘は付かないんだよ。分かって、くれるよね」

三代はブラウン管を覗いた際に、自身の胸に一が刻み込まれていたのを知った。

忍は悲痛に顔を歪めて両手で顔を押さえ付けた。三代の姿も、無機質なテレビも、恐怖を構築する要因を全て拒絶していた。

「俺は一になったから、もう、誰も信用できない」

三代はテレビを振り下ろした。

ガスンとあっさり忍の頭部に命中した。鋭い音が鳴ってブラウン管が破れた。

散ったガラスが忍の頭頂部を切り裂いた。顔の皮がべろんと剥がれて、頭蓋骨が剥きだしになった。忍の両手にはガラスが減り込み、忍は血塗れの両手をぶら下げた。

「うげ、ああっ」

忍は壁に背を這わせて崩れた。眼球を裏返してべろりと舌を垂らしていた。

忍の悲鳴と無残な姿に焚き付けられた三代は、興奮してテレビを何度も振り下ろした。

ブラウン管に残った刃が頭皮に引っ掛かり、皮をビリビリ破いた。三代が小気味よくバカバカ叩く毎に、生々しい傷口は酷くなり、三代は破れた皮の合間に手を差し入れて、忍の頭皮をずるりと剥いていった。

「はあ、はあ、はあ」

三代は絶命した忍の亡骸を尚も殴り続けた。

不安を解消するため、信用できない人間の原型を異形の生物に変えるまで。

三代が息を乱して手を休めた時には、忍の顔の皮は完全に剥がされ、剥き出しの赤い肉が露出されていた。頭髪は引き千切られて、頭頂部に円形の穴が開き、割れた頭蓋骨の破片が脳に刺さっていた。

「ごめん。悪かったと反省している。何も殺すことはなかった。数字が君を危険だと判断したから」

三代は疲労した顔で詫び、ブラウン管が破れて開いた枠を下に向け、忍の頭に填め込んだ。

封を閉められた忍の遺体は、取り敢えず人間の原型とは違っていた。テレビを頭に被った忍の胸に刻まれた数字は二から、五万五千に摩り替わった。

三代は漸く安堵して、床に落ちたリモコンを拾い上げた。

「ふう、はあ」

三代は息を整えつつ、テレビの電源を入れた。

ブツンと鳴り、画面に数字の羅列が流れた。スピーカーは迫力ある曲を爆音で轟かせた。三代は音量を最大まで上げた。

公害となる騒音をいくら響かせても廃ビルの地下室を訪れる者は誰もいなかった。三代はその確証を得て、ほっと胸を撫で下ろした。

「これで、終わった。何が。いや、終わった。俺は生きている。これからどうする、分からない。生きているから、それでいいか」

三代は穏やかな顔付きで胸の前で両手を組み、セメントで固められた無機質な天井を見上げた。

独りきりの空間に心は安らぎ、三代は目を瞑って眠りに就いた、他人の存在を避ける格好の避難地から外へは出れず、三代は能力を自然に取り戻すまで、暗闇の個室に身を潜めることにした。

 

数週間後、未だ脅かされない安全な個室に潜伏する三代は、暇潰しに二を殺した詳しい動機について考察してみた。

他人であるとはいえ、絶大な信頼を寄せていた二を躊躇なく殺したのは疑問が残る。二が俺に直接危害を加えたとも思えない。俺の胸に一が刻まれた理由はない筈だ。ではなぜ二は二になったのだろう。俺が感慨に耽っていたのを邪魔して、十一を変えていいかと尋ねられたからか。それとも、何処の馬の骨とも知らない一万三千二百五十二と性的な関係を持ったからか。喫茶店で俺が奢ったコーヒーを撒いて、あまつさえ掃除をした五千六十三に謝る羽目になったからか。考えてみれば、外的要因も考慮しなければならないし、答えはどれでもなさそうだ。

痩せ衰えた三代は首を捻り、鼻を突く腐臭と極度の飢え、そして喉の渇きに意識を朦朧とさせながら考え続けた。

暫く時が経ち、三代は何かを思い出して、全力で笑い声を振り絞った。

「そうか、そういうことだったのか」

三代は死の縁にやっと辿り着けた答えに顔をにやけさせた。

人間の記憶情報である数字の羅列に置き換えれば容易に解けることだった。

俺は喫茶店で二にむかつくと罵倒された。

二の暴言を冷静に解析したら、俺は二を始末してやりたくなった。単純に、それだけのことだった。

 

>>戻る
動画 アダルト動画 ライブチャット