NUDE

 

夏の陽光が、発汗を促進させる。

雑踏に紛れて姿を現した彼女は、外出前まで乾いていたであろうシャツを、水を被せられたように汗に濡らせている。肌が透け、乳首が突起してシャツを押し上げ、不自然な起伏がもたらされている。

路傍の公衆ベンチで寝ていた、赤牧は上体を起こして、食い入るように乳首を中心とした、彼女の胸元辺りに視線を釘付けにしている。

彼女は赤牧を一瞥もせずに、さっさと早足で赤牧の脇を通り抜けた。陽射しに決してだれたり溶けたりしない、均整の取れた顔立ちは無表情に凍り付いている。冷静で知的な印象を客観的に与えようとしてるのか、表情とは対照的な、だらけ切った服装からは説得力が感じられない。

彼女は白いシャツに似つかわしくない、深紅のハイヒールを履いて同色のショルダーバックを肩から提げ、下半身にはズボンやスカートはおろか、パンツさえ履いていなかった。ファッション街を意気揚々と歩く若者の混雑に紛れて死角になっているのか、或いは、国民性ゆえか、不思議と誰も気に留める者がいない。赤牧の本能と好奇心は激しく揺さぶられた。

赤牧は藍色の質素な帽子を目深に被り、彼女の後を追った。ローラーブレードの車輪を地面に滑らせながら加速していく。

彼女は赤牧の追跡を悟ったのか、即座に歩行速度を増していき、五十メートル先の上空に広がる木の葉に覆われ、日陰の闇の中へ包まれた。赤牧は人を押し分けながら、群集の背中の隙間から僅かに覗いた、彼女の後姿を追跡し続ける。全力で滑っているにも関わらず、一向に差が縮まらない。

「おい、君、ハイヒールの君、ちょっと止まってくれないか」

堪え兼ねて彼女に叫んだ。大勢の人達が冷やかに振り返った。いずれも彼女ではない。遥か前方に、桃尻を淫らに揺らして歩く彼女が存在する。赤牧は頭を下げて、そそくさとローラーを走らせる。

彼女は歩幅や回転数を段違いに跳ね上げ、遂には全力で駆け出していた。ハイヒールが地面を蹴る高い音が響き、彼女の体は分岐路で折れ曲がった。赤牧がスプリンター張りに飛ばしていくが、追いつく気配さえない。

赤牧が漸く分岐路に差し掛かり、方向転換した頃には彼女の姿は消えていた。屋台が軒を連ねる細い通りだ。迂闊に先へ進んだとしても何処かに潜んでいる危険性がある。赤牧はここで追跡を諦め、悔しそうに舌打ちした。

「ああ、もったいね。結構、可愛かったのになあ」

「あら、そうですか」

赤牧の背後から手が伸びてきた。

「えっ」

赤牧が振り返る前に手は口を塞いだ。同時に赤牧の肩から追いかけていた筈の彼女の顔が飛び出してきた。赤牧は心臓を素手で掴まれたかのごとく、顔を蒼白させて固まった。

「あの、どういうおつもりかは知りませんが、追いかけて来ないでくれませんか。恐らくあなたは、私が変態か露出狂かと勘違いされたんでしょうが、違います。これが本来あるべき姿なんです、詳しい事情は言えませんが、とにかく付け回さないで下さい」

彼女は睨みを利かせて一方的に説き伏せた。恐慌状態に陥りそうな赤牧の背中を摩り、彼女はバックから名刺を差し出す。

「もし、どうしても、納得できないようでしたら、そちらへどうぞ。お茶菓子ぐらいなら出しますので」

赤牧は名刺に目を落とした。中央に青井静と名が書かれ、住所が横に添え付けされていた。彼女の自宅だろうか。

「よろしくお願いしますね。約束を守れなかった場合は、まあ、いいでしょう。それでは」

口を塞いでいた手と顔が引っ込み、彼女の気配は裏道から消えた。赤牧は肩で大きく息を繋ぎ、安堵の溜息を吐いて、その場にへたり込んだ。

「ラッキー、これで、もう一回会える」

赤牧は名刺を再度眺めて、とびっきりの笑顔を作った。諦めに堕ちていた瞳の色は、高まる期待に澱んでいた。

 

赤牧は代返を知人に頼んで教室を出て行った。

母から授かった仕送りと、薬局で購入したコンドームを財布に無造作に押し入れ、男子トレイの洗面台で念入りに寝癖のついた髪を引き伸ばす。

赤牧は今になって、彼女の突然の誘惑に当惑していた。かつて女性に触れた経験や、声をかけられた甘い思い出などに乏しわけではないが、いざとなったら気後れしてしまう腑抜けた性格のせいだろう。色が剥がれたジーンズのポケットに収められた名刺は、緊張と興奮のあまり、何度も何度も見直し過ぎて、グシャグシャになっている。

「こんにちは」

がっしりとした体躯の女が男子トイレに入ってきた。洗面台の鏡に映る彼女の姿は上半身だけシャツを着ている。下半身は無防備そのものだ。

「こんにちはあ」

赤牧は鏡越しに女を捉えて、社交辞令を交わした。女は平然と赤牧の後を通り過ぎ、何の躊躇いもなく個室に入った。便器に腰を据え、水を一度流す音が静かなトイレに響き渡る。赤牧は髪の最終調整に余念が無い。

「えっ」

赤牧は手持ちのクシを洗面台に置いた。

「今の、男か」

赤牧は思い出したように鏡から視線を外して、訝しげに女が入った個室を見詰めた。女が男子トイレに入って来るなんて有り得るだろうか。赤牧は漸く事態の異質さに気付いた。

「あ、あの、ここ男子トイレ、ですけど」

赤牧は聞き取れないぐらい微弱な力でドアをノックした。口から発せられた言葉も上擦ってしまっている。

「入ってますよ」

女は冷静な口調で告げた。ずっしりと重みのある野太い声だ。

「あ、そうですよね。ごめんなさい、邪魔しちゃって」

赤牧は何処か違和感を覚えつつも平謝りに伏した。恐る恐るクシを手に取り、先程より明らかに素早く髪を整え始める。得体の知れない恐怖に、一刻でも早くトイレを出たいのが本音だ。

暫く経ち、整髪を終えた赤牧は、シューズを脱いで、ローラーブレードに履き替えた。

「あ、すいませーん、誰かー、誰かいませんかー」

個室から赤牧を指しているであろう不気味な声が聞こえ、赤牧は頬をひくつかせて振り向いた。

「何ですかあ」

「すいません、紙が、紙がないんです。お願いします、紙を取ってくれませんか」

個室から、芯だけとなったロールを空回りさせる音が聞こえた。そこまでしなくても分かるのに、赤牧は心の中で呟いた。

同情と良心が働いて、赤牧は隣の個室の扉を開けた。中には貧弱そうな男がエッチ本の虜になっていた。赤牧は即座にドアを閉めた。

「早くしてくれませんか、急がないと大変なことになっちゃうんです」

「あー、はいはい、投げますよお」

赤牧は渋い表情で、その隣の個室から抜き取ったロールを投げ込んだ。堰を切ったような怒涛の紙が摩れる嫌な音が鳴り、何度も水の流れる音がした。赤牧は溜息をついて、黙ってトイレを立ち去った。

外は旧校舎の一階にある、閑散とした廊下だった。夏休みに突入したため人気が全くない。通常はここのトイレを利用すること事態珍しいのだが。赤町は手持ちカバンから藍色の飾り気のない帽子を取り出し、目深に被った。

「ふう、じゃあ気合入れて行くか」

赤牧は更に黒のグローブを両手に填め、ローラーを走らせた。遠慮のないスピードは忽ち校門を潜って、名刺に記載された彼女の住処を目指している。左右交互に地面を蹴る足は、高鳴る快楽への予感に力強さを増していった。

「ありがとうございます、おかげで助かりましたー」

男子トイレの個室からは、女の野太い深謝が無常に響き渡っていた。

 

名刺に記載されていた住所によれば、大学近隣にある、集合団地の六階が彼女の居所らしい。

赤牧は役目を終えた帽子を脱いで、ローラーブレードをシューズに履き直した。三人も入れば鮨詰め状態の密度の狭いエレベーターに乗り込む。偶然、赤牧一人だけだったので、監視カメラに構わず無駄な動作で緊張を解していた。背伸びは既に五回を数えていた。

エレベーターが三階で停止した。重量感あるドアが軋みを上げて左右に開いた。

「こんにちは」

待っていた女が笑顔で言った。白いシャツ一枚を羽織り、下半身には衣を纏っていない。露出された太腿は萎んで女の魅力を殺している。蛍光色のスプレーで塗りつぶしたようなピンク色の髪は光を放ち、女の顔に塗り固められたファンデーションを不必要にてからせる。つまるところ、女は若返りを望んでいる高齢者なのかもしれない。女の全身から発散される酸の強い香水の異臭には、赤牧も鼻を摘んでしまった。

「こ、こんにちは」

幾分、変調した声で赤牧は挨拶を返した。

「はい、こんにちは」

女は窮屈そうにエレベーターのパネルボタン正面の空間を陣取った。ランプが点灯している五階のボタンを押す。光りを認識できないのだろうか、赤牧は壁の隅に目一杯体を預けて、極力、香水の匂いから逃れようと懸命になっていた。

そうこうしている内に、エレベーターは上昇を始める。四階、五階で立ち止まることなく、六階で停止した。

「お先に、失礼しますね」

女は赤牧に頭を下げて、エレベーターを先に下りた。赤牧は閉まりかけた扉に腕を挟まれながら、痛みを堪えて後を追いかける。女とは進行方向が同じであった。

二人は誘導されているかのように、五階内で唯一庭が付属した六〇五号室に辿り着いた。女がインターホンを押して、赤牧は距離を置いて様子を傍観している。扉が開いて、シャツ一枚の見知った女が立ち疎む女を出迎えた。名刺に記載されていた名前が確かならば、出迎えた女は青井静だ。

「あら、桃田さんじゃありませんか。それに、あなたは」

青井は曲がり角から顔を覗かせていた赤牧を見付けて冷笑を浮かべた。桃田と呼ばれた女も合わせて振り返り、前屈みになって目を凝らした。やはり光りを認識できないのか、はてまた、視力が著しく衰えているのか、赤牧の存在を認められないようだ。眉間に皺が寄っている。

「誰かいるのかい、青井ちゃん」

桃田が、青井に視線を向けて言った。

「はい、ちゃんといますよ。ほら、こっちにいらっしゃいよ、変態さん。約束通り、お茶菓子ぐらいなら出してあげますから」

「違う、俺は変態じゃない」

赤牧は顔を真っ赤にして、発作的に全身を現した。青井は口元に拳を当ててクスクス笑う。桃香はだらしなく口を開けて、涎を滴り落としていた。

「どうぞ、お入り下さい」

青井は真摯に二人を部屋に招き入れ、扉にしっかり鍵をかけた。

 

女の一人暮らしにしては豪勢だな。

赤牧は出された日本茶を飲み干して、自分の置かれた生活環境とはレベルの異なる、異次元のような青井の物件に嫉妬していた。いや、青井一人で住んでいるとは、必ずしも限らないのだが恐らくはそうであって欲しいのだ。赤牧は痺れてきた足を叩いて、座布団に正座し直す。

部屋の内装は、海を模しているのだろう。壁紙は熱帯魚やらマンボウやらが描かれた青色の落ち着かない部屋だ。リビングらしき居間には、コンポやらDVDレコーダーやら、45V型のデジタルハイビジョンテレビなど、近代的な家電製品がリビングに置かれてあった。

赤牧と桃田は茶の間のようなこぢんまりとした部屋へ通された。壁紙は変わらず海を模している。青井がお茶を立て、桃田と赤牧はぶしつけの作法で飲んでいる格好になっていた。

「美味しいですね、粗茶ですけど」

桃田が至福の表情で皮肉めいた感想を洩らした。青井は無表情に桃田の茶碗を受け取り、御替りを立てる。深緑色の抹茶は、舌に鮮烈な苦味を味あわせ、赤牧は吐き戻しそうになった。

「美味しいですか、人前に出すのは、初めてなんですが」

青井は苦悶に顔を歪めた赤牧に問うた。

「いや、そのなんというか、苦いです」

赤牧は膝元に茶碗を静かに置いた。殆ど口を付けておらず、半分以上が満たされたままだった。

「失礼ですね。嘘でも美味しいって言うのが礼儀ってもんでしょ。まったく何なんですか」

青井は露骨に嫌悪感を示した顔付きになった。椀を取り上げ、建水に茶を全部捨ててしまった。シャツ一枚の女に行儀をとやかく言われたくないと、赤牧は内心思った。

「ところで、変態さん。あなたここに何しに来たんですか、まさか本当にお茶菓子だけを目的に、お呼ばれなさったの」

青井は姿勢を正した。凛とした純粋な瞳に、赤牧は気圧されていた。財布に入れたコンドームが意味するものは。不純な動機だ。

「はい、そうです」

青井は片眉を軽く吊り上げた。

「信じられませんね、何かいやらしいことでも考えていたんじゃあないんですか」

赤牧は目を背けた。赤牧にとって、桃田がこの場に居合わせている時点で当初の計画は狂いを生じていた。抱いていた淫猥な妄想は、青井と二人きりの性行為に他ならない。女が自分の部屋に男を呼ぶ意味を、赤牧は純に受け止めていた。

桃田は啜り音を存分に立てて、青井に茶碗を手渡した。

「おかわり」

「はいはい、分かりました」

青井は乱暴に茶を立てて、茶碗を桃田に返した。

「で、どうなんです、言えないんですか」

赤牧は押し黙っていた。思考が錯乱してしまい、適当な言い逃れすら思い付かない。胸に込み上げてくる切迫した情感に苛まれている。桃田の香水の異臭が部屋中に充満してきたので、青井は黙って部屋の襖を開け、座布団に坐り直す。

「あーあ、これだから脱げない人は嫌いだな。本音を包み隠して、偽りの自分を形成しようと必死になる。もっと素直になればいいのよ、やましいことを考えてたんでしょ」

俯いていた赤牧の後頭部を鷲掴み、青井は身を乗り出した。クーラーのない室内は三十度を越えようか、青井のシャツは汗に濡れて、素肌が浮かび上がっている。眼前に近づいてくるかさついた青井の唇は、赤牧の性欲を歪に呼び覚まし、舌で潤いを与えてやりたい衝動に駆られる。

桃田は台所から煎餅が敷き詰められた椀を持ってきた。見詰め合う二人を肴に、片っ端からバリバリ噛み砕いていく。

「どうなんですか」

青井は執拗に問いただす。本音で語り合わなければならない概念を絶対主義に昇華させているのか、赤牧が返答するまで諦めそうにない。赤牧は何を思ったか、突然彼女の背中に腕を回した。胸元に強く抱き寄せる。

「ちょ、ちょっとなに、なにを、きゃ、いやあああああ」

赤牧は青井を仰向けにして、両腕を背伸びするような体勢で固定した。青井の柔らかな肉体が赤牧の腹と擦れ合い、赤牧は強引に彼女の唇を奪ってしまった。やけっぱちになって壊れた理性は、赤牧を性衝動の権化と化してしまい、性犯罪へと走らせてしまった。

「やめて、なにをするんですか」

青井は暫く身じろぎしていたが、急に大人しくなって素直に抱かれた。赤牧は抵抗を示さない青井のシャツから乱暴に乳房を潰し回り、元より剥き出しになった彼女の性器を貫いた。二人は汗を振り撒きながら、激しく肉体を求め合い、喘ぎ声をあげて、とろけ合った。

桃田は退屈そうに自ら茶を立て、煎餅に齧り付いた。

「あふぁ、あふぁふぁふぁふぁ、あふおわあー」

桃田は目の前の光景に仰天した。噛み砕いた積もりの煎餅に、入れ歯がぶら下がってしまったのだ。

 

壁の至る所に著名なスポーツ選手のポスター、ゴミ箱には使用済みのティッシュが溢れ返り、円卓テーブルの正面にある15インチのテレビは、埃被って曇っている。床にはゴミが大量に散乱する小汚い部屋だ。

赤牧は男の独り暮らしの勲章だと気に留めていなかった。

今まで一度たりともだ。それがこんな偉い事態に発展するなんて、思ってもみなかった。

赤牧はこのワンルームの部屋の隅で頭を抱え、己の所業を悔いに悔いた。それは、今更になって部屋の掃除をしておけば良かったという、些細な後悔が大半を占めていた。赤牧は外堀に目を向けて、現実に直した後悔から逃げようとしていた。

女を家に連れ込むこと自体は、別に珍しくはないのだが。

「大丈夫、まだ気分悪い」

赤牧の体を気遣う女は、白シャツを着た青井だった。露出された黒藪は水に濡れて光沢を放っている。青井は風呂上りだった。髪には、赤牧が普段使用してるバスタオルがターバン状に巻かれている。

「ねえ、何で君、家にいるの」

赤牧は消え入りそうな声で呟いた。

「何でって、私を押し倒して、しちゃったんだから責任を取ってもらわなくちゃ、ね」

青井は無造作に首に腕を回して、キスをした。赤牧は木偶人形のように不動を保っていた。本能に身を委ねて青井を犯してしまった結果、青井は赤牧に着いてきてしまった。理由は定かではないが、裁判沙汰にされてもおかしくない立場に置かされている悲惨な現状が赤牧を放心させる。生まれてこなければよかったとさえ、現実を虚ろにぼかしていた。

「なんて、冗談よ。別に恨んでないから気にしないで」

「ほ、本当に」

赤牧は半信半疑に訊いた。不明瞭ではあるが目に生気が戻ってきた。

「本当よ。その代わりといっては何だけど、実は頼みがあるの。訊いてくれるかしら」

赤牧は迷わず頷いた。凍り付いていた表情が安堵に解凍されてきた。

「この家で、暫く私と同棲してくれない、三ヶ月ぐらい」

「えっ、ど、ど、どうせい。んなもんできるわけないだろがい。故郷の母ちゃんがたまに遊びに来たりするんだぞ。女と同棲してるなんて知れたら、仕送り止められちまうじゃねえがよ」

赤牧は慌てて立ち上がり、鬼の形相で必死に拒絶した。母に仕送りを差し止められてしまうと生活が困難になり、彼自身の生死の安否さえ気遣されてしまうからだろう。

「その喋り方、それに母ちゃんって、あなた地方の人なの」

「そんなことどうでもいいだろ。とにかく同棲なんて絶対駄目だ、もう帰ってくれ」

赤牧は青井の腕を掴んで無理やり立たせ、外に追いやろうとした。立て付けの悪い古い木製のドアに青井の肉体が押し付けられ、ガタガタと鈍い軋みをあげる。

「ちょっと、やめなさいよお。私に逆らえる立場だと思ってんの」

青井は赤牧に足を絡ませて前屈みに倒れ込んだ。赤牧はアルミ缶に後頭部を強く打ち付けた。アルミ缶の腹は潰れて中身が髪にべったり付着した。赤牧が呻いて目を開けると、目に涙を湛えた青井の姿があった。

「お願い、私他に何処にも行く宛てがないの。あなただけが頼りなの、だから、同棲しよ」

「なに、めちゃくちゃ言ってんだよ。第一、あんた団地に住んでんじゃないか、あの家に住めばいいだろ」

「違うの、あれは空き家なの。親に捨てられて、行く場所がなくて、彷徨ってたら偶然見つけたの。お願い、私を見捨てないで」

「はあ、一体何なんだってんだよ」

赤牧は頭を掻き毟り、取り敢えず青井と気の済むまで、とことん話し合うことにした。円卓テーブルに湯飲みを二つ並べて、赤牧は片側に正座する。向かい側には、決意めいた顔を固めた青井が正座した。

青井は頭を下げ、湯飲みに入った水道水をがぶ飲みする。喉がゴクリと断続的に鳴った。

「質問していいかな、君は何処からきたんだい、お家は何処か分かる」

赤牧は呆れた様子で言った。青井は真摯な眼差しで赤牧をじっと見つめる。無表情を張り付かせた顔は、揺るがぬ決意を誇張して見せている。青井は暫くしてから重い口を開いた。

「いい条件だと思わないの。炊事洗濯に始まり、あなたの夜のお勤めまで、何でもしてあげるのよ。同棲してあげればいいじゃない。それから、私のことを聞き出そうたって無駄よ。私は脱がない人には本音で話さないからね」

赤牧の心が僅かだが揺らいだ。頬杖をついて青井の顔を観察する。美人の範疇に入る均整の取れた顔だ。薄い唇は瑞々しく、何度も貪りついたかと思い起こすと胸が高鳴ってくる。何より胸が豊かで太腿の線も綺麗だ。夜のお勤めという言葉に、体の一部が反応して巨大化する。この機会を逃す手はない、か。赤牧はいやいやと頬を叩いて自分を戒めた。邪念に捉われて同じ過ちを繰り返してしまいそうだ。

「脱げない人って、なに。君のような露出狂の人のあだ名か、なにか」

赤牧は話題を反らして、高まる性欲を他所に向けた。頭の脳裏に、訊いておきたい疑問として焼き付いていた言葉ではあった。

「それは脱いでる人。脱げない人っていうのは、あなたみたいな人のことを言うの」

赤牧は首を傾げた。今一つ青井の言葉の真意を飲み込めなかった。話題を反らすのは不可能か。赤牧は青井と同棲するか、追い出すか、苦渋の選択を強いられた。同棲すれば快く奉仕してくれる。追い出せば裁判沙汰、あわよくば刑務所行きだ。

どうやら、赤牧が取るべき選択肢は他に残されていないようだ。

「お願い、私と同棲して」

青井が念入りに止めを刺した。赤牧は半分悔しそうにテーブルを叩きつけた。

「仕方ない、同棲してやるよ。ただし、俺の言う通りにして貰うからな、特に夜は」

赤牧は投げ遣り気味に告げた。後ろ髪からジュースの水滴となって滴り落ちていた。青井は合掌して目的を達成した愉悦を噛み締めた。

「ありがとお、じゃあ早速、面倒見てあげる。ほらほら、服脱いで」

ジーンズを脱がそうとする青井の手を払い除け、赤牧は乱雑に布団を二つ並べて、電気を消した。赤牧は片方に寝転がって青井に背を向けた。

「ねえ、しないの。してあげるよ」

青井は狸寝入りする赤牧の体を揺さぶった。赤牧は起きようとしない。

「今日は、もういいんだ。さあ、就寝、就寝、おやすみなさーい」

赤牧は振り向きもせずに非情に告げた。青井は怪訝そうな顔をして眠りに就いた。赤牧は青井をペテンにかけていた。じっくり寝静まった後、起こさぬように青井の胸に手を忍ばせる。

「はあ、はあ」

青井の胸を揉みながら自慰に浸る快感、赤牧は若気の至りからどす黒い性欲に支配され、目先の不安や仕送りを止められる恐怖より、触れる肉欲を心から欲したのだ。

 

休日は仲睦まじくデートに興じる。青井が無一文のため、費用は全て赤牧のポケットマネーからだ。

青井の嘆願を拒み切れず、赤牧は興味関心がない動物園に不本意ながら来てしまった。サルやキリンを見て、無邪気にはしゃいでいるのは青井だけだ。赤牧は売店前に設置されたテーブルに腰掛けて遥か彼方を見詰めている。それは、他人の振りをしていたい気持ちの現われでもある。

青井との同棲生活において、青井が白シャツ一枚の姿で部屋中を歩き回るのが大きな壁だった。赤牧は土下座して辞めるよう、せめて控えるよう頼み込んだが、青井は白シャツ一枚の姿勢を崩さなかった。羞恥心の象徴というべき格好を継続して止めないのはなぜだろうか。

あれから一ヶ月も経つというのに、赤牧は未だに青井が何者であり、何を望んでいるのか、把握しかねていた。

赤牧は疲れたように溜息を洩らした。

青井から呼び出しの電話が入っていたので、赤牧は重い腰をあげた。注文されたオレンジジュースを抱えて、ローラーブレードを地面と平行に滑らせる。青井はパンダ小屋の前にいた。

「ほら、ジュース買ってきたよ」

「お、サンキュー」

赤牧は滑走しながら擦れ違い様に青井にジュースを受け渡し、そのまま通り過ぎていった。外では青井と手を繋ぐのはもちろん、腕を組んで歩くなど、恋人同士らしい行為は相談して決めた戒律で重く禁じられていた。恋人といっても見せ掛けの虚像であり、心が通じ合っているわけではないのだが。

「はあ、早く帰りてえ」

赤牧はライオンや黒豹などの肉食動物ゾーンまで滑っていき、弱音を吐いた。パンダ小屋にいる青井とは随分距離が離れてしまった。赤牧は距離を詰めようと元来た道を引き返そうとする。

「グルルルル、ガオー」

メスライオンが檻に爪を立てて吠えた。悠々と滑っていた赤牧は止まり、檻から尚も吠えるライオンに舌を出して挑発する。

「ったく、いいよなあ、お前らはいつも裸で。人間に生まれてきたせいでな、というか、青井のせいで、俺はいつも人目を気にしてんだよなあ。ほんといい身分だよなあ、お前らわよお」

赤牧は感慨深そうに愚痴を零し出した。ライオンは咆哮を詰まらせ、日頃溜まっていた鬱憤を惜しげもなく披露する、奇怪で淋しい男の愚痴を黙って聞いてやった。時折、気だるそうに大きな口を開けて欠伸を洩らしていた。メスライオンがもう一頭、檻に迫ってくる。赤牧の隣にいる、シャツ一枚の女が握った生肉が狙いのようだ。

「ほうら、ほうら、おいでおいでえ。美味しい肉あげるからねえ」

檻と柵を隔てる植え込みに立てられた、エサを与えないで下さいと表記された立て札に構わず、女は檻の中に生肉を投げ込んだ。愚痴を唱え続ける赤牧を無視して、二匹のライオンは肉の争奪戦に闘志を燃やす。

罰則を侵してまでエサを与えた女は、女性の割りに隆々とした筋肉がびっしりと全身を覆っていた。並の体躯ではない。楽々と片手で持ち上げているバケツには、生肉が数キロとバケツ一杯に詰め込まれている。エラの突き出た角張った顔は、女性というより、男性染みた造りをしていた。髪型も角刈りに近い。

愚痴を続けていた赤牧は、生肉を食い散らかすライオンに気付き、隣にいる不気味な女に視線を向けた。

「飼育員さんですか」

赤牧は言った後に、飼育員とは懸け離れた女の服装に驚愕した。青井や桃田と同一の白シャツ女が他にもいようとは。赤牧は物言いたげに指を差して、口パクで思いの丈を伝えていた。女は不敵な笑みを浮かべた。

「ええ、そうですよ。あなたも一つどうです、面白いですよ」

女は動じずに生肉の塊を手渡した。生肉を握る赤牧の手に力が篭った。ぐにゃりとした生温い感触が手から脳へと伝わり、女をより気味の悪い動物に映し出した。チンパンジーかゴリラが脱走してきたのかと、思考が錯綜してしまい、赤牧の頭は真っ白になっていった。女の下腹部には手術跡のような蛇行した縫い目が認められた。

「あなた、ゴリラですか」

赤牧は意を決して女に問うた。女の顔に指まで差している。

女は動揺したのか、バケツを地面に落としてしまった。飛び出した生肉が焼けたアスファルトに散乱した。

「何よ、ゴリラって、厭味、厭味のつもりなの。私はオカマですよ。それが何か悪いの。オカマだったら何か悪いの」

最初は口篭り、徐々に怒気を含んだ口調に変えながら女は応えた。赤牧は額から冷や汗を垂らして、受け取った生肉を女にの手の平に載せた。ぎゅっと上から握り締めて、放射状に広がった女の指を拳に変える。

「お返しします」

赤牧は言い捨てて背中を向けた。地面を強く蹴ってローラーを前進させ、逃亡を図る。

「あっ、ちょ、待ちなさいよ、あんたあ」

赤牧の背中に野太い怒声が浴びせられる。赤牧は泣きそうに首を振って前進を止めなかった。女から早く離れたい。一切関わりたくない。青井から遠ざかって行動しているのは、変態の仲間として見做されたくないからだあ。赤牧は健常で正常な人間で有りたかった。

赤牧は自分の限界を超えたスピードに乗ってきた。少年が舐めているソフトクリームを強奪してしまえそうな尋常ではない速さ、ローラーブレード暦、十年の修行を経た熟練した男の成せる業だろうか、赤牧は人込みの隙間を縫って、あっという間に売店近くまで戻ってきた。

「ふう、ここまで引き離せば」

赤牧は手の甲で額の汗を拭った。売店前のテーブルに手を着いて後ろを振り返る。

「待ちなさいよあんたあ、あたしから逃げれると思ってんのお」

女の野太い怒声が爆発した。耳がびりびり痺れて赤牧は顔を硬直させる。女が間近に迫ってきている。巨体を揺らして突進してきている。人々は異常な女の服装に目を覆い、甲高い悲鳴をあげる。赤牧はテーブルを蹴り倒して反動をつけ、前傾姿勢でローラーを全力で走らせる。体重を前へ、ひたすら前へ。

「来るな、近づいて来るなよお。俺、何も悪いことしてないじゃないかあ」

女との距離は十メートル前後に狭まっている。赤牧は振り返らずに恐怖を叫ぶ。アスファルトの大地が砕けるような爆発音が耳障りだ。どうして追いつかれるのだ。相手はお世辞にも徒競走が得意には見えない鈍重な女だ。いや、元々は男だとしてもだ。そういえば、以前にも青井に引き離されて、辛酸を舐める羽目になった。全力で走っていたのに、最期には確か捕まって。

「あら、赤牧さんじゃない。いいの、私に近づいても」

青井がジュースのストローを咥えて前から歩いてきた。赤牧はおぼつかない足取りで滑走していた。日中は三五度を優に越える夏の日差しに頭がくらくらして、動悸や眩暈が赤牧の身に襲い掛かってきていた。視界が白黒のモノクロ模様に歪んでいる。青井の姿や声はまともに聞こえているのだろうか。後方から這い上がる巨体の足音が赤牧を急かせて、死に物狂いで体を突き動かす。

「い、いええええ、誰か助けてええええ」

壊れた笑いを顔面で体現した赤牧が青井の脇を駆け抜けた。青井は怯えたような目付きで呆然と見送った。

「いえって、なに。あの人大丈夫かしら」

巨体の女の足音が、青井に迫ってきていた。青井は目まぐるしく前に向き直った。女の顔に見覚えがあったのか、懐かしそうに愛苦しい笑顔を振り撒いた。女も青井を認めて立ち止まった。

「黄村さんじゃないですかあ。奇遇ですねえ。こんなところで会うなんて」

青井は、黄村と呼んだ女の胸に飛び込んだ。飲みかけのジュースが地面に跳ねて、中身を零しながら転がった。

「久しぶりだね青井さん、まさかこんなところで会えるなんて。もしかして、あの人のおかげかしら」

「うん、だれ、あの人って」

黄村はすっと腕を上げ、誰かを指を差した。青井は目を擦って、その方向を見据えた。

「あっ、ああ、赤牧さん、赤牧さんですか。大丈夫ですか、赤牧さあん」

青井は倒れた男に駆け寄っていた。黄村が指差したのは、熱射病でアスファルトに顔を埋めていた、赤牧だった。

 

帽子が無かったせいだ。帽子が。

八歳の誕生日に、母に買って貰った藍色の帽子、田舎には家にテレビゲーム機とか、遊び道具が殆どなくて、外で陽気に跳ね回る子供ばっかりだった。俺の友達や同級生も然り、当たり前のように外で遊んでいた。彼らは健康体だったから活発に外で遊べていたのだ。俺は日陰に隠れて彼らの待遇に嫉妬していた。

生まれつき体が弱かったせいだ。日に晒されるとすぐに倒れて、熱出した。俺は母を恨んだ。こんな弱い体に産みやがってと思った。頭では母が悪くないのは分かっていた。けど、感情が高ぶって思わずきつく当たってしまった。母は泣いて謝っていた。ごめんなさいって。俺の方こそ、ごめんよ。母ちゃん。

なんで動物園に出かけるのに、帽子を置いてきたのだろう。帽子さえ被っていれば、大丈夫だって、倒れないよって、母ちゃんに教えて貰ったのに。

ど忘れしていたのか。違う、注意力散漫な虚け者だったのか、それも違う。きっと、俺が青井と同棲してしまったから、母ちゃんが怒ったんだ。嫁入り前の女子に手え出すなって、結婚を誓った女子にしか手え出すなって、口癖のように言ってたもんな。

ごめん、母ちゃん。俺、これからはちゃんと母ちゃんの言い付けを守るよ。

「だから、俺を許して。許してよお、母ちゃん」

赤牧は寝苦しそうな呻き声をあげて、虚空に手を伸ばした。

「うん、許してあげるわよ。赤牧ちゃん」

伸びた手を女が掴まえた。赤牧は意識を回復して跳ね起きた。

「母ちゃん、ほんとに」

赤牧の眼前にいたのは、全身を筋肉の鎧に覆われた黄村だった。顔を紅潮させて、赤牧の手にほお擦りしている。赤牧の足元から寒気が這い上がってきた。

「お前、母ちゃんじゃないでがあ」

赤牧は神格化していた母を侮辱されて激怒した。寝惚けているせいもあるだろう。怒りに任せて黄村を突き飛ばす。黄村は起き上がってこなかった。鋭い寝息を立てて眠りに就いている。

赤牧は寝惚け眼を擦り、はっとして、周囲を見渡した。青井が掃除に磨きをかけていた部屋には酒瓶が至る所に散らかっていた。部屋の隅には桃田が体を丸めて猪口に酒を注ぎ、テーブルの上には青井が股を広げて自慰に励んでいた。指で秘部をかき回している。

「あん、おはよう赤牧さん、訛ってますね。あ、あ、やっぱり、地方の方なんでしょうか、あ、あ、あはは」

青井はすっかり出来上がっていた。この様子では、桃田や黄村も泥酔しているだろう。無数の酒瓶がそれを顕著に表している。

赤牧は頬を引き攣らせた。母に忠誠を誓った矢先に、この体たらくだ。赤牧の胸に同棲への後悔と青井への怒りが込み上げてきた。

「あはは、じゃねえでがあ。お前、そんなところで何しとんや。さっさと片付けんか、このとんちき娘のすかたんの、どるっがあ」

赤牧は吠えた。その後にも付け加えて、罵声や暴言を吐き連ねた。次第に感情が先走って意味不明な言葉になっていた。青井はへらへら笑いながら秘部を弄くる。とろんと情火に燃えた憂いな瞳は、更なる快楽を求めていた。

「ねえ、赤牧さん、しよ。入れて、入れて」

「あほか、誰がいれるか。お前のようなバカタレは、瓶でも入れとけ」

青井は澄ました顔をして、挿入しやすいように自ら秘部を広げる。赤牧を執拗に性へと誘っている。赤牧は相手にしないように酒瓶を拾っては、洗面台に片していた。桃田は飲みすぎでげっぷを吐いた。黄村は未だに熟睡中の模様を呈していた。

青井は物欲しそうに小指を噛んで、酒瓶を手に取った。試しに先っぽを性器に突っ込んでみる。

「あ、ああああ、気持ちいい、気持ちいいよ赤牧さん。非常に、気持ちいいですう」

酒瓶のくびれた部分が性器に埋まっていった。青井は台所に顔を向けて、よがり声をあげる。口を開けて甘い吐息を洩らし、赤牧を誘っているのだ。赤牧は怒り心頭しながら、汚れた部屋を黙々と片付けていた。一人暮らしの時分には、お目にかかれなかった異様な光景だ。

「あん、赤牧さん。気持ちいいよ。どう思う、この私を見て、どう思うのか簡潔に言って御覧なさいよお」

青井は瓶を挿入したまま赤牧に絡んできた。酒瓶を拾い上げようとする赤牧の背中を突き倒す。赤牧は熟睡していた黄村の肩に額をぶつけ、痛そうに頭を抱えた。肩に衝撃を受けた黄村は漸く開眼した。

「なによ、痛いじゃないのよ。あんた、私に何か文句あるわけ」

寝起きの悪い、苛立った黄村は、赤牧の背後に回って首を絞めた。

「あっ、うえ、ギブ、ギブギブギブギブギブ」

赤牧は堪え切れなくなり、黄村の腕に高速タップする。黄村は離そうとしない。邪悪な笑みに歪んだ顔は、本来の性である男の闘争本能を剥き出しにしていた。

「あ、いいなあ。SMプレイ、私もしたい。けど、がんばれえ、黄村さん」

青井は拍手をして煽った。静まり返った宴会場に活気が戻ってきた。事実、桃田は猪口を使わず、直接瓶に口を着けて酒を飲むようになった。

赤牧の顔がグロテスクな朱に変色していく。黄村の腕を掴む手には本気の力が込められていた。かなりまずい状態らしい。

「あ、あ、あ」

赤牧は死相を浮かべて声を詰まらせた。自然と目に湛えた涙が零れ出す。失禁しそうなぐらい意識を喪失しそうになっている。

「おかわり、ねえ、おかわり」

桃田が一滴残らず搾り取った酒瓶を投げた。ハイハイの要領で新しい酒を探し回る。

「よし、これを見ながら、想像を膨らませて、エッチなことを、たくさん、たくさん、しようかな」

青井は酒瓶の先端で性器を弄くり回す。容量が無くなった酒瓶に粘着質のある汁が混入されていき、嵩を増していった。

その間にも赤牧は締め付け続けられる。一分は経ったろうか、赤牧の口から泡が吹き出してきた。抵抗しなくなり、顔から血の気の失せていた。

「あっ、うん、いい、ああ、黄村さん、赤牧さん死んじゃうじゃない。早く離してあげて」

「分かったわ、青井さん」

青井が宥めたかいあって、黄村は手を解いてやった。気を失っている赤牧の背中を叩いて渇を入れ、意識を取り戻させる。

「はあ、はあ、あのなあ、殺す気か、お前ら、首絞めたら死んでまうやろうが」

赤牧の理性のタガが外れた。田舎訛りを全開にして怒りを露にする。黄村はそっぽを向いて、酒をがぶ飲みし始めた。青井が背後から、赤牧の耳に吐息をかけて淫猥に慰める。挿入していた瓶は抜いていた。

「ねえ、しよ。してくれたら、いいことあるかもよ」

「あるわけないだろうが」

青井の手は、赤牧の固いものを握り締めた。赤牧は困惑した様子で下半身を見下ろした。知らぬ間にズボンやトランクスが脱がされていた。赤牧は今更になって漸く気付いたのだ。赤牧は青井を跳ね除けて、不覚にも勃起した固いものを手で覆い隠す。

「いやははは、赤牧さん、ええもん、ぶら下げてますねえ」

桃田が陽気に笑った。酒瓶を持つ手が禁断症状により、激しく小刻みに震えていた。

「桃田さん、飲みすぎちゃ駄目よ。ドクターストップがかかってるんだからね。あはははははは」

青井と桃田のやり取りの隙に、赤牧はタンスから下着を引っ張り出して、素早く履き直した。しかし本来在るべき場所に、家宝のように大切にしていた装身具がなかった。誕生日の思い出の品である、藍色の帽子だった。

「青井、お前帽子しらねえか。いつもこのタンスの引き出しに、入れてたんだよ」

「はい、知りませんよお、私は主婦じゃありませんのでえ」

青井は眠たげに口元に手を当て欠伸を返した。赤牧はおろおろと情けなくうろたえた。母親に過度の愛着を慕う赤牧にとって、藍色の帽子は無くしてはならない絶対的な代物だった。

赤牧は、地面を這うように帽子を探し始めるが見つからない。三者で愉快に談笑しながら酒を注ぎ交わす、シャツ一枚の体たらくな女達に、憤怒を超越した明確な殺意さえ湧いてきた。

「おい、お前らも帽子さがせや。お前らのせいでなくなったのかもしれないんやぞ」

赤牧は頭ごなしに怒鳴りつけた。青井の顔が愛憎に歪んだ。私じゃないわよと言いたげだ。黄村は深い溜息をついた。

「ねえ、帽子って、もしかしてこれのことかしら」

黄村は太腿で潰していた藍色の帽子を掲げた。紛れもなく赤牧が愛用していた母からの贈り物だった。

「ああ、それだ。ありがとう見付けてくれて。助かったよ」

赤牧は帽子を引き取ろうと手を差し伸べた。黄村は具合が悪そうに帽子を後ろ手に隠した。

「おい、早くよこせよ」

「やっぱり駄目、渡せない、欲しけりゃ力づくで奪ってみなさい」

「はあ、何言ってんだよ。早く返せっての」

黄村は正面から見えないように、青井に帽子を手渡した。青井はすぐに、引き渡せない理由が呑み込めた。赤牧は黄村に突っかかり、二人は揉み合って床に転び、大人気なく寝技の応酬に発展していた。いわゆる喧嘩だ。

「ちょっと、離しなさいよお。セクハラしてんじゃないわよあんた」

「うるせえ、帽子返せてめえ。いい加減にしろよ、ゴリラ野郎」

静観している青井は、冷や汗を頬に伝わせていた。藍色の帽子は中心が引き裂かれて、ほつれた糸くずが円状に穴を穿っていたのだ。青井は酔った勢いで黄村が帽子を粗暴に扱っていた瞬間を目撃していた。青井は口元に人差し指を添え、桃田に暗黙の了解を得る。

「わかりました」

桃田は唇を鼻先に押し上げて頷いた。入れ歯が斜めに傾いて外れかけていた。青井は赤牧に悟られぬよう帽子の隠し場所を探す。赤牧はまた黄村に首を絞められ、高速タップしていた。

「何処かいい場所は」

青井は台所の棚に隠してしまおうと思い付き、玄関先を迂回して台所に回り込もうとした。

「正行、正行はおるかね」

突如、中年の女の呼び声と供に扉が開いた。中年の女は赤牧の母であった。玄関先を通過しようとしていた、青井の淫らな下半身にばったり出くわしてしまい、母は唖然として固まった。

「あ、お母さんですか。私、青井と申します。息子さんにお世話してもらっています、あの、よろしくお願いします」

母は開いた口が塞がらない心境だった。部屋の奥に、老け顔の女とがっしりした体躯の女が潜んでいたことが総じて、泣きそうに顔を歪めて母を見据えている息子に失意の念を抱いた。

「母ちゃん、ごめん」

黄村の腕に抱かれている赤牧は、複雑な感情を込めて小さく謝った。暫く見ぬ間に変わり果てた息子の手厳しい一言だった。

母が心に抱いていた幻想の息子は一瞬にして爆ぜた。丹精を込めて育て上げてきた息子に寄せていた信頼と愛情は儚く霧散して消え失せたのだ。母の胸にこの世の終わりを迎えたような深い悲しみが込み上げ、止め処なく、止め処なく、嗚咽してしまった。

「正行。母ちゃん、田舎で正行をまっとるわ。邪魔してごめんな」

母はハンカチを涙に潤んだ目にあてがい、淋しそうに扉を閉めた。

二度と母の心の扉は開門されないのだろうか、現実感を伴なった濃密な不安が頭を過ぎり、赤牧は絶叫した。母の耳に、そして母の心に届くように。

「母ちゃん、ごめん、ごめんなあ、俺、心入れ替えるから。もっと真面目に頑張るから、絶対頑張るからあ」

赤牧は咽び泣いていた。黄村は帽子の件を誤魔化すように拍手を贈り、桃田は何気なしに酒を薦めた。青井の瞳の色は悲しみに褪せていた。同棲をねだり、母との別離を引き起こした責任を感じているのだろうか。

「赤牧さん、私ね。あなたに脱いでる人になって欲しかったからっ」

青井は、しまったと思い、そこで口をつぐんだ。桃田と黄村の顔が険しく曇っている。赤牧は泣くのに没頭していて、聞いていなかったようだ。青井は、ほっとして胸を撫で下ろした。

「あれ、帽子は」

帽子は青井の手から離れてしまい、風に舞って空を漂っていた。赤牧が嗚咽している方向へ。青井は一気に酒による陶酔から冷め、身振り手振りで桃田と黄村に伝えようとした。二人は関心事を、赤牧の激励に向けていて見ていなかった。

「ああ、だめ、行っちゃだめえ」

青井が叫んだ時には手遅れだった。帽子は変則的に急降下して、赤牧の頭を小突いた。

「いた、なんだ、帽子じゃないか。うん、あっ、あああ、破れとるやないかあああ」

赤牧は胸が張り裂けてしまいそうな破滅的な激高を覚え、自分でもこんな大きな声が出せたのかと言うぐらい、声を枯らし尽くすぐらい叫びに叫んだ。桃井と黄村は咄嗟になるべく離れた位置に移動して息を潜め、青井は慌てて台所に立ち向かった。

「お前らあ、どうしてくれんじゃこりゃあああ」

赤牧は帽子を叩きつけて、青井に鋭い目付きを送った。鈍い歯軋りを立てて、今にも犯罪を起しかねない危険な精神状態だ。もう誰にも止められないのだろうか。赤牧は生ける鬼神と化してしまった。

青井は無表情にネギを刻んでいた。のっそり殺意の足音を忍ばせてくる赤牧から目を逸らさない。

「ねえ、そうめん湯掻いていい」

青井は表情を崩して無垢に微笑みかけた。赤牧は面食らったような驚いた顔をしていた。

「ふん、勝手にしろ。その代わりネギは大盛りな」

赤牧は普段通りの正常な反応を示した。一応は、人心地が微かに残っていたようだ。黄村と桃田は安堵の溜息をついた。

「はい、私にお任せあれ」

青井は笑顔を崩さず、二の腕を叩いて快諾した。ネギは必要以上に多めに盛られた。

 

赤牧は自己嫌悪に陥っていた。女の頭部を股間に押し付けながら悠長に。

同棲中の女に振り回され、その日その日を面白おかしく生きている内に、過度の愛着を抱いていた母への想いはいつしか薄れてしまった。再度誓った筈の忠誠は守れそうにない。胸にぽっかり穴が空いたような喪失感が自己嫌悪を増幅させる。

目の前で固いものを握ったり咥えたりする女、この女に恋心を抱いてしまったとでもいうのだろうか。この女さえいなければ、俺は。

赤牧は黒シャツ一枚だった。ふわっとした柔らかい着心地はアイロンを丁寧にかけたからだ。赤牧は知らない内に、青井の謀略にまんまとはめられていた気がしてきた。

自分の意志の弱さを棚に上げて、青井に責任転嫁しているのかもしれない。どちらにしても自分が未成熟な醜い生き物であると身に染みて思い知らされた。

青井は顔を上げ、上目遣いに赤牧を見て笑った。口内に吐き出された精子を固いものに塗り付ける。粘着性のある感触がいやらしい音を立てて、赤牧を快楽へ誘った。赤牧は青井を押し倒してキスに移行する。青井もまたシャツ一枚だ。

「赤牧さん、知ってる。私達の祖先は、嘘をつかなかったの。本音を包み隠さず、ありのままの自分でいられたの。それはね、どうしてだと思う」

青井は無表情だった。赤牧はシャツ越しに舌を乳房に沿って這わせ、シャツごと乳首を含み、露出された青井の性器を指でかき回した。青井が出題したクイズには応えなかった。

青井は意地悪な赤牧の髪を中指をしならせて弾き、上体を起こした。赤牧の体が仰向けに倒れた。

「それはね、裸だったから。身を裸にしてたから、心も裸でいられたの。生命の神秘って奴ね」

青井は赤牧の上に跨った。お互いの性器が触れ合い混ざり合った。青井は両手で乳房を抱えて腰を振る。

「それが、どうかしたのか。興味ないな」

青井は、むっとした顔付きになって、腰を振るのを止めた。快楽に酔い痴れていた赤牧の顔が強張っていった。

「おい、ちゃんとしろよ。俺の言うことは何でも聞く約束だぞ」

赤牧は同棲する際に取り付けた約束を持ち出す。青井は止む無く腰振りを再開した。性感を刺激されて感じている筈であろうが、青井は表情に出さなかった。赤牧に対する皮肉や抵抗を主張しているのかもしれない。

赤牧は作業的に腰を振る青井に見かねて、乱暴に青井を引っくり返した。一撃一撃に強烈な威力を伴なわせて腰を振る。青井が無表情なので強姦しているような格好になっていた。

「赤牧さん、あなたは自暴自棄になってる。裸になった気になってるだけです。あなたの本能は他人から与えられた物、他人に影響されず、自分自身の意志で決断した、ありのままの自分じゃないんです。だから、あなたはいつまでたっても脱げない人、ふふ」

青井は皮肉に嘲笑った。赤牧は腰を振って応えるだけだった。二度目に放出された精子は、一度目より遥かに、透明色で全体の量も控え目であった。青井は指で精子を絡め取り、赤牧の眼前で魅せ付けた。

「そう、例えるならこんな感じ。初めて出会った時のあなたはギラギラ輝いていた。荒削りだけど魅力があった。脱げる人の素質があった。でも今のあなたは、このような薄まった二度目の精子に過ぎないわ。残念です」

青井は目を閉じて合掌した。赤牧にはさっぱり意味の分からない話だった。青井との性交に現を抜かして、弛んでいたのは理解できるのだが。母の件も相まり、自分の心境を見透かされてやしないかと、青井に疑念を抱いた。

「どうすればいいんだ。その脱げる人とやらになるためには。教えてくれるならやってやるよ」

赤牧は半分冗談の積もりで訊いた。青井に笑顔が戻ってきた。

「これから、宴会をしましょう。桃田さんと黄村さんを呼んで」

「えっ」

赤牧は、まさかと思い、玄関の扉に顔を向けた。猛烈に嫌な予感がしていた。

「お邪魔しまあす」

奇しくも予感は的中した。桃田と黄村がケース一杯の酒瓶を抱えて遠慮なく部屋に上がってきた。靴も履いたままだ。

「おい、これはどういうことなんだよ」

赤牧は額に青筋を浮かべて激怒した。青井はにっこり微笑み返した。

「お酒を飲めば幸せになれるんです。身も心も清めれるんです。さあ、皆さん、今宵も楽しく盛り上がりましょうね」

「おう」

桃田と黄村の掛け声が上がり、部屋は瞬く間に宴に狂喜乱舞する女三人に占拠された。酒の飲めない赤牧は部屋の隅へと追いやられた。

赤牧は自己嫌悪の極限に到達した。そして女は油断ならぬ魔物だと悟った。赤牧は騙され続け、宴会場として彼女達に度々部屋を提供していた。これで二十回目を数えるか。単純な罠にはめられる自分自身が不甲斐なさ過ぎて、溜息が止まらない。

「赤牧さん、本日の酒代、よろしくお願いしますね」

黄村が領収書を赤牧に手渡した。宛名にしっかり赤牧の名を無断使用していた。仕送りを止められた赤牧は、なけなしの貯蓄から経費を支払うことになる。

赤牧は布団に両の拳を何度も振り下ろした。ストレスを発散するため、零の数字に近づいてきた預金通帳の残高を忘れるために。ぽすぽすと手ごたえのない間抜けな音が返るだけでは、赤牧の胸に蟠る苛立ちは振り払えそうにない。

「あは、赤牧さん。少しは自分に素直になれましたか」

ほろ酔い気味の青井が、赤牧の肩を叩いて問うた。赤牧は押し殺した感情を、目に滲ませた涙に代弁させていた。

「元気出してね」

青井は心中を察して、無責任に励ましの言葉をかけた。

「うっせえがよ、お前らなんか死ね、死ね、死んじまえ」

赤牧はテーブルを引っくり返して、酒瓶を振り回し出した。シャツ一枚の女達は、赤牧の周りをぐるぐる回って余裕を見せ付けた。

温厚に育てられ、上京するまで一度も女も喧嘩も知らなかった男が、驚異的な速さで自分の殻を一枚も二枚も破り捨て、着実に進化を遂げていた。赤牧の行き着く先は、清廉潔白な純粋な青年か、或いは、都会の闇に染まった不出来なギャングだろうか。

現在の赤牧は、無意識に理性を破綻させて暴れ狂いながらも気が休まらない人間らしさを秘めていた。

差し迫る当面の問題、後期分の学費の支払いを一体何処から工面しようかと。赤牧の母は仕送りどころか学費の納入まで止めていた。

「うわひい、うりゃあああああああ」

赤牧はいかれた奇声を喚き、都合の悪い記憶を一時的に凍結させた。

 

赤牧は独り、オープンカフェでアイスココアを啜りながらアルバイト情報誌を読み漁る。

華やかな出で立ちの女性が和やかに談笑を交わす優雅な空間の中、赤牧は応急処置を施した藍色の帽子を被り、黒シャツにジーンズを着て、ローラーブレードを履いていた。赤牧の坐る席だけが別世界のように浮いて見えた。

誰も寄り付かない赤牧専用の座席には、読み終えたアルバイト情報誌が散らかっていた。短期で高収入を得られるバイトを雑誌を捲りながら考えた末、赤牧は首を捻って天を仰いだ。

人気が集中するバイトは既に埋まっている恐れがあり、何時間働こうが必要金額までには到底及ばない。詐欺紛いのアダルト関連の仕事、架空請求業者などに着手すれば大金を稼げるのだろうか。赤牧は溜息をついた。危ない橋を渡らなければいけないほど事態は急を要していた。学費の納入期日まで残り一週間を切っていた。

このままでは除籍が濃厚となる。赤牧は雑誌を顔に被せて寝に入った。現実は余りにも厳しく、情け容赦ない非情なものだと悟る。

赤牧の頭に短絡的な解決策が浮かんだ。犯罪に直結する投げ遣り気味な思案ばかりだ。

例えば、俺の隣の席にいる若い女が無用心に足元に置いているバッグ、ブランド物の高級そうなバッグを強奪して、質屋に売り飛ばしてしまえ。五万前後にはなるだろう。その女と会話をしている女の指輪、ダイヤモンドか、サファイアか、ルビーか、男に貢がせたであろう光り輝く指輪、それも強奪して質屋に売り飛ばす。十万、いや、二十万にはなるだろう。しめしめだ。

いやいや、もっと手っ取り早い方法がある。臓器だ、臓器を切り取って売り飛ばしてしまえばいい。

肺と腎臓は二つもあるから一つ減らせばいい。人工的な胃が作れるような話を聞いた覚えがあるから、胃も切り取ってしまえばいい。人間は意外と頑丈に出来ている。臓器なんかなくても正常に活動出来るかもしれない。いっそのこと全部まとめて売ってしまえ。

そうだ、俺は田舎の新鮮な空気を吸って生きてきたから、健康な体の筈だ。物怖じせずに遠慮なく中身を売っちまえ。臓器を全て売り尽くし、巨万の富を得る。そして、学費を支払う。学費、そういえば何のために。勉強するためか、最終学歴を大卒にして就職を有利に運ぶためか、そもそも、俺は何でわざわざ都会の大学に進学を希望したんだ。実家の農業でも継いでりゃこんな苦労せずに済んだろうに。

赤牧は目を開けた。座席に散らかったアルバイト情報誌を掻き集めて、ゴミ箱に捨てる。

「そうだ、実家に帰ればいいんだ。その方が母ちゃんも喜んでくれる」

赤牧は独り言を呟いた。言葉とは裏腹に目に涙を湛えていた。上京して初めて得た、心に執着して離れない思い出を押し殺しているようだった。

赤牧はローラーブレードを走らせ、表通りの固いタイルにホイールから迸る火花を振り掛け、無関心を装う冷たい横顔の側面を駆け抜けた。赤牧はシャツを脱いだ。田舎とは違う都会の最期の風を体に刻み込むために。赤牧は都会で過ごしてきた証明を涙に集約させて、焼けたタイルに点々と落としていった。背中を淋しさに翳らせ、猛スピードで家路へ急ぐ。

十分程経ち、赤牧は仮住まいである安アパートに着いた。荷造りを始めようと、重い足取りで階段を駆け上がる。赤牧は二階に部屋を借りていた。

踏む度に軋み上げる廊下を歩いていると、赤牧の部屋の玄関先で女が蹲っていた。白シャツ一枚の青井だった。赤牧の名を呼んで泣きべそをかいている。赤牧は泣いているのを悟られぬよう目を擦って、青井に歩み寄った。

「どうしたの青井、何かあったの」

赤牧は屈み込んで青井と同じ目線に合わせ、背中を撫ぜてやった。青井は赤牧に視線を向けて無理に笑顔を作った。目から大粒の涙が零れていた。

「赤牧さん、これ、見てください」

青井は扉に貼り付けてある紙を指差した。ひらがなで何か書かれている。

「ん、んん〜」

赤牧は目を凝らした。紙にはどう眺めても『やちんみのう、でていって』と書かれてあった。赤牧は数秒後にこれが退去勧告であると呑み込めた。学費の工面に頭が一杯になっていて、家賃を滞納していたことはすっかり忘れ去られていた。まるで故郷に帰れと拍手をかけてくれたようだ。赤牧は自嘲気味に笑った。

「赤牧さんと私の家、なくなっちゃったね」

赤牧は青井を見下ろした。青井は膝を抱えて罰が悪そうに泣いている。傍若無人に振る舞い、赤牧を生活苦に追い詰めた責任を重く受け止めているのだろうか。せっかく止めを見舞ってくれたのに、赤牧の帰郷への決意は揺らぎそうになった。青井を見ていると帰る気が失せてくる。

赤牧は首を振った。実家に帰らなければ駄目だ。これ以上、醜態を晒してここには居られない。

「そうだね。じゃあ、住む家もなくなったことだし、お別れしようか」

赤牧は気が変わらぬ内にそう告げた。青井は手の甲で涙を拭い、赤牧を真摯に見詰めた。

「はい、分かりました。でも、その前に、お別れ会をしましょうね」

青井は微笑んで赤牧の肩を叩いた。

「えっ」

赤牧の頭に嫌な予感が過ぎる前に、背後から桃田と黄村が恒例のケースを両脇に抱えてやって来た。二人ともシャツ一枚だ。

「おい、これは一体どういうことなんだよ」

「安心してください。前払いにしてありますから。代金は赤牧さん持ちですけど」

青井が言って、黄村が領収書を赤牧に手渡した。代金は確かに支払われているようだった。

「ごめんなさい、悪いとは思ったんですが赤牧さんの家財道具一式、全部売っちゃいました。服も何もかも全部、お金がなかったから」

青井はさらりと言ってのけた。赤牧の瞳は憤怒に燃え滾った。青井という人の形をした悪魔を完膚無きに叩きのめしてやりたい破壊衝動に駆られる。

「まだ下に三十ケースほどあります」

黄村が付け加えた。赤牧は腐敗が進んだ鉄柵を殴りつけた。張り詰めた空気が周囲を覆い、赤牧は青井の胸倉を掴む。

「売ったてどういうことや。ああ。お前、俺に何処まで迷惑かけたら気が済むんや」

「まあまあ、落ち着いて。お酒でも飲んで、頭を冷やしましょうね」

桃田は次々に詮を開け出していた。黄村が背後から赤牧の頭に中身をぶちまける。中身はビールだった。

「あ、いった」

赤牧の目にビールが染み込んだ。怯んだ赤牧の肉体に向け、女達は一斉にビールを射出する。赤牧の黒シャツがずぶ濡れになり、ジーンズの破れた穴から、地肌に直接命中した。赤牧は意味の分からない怒声を発する。女達はけらけら嘲笑っていた。心から愉悦に浸っている。

「赤牧さあん、これからどうしますう、川原でダンボールハウスでも作って、同棲しましょうかあ」

青井は満面の笑みで赤牧にビールをかける。赤牧の胸に茹っていた憎悪は温度を下げ、赤牧は情けなく体を丸めて弱い悲鳴を吐いた。酒に弱い赤牧の顔は真っ赤になっていた。

「家なら、大丈夫よ。私がいい空き家見付けてきたから。しかも高級マンションよ、幽霊が出るらしいけど」

黄村は言いながら、赤牧の頭に並々とビールを注いだ。桃田は水撒きでもするかのように、赤牧の足元を重点的に狙う。

「うえっ、うぇ」

赤牧は体を曲げて嘔吐しようとした。青井が無理やりビール瓶を口に含ませる。

「いいですねえ、マンション。これが終わったら、早速いきましょう」

赤牧は上を向かされ、垂直に雪崩落ちてくるビールを胃に流し込んだ。喉が鳴る音が耳を澄まさなくてもはっきり聞き取れていた。赤牧は千鳥足になって、部屋の扉に肩をぶつけた。膝から崩れ落ちる。

「あ、そうそう、言い忘れてましたけど赤牧さん。実は貯金も全部引き卸して、新しいシャツを買うのに使っちゃいました。ニ万しか入ってなかったから、別に断り入れなくていいでしょうけど。一応」

朦朧とする意識の中、赤牧は敏感に青井の発言を感じ取った。愛憎に歪んだ顔に殺意が沸き起こる。

「ふざけんじゃねえ、それは俺の帰りの交通費だがよ。勝手に使うなあ」

赤牧は気力を振り絞り、青井に殴りかかったが届かなかった。黄村に羽交い絞めにされ、赤牧の瞼はそのまま落ちた。

「交通費って、実家に帰るつもりだったのかしら。せっかく、脱げる人になれたのに、ねえ」

青井は俯いた赤牧の髪を撫ぜ、頬に親愛の熱いキスを贈った。赤牧は彼女に正式な仲間として迎えられた格好になったようだ。

宴会終了後、赤牧は身包みを剥がされ、バーゲンで購入した白いシャツ一枚を着せられた。そして黄村に足を引き摺られ、赤牧の肉体は新居を目指した。

 

赤牧の長い朝は、昼まで続いた。

悪意はありませんでした。聞き飽きた。

迷惑をおかけする積もりは毛頭ありませんでした。聞き飽きた。

あなたは何もかも失った。聞き飽きた。

あなたは裸になった。聞き飽きた。

あなたは素直になれた。聞き飽きた。

あなたは大学を除籍される。聞き飽きた。

あなたがこの町に住んでもやることはないだろうけど、親に会わす顔もないでしょ。聞き飽きた。

あなたに残された道はただ一つ、私と供に裸の生活を送ること。聞き飽きた。

一緒に生きよ。好きだよ、赤牧さん。聞き飽き、えっ。

「何でそうなるんがよ」

赤牧は怒りを露にした突っ込みを入れた。それは半分照れ隠しでもあった。なぜなら赤牧が青井に抱いている好意は本物だからだ。

ここは女子高生の幽霊が出ると噂されるマンションの一室だった。青井と赤牧の新居である。いつ専属の警備員が巡回に来るか、いつ幽霊に襲われるか分からない、ハラハラドキドキのミステリーハウスだ。

「好きだよ」

青井は凛とした瞳で赤牧を見据える。赤牧は虚言ではないと素直に受け止められた。

「何だよ、何で今更そんなこというんだよ。もっと早く言ってくれたら、俺は」

赤牧は口篭った。青井を見捨て、追い出す機会は幾らでもあった筈だ。赤牧が敢えてそれをしなかったのは、青井と離れ離れになりたくなかったから。出会った時から一目惚れをしていたから。先を打たれて複雑な気分になり果てたのか、赤牧は深い溜息をついた。

「随分前に言ったでしょ。私は脱げない人には本音を話さないって。あなたは脱げる人になれたから、もう嘘は付けないわ、安心して」

青井が、そっと赤牧の手を包み込んだ。募らせていた赤牧への愛を解放させ、至福の笑みを洩らしている。

「ね、一緒に生きよ」

赤牧は難しい顔をして、青井の手を払い除けた。重そうに腰を上げ、玄関へと歩み出す。

「駄目だよ、無理だ」

赤牧はローラーブレードを片足に履いた。赤牧の頬に青井の手の平が触れる。

「どうして駄目なの。赤牧さんは、私が好きじゃないの」

「そういう問題じゃないんですよ」

赤牧はもう片方を足に履いた。追いすがる青井を突き飛ばす。

「じゃあ、どういう問題なのよ。説明してみなさいよ」

尻餅をついた青井は、非難するような目付きになった。

「はい、それは」

赤牧はドアノブを回した。

「あなたが、桃田さんだからです」

赤牧は新居を飛び出した。本当の青井に会うためローラーを走らせる。

「あれまあ、バレてらあ」

青井に成り済ましていた桃田には重大な欠陥があった。容姿が違い過ぎ、何より話の途中から入れ歯が、外れていたのだ。

 

女は悠然と歩行者天国で待機する。

両足にローラーブレード、シャツを着ているが単純な白ではなく柄がある。転んで擦り抜かぬよう肘と膝はプロテクターで防護されている。極めつけに黒の短パンを履いている。今までの装いを真っ向から全否定したその女は青井静であった。

「早く来て、赤牧さん」

青井は藍色の帽子を目深に被った。赤牧が愛用している母からの贈り物だ。赤牧が泥酔してる隙に盗み取っていたらしい。

青井は快楽に酔い痴れている。純粋な男を弄び、あまつさえ破滅に追い込む快感、自分に深い憎悪、そして深い愛を執着してくれる不変的な感情を抱かせる。すなわち穢れのない裸の心が、青井の理想の男。

青井の積年の願いは、裸になった赤牧という存在が叶えてくれるようだ。

「青井、待てやてめえ。この大嘘つき野郎があ」

怒りを剥き出しにした裸の男が、青井を追いかけて走ってきた。シャツ一枚の裸の男は最高速度を維持していた。

二人の距離は瞬く間に十メートルに詰まる。青井は待ってましたとばかりに冷笑を浮かべた。

「赤牧さん、私あなたのこと嫌いなの。何か文句があるなら私を捕まえて御覧なさい」

青井は地面を蹴ってスタートした。沿道を歩く女性が、下腹部を晒した赤牧への驚愕の悲鳴をあげる。赤牧は恥ずかしそうに頬を紅潮させて駆ける。

「待てや、青井、何が脱げる人じゃ。お前こそ脱げてない女やないか。この大嘘つき、止まらんか」

青井は含み笑いを洩らす。裸の男の成長を心から喜ぶようだった。青井が愛する裸の心は、青井への愛憎を満たすため、青井を捕まえようと追いかけてくれている。

二人の距離は三メートルに縮まった。青井は捕獲される戦慄に打ち震える。冷や汗と歓喜が。

「赤牧さん、ご、ごめんさい。私が悪かったわ。許して」

青井は裸の男に命乞いをする。

「嫌じゃ。許して欲しかったら、俺の物にならんが」

裸の男は跳んだ。青井を仕留める手が伸びてきて、青井の肩を逃がさぬよう捕まえた。

「い、嫌です」

青井は体を反転させ、背中から地面に叩きつけられた。

「いいから、俺のもんにならんが」

裸の男は青井を胸に抱き締めた。青井は離れぬよう、赤牧のシャツをギュッと握り締めた。

「はい、分かりました」

青井は長い溜息をついた。

これからは赤牧を愛し敬い、今度は赤牧のために自分の素顔を隠して夫に従事する、主婦にならねばならない可能性がある。

青井が守ってきた裸の心、それは全て赤牧の裸の心に託されたのだから。

「俺とずっと一緒にいろ」

赤牧は純粋な告白をした。青井はゆっくり頷いて、赤牧の裸の心に応えてあげた。

 

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