熱帯夜

 

プロローグ

 

夜が訪れ、ジェイルズ街は、街外れの大聖堂から弾かれるパイプオルガンの調べに包まれた。

今宵の弾き手は、隣町から派遣されて来たイガンという恰幅のいい男だ。昨夜までの弾き手は不慮の事故で亡くなり、彼は教会から代役を要請された。

十分以上かけて演奏されるバイプオルガンの音色は、天井へ伸びる細いパイプ菅を通って震動を伝わせ、教会の象徴である最上階の大鐘楼から超音波染みた金きり音で街全土に広がっていく。

丁度、午後十時を告げる合図だ。街の住民は目を覚まして、夜の支度に備える。

昼間の眠っていたような静けさを破り、各住民は持ち場について、漸く本格的に人間らしい活動を開始する。

自堕落極まりないため、親に絶縁された放蕩息子と職務怠慢で羊を狼に食い尽くされた元牧場主が共同で経営する酒場を街の中心部に据え、職に就いている住民の半分は露天などの商いで賃金を得、もう半分は売春や暴力を売りにした物騒な職務に従事していた。一部の大富豪は特殊な職に就いているが、いずれも夜にしか活動しない。

残された浮浪者達は大よそ死んだ魚のような濁った目をしていた。生きることに希望などないかのように。

酒と女に溺れる逃避活動にマゾヒスティックな快感を覚えているとしか思えない異常な男達は群れを成して、警官に悟られぬよう裏通りで幻覚剤を腕に注射している。

そんな荒廃した街に転属してきたイガンの瞳は、住民が本来持つべき爽やかな活気を取り戻したいと切に願う、町長に君臨したような善意に満ち溢れていた。

鍵盤を叩く指に篭る力は音を奏でるだけではなく、長年閉ざされてきた住民の眠たげな目をこじ開けようという重い気迫が圧し掛かり、傍らでイガンを見守るシスターヘリアの肌身に伝わるものがあるだろう。

住民の卑しくも活気付いた声が大聖堂まで届くようになると、初仕事を終えた安堵感から、イガンはほっとしたように深呼吸をした。

「見事ですね。イガン様。素晴らしい演奏でしたよ」

ヘリアはまず、へつらいの言葉をかけた。イガンは自身の体格のせいで小型に錯覚させられるイスから振り返る。

「ありがとう、シスターへリア、君が傍にいてくれたおかげで大成功だよ。なんてね。あはははは」

イガンは肥大した腹を揺すって照れ笑いした。ヘリアは瑞々しい頬の肌をつねって、顔の引き攣りを堪えた。

「お疲れでしょう。これで汗を拭いてください」

「すまないね」

へリアはイガンに濡れタオルを手渡した。三つの修道誓願を立てたそのか細い腕には、ジェイルズの住民とは程遠く、邪な感情は全くといっていいほど存在していないであろう。彼女は当教会唯一のシスターであった。

イガンは遠慮なく濡れタオルを巧みに使い、滝のような汗が夥しく噴き出す箇所を小まめに拭き取っていた。

「ところで、イガン様。この街に来られたのは今日が始めてなんですか」

額の汗を拭うイガンに、ヘリアは唐突に質問を投げかけた。

「そうだ。もちろん、噂には聞いていたけどね。昼間は皆家で眠り、夜にならないと起きないならず者の集まる街だってね。治安が悪くて、連日のように凶悪犯罪が起こってる、とも聞いたよ。だからこそ、僕は興味を持ち、ここで演奏してみたくなったんだ」

イガンは不器用に足を組み替え、感慨深そうに語った。

「それだけですか。他には何も」

ヘリアはちょっと驚いたように聞き返した。

「他にはって、他にも何かあるのかいヘリア。僕が事前に聞いていたのはそれくらいだけど」

「ええ、もちろんございますとも。そうとなればイガン様には、この街に巣食う悪魔のことをお伝えしなければなりません。命に関わる問題ですから、よく聞いておいて下さいね」

ヘリアは激しい剣幕で捲くし立てた。

「あ、ああ。分かったよ。じゃあ、話してくれ」

イガンは思わず姿勢を正した。

「実は、いるんですよ。街の住民が目覚めた頃を見計らって、街を徘徊する黒い影が。いざこざを起こして、鬼籍に入る人を増やす悪魔が。ああ、考えただけで恐ろしく、寒気がします。街の住民は誰一人、その悪魔の正体に気付いていな」

「なんだ、それなら僕だって知ってるよ」

ヘリアの言葉を遮り、イガンは自信満々の笑みを見せた。

「本当に、ご存知なのですか」

ヘリアは訝しげに尋ねた。落ち着きなく歩いてイガンの間近まで接近していた。

「ああ。狼だろ。心配しなくてもそんなの何処にだっているよ。僕の実家が牧場を経営しててね。夏場になると、よくエサを求めて山から現れたもんさ。丁度今のような蒸し暑い時期にね。大丈夫、僕はその手の扱いには慣れてるから。ならず者だろうが、狼だろうが、この豪腕の前に敵はいないさ」

イガンはすっくと立ち上がって、持ち前の豪腕を無闇に振り回して見せた。空を豪快に引き裂く言葉に違わない見事な素振りだったが、ヘリアは首を振って、呆れたように溜息を洩らした。

「どうしたんだいヘリア。僕の腕前じゃあ狼には通用しないかい」

ヘリアの冷たい表情を暫く眺め、薄々、そういう問題ではないのだと察し、イガンはゆっくりと動きを止めた。

「イガン様だけではありません。誰にもあの悪魔は倒せないのです」

ヘリアは下唇を噛んで俯いた。

「ひょっとして、悪魔って、狼じゃないのかい」

イガンの問いに、ヘリアは俯いたまま浅く頷いた。

「それじゃあ、その悪魔って言うのは一体何だっていうんだい」

「はい、それはですね」

ヘリアは神に何やら祈りを捧げ、真摯な眼差しで重い口を開いた。

 

 

ジェイルズ街北部、元より山間に位置する僻地であるため、道は大よそ山の傾斜に沿って傾いている。

隣町に抜ける北部からの出口は、体内を幻覚剤漬けにした若者の溜まり場になっていた。街中で尤も高所に位置するため、徒歩では多大な労力を要する。滅多に人が近寄らないので、人目に触れられたくない危険な行為も滞りなく運ぶ寸法だ。

石のタイルに散らばる練乳に似た液体が詰まったコンドーム、路肩に置かれた公共のゴミ箱から使用済みの注射器や薬の刺激臭が漂っている。両脇は高さ二十メートルはあろう西洋風の石造りの民家が街の中心部に続いている。一様に電気は消えている。まともに働いていない者は、酒場で嬌声を堪能していることだろう。

明らかに浮浪者のような黒ずんだ顔、その襤褸を纏った男は口から滴る涎をすすり、路肩のゴミ箱に顔を突っ込んだ。

「メシ、俺のメシはねえのかよお」

食料を漁る浮浪者の横には、男女のカップルが一組、二組と続き、所構わず惜し気もない性交渉を披露している。街の中心部から行き届く微かな光源が彼らの横顔を淡く照らしている。顔に点在する双眸は希望の光りを失い、濁った快楽のみの世界を泳いでいる。

「カラン、コロン、カラン、コロン、カラン、コロン、コローン」

ふと誰かが口ずさんだ。それが浮浪者の男や若者達でないのは明白だった。

声は、出口の向こうから聞こえていた。暗闇に浮かぶ草薮がガサガサと蠢いている。ゴミ箱漁りに芳しい成果を上げれなかった男は、睫毛に付いたゴミを擦り落として、草薮を注視した。

その時、草薮から黒い物体が飛び出してきた。男の極限の飢えから研ぎ澄まされた感覚が鋭敏に反応し、出口に掲げられた看板下を通り過ぎようとした黒い物体を鷲掴みにして捉えた。

黒い物体は小さな悲鳴をあげた。男が耳を澄ますと赤子のように泣いていた。眼前に引き寄せて確認すると、黒い物体は愛苦しい仔猫だった。

「なんだ、ネコかよ。いや待てよ。猫なら食えるぞ。食ったことはないが、焼いて食えばそれなりに美味いだろう。肉の塊なわけだしな。たんぱく質も取れるし、試してみるか」

男は襤褸の懐からナイフを抜き出した。治安の悪い街で生きていくために常に携帯していたのであろう。

男は猫の首を締め付け、小さな命の灯火である悲鳴を殺させ、闇に光るナイフの刃先を首筋に当てがった。黒毛に満ちた血の塊が一滴、石のタイルに跳ねた。

「カラン、コロン、カラン、コロン、カラン、コロン、カラーン」

また誰かが口ずさんだ。男はギョッとして草薮を睨みつけた。声は確実に先程より大きくなっていた。

草薮が、ガサガサと蠢いた。仔猫の時とは桁が違う強い揺れ、男は胸に込み上げてくる恐怖心から、自然にナイフの刃先を草薮に向けていた。

「だ、だれだ。出てきてやがれ」

男の呼び声に応えるかのように、草薮で蠢いていた物体はのっそり正体を現した。男と同じ、人間の形をしていた。

十歳前後の少女であろうか。闇に栄える大きめの白のワンピースを着て、雨でもないのに黄色の長靴を履いていた。直毛の髪が肩までやっとかかり、虚ろな瞳は住民のそれとは違う、寂とした佇まいを全身から発散させるためにあるようだった。

「カラン、コロン、コローン」

少女が唇を動かして口ずさんだ。首を僅かに横に傾けながら。男は少女の不気味な気質に恐怖心を拭い切れなかった。ナイフを握る手が小刻みに震える。

少女は傾斜と平行に這うようにして歩き出した。足音は立たなかった。ヒタヒタと男の脇を通り抜けようとしたが、地面に血を出して転がる負傷した仔猫に気付き、立ち止まった。

「なんだよガキ、何か文句あんの、あんのかよお」

言った男の声は震えていた。仔猫は出血多量というところだった。血の湖に全身を浸からせ、手足の弱々しい痙攣は死を暗示している。

男は警戒を怠らず、少女の胸元にナイフを突き刺さんばかりの体勢を維持していた。

「カラン、コローン」

少女は屈み込んだ。仔猫の首根っこをひょいと摘み上げ、男に無断で持ち去った。緩慢な歩行速度を崩さず、体を密着させるカップルの前を通り過ぎる。

「待てよガキ、そいつは俺の晩飯なんだよ。置いていけや」

唖然としていた男は憎悪に頬をひくつかせ、少女に追いすがっていった。男はナイフが握られている筈の腕を振り上げた。しかし振り下ろせなかった。

「あ、あれ、あ、れ」

男の腕は、肘から下がいつの間にか消失していた。腕は性交渉中のカップルの袂に転がっていた。その腕にナイフは握られていなかった。

そして今更、男は首に焼け付くような激痛を覚えた。首を押さえると両の手の平に血がベッタリと付着した。

「い、いてえ、あち、あちいい」

少女はゆっくり前進を続け、男の十メートル先を歩いていた。後方からカップルの悲鳴が聞こえ、男の生首が傾斜を勢いよく転がってきた。恐らく少女が目指す場所と同じ、街の中心部に向かっていくであろう。

「カラン、コロッ、コロッ」

少女は血染めのナイフと首の取れた仔猫の胴体を地面に投げ捨てた。

切り取った仔猫の生首を、少女はリンゴでも食べるかのようにがっぷり齧り付いていた。

 

 

著名な彫刻家が制作を手がけたという、由緒ある噴水が上空に水飛沫を舞い上げる。

ぐるっと円状になった、噴水の縁に坐る顎髭を蓄えた男達は、朝刊と夕刊を見比べながら、正面に聳える巨大な酒場から調達してきた酒を飲み、月賦を洩らす。中には酒場の経営者である放蕩息子と元牧場主が仕事を怠け、噴水に身を投じて呑気に水遊びをしていた。

憩いの場として利用される街の中央広場は、住民の過半数が夜な夜な訪れる、賑やかな場所であり、影が差している場所でもあった。

噴水の外周にはベンチと露天が交互に軒を連ね、露天からは女性の艶かしい売り声が、ベンチからは頭を抱えた浮浪者の苦労の呻きが目撃され、陰影のはっきり付いた、良くも悪くも貧富の差が激しい街の特色を示していた。

イガン・グレゴール、通称イガンは後者に成り下がった男だ。すなわち職を終われて八方塞になり、ベンチで明日の食糧の伝をどうしようか苦悩している男だった。

「ほら、食えよ」

イガンは顔を上げた。水平に潰れた帽子を被った老人が、ビニール袋に詰まったパンの耳を差し出していた。

「あ、ありがとうございます」

イガンは感謝の言葉より先に袋を奪い取っていた。強引に引き裂いて中身を地面にぶち撒ける。

「うわ、俺のメシだあ」

イガン飢えに乾いた獰猛な目をして犬のように落ちたパンの耳に食らいついた。

老人は嘲るようにイガンを見下ろしていた。

「どうだ、美味いか」

「は、はい。ありがとうございます」

老人の口元に湛えていた微笑がやや深まった。優越感に浸りたいがため、毎夜決まって浮浪者に言わせていた台詞だった。

イガンの隣に坐る浮浪者の女は、物欲しそうにパンを眺めていた。襤褸一枚で、胸が大胆にはだけていた。

「お前も食いたけりゃ、食えよ」

老人はもう一袋パンの耳詰めのビニールを取り出し、わざと地面にばら撒いた。女は至福の笑みを浮かべて、哀れも無くイガンと同様に犬食べでぱくついた。

「美味いか」

老人は限界まで唇を吊り上げて笑った。上から頭を踏みつけて、決定的な差別用語を突きつけてやりたい。深い衝動に駆られた。

「この、人間のクズが」

老人は声に出してしまった。続けて衝動に任せてイガンの頭を踏みつけた。実行したものの、欲望は満たされず、老人に新たな黒い欲望が湧いてきた。

「もっと欲しけりゃ、俺の靴を舐めろ」

イガンは何も言い返さず、老人の言う通りに従った。老人の足を掴み上げ、汚れた靴を丁重に舐め回した。

「この、クズが」

イガンはなぜか顔を蹴り飛ばされた。深い理由など無かった。一緒になってパンを食べていた女は、見ず知らずの男に襤褸を剥かれ、痩せ衰えた体を貪られていた。

「きゃひ、えぐ、あぱ」

胸を乱暴に手で潰され、女は助けを求めて弱々しい悲鳴をあげた。誰も助けてくれる者はいなかった。無関心を装った顔が幾つも強姦される女に視線を向けていた。心の内で煽っているようだった。

「やめて下さい、その子を、許してあげて下さい」

イガンが救いの手を差し伸べた。鼻は潰れておかしな方向に曲がっていた。女が安堵を見せる前に、愉悦に顔を歪ませた老人がイアンの頭を酒瓶で殴り、静観していた観客が騒ぎに乗じて集団で暴行を加えた。威勢のいい救いの使者は脆くも気を失った。

「えぐり、あぎいい」

女の体は弄ばれた。残虐性の高い男が趣向を変えて、女の手足を鉈で切り落とした。

「あばあああああ」

肉と骨が覗いた断面から、血が止め処なく溢れ出たが医療に詳しい男が早急に、スイカを縛っていた紐で血管を縛り上げ、止血を施した。女は行為を終えるまでは生かされた。

「どぎいいいい」

女は芋虫になった状態で犯され、買い物に来ていた主婦にまで嬲られた。半刻もすれば、餌を啄ばむカラスが女の死体に群がっていた。

「ああ、酷い、なんて酷いんだ。くそ、くそお、身分があれば、こんなことには」

イガンはもう、しっちゃかめっちゃか、歯を食い縛って、惨めに泣くしかなかった。

ベンチに横たわって嗚咽するイガンの側面を、小さな影が浮浪者らしき男の生首を連れて街の北部から下りて来た。

「カラン、コロン、カローン」

少女は足元の男の生首を踏み砕き、ヒタヒタ、酒場に這い歩く。

 

 

大抵、こういう雰囲気の酒場には用心棒が雇われていたりするものだ。

壁に掛かるモニターに映し出されていた、アメリカンフットボールの試合に決着がついた。百対二十の大差を付けて、青ヘルメットを被っていたチームが圧勝した。

敗戦の将を応援していた腕っ節の強い男が異様に発達した筋肉を駆使して目の前のテーブルを豪快に叩き割った。上に乗っていたグラスが木製の床に散らばった。何個か砕けて割れた。その騒音に苛立った目付きの悪い女が罵声を発した。腕っ節は女を無理やりトイレに連れ込み、容赦のない暴行を加えた。女の罵声は悲鳴に成り代わった。カウンターに坐っていた精肉の卸売りを生業にしているスーツの男は女に目を付けていた。なかなかの上物だ。死んだらステーキ肉として売ろう。己の審美眼に酔い痴れ、目先の幸せにカクテルを飲む手がますます進んだ。

スーツの隣にいた蓬髪の男は、浮浪者特有の襤褸を着ていた。騒ぎ自体が怖くもあり、誰も止めようとしないジェイルズ街の本質を改めて思い知らされ、いつ自分が女と同じような目に遭うかと想像を膨らませてしまう。浮浪者の男は混乱を収拾してくれる、用心棒の到来を先程から待っていた。

と、浮浪者の男は我慢できなくなり、やはりバーテンダーに訊いてみた。

「この店に用心棒はいないのですか」

バーテンダーは涼しい顔をして首を振った。隣のスーツが含み笑いを洩らしていた。

「そうか、いないのか」

浮浪者の男は懐から取り出した小銭入れから、泣けなしの金を掻き集め、飲んだ量に相応するだけの金額を感覚で作り上げた。

「私帰ります。これで、足りますか」

バーテンダーは無言だった。冷やかな顔は浮浪者の男に足りないと訴えかけていた。スーツの笑みが一層深まった。

「いくら、足りませんか」

腕っ節が女の死体を担いでトイレから出て来た。スーツは手を挙げ、腕っ節をカウンター席に招き入れた。

「命が、足りない」

バーテンダーは真顔で応えた。浮浪者の男は飲みかけのグラスを遠ざけて黙ってしまった。腕っ節は女を床に寝かせ、スーツと交渉に入った。

浮浪者の男とバーテンダーの会話が途絶えてから、三分ほど経過した。

「いくらなら、応じるというんだ」

スーツが顔をしかめて言った。腕っ節は強情な男だった。利用価値のない死体を無駄に競り上げている。

浮浪者の男にはスーツのそれが、バーテンダーが発したものだと誤解した。

「六十キルぐらいなら」

浮浪者の男が小銭入れを引っくり返して言った。一キルは日本円に換算して五円ぐらいの価値だ。

交渉に行き詰まっていたスーツは、六十キルという相場を遥かに下回る常識では到底考えられない金額を、てっきり腕っ節が妥協した金額を提示したのだと勘違いした。

「悪いな」

スーツは腕っ節に六十キル支払った。同時に浮浪者の男もバーテンダーに六十キル手渡した。

「これは、どういう意味だ」

腕っ節は渡された硬貨を指で捻じ曲げた。スーツの顔色に不安が宿った。バーテンダーはレジに小銭を仕舞い、領収書の代わりに引き出しから刃渡り十八センチの凡庸な包丁を取り出した。

「薄汚い人間の命が足りないんですよ。お客さあん」

バーテンダーが舌なめずりして言った。腕っ節はスーツが交渉にごねて言ったのだと曲解した。腕っ節はポケットから金属棘が付いたナックルを取り出し、両手に填めた。女を抹殺する際に用いたのか、まだ乾いていない血に棘が濡れていた。

浮浪者の男とスーツの怯える顔が並ぶカウンターに、ワンピースを着た少女が列に加わってきた。

「カラン、コロン、カラーン」

少女は床に届かない足をぶらぶら泳がせて、バーテンダーに何かを注文した。浮浪者の男とスーツは話題を逸らすかのように少女を眺めた。腕っ節とバーテンダーは釣られて、怪訝そうに酒場に似つかわしくない少女に警戒心を抱く。

「何だこのガキ、いつの間に入ってきやがった」

腕っ節が少女の背後に立って圧力をかけた。少女は微動だにしなかった。バーテンダーは仕方なしに、少女にメニューらしきパンフレットを渡した。浮浪者の男とスーツは注意を逸らしている隙に逃げる準備を整える。

「カラン、コローン、カラン、コロン、コロン、コロン、カラーン」

少女は陽気に歌ってパンフレットをめくり、右隅に描かれた包丁のイラストを指差した。そして催促するように手を伸ばした。どうやらバーテンダーの手に握られた包丁に興味を示しているようだ。バーテンダーは包丁を一瞥し、漸く口火を切った。

「殺されたいのかな」

バーテンダーの冷たい声は、足音を殺して逃げる浮浪者の男を引き止めた。少女はあっけらかんとして手を伸ばしたままだ。スーツは女の死体を背負って裏口からの脱出を図っていた。

「おい、何処行きやがる。まだ話は終わってねえぞ」

腕っ節が逃げるスーツに気付いた。浮浪者の男とバーテンダー、更に店内に三十脚はあるテーブルに腰掛けた酔いどれた客達の注目が一斉に集まった。腕っ節は背後からスーツを蹴り飛ばした。スーツは勢い余って壁に額を強打した。

「あぐ、すいません。見逃して下さい」

スーツが怯えきった目で振り返った。背負っていた女の死体は床に転がっていた。

「ふざけんな、てめえ、俺から逃げようなんざ十年早いんだよ」

腕っ節は強靭な膂力でスーツの首を掴んで壁に叩きつけた。すかさず破壊力を一点に凝縮した重い拳を顔面に見舞う。

「ぎゃば」

グチャ、と嫌な音が鳴ってスーツの顔が拳大に減り込んだ。ナックルの棘は頭蓋骨を破って脳にまで達していた。

「俺がミンチにしてやるよ」

腕っ節は拳を引いた。スーツの造形の歪んだ顔から飛散した血肉がナックルにへばり付き、腕っ節の頬に返り血が跳ねた。スーツは眼球を裏返して壁に体を預けながら崩れ落ちた。手足を痙攣させて動かない。スーツは即死していた。

「なんだ、もう壊れたのか。女より脆い奴だったな」

腕っ節はスーツの合間に手を忍ばせ、財布と書きかけの契約書を抜き取った。狂乱していた店内は水を打ったように静まり返った。モニターに放映される、戦争映画の音声が場を戦場に相応しく盛り立てていた。食い逃げを図ろうとした浮浪者の男は残虐な光景に目を覆った、まるで自身の数分後を暗示しているかのようだった。

「おっさん、この店で一番高い酒出してくれ」

腕っ節はカウンターに坐り直して注文した。代金はスーツの遺産から支払われるのだろう。殺戮劇を終始見守っていたバーテンダーは、注文通りの酒を取ろうと、背後のガラス棚の最上部に納められた秘蔵の酒に手を伸ばす。

「お、あらら、なんだ」

普段なら届いている筈の最上部に手が届かなかった。バーテンダーは右利きであったから、背伸びして右手を伸ばしていた。彼の右手首は跡形も無くなくなっていた。鋭利な刃物で切断されたような断面が覗き、大幅に短くなってる。

「なんだ、なんだよこりゃあ」

バーテンダーは左手で腕を抑えた。断面から遅れて血が噴き出してきた。モニターによそ見している腕っ節のグラスに、血のワインが並々と注がれていく。ただ一人、事実を知る浮浪者の男は顔を蒼白させていた。切断されたのは包丁を握っていた手であった。

「できたか、おっさん」

モニターの観賞を終えた腕っ節は絶句した。バーテンダーは踊るように腕を振り回して、悲鳴をあげている。首元に赤い線が走っていた。

「いてえ、いじぇええええ、なんだこれええ」

美酒に酔っていた客達はバーテンダーの動きに瞠目した。僅かではあるが顔が首から斜めにずれてきている。赤い線から血をじわりと滲ませながら、ずれは徐々に酷くなり、おぼつかない足取りになったバーテンダーはガラス棚に顔を突っ込んだ。割れたガラスと供に顔が血濡れの首を軸として一回転し、体は前を向きながら首だけ百八十度後方に曲げるという離れ業を成し遂げた。

「あきゃ」

バーテンダーの首がもげた。生首はカウンターでバウンドして、テーブルに坐る客の元へと転がっていった。

「うお、すげ、すげえ、これすげええ」

腕っ節は吠えた。歓喜であり驚嘆の叫びでもあった。一部の客も似たような叫び声を上げた。バーテンダーの死は酒代の全額免除を意味していた。

「よっしゃ、この酒は全部、俺が貰っとくぜえ」

腕っ節が鍵がかかったガラス棚を拳で破壊して、高級な銘の付いた酒を根こそぎ奪った。

「待てよ兄ちゃん、死にたくなけりゃ、その酒置いていきな」

酒を狙う客は腕っ節の独占を許さなかった。集団で寄せ集まり、数の力で腕っ節の凶悪な暴力に立ち向かう戦法を取ろうとしている。店内はまたもや混沌とした空気に包まれた。

「あんだとてめえら、殺されてえのか」

腕っ節の怒声に呼応して、カウンターを取り囲む四人は散らばった。奥にはテーブルで酒瓶を握る男性客が身構えている。腕っ節はカウンターに飛び乗ってきた無精髭の男を引き倒し、肘打ちで頚椎を破壊した。腕っ節は入り口から迂回してカウンターの裏手に回ってきた女の腹を殴り、内臓を破壊した。腕っ節は女の背後に潜んでいた酒瓶を握る男の顔を殴った。顔面が不気味に陥没した。腕っ節は横目に捉えた老人の側頭部に蹴りを入れた。老人は瞳孔を開いて勢いよく倒れこんだ。

「おらおらおらおら、酒が欲しけりゃ俺を倒してみろよこらあ」

腕っ節は客席に坐る戦意喪失気味の男を殴り殺した。男の妻であろう女は、男に寄りかかって涙を流していた。腕っ節は腰を巧みに使い、回転しながら女の頭を器用に蹴り飛ばした。弾けた女の生首がモニターに命中して割れた。

「かあっ、こりゃ若造、お前のせいでテンゾーの活躍が見れなくなったじゃねえか」

テンゾーとは、放映されていた料理番組に講師として招かれた先生の愛称だ。腕っ節は有無を言わさず反発した中年男性の髪を掴み、膝蹴りのみで血だるまに変えた。腕っ節は逃げ惑う女の目をナックルで砕いた。トイレに隠れていた男を殺して便器に顔を突っ込ませた挙句、扉を開けっ放しにして無様に晒した。腕っ節はテーブルの下で震える整った顔立ちの男の顔を金属棘で整形した。

「ひゃっはあ、ゆかい、ゆかい、もっともっと、こーろさーせーろー」

腕っ節の暴走は収まらず、もはや誰かれ構わず無関係な客を次々にナックルで殺めていった。来店してくる客は即座に処刑された。

いつしか店内は浮浪者の男と腕っ節の二人だけになった。全身から返り血を滴らせる無傷の腕っ節は、浮浪者の男を生かす積もりはない。

「さあて、そろそろ死んどくかゴミ」

腕っ節はナックルをポケットに仕舞い、指の骨をバキバキ鳴らせて浮浪者の男の恐怖を煽った。浮浪者の男は顔を蒼白させたまま一歩たりとも動いていなかった。血色の悪い唇に頬を伝う冷や汗が極代の恐怖を露にしている。浮浪者の男は腰が抜けて、カウンター席に縛り付けられていた。

「あれは人間、それとも化け物だったのか」

男は小さく呟いた。いまいち聞き取れなかった腕っ節は変な顔をした。

「何言ってんだゴミ、世辞か。でも助けてやんねえぞ」

「いや、違う、世辞じゃない。あれは多分、本当に化け物だったんだ。俺は見たんだ」

浮浪者の男の目に生気が宿った。決定的瞬間を独り占めした優越感に燃え上がっている。腕っ節は男の胸倉を片手で掴み、子供をあやすように高々と掲げ上げた。

「何を見たって。どうせつまんねえ話だろうが、殺す前に聞いといてやるよ」

男は勝ち誇ったように唇の端を歪ませた。

「悪いが、これは私だけのものに留めておきたい。もちろん誰にも教えてやる気はない。特にあんたみたいな能無しにはな」

「ほーう、ゴミの分際で能無しとほざくか」

腕っ節は軽く嘲笑い、余った手にナックルを填め、浮浪者の男の顔を気が済むまで何発も殴った。男は短い呻きを上げて穴ぼこの肉塊と化していった。浮浪者の男は不思議と満足そうな笑みを浮かべて死んでいた。腕っ節は後味が悪くなり、死への恐怖から得た悦はすっかり冷めてしまった。

「ちっ、なんだってんだよ。ゴミだからむかつくのか。いけすかねえ奴だったぜ」

腕っ節はカウンターで独り、飲み損ねていた秘蔵の酒を口に運んだ。独特の苦味と度の強いアルコールが舌をひりつかせた。

「かー、まっじー」

不味さに堪え切れず床に吐き出した。腕っ節は傍らで眠る浮浪者の十指が纏めて切断されていたのに気付いた。誤って削ぎ落としていたにしても、ナックルではこんな風にはならない、刃物によって切られた滑らかな断面が覗いている。腕っ節はバーテンダーが絶命した時の光景を思い浮かべた。

奴も鋭利な刃物で手首と首を容易く切断されていた。バーテンダー。鋭利な刃物。連想して答えを導き出す。

「包丁、か。そういや、あのガキ何処いった」

腕っ節は慌てて店内を見渡した。ガキとはワンピースを着た奇異な少女であった。バーテンダーの包丁を強請っていた姿を腕っ節は見ていた。腕っ節は手当たり次第に始末した客を押し退けて少女を捜す。何処にも見当たらない。

「おーい、出て来いよガキ。お兄ちゃんが優しく殺してあげまちゅよー」

少女は名乗りを上げて腕っ節の元に現れなかった。腕っ節は背筋を伸ばして、気だるい欠伸を洩らした。

「やれやれ、他にも用事があるんだが、逃げられたっていうのは、俺のプライドがな」

腕っ節は静かに少女を殺害するためのナックルを両手に填め、開き戸になっている酒場の扉を開けた。

少女と供に、バーテンダー愛用の包丁は店内から忽然と行方を晦ましていた。

 

 

イガンは泣き疲れて、拾い集めたパンの耳を静かにしゃぶっていた。

露天の片隅のベンチに佇む、うっすら赤い目をしたイガンを他所に、中央の噴水には歩く情報通のネロが酒場の経営者である放蕩息子と元牧場主に酒場での騒動を事細かく伝えている。ネロは事件の臭いを嗅ぎ付け、物影からこっそり覗き見ていたようだ。

「なるほど、つまり、私たちが手塩にかけて育てた酒場さんが、ウィスパー青果の三代目、凶暴者のウィスパーマクドナルド君に荒らされたと。大事なお客様は全員殺されたと。そして開業百周年記念に開けようとした、純米大吟醸肩日(かたび)を飲まれたと。そういうことで、いいんですね」

親に絶縁された放蕩息子のキグナスは顎を摩り、ネロに確認を取った。

「いや、マクドナルドではなく、マクラナルガではなかったかな。例え違っていたとしても、私はそう信じますよ」

キグナスの親友、元牧場主のクジミが訂正と盲信が混じった茶々を入れた。

「全く違います。ウィスパーの三代目は去年亡くなりましたよ。酒場で暴れていた男は名前不詳です。透き通るようなブルーの瞳から見て、恐らく北欧辺りから移住してきた新参者でしょうね。飲まれたのは吟醸山葵でした」

ネロは冷静な口調で言い直した。事情説明はかれこれ三回ほど行われていた。若い女であるネロは両目を手で覆い隠していた。キグナスとクジミは水遊びの最中だったので無防備な姿だった。オブジェから天空に射出される水飛沫を背中に浴びて、上から見下ろす格好で聞き入っている。

「名前不詳って、あんた情報屋でしょ。何で把握してないんですか、おかしいじゃないですか。狂ってんでしょ。あんた」

「すいません、二十四時間以内には必ず情報を仕入れておきます。ですが、私は情報屋ではなく、ただの情報通です」

キグナスの眉が異様な形に捻じ曲がった。表情はぎこちなく怒りを表している。自分の意志力で無理やり形作っているかのようだ。

「まあまあ、誰にだって分からないことはありますよ。どうもありがとうペロさん。是非、今度うちに飲みにきてくださいよ。バーテンダーのカトウに接待するよう伝えますから。クク、それはもう楽しい、血が飛び交う接待をね」

クジミも怒り心頭していた。皮肉めいた笑いは殺意さえ垣間見える。ネロは足元を弄り、綺麗に折り畳まれていた二人の服一式を手渡した。二人は顔を見合わせ、申し訳なさそうに急いで服を着直した。

「真に申し訳ありません。お詫びと言っては何ですが、取っておきの情報をお二人にお教えします」

「ほう、何ですかその情報とは」

キグナスの食指が素早く動いた。服は烈火の速さで着直していた。クジミはサイズが合わないのか、窮屈そうに梃子摺っている。

「先程出てきたウィスパーさんの二代目が、出勤途中に狼のつがいを見かけたそうです。商売仲間に伝えようか悩んだけど、誰か食われたら身包み剥がせるし、まあいっかって、おっしゃってました」

闇に溶け込む黒い体に、獲物に飢える深紅の瞳、獰猛な牙は肉を切り裂き骨をも断つ。クジミと非常に因縁深いクロオオカミのことを差していた。昼間は街中をうようよ徘徊しているが、夜は山に篭って姿を現さない特徴がある狼なので、夜にしか活動しない住民が聞けば愕然とするだろう。

「朗報ですね。血が滾るというものです。奴等に借りを返すためだけに私は生きてきましたから」

クジミは健康的な焼けた上半身を曝け出していた。袂には破り裂かれたシャツが落ちていた。

「何言ってんのクジミさん。その狼が羊を食べたとは限らないじゃないか。無暗に殺してやるなよ。可哀想だよ」

「キグナスさん、そういう問題ではありませんよ。狼などという下等生物は根絶やしにしてしまった方が住民の皆さんも喜ぶでしょう、要らない生物は素直に殺せばいいんですよ」

クジミは邪悪な笑みを浮かべた。動物をこよなく愛するキグナスは虫唾が走り、親友のクジミを冷酷に見据えた。

「なんですか、その目は、実に気に食わないな」

クジミは対抗して目を細めた。

「クジミさん、私のお気に入りのシャツ破っといてよく平気な顔していられますね。服間違えたじゃすみませんよ。きっちり弁償してもらいますからね」

キグナスは表情筋を無理に操り歌舞伎の形相に変えた。サイズが合わなかったのは服を取り違えていたせいだ。

「血でなら、払ってあげてもいいですよ」

クジミは両の拳を握り締めた。二人の間に張り詰めて息苦しい、かつ緊迫した重い空気が流れた。

「お取り込み中すいませんが、私も立て込んでますので失礼しますね」

ネロは頭を下げ、足早に別の用事を済ませに行った。すぐに二人の激しい口論が始まった。噴水の縁に腰掛ける怠けていた男達は、聞き慣れた漫談でも見るかのように酔っ払って拍手を贈った。

ベンチの背凭れを指でなぞるイガンの耳には、青果屋の売り声しか聞こえていない。或いは、何も聞こえていない閉鎖的な心境だろう。

「くそ、くそお。金、メシ、女、ねえのかよお」

イガンはビニール袋を頬張り、虫歯がちくりと神経を刺激する痛みで空腹を紛らわせている。パンの耳は底を尽いていた。

「カラン、コロン、カラーン」

背後からワンピースを着た少女が口ずさんだ。片手には血濡れの包丁が握られていた。

「ああ、くそ、くそ。メシ、女、メシ、女、メシ」

肉欲と食欲で飽和されたイガンには聞こえていなかった。少女はすっと腕を伸ばした。襤褸を貫通して厚い脂肪で覆われた桃尻に包丁が数センチ突き刺さった。

「くは、あぐ、ぎゃああああ」

少女は包丁を水平に薙いだ。イガンの桃尻の薄皮が襤褸ごと横に長く切り裂かれていった。イガンは激痛に体を跳ねさせベンチから転び落ちた。

「あが、ぎ、いてえ」

イガンは立ち上がり様に漸く少女の姿を確認した。

「カラン、コローン」

少女は首を斜めに傾け、何かが描かれた紙をちらつかせていた。露天からの木洩れ日だけでは、はっきりとした像に結びつかない。

イガンは固唾を飲み、次の行動を考えた。浮浪者を嬲りに来たタチの悪い子供ではなさそうだ。かといって、殺傷能力を秘めた凶器を握っているのはどういうことか。

「コロン、カラーン」

イガンが答えを導き出すのを待たずして、少女はのっそり近づいてきた。イガンは後ずさりして壁に背を着いた。逃げ場を失ったイガンは悲鳴をあげようかあげまいか躊躇した。少女が放つ気質は人間とは思えないほど不気味に歪んでいた。

「ひ、た、たすけてください。何も持ってないんです、お、お願いします」

イガンは両膝を着いて拝むように命乞いした。少女は目前で立ち止まり、イガンに紙をちらつかせた。

「カラン、コロン」

イガンは泣きそうに顔を上げた。殺意が見え隠れする少女の虚ろな瞳に怯えながら、訳も分からず紙を受け取り、目を落とした。

紙は淡い黄色のクレヨンで殆ど塗り潰された芸術性の欠片もない乱雑な絵が描かれていた。周りを黒のクレヨンで縁取っている。円形に近いが楕円にも似ている。画力足らずで復元しきれていないせいもあり、実物とは程遠いのかも知れないが見覚えがありそうな造形が思い浮かんだ。

「カラン、コローン」

少女は包丁を握ったまま、絵の内容を身振り手振りで伝えようとした。両手で空を斜めに切る仕草は傘を表しているのか。

傘の着いた外が黒くて中が黄色い造形物、イガンは頭に浮かんだ想像に確信を持った。

「もしかして、ランタンのことですか」

イガンが震えた声で問えば、少女は動きを止めた。

「カラン、コロ、コローン」

少女は調子を上げて口ずさんだ。イガンは当たりだったと悟り、少女が恐らくランタンの有りかを尋ねていたのも呑み込めた。少女は無表情のまま立ち疎み、感謝や歓喜といった表情の変化の兆候すら表さなかったが。

「ランタンは、今は電気があるから懐中電灯みたいなタイプしかありませんよ。昔使われていた古式である、黒塗りの傘を被せたロウソクで灯すタイプのランタンとなると、古物商か、金持ちぐらいしか保管してないと思います。私みたいな者は全て売り払って何もないんです。頼りにならくなくてごめんなさい」

少女に何処まで言葉が通じるか疑問ではあったが、イガンは地面に頭を擦り付けて詫びを申し立てた。

「コローン、コローン」

少女はイガンを責めようとはせず、背を向けてヒタヒタと歩み出した。イガンは無事だった。ほっと溜息をつくと周囲から悲鳴が上がった。

「なっ、なんだ、なんだあ」

イガンは忙しなく左右を見渡した。ベンチの両脇を挟む青果屋と時計屋が突然崩壊していた。布で覆っただけの簡素な屋根が風に舞い、商品を買い漁っていた買い物客と店員の生首が少女の後を追いかけるように転がっている。

「コローン、カラーン」

少女の横に並んだ通りすがりの女の手首が切れ落ちた。瞬く間に悲鳴があがった。中央広場にいる一部の住民の注目が集まった。女は腕を抑えて地面に伏し、苦痛に悶えて転げ回る。

「あんたたち、黙ってみてないで私を助けろ、早く治療しなさいよ」

女は叫んだ。大半の住民は助けるどころか振り返りもせず、普段通りの生活に取り組んでいた。女の周辺には金品を付け狙う浮浪者だけが集ってきた。これから女は適度に暴行を加えられ、身包みを剥がされる運命を辿ることになる。

「あ、ああ、すごい、あの子すごい」

イガンは少女の行為に感嘆を洩らした。女の手首が切り離されるその瞬間がイガンには見えていた。少女は無駄のない最小限の動きと超絶的な速さで包丁を振っていた。露天が潰れたのは、大黒柱であった支柱が真っ二つに切り裂かれたのが原因だ。

「カラーン、コローン」

少女は口ずさみながら噴水を通り過ぎた。身長の関係もあり、取っ組みのケンカに発展したキグナスとクジミを観戦する住民の影に隠れ、殺意をぎらつかせたナックルを填める腕っ節の視界には入らなかった。少女はそのまま古物商がある南部への傾斜を登っていった。

「二十年ぐらい前でしたかな。確かにそういう生物がいきましたよ。しかしそんなことを聞いてどうなさるんです、ネロさん。おや、ネロさん、聞いてますか、もしもーし」

電話先の生物学者の声は、情報通のネロに届いていなかった。

「あぐ、あはははは、あぐえええええ」

ネロは乱れた口調でやっと応えた。それは少女の正体を探っていた最中に草薮に引き込まれ、クロオオカミのつがいに喰い殺されているネロの最期の言葉であった。

「ネロさーん、ネロさ」

生物学者の呼び掛けは、携帯電話を丸呑みにされ、敢え無く途切れた。

 

 

少女は傾斜の中腹まで歩き、古物商のドアを留め金ごと包丁で切り裂いた。

古いドアは軋みを上げて開かれた。電気が点いていないため、先は暗くて見通せない。

「この泥棒があ」

扉の影に潜んでいた店の主人が、棍棒を振り上げて背後から襲い掛かってきた。

「カラン、コローン」

少女はゆっくり振り返った。包丁をぶら下げたまま動けず、あっさり側頭部に棍棒が炸裂した。少女は前屈みに派手に転んだ。

「あはははは、やったー、この店は俺のものだあ、気安く入ってくるんじゃねえよ、バカあ」

主人は渾身の力を込めて棍棒を振り下ろした。叩き付けられた少女のうなじが青黒く腫れた。

築き上げてきた店とかけがえのない宝を守る。主人の目的意識はそれしかない。商品に深い愛着を覚え、もはや資産として世界各地から迎合された宝物は、主人の生きる糧であり珍重に保管されていた。盗みを企てる不貞な輩に与えられるのは、死のみだ。

「ガキは失せろ、消えろ、くたばれ、散り逝け」

主人は少女の首を強く踏みつけ、背中を狂ったように全力で殴り続けた。少女のワンピースに赤い花が咲いてきた。

「カラン、コローン、コローン、コローン、コローン、コローン、コローン、コローン、コローン……」

少女は痛がらずに口ずさんだ。コローンとは一回だけしか言わなかったが、主人の耳には何十回、何百回と半永久的にループされて響いていた。

「あひゃ、きゃ、ぎゃ、ひゃ、きゃ、にゃ」

主人は断続的に呟いた。棍棒を振り上げた状態で制止している。追い討ちをかけようとしていた手は麻痺して動かない。眼球は白目に裏返っていた。

「カラン、コローン」

少女は主人の足を退けて立ち上がった。包丁を握る手が瞬時に消え、すぐに復元された。

「あきゃ、ぎゃ、ひゃ、ひゃあ」

老人の体を切るように肩口から脇腹に赤い線が走った。交差するように反対側も同様に赤い線が走った。両膝を横に赤い線が走った。正中線を縦に赤い線が走った。背中を肘を首を目を鼻を、体内にある臓器にさえ赤い線が走った。

「あべっ」

主人の身体の節々がずれ落ちた。輪切りになって床に散乱すれば、ぱらりと更に細かく分かれた。主人はあっという間に一口サイズにスライスされた。

「コローン、カラーン」

少女は包丁を肉片に突き刺し、豪快に噛み千切った。新鮮な肉の感触を堪能しつつ、不要な商品を隅に片していく。

暫く経ち、少女は店内をあらかた片付けたが、目的の商品は探し当てれそうになかった。主人がもしもの場合を想定して隠していたのか、片した商品には贋作が数多く見受けられた。少女はめげずに暖簾を潜り、店の奥にずけずけと侵入していった。

「コロッ、カラン」

口ずさみながら裏口を開け、少女は雑草が生い茂った庭に足を踏み入れた。

雑草を包丁で薙ぎ倒して進んでいくと、ブロック塀の際に、倉庫のような小屋が建っていた。扉にはセロテープでマッチが貼り付けられていた。少女はマッチを剥がして迷わず扉を開けた。

「コローン、コロン」

倉庫らしき小屋は真っ暗だった。少女はマッチを擦って明かりが点る数秒間、部屋の内装を大雑把に記憶した。

火が消えて闇になると、少女は天井からランタンがぶら下がっていた場所を弄り、触覚で空中に浮かぶ硬質な物体を確かめ、ランタンの中のロウソクに火を点した。部屋全体が柔らかい光りに包まれた。

「カラーン、コローン」

店内とは違い、ここは流石に整理整頓が行き届いていた。中央のプラスチックケースには数億の価値はあろうかという宝石が貴賓あるクッションに填め込まれている。周囲をぐるりと囲う絵画や珍しい調度品の数々は盗品としか思えない、教科書に登場してくる価値が付けれない名作まで飾られていた。

「コローン、コローン、カラーン」

少女は眼球だけを器用に回して左の陳列棚を調べた。視認して目的のものではない要らない商品だと判断すれば、片っ端から破壊していく。

少女の包丁を握る手が陽炎のように出現したり消滅したりを繰り返した。時計回りにツボは鋭い音を立てて割れ、絵画や巻物はズタズタに切り裂かれた。

「カラ、コロッ」

少女は包丁を振るのを止めた。部屋中の商品がほぼ壊滅状態だった。中央のプラスチックケースを残して、正物の残骸があちこちに散開していた。

少女はそれでも無表情を保っていた。眼球だけは獲物を探すように忙しなく動いている。木屑が落ちる微かな音に瞬時に反応して包丁を振った。内心穏やかではいられないのか、洗練されていた筈の無駄のない動きに、多少粗が目立ってきた。

遂には無闇に包丁を振り回し出してしまった。中央のプラスチックケースが割れて、ガラス片が舞い上がった。

「コロッ、コロッ」

少女は飛んでくるガラス片を包丁で全て弾き返した。弾き返されたガラス片はランタンを吊り下げる紐を断ち切って天井に刺さった。物理法則に伴ないランタンは元は宝石のあった貴賓あるクッションの上に落下していく。

「カラーン、コロッ」

無表情だった少女の眉が一瞬動いた。そして手を止めた。クッションに落ちたランタンは黒塗りの傘を被り、ロウソクを内蔵している旧式のタイプに似ていた。少女が表現したかった絵に瓜二つだ。

少女は傘を摘んでランタンを持ち上げてみた。見た目より重量感があり、片手で持つには一苦労させられる上等な代物だった。

「カラン、コローン、カラーン、コローン」

少女は包丁を頬に強く当てがい、縦に五センチほど切り込みを入れた。裂かれた筋肉の奥は暗闇の空洞になっていた。空いた隙間から覗く異質な形をした物体は、探していた正真正銘のランタンをじっくり鑑賞していた。

「はあ、はあ、やっと見つけた」

ドアが勢いよく開き、倉庫にイガンが駆け込んできた。少女は裂けた頬肉を手の平で覆い隠して振り返った。

「や、やあ。いきなりで悪いんだけど、助けて欲しいんだ」

イガンの脇腹は抉り取られていた。蛇行した傷口から夥しい血が流れている。イガンは息を乱し、脂汗を流して今にも気絶してしまいそうな険しい顔付きで惨事を物語る。

堰を切ったように、口速に、イガンは狼の来襲によって大混乱に陥った中央広場の状況を説明して、最後に助けて下さいと少女に懇願した。

「コロン、コローン」

少女は首を斜めに傾け、イガンを観察するかのように視線を全身に這わせていた。

長引いた事情説明を聞き終えると、少女は包丁で削ぎ落とした腕の皮を破れた頬に血糊で貼り付け、静かに頷いてあげた。

 

 

警官は銃を所持していない。携帯しているのは極めて稀な大富豪である。

ジェイルズ街の交番にある触書だ。知らぬ住民はいないだろう。貧富の差によって身分は決定付けられる。金品の量が人の品位や風格に表れると住民は信じて止まないのだ。犯罪の引き金となる殺傷能力に富んだ銃には法外な値が付けられ、身分が低ければ店先で門前払いを食らってしまう。購入に至るには認可が下りるほどの権威と莫大な資産が必要なわけである。

銃を所持している大富豪は、千人を越える住民の中にたった一人だけであった。

猟師のカリムだ。本業の不動産会社を見捨て、現在は主に兎などの小動物を中心に狩り、肉を無償で住民に提供して趣味に生きている。たまに大動物もやる。彼は銃と引き替えに財の半分を捨てた中毒ともいうべき、狩りの虜である。

警官の間に彼を中央広場に派遣しろと呼ぶ声が強まったころ、東部の傾斜から、肩からバックを提げ、背中に御自慢の銃を引っ提げたカリムが狼退治に乗り出してきた。

広場は既に狼の気配はなく、カリムの目の前には祭りの後の光景が広がっていた。死体がそこらじゅうに転がっている。狼に上から踏み潰されたのか、青果屋と時計屋の露天はひしゃげて原形を留めていない。傍らには他の胴体を抉られた死体とは特徴の異なる婦人の生首が幾つか転がっている。

「ん、聞こえる」

カリムは、死角である噴水の裏側から微かに聞こえる生存者の声を察知した。静まり返ったため、音量が絞られずに淀みなく耳に響いてくる。

カリムは狩猟用のライフル銃を前方に構えた。引き金に指を添え、周囲に警戒を配りながら足を進める。

「おい、そこに誰かいるのか、いるなら返事してくれ。俺はカリムだ。この街の住民なら名前ぐらい聞いたことあるだろ」

老婆の死体を跨ぎ、カリムは噴水の間近まで迫ってきた。生存者は重傷を負っているのか、小さな呻き声しか返って来ない。

「聞いてるのか、カリムだ。猟師のカリムだ」

噴水を迂回して裏側に回り込む。生存者の声は小さくなっていた。カリムは横目に見知った男の死体を発見した。

酒場を経営している元牧場主のクジミだった。抉り取られた脇腹から腸がはみ出し、噴水のオブジェに寄りかかる格好で死んでいる。おぞましい形相を凝固させてカリムを白目で睨んでいるように見えた。共同経営者のキグナスの姿は見受けられない。

「死んだか、クジミの旦那。キグナスのガキも死ねば、俺が街一番の称号を授かるんだがな」

カリムは微笑して、噴水の縁に沿って足を忍ばせていった。縁に背を預ける生存者の横顔がちらりと覗いた。

二十代前半の若い男だ。タンクトップとシャートパンツのラフな装いをしていた。透き通る青い瞳は虚ろに夜空の星を収めている。カリムは男の筋肉に目を引かれた。腕周りは一体何センチあるのか、隆々と発達した尖ったこぶに覆われている。盛り上がった太腿は片足だけで痩せた女性の胴体ぐらいはありそうだ。男は酒場で暴れていた腕っ節に相違ない。

「飲めるか、まあ、一応飲んどけ」

カリムはライフルを背に戻して屈み込み、バッグから取り出したペットボトルを腕っ節の口に無理やり含ませた。腕っ節はナックルが填った手でボトルを掴み、握力で潰して中の水を一気に吸引した。美味そうに喉がグビグビ鳴り、腕っ節は深い息を吐いた。

「ありがとよ。あんた。恩にきるぜ」

腕っ節は何の前触れもなく右拳を振ってきた。カリムは咄嗟に後方に跳んで躱すが風圧が前髪を揺らめかせた。腕っ節は苦痛に顔を歪め、うつ伏せに倒れた。背中を覆うタンクトップの生地は円形に破れて赤い肉が覗いていた。傷は相当深く、背骨が剥き出しになるまで掘られている。血は不思議と流れていない。

「無理すんな。早く医者に見せた方がいいぞ」

カリムは用心に銃を向けた。腕っ節は笑う膝に手を着いて立ち上がる。立つだけで精一杯の足元がおぼつかない状態で、腕っ節は薄笑いを浮かべた。

「は、はは。いってえ。あんた、ガキ見なかったか。丁度、あの小便小僧のオブジェぐらいの女の子をさ」

腕っ節はクジミの死体が寄りかかるオブジェを指差した。精巧な細工が施された全裸の少年のオブジェ、容姿はともかく背丈は少女と遜色がない。

「与太話は後にしてくれないか。それより狼は何処だ、すぐに答えて頂きたいね」

カリムの目が獲物を狩る時の眼光を放った。銃身を真っ直ぐ伸ばして腕っ節の胸に発射口を突きつける。

「狼、何それ。そんな奴しらねえな。ソフトクリームみたいな顔した怪物ならいたけどよ」

「では、その怪物は何処にいった。茶化すようなら次は撃つぞ」

カリムは表情は冷静を装い、内心は激怒していた。突発的に理不尽な攻撃をしてきた、腕っ節の態度が気に食わないようだ。

「しらねえよ、自分で探せ」

腕っ節は窮地に置かれながら、両腕を上げて攻撃態勢を取った。殺意が宿るナックルの金属棘をカリムに向ける。

すると、カリムの背後から突如として現れたクロオオカミが、足音を殺して背後から忍び寄ってきた。

「そりゃあ残念だ。俺は役立たずは嫌いでね。悪いが死んで貰うよ」

カリムは狼に気付かぬまま、指に力を加え引き金を引い、

「ひゃっはあ、どっちがー」

た。背後から飛び掛った狼の牙がカリムの頭蓋骨を砕いて深く食い込んだ。息を合わせて腕っ節が放った重い拳が鼻の頭をへし折り、眼球にナックルの金属棘が突き刺さった。腕っ節は怯んだカリムの銃身を叩きながら踏み込み、照準を大きく逸らせて脇腹の外側に銃口を向けさせていた。

「あげえ」

銃を離したカリムは目を押さえて倒れた。すぐさま巨大な狼の爪牙がカリムの喉元に襲い掛かり、カリムの体が簡単に振り回された。

「ぎゃ、あぎゃあああああ」

断末魔と鮮血が一緒になって宙を泳いだ。カリムは全身を硬直させて苦痛に叫ぶしかできなかった。銃を失ってしまえば反撃する術がない。

「こっちがですかー」

腕っ節が陽気に拳を振り下ろした。金属棘が肋骨を砕いて肝臓を破裂させ、カリムの体は地面に叩きつけられた。引き剥がされた際に喉の肉が牙に絡まり大量に抉り取られた。

「あ、ああ、きたね、きたねえ、なに、なに、お前狼と友達なの」

虫の息になったカリムが弱々しく呟いた。

「こっちなんですかー」

腕っ節の追撃の拳が鳩尾に減り込んだ。カリムは内臓破壊に呼吸困難、出血多量が重なり、死に至るには十分過ぎる程の深手を負った。

「ゆるさねえ、ころして、やる」

カリムは手を伸ばして見えない銃を探した。富豪としての威厳がそうさせるのか、不気味な微笑みを張り付かせて平静を崩さない。

「だから、どっちがなんだって言ってんだろうが」

腕っ節は手を強く踏みつけて阻止した。カリムのライフル銃を先に拾い上げ、銃口を口に咥えさせた。

「うるせえ、こっちだよ、こっち」

カリムは覚悟を決めたように弱音を吐いた。

「あ、やっぱり」

腕っ節は笑って引き金を引いた。弾丸が後頭部を貫通して地面が黒く焦げた。カリムは大口を開けて全身を痙攣させていた。やがて腕っ節の指令が下り、狼に顔の皮を剥がされ、肉を貪られた。

「食べ過ぎるなよバリー、これで二十人目だろ。腹一杯になったら、あの忌まわしいクソ女の肉が食えないからな」

狼は腕っ節に吠えて、カリムの股間に喰らいついた。腕っ節は鼻歌を鳴らしてカリムのバッグから重要書類を抜き取った。

浮浪者を除く住民が常備を義務付けられている身分証明書だ。当初から計画的にこれを狙っていたとでもいうのだろうか。

「これで俺の役目は終わり。後の分はチヨが何とかするだろ。そんじゃ、個人的な制裁に乗り出すかね」

腕っ節は腕を交差してタンクトップを破り去った。背中に腕を回してシールを剥がし取る。背骨と肉片がリアルに描かれたシールだった。シールに隠れていた部分は無傷の隆々しい背筋があるだけだった。

「う、ぐじい、必ず、ころしーてーあげるよー、待って、ろよー」

腕っ節は体を丸めて、狂気に犬歯を剥いた。手足がぴくぴく高まる殺人への快楽に武者震いしている。

「うふ、クククク、あーっはっはっはっ」

腕っ節は天に高らかな笑いをあげた。静まらない腕っ節の邪悪に満ちた感情を制したのは連れのバリーだった。足に甘く噛み付き、先を急ごうと主人を引っ張ろうとする。

「ごめん、ごめんよ、バリー。取り乱しちゃいけないね。さあ、一緒に行こう。殺しに、行こう。チヨも直に追いかけてくるよ」

バリーが察知した方向、腕っ節は人の臭いがするらしい南部へと歩き出す。偶然にも少女と瀕死のイガンが刻一刻と中央広場に向かってくる道と同じ道を共有することになった。

 

 

負傷のキグナスは、命からがら単一の交番に辿り着いた。

「俺だ、キグナスだ。頼む。俺をかくまってくれ。馬鹿でかい狼に追われてるんだ」

交番には警官が三人いた。やる気のない顔をした傍の警官は耳クソを穿って言った。

「キグナスさんだという、身分証明書はありますか」

机に坐って紫煙を巻き上げる警官が手の平を差し出した。自信たっぷりに証明書を催促している。

「それが、身分証明書は狼に盗まれちまったんだ。だが、本物だ。顔みりゃ分かるだろ」

「証明書がない、それは困りましたね。いえね、近頃高位の方に変装して、悪事を働く愚者がいるんですわ。キグナスさんの顔はよおく知ってますけど、変装の達人である可能性もありますしね」

奥で指名手配犯のポスターを眺めながら、三人目の警官が言った。いずれも護身用の警棒を腰に差している。

「本当だって。信じてくれよ。どうせ報酬がないと動きもしないんだろ。後でいくらでも払うよ。だから、頼む」

キグナスは手を合わせて懇願した。顔中に爪痕がくっきり残っている。右足首は抉れて千切れかかっている。キグナスは支え棒を着いてバランスを保っていた。

「人聞きが悪い。我々は真面目に薬漬けの浮浪者共を捕まえてますよ、たまにね」

「そういえば、キグナスさんって、動物愛好家でしたよね。どうして狼に襲われるんです。仮に本物だとしたら、手なずけれたりできるんじゃあないですか」

「バカ野郎、愛好家だからって狼なんか懐くわけねえだろ。それにあれは怪物だ。人のいうことなんかまともに聞きゃあしねえよ」

キグナスの剣幕は激しくなっていた。血が足りないせいで視界がぼやけてくる。

「そういわれましてもねえ。中央広場にカリムさんが向かってくれましたし、この件に我々が関与する理由は何一つないんですよ。せめて、前金で百万キルぐらい包んでくれないとなあ」

「百万キルだと。身の程をわきまえろ。お前らの年収の何倍だと思ってんだよ。なあ、頼むから助けてくれよ。狼が来てんだよ。食われちまうじゃねえかよ」

キグナスは誇りを捨て、頭を床に擦り付けて必死に頼み込んだ。警官の一人は警棒で肩を叩いて、同僚と顔を見合わせる。

「どうする、こいつ。偉そうだし、うざってえな」

「ああ、生意気なキグナスさんが頭下げるなんて有り得ねえしな。大体、あいつ何様だと思ってんだよ。身分が高いからって調子乗ってんだぜいつも」

「そんな冷たいこといわないでくれよ。頼むよ、他に行くあてもねえんだよ。助けてくれよ」

二人はポスターを眺めていた警官に視線を向けた。彼が決定を下す立場にいるらしい。

「そいつを外に放り出せ。身分証明者がないってことは、浮浪者だってことだ」

「了解」

警官二人は命令に従った。キグナスの腕を掴んで強引に外に連れ出そうとする。

「おい、待て。待ってくれよ。俺はキグナスだよ。間違いないって。顔知ってんだから分かってんだろ。おい、聞けよ。離せよお。殺されちまうじゃないかよ」

「黙れ、浮浪者の戯言を聞くものが、この街にいると思ってるのか」

キグナスは静かな通りに投げ出された。頼りの支え棒が斜面に沿って落ちていく。カリムが狼を処理するまで住民は自宅で待機するよう厳重注意されているため、人気は全くない。明かりの付いた民家の窓から、キグナスより立場の弱い親子が嘲笑うように見下ろしている。

「お願いだ、助けて、助けてくれよ」

キグナスは交番に戻る警官の足を掴んだ。足を振って払い除けられるが、離されても執拗に足にしがみ付いた。

「離せ、薄汚い害虫が。お前達の人権は認められてないんだよ。立場をわきまえろ立場を」

「だから、キグナスだって言ってんだろお。お願いだよ、助けて下さいよお」

キグナスは泣いていた。クジミと地道に築き上げてきた身分を否定されるのは、キグナスにとって親の勘当より遥かに屈辱的で堪え難いものだった。

「離せといってるだろうが」

警官は警棒を振り下ろした。手の甲の骨が折れる鈍い音が響いた。

「がああああああ」

キグナスの腕に激痛が走った。その場でのた打ち回り、弱々しく助けを求める。

「お願い、助けて、助けてください」

警官は微笑を湛え、仰向けになったキグナスの顔に警棒を振り下ろした。

「あぎゃああああ」

「バカかお前は。浮浪者っていうのはなあ、黙って身分のある者に殺されるためだけに存在してるんだよ」

警官二人は愉快に笑って警棒を振り下ろした。キグナスの腕は滅多打ちにされ、青黒い斑点が増殖してきた。窓から静観していた親子は電話を取り、隣の民家に住む老夫婦に教えてあげた。車椅子の老人が窓際に向い、キグナスを見下ろした。

「うげあああああ」

千切れかかった足首が警棒で完全に断裂された。支え棒の後を追って転がり落ちていく。

「助けて、助けてよお」

キグナスは表情筋を無理に動かして悲しみを作った。

幼少時に両親から受けた虐待に強い精神障害を負い、キグナスは一時期完全に感情を表に出せなかった。そのツケはキグナスから表情を奪い、キグナスは自分を無愛想にさせた両親を呪った。自堕落に走り、親に勘当される引き金となった消し去りたい過去だ。

「うげえっ」

キグナスの悲しみの表情が埋もれた。爪痕の上にあざと瘤が重なり、表情筋をいくら無理に動かそうとも感情の判別は付かない。

「いぎゃああああ」

連絡網のように電話が回り、キグナスが見下ろせる場所に位置する民家の窓には、大勢の観客が詰め寄せていた。

警官が浮浪者を殴り殺す光景はさして珍しくないが、高位な身分な者となると話は変わり、日頃虐げられてきた鬱憤が晴れ、集客力に繋がるようだ。

冷やかな視線がキグナスの精神を蝕み、警棒の連打がキグナスに直接的な外傷を負わせる。住民の心境と警官の欲望は合致していた。

「あぎゃあああ」

すなわちキグナスを殺せだ。住民と警官の興奮は絶頂に達した。キグナスはクラゲのように全身を打ち砕かれ、見るも無惨な醜態を晒していた。

「このまま殺してやるぜ、キグナスさんよお」

キグナスに止めの一撃を見舞おうと、腕を振り上げた警官の頭頂部が剥がれた。

「あ、なんだあ」

警官は頭の皿に手を当てた。脳と血の汁が飛び散り、膝を着いてキグナスの上に被さった。

「お、なんだ」

隣の警官が頭の禿げた警官の異変に気付いた。屈み込んで容態を調べようと、頚動脈に伸ばした手が食い千切られていた。窓に詰めた観客は、警官の背後からクロオオカミが飛び掛った瞬間を見届けていた。

「ごっ、がばっ」

研ぎ澄まされた爪が首に食い込み、後頭部から丸かじりにされた。脳ごと骨と肉が喰われてしまい、警官は先に崩れた警官の上に覆い被さった。狼は積み重なった人山の頂点に着地した。

「ひ、ひいい」

キグナスは苦痛を堪えて体を捩る。成人男性二人分と狼一匹分の体重が重く圧し掛かり、力の弱ったキグナスでは脱出できそうにない。

狼は食べかけた脳味噌の処理に勤しんでいた。見開かれた残忍な青い瞳に通常のクロオオカミを遥かに凌ぐ巨体、禍々しい棘がおうとつを作る首輪には、キグナスの身分証明書が丸めて挟んである。体毛を刈り込まれた腹部は食事を取り過ぎたのか異様に膨れ上がって警官の腹に接触しそうになっている。無心に脳を喰らうその動作には微塵の躊躇もない。

狼は街に侵入してきたつがいの片割れである、メスのチヨであった。

「狼さーん、そっち違うよお。こっち、こっちを食べてよー」

民家の窓が開き、キグナスを終始見守っていた少年が指示を下した。キグナスの顔から血の気が引いていく。

僅かとなった脳を丸呑みしてチヨは少年を見上げた。背後にいる母親が手を振ってチヨに尤もらしい声援を送っている。

「うぐっ、重いんだよ、バカ」

邪魔な警官を押し退けようと努めていたキグナスは無謀にも声を出した。憎悪に苛立ちが募って思わず洩らしてしまった言葉を、チヨは切り立った耳で察知した。首を下げて、キグナスの無惨な顔を覗き見る。

「あ、ああ、ちが、今のは違う。ガキだ、ガキが言った、ガキが言ったんだー」

キグナスは首を振って責任転嫁を図った。チヨは聞く耳持たず、素早く警官から飛び降り、冷酷な足音をキグナスの頭部から迫らせる。

キグナスは生への執着から、大きく息を吸い込み、呼吸を止めた。

チヨの巨大な影が顔に下ってきた。

「グウウ」

チヨはすっと頭を下げた。長い鼻先がキグナスの額を小突いた。キグナスは喉まで出かかりそうになる悲鳴を堪えた。

チヨは大口を開いて牙を剥いた。ねっとりした舌から涎が滴り落ちた。ポタポタと鼻に降りかかり、喰われる恐怖心を煽られる。

息を止めても無駄、このまま震えて死を待つしかないのか、何か助かる方法はないのだろうか、キグナスは思考を巡らせ、土壇場に名案を閃いた。

「お、おお。怖い、怖いよ。俺が悪いなら謝るよ、ごめんなさい。だから、だから、さ。お詫びに美味いもん一杯食わしてやるよ。いや、俺じゃ、俺じゃないよ。人肉なんかよりもっと美味い肉があるんだよこれが。ネルカ地方に生息する、ギャマっていう牛の頬肉でね。これがまた美味いんだよ、な、だから、いいだろ。な、な、ぬぎゃっ」

キグナスの額から牙が潜り込んでいき、頭蓋骨を砕いて脳を引きずり出された。キグナスの媚はチヨには通用しなかった。

ペチャペチャと乾いた音が鳴る。チヨはキグナスの脳を舌で削り取って暫し味わうことにした。

「お前さん、ちょっと見えないよ。横にどいておくれ」

民家の窓から少年の母親が注文を付けた。チヨが覆い被さった影響で死角が生まれ、キグナスの姿が見えなくなったようだ。チヨは責任を感じ取ったのか、脳を零したキグナスが見える位置まで移動した。

「あらまあ、キグナスのバカが本当に死んだよ。やった、あははははは」

少年と母親は高らかに笑った。隣の民家からは老人がほくそ笑み、下の階に住む男は歓喜に酒瓶を口に突っ込んで一気飲みし始めた。

チヨは脳だけを咥えて、キグナスの死体に狂乱する観客を尻目に立ち去っていった。

「ウオーン」

チヨは噴水前まで戻り、月夜に向かって遠吠えをした。作戦完了の合図だ。

遠く離れた傾斜に悠然と構える、バリーと腕っ節はしかと待ち望んでいた返事を受け取った。

「ウオーン」

バリーがこちらに向かえと合図を返す。

腕っ節は夜目を最大限に利かせて道の先を窺っていた。電気の付いた民家が軒を連ねる通りはS字に曲がり、うねりのある傾斜の途中には平坦な道が続いて、また傾斜になっている。

「おやあ」

腕っ節は前屈みになった。平坦な道に二人で連れ歩くカップルがいる。襤褸を着た浮浪者の男とランタンで足元を照らす、刃渡り十五センチほどの包丁を握ったワンピースの少女、あの酒場で逃がした少女だ。

「ひゃあ、見いつけた。もう一度、君に会いたかったんだ」

腕っ節は初恋のような胸のときめきを禁じ得なかった。指の骨を鳴らせ、向こうから発見される前に、地面を強く蹴って全力で駆け出した。バリーは主人に足並みを揃えて従順に着いて行く。

「ねえ、頼んでといて悪いんだけど、ここでちょっと休まない。体がだるいんだ」

手負いのイガンは眠るように民家の塀に凭れかかった。少女はランタンを近づけ、血色の悪い顔を照らし出した。傷口から無闇に血が流れ続け、貧血気味になっている。

「コローン、カラーン」

少女は傍で屈み込んだ。ひょっとしたら殺されるんじゃないかと、イガンは不安を募らせた。

少女は意外にも脇腹の傷口から突き出た静脈血管を瞬時に切り裂き、ワンピースの裾を破いて、患部を縛り上げた。少女なりの応急手当をしたらしい。

イガンは言葉も出なかった。眉一つ動かさずに広場で惨殺を繰り広げた少女が、自分に尽くしてくれる理由が未だに分からなかった。少女に助けを求めた時、殺されても文句は言えないと覚悟して頼んだのだが。

「カラーン、コロン」

少女が何かの気配を察して立ち上がった。イガンは息を乱して動こうとはしなかった。

小さな足音が急速に大きくなってくる。少女はうねりの中間に位置する、平坦なこの場所から下り坂を見下ろした。

バリーが先陣を切ってS字の曲がり道を疾走していた。後方から疲弊した腕っ節が奇妙な掛け声で奮起して迫ってきている。

少女は振り向いてイガンを見た。

「カラーン、コローン、カラーン」

「ん、なに」

異常事態を知らせた積もりが会話は一方通行だった。少女の言葉を理解できないばかりか、イガンは意識が朦朧として足音さえ満足に聞こえていない。

その間にもバリーは駿足でうねりの傾斜に差し掛かってくる。少女は表情筋に力を込めた。

「カラーン、コローン」

少女は表情を懸命に操り、初めて笑顔を作った。ぎこちないはにかんだ笑顔だった。イガンは微笑ましそうに安堵して、疲れ体を塀に預けたまま、目を閉じて眠りに就くとした。

 

少女はランタンで足元を照らして包丁を構え、バリーを迎え撃ちにヒタヒタ下りていった。

「バリー、絶対に殺すなよお。そいつは俺の獲物だからなあ」

腕っ節はS字から注意を大声で促す。牙を剥いた巨大な黒の塊は主人の命令に従う様子はなかった。

少女との距離が瞬く間に十メートルに狭まり、バリーは大口を開けて加速してきた。少女の鈍足では対応しきれない猛スピードだ。

「カラン、コロン」

少女は目の前に迫ったバリーに包丁を振った。だが、バリーは既に背後に跳んでいた。少女は気配を頼ってゆっくりと後ろを振り返った。

「バオオッ」

バリーは喉に目掛けて飛び付いてきた。少女が遅れて振った包丁は右耳を削ぎ落とした。研ぎ澄まされたバリーの爪が肩に食い込んだ。少女は後方にバランスを崩し、バリーはそのまま少女を押し潰した。絡まった二人は傾斜に伴なって滑り台の要領で落ちていく。

「こらあ、バリー。殺すなっていっただろうがあ、これで死んだら只じゃ済まさねえぞ」

腕っ節は息を切らしていた。S字の中腹で膝に手を着き息を整えている。バリーと少女は傾斜とS字の変わり目で漸く停止した。手を着いてゆっくり立ち上がる少女の首筋を、逸早く飛び起きたバリーの牙が手荒く出迎えた。

「バリー、いい加減にしろ」

少女は倒されて喉を抉り取られた。バリーの牙が返り血に染まる。少女は揉み合っている際に包丁を途中に落としていた。ランタンだけはしっかり握られて離していない。振り回されているにも関わらず、中のロウソクも寿命を切らさず明かりを灯していた。

「カラン、コローン、コローン、コローン、コローン、コローン、コローン……」

少女は頭を持ち上げ、喉に喰い付いて離れないバリーの耳元で囁いた。俊敏な動きを見せていたバリーが途端に震え出した。

「ウオッ、グオッ」

バリーは牙をあっさり外して、噎せ返るような酷い咳に苦しんだ。少女は立ち上がって傾斜を登って行く。包丁を取りに行かねば戦えないのだ。

「催眠術、いや、あれは確か」

復調した腕っ節は、再びS字の道を全力で駆け出した。

「カラン、コローン」

少女の足は確実に遅くなっていた。長靴が石のタイルに滑り、踏ん張りが利かないので転びそうになりながら前進している。抉られた喉には暗闇の空洞が覗き、奥から光る目がちらちら揺れている。暫く挙動不審に歩くと、ランタンが照らした足元に待望の包丁を見つけた。

「グオッ、ゴッ」

咳をこじらせてバリーが追跡してきた。獰猛に剥かれた目は闘志が萎えていない。少女はゆっくり拾い上げ、ふらふら歩いてくるバリーに振り返った。

「コロン、コローン」

少女は包丁を振った。バリーの体毛が風に揺れた。包丁を持つ手が残像を残して円状に軌跡を作り、バリーの首周りに赤い線が走った。

「バリー、深追いするな。戻って来い」

バリーは主人に振り返った。尻尾を丸めて泣きそうな目をしている。首輪の付いた太い首が赤い線に沿ってずれていく。

「バリー、死ぬなあ、戻って来い」

腕っ節がうねりの傾斜に差し掛かった。バリーは主人の元に歩いていった。首が地面にバウンドして転がった。バリーの四肢は歩みを止めなかった。昆虫のように生を保って、倒れてしまいそうな激痛に絶え、健気に主人の命に従おうとする。

「嘘だろ、バリー」

腕っ節はバリーの生首を拾い上げて固まった。バリーの胴体は曲がり道で折れてしまい、民家の庭に突っ込んで力尽きた。

腕っ節は心臓が張り裂けそうな悲しみに下唇を強く噛んだ。胸に抱いていた少女への怒りが黒く、より黒く塗り潰されていく。傾斜をマイペースに下りて来る少女を捉える瞳が極代の憎悪に渦巻いた。

「ぐるじいよ、俺とバリーとチヨと三人で約束してたのに。この仕事が終わったら別荘を買って、何不自由ない静かな生活を送ろうって決めてたのに。それなのに酷い、酷いよ、ひゃあ、もうやっばーい」

腕っ節は体を丸めた。全身が狂気か或いは歓喜に震えている。少女を殺めたい衝動を抑え切れない。高位な身分証明書を依頼人に売却する殺戮計画のついで程度だった標的が、憎くて憎くて堪らない。少女を殺すことが腕っ節がこの街に訪れた本来の目的であるかのように目的意識ががらっと入れ替わる。

「カラ、コローン、コローン」

忍び寄る少女の足音、闇に浮かぶランタンの明かりが腕っ節の鍛え抜かれた腹筋を照らし出す。

少女は殺気立った重苦しい空気を肌身に感じ、間合いから一歩離れた位置で立ち止まった。腕っ節は噛み潰した下唇から血を垂らして、愉悦に歪んだ不気味な表情を張り付かせていた。ナックルが填った指がわらわら獲物を求めている。

「やっと再会できたね。嬉しいよ。でもね、いきなりころしちゃうよー」

腕っ節は笑いながら腰を捻って不用意に間合いに入り、少女の顔を一撃で破壊できる威力を秘めた右拳を振り下ろした。

「コロ、コロ、コローン」

少女は冷静に包丁を合わせた。右肘の付け根から下が宙に跳ね上がった。

 

腕っ節は降り注ぐ自らの熱い血に頬を緩めた。

嘗て圧倒的な強さの前に平伏した惰弱な人間は数知れど、無傷を誇ってきた自慢の体に傷を負わされる人間に出会ったことはない。しかも筋肉の繊維が締まった鋼の腕を一撃で断てるほどの強者だ。

腕っ節は初めて恐怖というものを体感し、少女の強さに感動していた。

「はあ、怖い。お前、人間じゃないだろ」

腕っ節は、目の前の少女が人間ではない別の生き物であると直感していた。

「カラン、コローン」

少女その問いにいつもの調子で答えた。ランタンが照らす範囲に、地面に蹲る腕っ節の顔が収まった。

少女は包丁を横殴りに振った。腕っ節は咄嗟に後方に跳んだ。

「いぎ、ひゃああ、いたいよ」

腕っ節は血が溢れてくる胸を抑えた。赤い線が肉を切り裂き寸前のとこで骨に達しようとしていた。

少女は包丁を構え直し、緩慢に前進してくる。腕っ節は立ち上がって後ずさりした。腕っ節の後歩きより少女の足は決定的に遅かった。

互いの距離は少女にとって深刻なまでに遠く広がった。

「遅い、あいつ足が凄く遅いんだ。ひゃあ、そうか、そうだったんだあ」

腕っ節は興奮しながらも冷静さを取り戻していた。不用意に飛び込んだ代償が腕一本なら安いか。そう妥協できた。

距離を取っていさえすれば手出しはできない。腕っ節は慎重に作戦を練る。培ってきた経験を活かして有効な攻撃方法を考える。

腕っ節は少女をどのように料理するか嬉しそうに悩み、身の安全が脅かされない効果的な攻撃法を思い付いた。

「チヨ、広場から銃を持ってこい。大至急だ」

腕っ節は近くまで迫っているであろうメスのチヨに向かって叫んだ。チヨが手筈通りに全速力で走れば五分も経たぬ内に運搬されてくる。

「カラーン、コローン、コローン、コローン、コローン、コローン、コローン……」

腕っ節が気を緩めいてる隙に、遠く離れた傾斜から少女がカラーンの後にコローンと一度だけ叫んだ。空気が奇怪に震動を乱し、コローンの部分を何重にも膨れ上がらせて腕っ節の耳に吸い込まれていった。

「ひゃ、なんだ、うえっ、ぐるじ」

腕っ節は胸焼けを引き起こし、全身がびりびり焼け付いた。脳が強制的に舞い踊らせれ、地面が異なる形に歪んで見える。

気分が急激に悪くなる。嘔吐しそうに体がだるい。腕っ節は膝を着いて動けなくなった。道の先を注視すると少女との距離はまだ十分に稼げていた。

五、六分は持つだろう。それまでに容態が回復しなければ不味い。

「バリーを殺した時にもやってたな。獲物を捕らえるための怪音波ってところか。油断してた。今のは耳を塞がなきゃいけなかったんだ。何をしてるんだ俺は」

腕っ節は自嘲気味に笑い、這うように後ろに下がった。少女の速度より随分遅いが少しはましになった。

終始一貫して無表情だった少女は後ろを顧みた。イガンを心配しているのだろうか、戻る時間を考慮すると、これ以上距離が開くのは思わしくない。

三分経過した。狼の根絶を待ち切れなくなった民家は続々と電気を落として就寝に入っていた。辺りは闇といっても差支えない暗さになった。腕っ節は体が軽くなるのを実感していた。少女は躊躇いながら歩いているせいで更に遅くなっている。

距離の心配が完全に消え、腕っ節の思惑通り背後からメスのチヨがライフル銃を咥えて駆けてきた。腕っ節はにやりと笑った。

「チヨ、良くやった。早くよこせ」

チヨは首を振ってライフル銃を投げた。腕っ節は回復してきた体を起こして片腕でがっちり受け取った。

イガンと狼退治との板挟みで浮ついた気持ちの少女の前から、二つの高い足音が返ってくる。夜目が利く腕っ節とチヨは少女の姿をはっきり捉えている。

ランタンがぼんやり照らすタイルの先に、腕っ節が銃を構えて立ち止まった。間合いの外、包丁は届かない。保険にチヨまでいる。

腕っ節は揺るがない勝利を確信した。

「やあ、待たせてごめんね。色々と準備に手間取ってさ」

少女は気配を察して顔を上げた。首を傾けはっきりしない標的に視線を送る。

標的が口元に深めた微笑を少女は見えていなかった。

「ひゃあ、お詫びに殺してあげるー」

腕っ節は奇声をあげ、引き金を引いた。

パアンと乾いた銃声が鳴り、少女の肩口に弾丸が命中した。爆ぜた肉片がワンピースを汚く装飾していく。

「コローン」

少女は力弱く肩を撫でた。肉が剥がれた部分に暗闇の空間が覗いている。

「どう、痛い、痛かったら痛いって言っていいんだよ。ね、ね、痛いでしょ、ねえ、痛いでしょおー」

腕っ節は興奮を抑え切れず、次弾を発射した。

少女の脳天を弾丸が貫いた。衝撃で少女は首を反らして、ゆっくりと元の位置に戻す。開いた穴には暗闇の空間。

「グルウウ」

チヨが腰を落として唸った。変調した異様な殺気に怯えているようだ。

息を乱して悦に入っている腕っ節は周囲を取り巻く黒い影に気付かなかった。脳天を打ち抜かれて尚生きてる化け物に弾丸をプレゼントする。

「痛いっていっちゃいなあ、ほらほらほらさー」

少女の腹部に弾丸が刺さった。少女はワンピースを摘んで生まれた空間を覗き見、破れられた箇所を細かく見ていた。

「どうしたの、痛くないの、それとも痛いの、ねえってばあ、答えようよ、ずるいよ、いえよー」

腕っ節は片腕で容易く引き金を引いた。弾丸は少女の耳を掠めて逸れていった。腕っ節はまた撃った。弾丸は少女の髪の毛の遥か上空を突き抜けて消えていった。

「あ、あれえ、おっかしいなー」

腕っ節は命中精度が落ちてきたことに疑問を抱きつつ引き金を引いた。カチャリと詰まったような弾切れの音が鳴った。

腕っ節は冷たい汗を流した。悦に達していた興奮の坩堝から冷めていき、我に返った時に漸く、無数に漂う人型の黒い影が銃身を叩いて邪魔していたのが分かった。チヨは地面に伏せて体を震わせている。

「コローン、カラーン、カラーン、コローン、コローン、カラーン、カラーン、カラーン、コローン」

少女はいつもより長く口ずさんだ。ランタンを包丁で撫でている。灯っていた明るい黄色がみるみる褪せていき、闇と同色の黒に豹変した。

腕っ節の見ていた景色が完全な闇となった。傍らで怯えるチヨの気配は僅かに感じる。少女は気配すら消えて闇と同化している。位置が掴めない。

「おい、ずるいぞ。だんまり決め込んだり、隠れたりするなんてさ。卑怯者。出て来い。そうか、俺が怖いんだろ、まともにやって勝ち目がないから逃げたんだろ。ほら、答えろよ」

腕っ節は虚勢を張って拳を構えた。並外れた聴覚を活かして、息遣いを頼りに攻撃を仕掛ける積もりだ。

チヨの息遣い、荒くて乱れている。心臓音まで聞こえてきそうな静寂な闇の中で、腕っ節は死の淵に立たされているような極限状態を楽しんでいた。

「グオーン、ボローン、グオーン」

低い唸り声が背後から聞こえてきた。腕っ節は振り返って暗闇の空間を全力で殴った。柔軟な筋肉を殴ったような手応えが腕に走り抜けた。

「ひゃは、見つけたあー」

腕っ節は調子付いて拳を繰り出した。当たった傍からボスボス音が鳴る。腕っ節は狂ったように回転速度を上げて連打する。

「うおおお、貰った、俺の勝ちだあ」

「キャビッ」

地響きが鳴り、腕っ節の頬に血の散弾がビビっと跳ねた。腕っ節は顔を蒼白させ、聞き覚えのある嫌な悲鳴を上げたチヨに視線を向けた。そこには血に塗れた幅広の銀色の物体が浮かんでいた。銀色の物体は鈍く上昇していき、絡め取ったチヨの体毛が混じった肉片を腕っ節の脇に重たく落とした。

「グオーン、グオーン、グオーン」

腕っ節は両腕を下ろして、物体が停止した空間を見上げた。

「くっ、なんだ」

突如、眩いばかりの閃光が腕っ節を襲った。完全な闇が元の薄暗い街並みに戻っていった。

腕っ節は恐る恐る目を開けた。目の前に尋常ではない大きさの手が数百キロはありそうなランタンを持ち上げていた。

腕っ節は周辺の陰影差から、計り知れない巨大な影に覆われているのを自覚した。限界まで首を反らして上空を見上げた。

「グオン、グオーン」

「ひゃ、ひゃああ。凄い」

腕っ節は感嘆を洩らした。全長十メートルはある少女が巨大化した人形が刃渡り五メートルの包丁を背中まで振り被っている。実際は人間かもしれないが見てくれは化け物に違いない。腕っ節は人形の腹に指先を触れさせ、滅多打ちに殴っていた標的に何一つ傷を負わせられなかったのを知った。綿が入っているように簡単に減り込んで衝撃は全て吸収されている。

「バリー、チヨ、天国から見ているかい。俺はとんでもない化け物に出会ったよ。しかしこれは困ったな。あんなばかでかい包丁に切られたら、俺は死ぬのか。いや、まさか、まさか」

腕っ節は微笑して両手のナックルを地面に捨てた。人形は腕の関節がないため包丁の刃先が石のタイルを掠めるまで曲げている。振り下ろされれば一溜まりもないだろう。

腕っ節は胸に手を当て、人心地を取り戻そうと深い息を吐いた。

「ねえ、君は言葉が分かるよね。だったら話を聞いてくれないか。俺を殺して君に一体何のメリットがあるんだい。そもそも君が俺を殺す理由はない筈だよね。俺は何の危害も加えていないだろ。むしろ先に仕掛けてきたのは君じゃないか。それって、理不尽だよね。だよね。反論があるなら聞いてあげるよ。でもないだろ。俺は何もしてない、バリーとチヨと三人で暮らしたい夢を持っていた、何処にでもいるしがない男なんだよ、ちっぽけなね」

腕っ節は血溜まりとなった造形のないチヨを眺めながら語った。人形は無感動に一太刀の威力を跳ね上げるよう努める。刃先がタイルに減り込み、包丁を持つ人形の脇が伸びて軋みを上げてきた。

「そういえば、お互いの自己紹介がまだだったね。君の言葉は分からないから、俺から自己紹介するよ。そして仲良くなろう。じゃあ言うね、まず俺の名前はね」

「グオーン」

人形は、ずぼっと包丁を引き抜いた。右腕が勢いよく回転して腕っ節の頭上に銀色の刃が降ってきた。

「ね、ネームは、俺の名前、聞いてくれないのお。ひゃあ、うひゃあ、いやだ、死にたくない」

名前不詳の死にたくないは真っ二つに両断され、重量感ある太刀は止まらずに石のタイルを粉々に砕いた。腕っ節の体は半分に別れて崩れ落ちた。両の目からは別々に悔し涙を流していた。

「グオーン、コローン」

人形は巨大なランタンを包丁で撫でた。太陽のように燦然と煌く黄色は色褪せて闇に包まれ、次第に小さな灯火が民家の塀を照らし出した。刃渡り十五センチの包丁を握る、虚ろな瞳をした血染めのワンピースを着た少女が髪を振って再臨した。

「コローン、カラーン、コローン」

少女は腕っ節の死体の傍に行き、地面に包丁を突き刺して、まるで冥福を告げるように口ずさんだ。

少女は包丁を抉り抜いて、また歩き出す。

恩義を果たしたイガンに会うため、時間をかけて歩いてきた下り坂をヒタヒタ這い歩く。

一抹の期待を込めて、這い歩く。

 

 

ランタンを微かに振る少女は口ずさむ。

「コロン、コロン、コロン、カラーン」

イガンは脇腹の傷口を押さえて眠っていた。穏やかな顔をして寝息を立てている。

少女は肩を並べてイガンの隣に坐った。ランタンを中央に置いて二人の顔を仄かに照らす。

「コロン、カラン、コロン、コローン」

少女ははにかんだ笑顔を作った。一度目より上達して完成度が高くなっている。すやすや眠るイガンに見て欲しいのだ。

少女は目を覚まさないイガンの顔に触れ、顎の輪郭に沿って指でなぞった。

イガンはそれでも起きなかった。少女は無意識に包丁をイガンの首筋に当てた。

「コロン、コローン」

少女は刃先を肉に沈めた。首筋に生じた赤い線から血が垂れる。

イガンは重い瞼を漸く開け、少女の顔を見詰めた。脳天に開いた漆黒の空間から光る目がこちらを睨んでいた。

「カラン、コローン」

少女は首を傾け、色目付いた視線を贈った。笑顔は崩さない。

包丁の刃先は首の肉に埋まった。イガンは包丁を一瞥して、恐怖にたじろいだ。

「やめろ化け物、俺に近寄るな。触るんじゃねえ」

イガンは叫んだ。包丁を強引に引き剥がして、震えた指を少女の脳天の穴に突き入れた。

イガンは死にたくなかった。幼少の頃から負けず嫌いだった。ただひたすら誰よりも楽して生きたい夢を持っていた。実家を追われて浮浪者になっても、人生の大逆転が巡って来ると信じて疑わなかった。努力はしなくても大富豪になれる才があると思い込んでいた。狼に脇腹を抉られて、瀕死になってもだ。

光る目はイガンの過去を洗いざらい調べ上げた。生き延びるためにランタンの在り処を教えた本心、化け物同士を戦い合わせ、あわよくば共倒れして欲しいという本心、生還していれば見世物にして利益を上げようとしていた本心、化け物はこの世に要らないという少女にとって決定的なまでの辛い現実を読み取った。

「コローン、コローン」

少女は失意の念に苛まれた。イガンに寄せていた恋心は儚く散った。

少女は不器用に人を求めていた。化け物の自分を受け入れてくれる器量と分け隔てなく付き合ってくれる優しさを併せ持つ理想の人を探していた。ランタンの明かりを頼りに注意深く観察すれば、そんな人が見つけられると信じていた。

少女は包丁を振り上げ、漆黒の空間で泳ぐ用済みの指を切り落とした。

「があああああ」

イガンは泣きそうに顔を歪めた。少女は立ち上がって容赦なく包丁を振り下ろした。イガンの右耳が削ぎ落とされた。

「いてえよ、やめろよ、何だよお。俺は女、メシ、金、地位や名誉、全部手に入れる男なんだ。お前なんかに殺されてたまるかあ」

イガンは少女に殴りかかった。歴然とした力の差がその腕を切り落とす結果に結びついた。中指が取れた右腕は宙に跳んだ。

イガンは絶体絶命の状況でも根拠のない死なない自信があった。見えない力で守られている。自分は特別な存在であると宗教の域に達するまで盲信していた。浮浪者になっても生きてこれた原動力だ。

「俺は強いんだあ」

少女は冷笑を浮かべていた。手に入らない人間を自らの手で殺める快感を、心から愉快に楽しんでいるようだった。

「カラーン、コロン」

少女はイガンの右足を太腿から切り落とした。イガンは地面に手を着いて弱々しく少女を睨んだ。

「いてえよ。くそお。畜生、バカあ」

少女は包丁を振った。イガンの右目が斜めに切れた。

「やめろってんだよお。だから化け物を要らないんだよ。消えろ、今すぐこの街から消えちまえ」

少女は包丁を斜め下から振った。イガンの唇の端に刃先を引っ掛け左耳まで裂いていった。

「う、うう。ああっ、うわああああ、もう駄目だあ」

イガンの前向きな思考がとうとう転んだ。頭の中は恐怖で埋め尽くされた。

容赦なく全身をなます切りにされ、迫り来る確かな死の予感を否定する余裕は振り絞れなかった。

イガンは諦めに堕ちた目で少女に最期の命乞いを訴えかけた。

「助けて、下さい」

イガンは震えた声で精一杯の言葉を作った。

「さ、よ、な、ら」

「え、言葉が話せるの」

少女は興味を失ったように目を坐らせた。か細い腕に似合わぬ重い包丁を振り上げ、月夜の下で包丁を振った。

「君は何者、本当は、人なの」

疑問を発したイガンの体に赤い十字線が走り、四つの肉塊に別れた。イガンの遺体は少女の袂に転がり、力無く痙攣していた。

「コローン、コローン、さ、よ、な、ら、カラーン、コローン、カラーン」

少女はイガンに別れの言葉を告げた。包丁でイガンの腕の皮を剥がして撃たれた箇所に血糊で貼り付け、ランタンを拾い上げる。

「カラーン、コローン、カラーン」

少女は調子を低く落として口ずさみ、足元を照らして北部の出口から暗闇の藪に体を押し入れた。

包丁で飛び交う虻や藪を切り裂き、獣道を進んで辿り着いた先には、住民に起床を告げる街外れの教会が聳え立っていた。

「カラーン、コローン」

少女は大鐘楼のある塔の扉を開けた。

 

エピローグ

 

シスターへリアが語る悪魔とは、つまるところ人間の邪悪な心を指摘していた。

凶悪犯罪を起すのは人のエゴであり、食べるためだけに人を襲う狼とは比較にならないほど危険極まりない悪魔であると力説していたのだ。

ジェイルズ街には、欲の深い卑しい人間が多いから気を付けなさいとイガンは有り難い言葉を頂戴した。

「悲しいものですね。争いが無ければ、平和に暮らしていけるのに。人はどうして争いを止めないのでしょう」

ヘリアは手を合わせ、神に犯罪を起す人の分まで懺悔していた。

「欲があるからだろうね。私の親族にもそんな奴がいてね。犯罪に走る度胸は無かったみたいだけど、好き放題にやってたよ。今頃は、何処をほっつき歩いてんだかね」

親族とは、少女に殺されたイガン・グレゴールのことだ。

「全て邪悪な心が悪いのです。善良な心さえあれば、人は貧富の差がなく暮らしていける。身分なんて階級があるから邪悪な心が生まれる。そう思いませんか」

「ああ、そうだね」

肥満のイガンは疲れた顔で応えた。時計は深夜の三時を回り、顎に無精髭が生えてきていた。

イガンはパイプオルガンの演奏をとっくに終えたので、早く帰宅して睡眠を取りたかった。

十時三十分から話は始まり、夜の十一時に少女が街に現れ、深夜の零時に中央広場で狼騒ぎが起こり、深夜の二時に親族のイガン・グレーゴールが亡くなってから漸く、ヘリアの長話は終了した。イガンはずっと我慢して聞いていたのだ。

「そういえば、外が随分静かになりましたね。今日はいつも以上に騒がしかったのですが、何かあったのでしょうか」

ヘリアは応えようのない質問を投げかけた。

「分からないな。何があったんだろ。まあいいさ。明日になれば分かるよ」

イガンは空腹と眠気に堪え切れなくなり、話を手短に終わらせる答えを選んだ。

「明日まで何て待ち切れません。何かとてつもない良からぬことが起きたのではないでしょうか。また無闇に罪を重ねる人がいたらと思うだけで。ああ、イガン様、今から私と一緒に街を巡回しに行きませんか」

嫌だよ。早く帰りたい。

「えっ、今、何か言いましたか」

「いや、何でも無い」

イガンは心を読まれたのかとヘリアを勘繰った。

「仕方ありませんね。こうなったら私一人で街を見てきます。イガン様はここで待機して、私が三時間以内に戻らないようなら、探しに来てくれませんか」

やっぱり心を見透かされている。イガンはヘリアの特殊能力に動揺を隠し切れなかった。

「イガン様、顔色が悪いようですけど、御気分が優れないのですか」

「い、いやあ、そうじゃないよ。悪いって言えば悪いんだけどさ。それより、こんな真夜中に外を出歩くなんて危ないよ。今日は休んで、せめて明日の朝になってから出発しよう」

「はあ、そうですね。何事も無ければいいのですが」

イガンは安堵の溜息をついた。

「カラーン、コローン、カラーン、コローン、コローン、コローン、カラーン」

イガンの耳に鐘の音が響いた。慌てて眠気に落ちそうになった瞼を上げ、パイプオルガンの鍵盤を誤って弾いたのかと我が手を疑った。

「懐かしい音色。何ヶ月ぶりかしら。彼女が教会に来るなんて」

ヘリアは天井を見上げて微笑した。イガンもそっと天井に首を向けた。

天井には変わり映えしない、見慣れた内装が施してあるだけだった。

「ヘリア、彼女って誰だい。今のはパイプオルガンの音じゃないの」

「はい、違います。今のは山奥に住む彼女の歌声です。恐らく人じゃないんですが、何というか、裏表がなくて素直な子でしてね。たまにこうやって歌いに来るんですよ。住民は誤ってオルガンを弾いているのだと勘違いするので、落ち着いて下さいね」

「へえ、変わった女性だね」

イガンは適当な相槌を打って、少女が奏でる音色に耳を澄ませた。

「カラーン、コローン、カラーン、コローン、カラーン、コローン、コローン、カラーン、コローン」

清涼感があるが何処か耳障りな音調が響く、音に精通したイガンには、少女の歌声に違和感を感じた。

「なんだか、淋しそうだね。別れの曲みたいだ」

ヘリアは自信に満ちた表情を浮かべた。

「きっと彼女も人間の邪悪な心を哀れんでいるのですよ。神に遣える使途だと私は思っています。この街の救世主になるかもしれませんね」

イガンは眉をひそめた。ヘリアの見解とは大きく異なり、純粋な悪意が見れ隠れしているような気がした。

「だといいね」

イガンは無理に口を挟まず、心の奥底に封じておくことにした。

 

塔の頂上は風が吹き荒び、少女の頬を熱風が叩いていた。

「カラーン、コローン、カラーン、コローン、カラーン、コローン、カラーン、コローン」

少女の体を揺らして歌う。ランタンが風に靡く髪と少女の横顔を照らしている。血濡れの包丁は大鐘楼に突き刺さっていた。

「カラーン、コローン、カラーン、カラーン、コローン、カラーン、コローン、カラーン」

少女は独り歌う。浮浪者のために虐殺された住民或いは殺してきた人間への鎮魂歌ではなく、失恋した逆恨みを込めて人間に宣戦布告を告げるために大声で喚き続ける。

「カラーン、コローン、カラーン」

殺戮に飢えた、少女が歌う。

 

>>戻る
動画 アダルト動画 ライブチャット