トランス

 

薄いガラスに手を添えるイメージ。

厚さは割れやすいように三ミクロンほどにしようか。とにかく平たくて薄いガラスが垂直に立っているイメージを据える。

ここは内ではなく外にする。道は会社帰りのサラリーマンや煌びやかな衣装の女子大生がひしめき合う、売春通りのような、ソープやオシャレなカフェテラスが軒を連ねている異色なイメージを構築する。

彼らや彼女達は、道の真ん中でガラスを手に添えて佇んでいる私をどうみるだろうか。異常者とみるだろうか、パフォーマーと見做すだろうか、或いは、もっと別の存在、人知を超越した何かであり、羨望の眼差しを向けてくれるだろうか。

私はそこで笑ってみせる。ガラスには口元に冷笑が張り付いた私自身が笑い返す。

行き交う人々は足を止める。私の顔の中心に集まるように視線を向ける。

私は注目を浴びている。心臓が嫌に高鳴る。見詰められて緊張している。普段歩いていた通りに僅かな変化が生じた場合、人は好奇心を抱くのだ。私にはそれが分かっている。だから、あえてガラスに触れて笑っているんだ。さぞおかしな表情を浮べていることでしょう。

十分、注目と足音を止めたところで、私は口をきりりと結ぶ。

心臓の拍動音が聞こえるくらい、静まり返った空間を私が支配しているような気分だ。ここは私のステージ、私だけが絶対的な存在として立場を置いているイメージの中の世界。欲深い私は、更に強大なイメージを求める。

ガラスに、微弱ではあるが力を加える。ピシピシピシピシ鋭い音が響き、全面が一瞬にして亀裂を生じる。

まだ、割れはしない。私のイメージの中では、だ。

「お姉ちゃん、タカルさんから電話だよお」

突如来襲した、天を突き破る弟の喧噪、それは私のイメージの外。よって、本日のイメージはこれにて、リセット。

 

誰でも持つであろう、憧れのイメージ。

私の近い存在にも数え切れないほど、イメージを抱えて生きている人達がいる。

例えば、八歳を数える弟のイロは、将来仮面ライダーになりたいと、言う。

仮面ライダーといえば、一般的な見解では正義の味方であり、弱者のために強者を倒すヒーローと崇められる存在である。オールドファンも多いだろう。つまり言い換えてしまえば、イロは正義の味方になりたい、という憧れを抱いているわけである。

正義、これほど曖昧な言葉を私は他に知らない。だから、私は嘲るような態度で彼に教えてあげた。

「無理よ、イロは弱虫で泣き虫で臆病者じゃない。それなのに弱い人を救える人なんて、絶対にありえないわ。絶対にね」

イロの憧れのイメージはそこで摘まれた。泣きそうな顔で私の部屋を出て行く彼の後姿は、悲愴めいて壊れてしまいそうな、幼い少年の純粋らしさがあった。事実とはいえ、悪いことをしてしまったと思った。

やはりイメージとは、明白な現実感を伴なっていなければならない。自分を客観的に見詰め、憧れの理想と照らし合わせて見て、可能性の尺度を推し量る必要がある。イロには自己を見極める力が少々足りないようだ。無計画で適当に理想を唱えてみただけの幼稚な発想だ。子供だからじゃ済まされない、大人になれば理想と現実の狭間で苦しむのだから。

それでも、私は罪悪感から解放されるため、謝罪を選んだ。すると、イロは笑顔で応えた。

「僕、仮面ライダーR1になることにするよ」

イロは、はっきりと仮面ライダーR1になりたいと言った。私は言葉が出なかった。仮面ライダーR1というキャラクターを知らなかったせいだ。

仮面ライダーの典型と考えて問題ないのなら、正義の味方であろうが、性格や容貌が分からないし、もしかしたら敵の組織に洗脳を施された、全く別のダークヒーローなのかもしれない。或いは、番組すら違うのかもしれない。イロのような臆病者なのかもしれない。私の忠告を受けて、理想との間隙が遥かに狭まった目標を選んだのかもしれない。

「そう、頑張ってね」

考えていても分からないので、私は適当に励ましてしまった。

その時見せた、イロの満面の笑みは記憶に新しい。彼は一体何を目指そうとしているのか。

お姉ちゃんの知識の及ばない範囲は、イロにとって先の暗い深海もいいところである。

 

携帯の着信音を最新のヒット曲に変えたイメージ。

それは大手着うたサイトから、無料ダウンロードの手順を踏んで、現実のものとなった。

試しに家電から自分の携帯に電波を飛ばしてみる。目で捕捉できない電波が携帯に受信され、聞き覚えのある音色を奏でる。

それは男性アーティストの重低音を利かせた迫力ある歌声ではなく、繊細で透明感のある女性アーティストの歌声であった。音質は少々悪いが贅沢は敵である。

私は部屋に戻って電話を取る。嬉しくなって笑顔になっている。イメージとは違う現実味を持った達成感、やがてそれは興味をなくして風化してしまい、新たなイメージを作る元に変わる。私は束の間の歓喜を存分に堪能する。

暫くして、私は溜息をついた。腐敗したイメージを頭から追い出し、新たなイメージを構想する。

「新たなイメージが、ここに」

私の頭に新たなイメージが舞い降りた。私はイメージを形に変えるため早急に電話をかける。通話先は知り合いの知り合いであるヤマカという女性だ。

コール音が数度鳴り、知らない男性の声が返ってきた。

「もしもし、谷田ですけど、何か用っすか」

無礼な人だ。第一印象を膨らませ連想させ、私のイメージは急激にどんどん進み、谷田氏の模型を造り上げた。完成図はだぼついたシャツに弛んだトレパンを履いた男であった。耳と舌に銀色のピアスを嵌め込み、鍔広の帽子を裏向けて被っている。もしかしたら二個も三個も無駄に重ねて被っているかもしれない。

性格面は、成熟した男性の割りに、遊び盛りな大人気ない子供心に翻弄されっぱなしであり、全体像はラッパーに似ている。

「ヤマカさんに変わっていただけませんか」

「あ、はい」

谷田氏は意外にも丁重にヤマカに取り次いでくれた。私の偏見で固めたイメージが消し飛び、スーツを着た穏やかな中年男性の容貌に変わる。

「何か用、ミソちゃん」

ヤマカはおどおどした声になっていた。私が怖いらしい。

「ああ、うんとね、あれ歌ってくれないかな」

数秒ほど沈黙が流れ、ヤマカの清涼感ある透き通る声が聴こえてきた。時に甘くなり、声の調子を上げたり下げたりして、聴き手に飽きさせない工夫が随所になされていた。私は強い感銘を受けて涙が溢れそうになった。

私の新しいイメージが形となった瞬間だった。彼女の歌声は着うたで流れたそれよりも、歌手本人の生の音質を再現していたのだ。迫真の演技と歌に関しての才能の塊が混ざり合い、調和が取れた完璧な歌声になっていた。

私は電話を頭と肩で挟み、何度も何度も拍手送った。ヤマカの底知れぬ歌の才に拍手、ヤマカの才を見抜いた私のイメージに拍手。

「ミソちゃん、もういいかな」

「あ、うん、じゃあまた明日ね」

私は電話を切った。胸に込み上げていた熱い感動は冷気に晒され、途端にだらしない偽りの偶像であるような気がした。ヤマカへの歌声と、好きだった着うたの曲への興味関心は一気に失せてしまう。私の頭の中に残ったのは、谷田氏の不明瞭な正体への好奇心だけだった。一体どんな人物なんだろうか。

私の半端なイメージは正解を一ミリも掠めていないのか、リダイヤルを押して、掛け直してみる。

ツー、ツーって、何度も繰り返し鳴った。

 

ヤマカとは、知り合いの知り合いであるので深い仲ではない。むしろ嫌われているのかもしれないイメージが付き纏っている。

昨日のイメージ中に、十回ほど掛け直したが結局出てくれなかった。憎まれる謂れはないと思うが、出てくれなかったのだから、憎まれているということなんだろう。

これは一度、直接ヤマカと会って話し合う必要がある。

私のイメージでは、ヤマカは気弱で大人しい、無口な子である。声に出さない分、内にストレスをを溜め込みやすいタイプなんだろう。面と向かって嫌いと言ってくれた方が、私としては大変スッキリするわけだ。

「はっきり言ってくれたら、スッキリするんだけどな」

カフェテラスの空いてる席に、ヤマカと今後の付き合い方について対談している空間イメージを構築する。

ヤマカの長い前髪は目にかかり、髪の下から私を覗き見るように目を凝らしている。ヤマカが着ている簡単な服は、女性としての魅力をわざと抹消しているようにさえ見える。

ヤマカは目が合うと目を逸らす。落ち着きなく身じろぎする仕草が可愛らしい。

私は緊張を解してあげるため、テーブルに置かれたカップを薦める。先程頼んだアイスコーヒーは溢れそうなほど満たされ、ヤマカは一滴も口に運んでいない。たまに発する掠れた声が喉が渇いている何よりの証拠だ。

ヤマカは手を震わせながらカップを取り、口に含んですぐに置く。

「あ、あの、私、ミソちゃんが嫌いだなんて一度も思ったことないよ」

ヤマカは覚悟を決めたように真っ直ぐ私を見据えていた。超音波のような高い声は互いのコーヒーに波紋を発生させた。

私は首を振った。ヤマカが嘘をついているイメージ。

ヤマカは私が嫌いであり、前言撤回してくれなければイメージは成立しない。

「嘘ついてごめん、私、ミソちゃんのことが、本当は嫌いだったの」

「なんで、ひどいよ、私、ヤマカに何もしてないじゃない」

「え、それは、ミソちゃんが、病」「じゃなくて、ミソちゃんが、ね」「築地でね」「ミソちゃんが築地でアジを大量に買い占めてる姿が、人じゃないって言うか、卑しく映った」「んだ」

乱れた私のイメージ、私は顔を蒼白させて聞き入ってしまった。慌ててテレビのリモコンを手に出現させ、電源ボタンをヤマカに向けて押した。ヤマカが消え入りそうな悲鳴をあげて、イメージの世界から消え失せた。

ヤマカがいなくなった後には、薄いガラスが立っていた。全面に亀裂が生じている。

「もういいわよ」

私はガラスに電源ボタンを押した。消えた。

私はイメージの世界に電源ボタンを押した。消えた。

私は自分に向けて電源ボタンを押した。消えた。

携帯に登録しているヤマカの番号を削除した。

 

タカルが私の元を訪ねてくれた。

世界一周旅行の帰りらしく、御土産にマカデミアンナッツやらエッフェル塔のキーホルダーを頂いた。私は報酬にタカルと口付けを交わすイメージを、構築する。

恥じらいに指を噛み、私とタカルの肉体の一部分が交わるイメージを、作り上げる。

溶け合っていく二人の前途を、イロが部屋のドアを開けて、指を咥えて見守っているイメージに、発展させる。

「お姉ちゃん、綺麗だよ」

イロがにやけた顔で言う。私は頬を赤められてタカルとの行為を終える。すると、イロの目に性欲が血走り出して服を脱ぎ、皮を剥き、それはもう凄まじい勢いで私に迫り、固くなったもので私を貫く、奥まで深く、抉るようにしゃくり上げられる。

「イ、イロ、やめて」

私は口では拒みながら、イロの頭を胸に押し付けている。イロは舌を乳房の曲線に沿って這わせる。左手は別の乳房を潰している。弾力で押し変えそうとしてもイロの力はお姉ちゃんが知らない間に、逞しく成長していて、固くなったものが僅かだが横に伸びて、イロの身長や質量は増幅され大人になる。

私は大人になったイロと性交を行っている格好になった、イメージを作り上げている。

タカルは傍らで呆然としている。

イロは上体を伏せて、私と口付けを交わす。ねっとりと舌を混入させている。唾や涎といった互いの汚物が糸を引いて千切れた。固くなった大人のものは、依然として性器に取り込まれ、淫猥な音を鳴らして刺激を与え合っている。

「お姉ちゃん、実はね」「僕、病院に」「入っている、お」「姉ちゃんグワア」

「言わないでイロ、それを口に出しちゃ駄目」

イメージの世界を阻害する発言を慎め。私の脳裏に浮かんだ強いイメージが命令を与えて元に正す。

命令のイメージが強すぎて、私とイロが性交を行う前まで巻き戻る。タカルと合体している。私が望んでいるのはタカルではない。

イロだ。イロが欲しい。

私の頭が練り上げたイメージが瞬時に実行される。大人になったイロと私が性交をしている状態に戻った。イロの甘いマスクは不気味に破顔している。

私の足元から寒気が這い上がる。イメージがまだ、乱れているというのか。

「僕、病院に入ってるお姉ちゃん」「がねええええ」

「やめて、いわないで」

私は手にテレビのリモコンを出現させ、イロに向けて早送りボタンを押した。

イロが何を言っているのか理解できなくなった。風を起こす扇風機の前に立っているかのように間抜けで饒舌に喋っている。腰は止まずに高速で打ち付けている。

数秒後に、私の性器と合体した固いものは内容物を放出し、イロは絶頂を迎えた興奮と姉を征服した狂喜に頬を緩める。イロはまだ何かを叫び続けているが、私には聞き取れない。

私は電源ボタンをイロに向けて押した。イロの体が石化して固まり、頭からボロボロ崩壊していった。

傍らで呆然としていたタカルの目に生気が宿った。気を緩めてしまったせいか、想定外のバグだ。

「ミソ、イロ君を好きになるのはまだいいけど」「君は病院にいい」「イレーラーレーテー」

私は電源ボタンを押した。タカルの体が捻じ曲がって、縮小しながらゴミ箱に吸い込まれていった。

「お、ねえ、ちゃん、は、うごけ、な、いから」「ぼく、と、かあさん、と、タカルさん、と、ヤマーカー」「さん、にい」

私ははっとして視線を下に向けた。無数の石ころになったイロが言葉を話している。思考が分散しているのか、音程が滅茶苦茶で外来語に聴こえてくる。私は散乱した膨大な数の石ころに、電源ボタンを押していく。

「ど、う、して」「おねえちゃん、は」「イメージのセカイ、バッカリ」「ミテルノオ」

私は聞こえない振りをしてボタンを押す。いや、元から何を言ってるのか理解できていない筈だ。

「メ、イ、ハクな、ゲンジツカン」「ッテ、ナンナノカ」「ボクに、オシ、エテ」

「静かにしなさいイロ、言っちゃ駄目だって思ってたじゃない。どうして、どうして勝手に言っちゃのよお」

私は何を言ってるんだ。イロは何を言ってるんだ。分からない、それは全てイメージの外。

イメージとは、明白な現実感を伴なっていなければ、幼稚な発想と見做されてしまうものなのだ。

イロを消し終えた私は、なぜか涙ぐんでいた。胸に込み上げてくる悲しみは何処からやって来たのだろうか。

私はイメージの世界をリモコンで消して、現実の世界にまた戻る。

 

現実の世界、そんなものはあるようで存在しない。なんて、本当は、実は、帰りたくないから言ってる。かもしれない。信じたくないからじゃない。現実なんて、ないからだ。何を言ってるんだ私は。

仮に、病室の窓から大木が見えるとする。大木には枯れた葉っぱが数え切れないほどついていて、風に負けてひらひら舞い落ち、一日ごとにその数をどんどん減らしていったとする。

そして、あの葉っぱが全てなくなったら、お姉ちゃん死んじゃうかもねとか、イロが傍らで不謹慎な言葉を投げかけ、リンゴを剥いている母のナイフが、誤って私の前髪を掠め、額の皮を数センチ切り、血の塊が溢れて、イロと母は腹を抱えて狂喜乱舞するとする。あくまで、仮のイメージの世界だ。

このようなイメージを展開するならば、私が病室のベッドに寝ている経緯を示したイメージから始めなくてはならないな。

私は、谷田運送のヤマカーという、それはもうとてつもなく大きなトラックに跳ね飛ばされ、アスファルトの大地に頭を強く打ちつけ、病院に運ばれ、植物人間に、なって、いるうう。ああ、また何かイメージが浮かんでくる。

タカルという人物が存在するとして、私の夫と仮定する。この人がまた性根が悪くて、人工呼吸器をつけた私の服を剥いで、セックスしてくるんだああ。私は抵抗できない。無機質に体を揺らして、されるがままに弄ばれる。タカルは邪悪に笑って私の胸を揉みまくり、固くなったものを性器に突き入れてくる。私は悟るんだ。ああ、この人は人間じゃない。悪魔だ。私を殺そうとする悪魔だ。この世には悪魔がいいっぱい、人間を装って生きているんだああ。

あくまでイメージの世界。

 

ひび割れたガラスに手を添えるイメージ。

ガラスに映る私の顔は、不恰好に細切れにされている。私は唇の端を軽く上げて自嘲する。

イメージとは、一度構築してしまえば、次からは瞬間的に同じイメージを再構築できる利便性を持つ。ここはカフェテラスとラブホテルが軒を連ねる以前のままの風景を保っている。

私の横をサラリーマンや女子大生が通り抜け、足を止めて振り返る。私の顔に集まる数十人分の視線に、私は恥じらいを覚えながらも、凛としてガラスを見据える。

いよいよガラスを割る時が来た。私は明白な現実感を意識して、その後どうなるかをイメージする。ガラスが割れた後のロマンチックな世界の構想ができあがり、完成図を頭に留める。

私は一つ深呼吸して、ガラスに力を加える。

亀裂が千にも万にも跳ね上がり、原型を崩壊させて散り散りになっていった。ガラスの破片は地面で砕かれ、私のソックスに飛び上がってくる。

瞬間、場面が舞踏会のような華やかなパーティー会場に切り替わる。高貴なドレスを身に纏った貴婦人と礼服を着た上流階級の男性が手を取り合い、優雅にダンスを踊っている。数は百人を越えるだろうか。その周りを囲むように、銀色の食器に盛り付けられた豪勢な食事が種類別に並べられている。私は彼らの様子を高いステージの上から見下ろしている。

会場の金箔を帯びたドアから、私好みの男性が現れる。中央で踊る彼らに一礼を交わし、床に敷かれたレッドカーペットに物怖じせず、堂々と直線的に歩いてくる。彼はイロの純真さを保って大人に成長した素敵な人だ。私はそうイメージしている。

私はステージを降りて、彼の元へ駆け寄る。贅沢の限りを尽くしたドレスを足で踏み、体勢を崩して転倒しそうになる。そこを彼の厚い胸板に抱き止められる。彼は私の顎を軽く上げさせ、二人は暫し見詰め合う。

「イロ、私は、あなたを愛しています」

彼の名前はイロにする。たった今後付け設定した、彼に相応しい最適な名だ。

イロは何も言わずに目を細め、私の背中に手を回す。イロはキスを求めている。私は背の高いイロの唇に、自分の唇を重ね合わそうと背伸びする。

「お姉ちゃあん」「ボクお姉ちゃんのこと嫌いなんだあああ」「ごう、めん、ねえええ」

「え、ああ、やめてえ」

またもや乱れ出した、私のイメージ。イロは顔面を奇妙に歪ませていた。目が横長に伸びて、鼻が平面に潰れている。口に至っては耳の裏辺りまで裂けている。口からチロチロ這いずり出してきた舌は、二又に切れて蛇のようだ。

私は慌てて手にリモコンを出現させる。阻害するイメージを掻き消さんと、イロに向けて電源ボタンを押した。

「おねえちゃん、げんじツカン」「ッテ、ヌワアアニイ」

イロが唸りをあげて金箔のドアに吸い込まれていった。私は二度と帰って来ないイメージを深めて念を押す。

ダンスに興じていた貴婦人の一人が、私に詰め寄ってきた。今度は激しい剣幕に努めそうな強張った顔をしている。

私は直感的に、イメージがますます乱れて来ていると悟った。リモコンを貴婦人に向ける。

「やっほー、ミソちゃん」「久しぶりい」「私、ミソちゃんにあんなんされたから」「こんなんしてやりたいんだああー」

貴婦人の姿がヤマカに変貌した。一トンもの荷物を運搬できる運送トラックヤマカーは、エンジンを吹かして、私を追い立てる準備を整えている。

私は必死に電源ボタンを押した。だが、効かなかった。勝手に故障しているイメージまで作り上げてしまったのか。私は額に冷や汗を滲ませ、イメージの世界を消すか、別の場面に様変わりさせるイメージを練り上げる。焦って思考が上手くまとまらない。

「キャハハハハ」「ミソちゃんは、私と大の仲良しの」「オトモ、ダチ、ダヨネエ」

マフラーから黒煙を吹き上げ、ヤマカーは走り出した。

「ひ、やめて、やめてヤマカー。私が悪いんじゃないの、違うの、違うのおお」

ドレスがタイヤに巻き込まれ、私は転倒した。ヤマカーは驀進を続ける。私の爪先から尻が潰され、背中を潰され、肩を潰され、頭を潰され、私はレッドカーペットに限りなく平面に近づいた。イメージだから死なないし、死ねない。

「助けて、私は違うの。もうやめてよヤマカー」

ヤマカーは無常にもバックしてきた。ペラペラになった私の五体が念入りに潰され、レッドカーペットにへばり付いた。イメージが乱れているせいか、出血はしていない。

私は苦肉の策を振り絞り、意識を失ったイメージを想像してみた。すると、イメージの世界は瞬く間に消滅した。

「ゲンジツカンッテ」「ヌアアンナンダヨオ」

か細いイロの声が聞こえ、私は目を開けた。カフェテラスの前に移動していた。

私はひび割れたガラスに手を添えていた。生唾を飲み込み、割れないよう細心の注意を払って静かに手を引き離す。ガラスは割れなかった。

「はあ、はあ、助かった」

安心したのも束の間、私が全く予期していなかった事態が発生した。道路を挟んだ向かいの歩道で遊んでいた少年が、野球ボールを高速で投げてきた。私は体を投げ出して止めにいくが、速過ぎるため掠りもせずに、体の脇を抜けていった。

ボールはそのまま命中してしまった。ガラスは再び鋭い音を立てて割れた。散り散りになっていくガラスの世界の向こうは、言い知れない恐怖に満ちているような、明白な現実感、そんな下らないものを私に投げかけてくるような気がした。

 

私は暗闇の現実世界に引き戻され、虚空に流れる文字の羅列を眺めていた。

誕生。父に美空と名付けられる。幼稚園に入園、級友にミソとあだ名をつけられる。幼稚園を卒園、おめでとお。小学校入学、おめでとお。小学校卒業、おめでとお。中学校入学、おめでとお。順調に経過する。

中学校を卒業する。質実剛健な父が言う。ふざけんじゃねえよ。おめえ、受験失敗したとはどういう了見だ、この親不孝娘があ。マイペースな母が言う。あらまあ、どうしましょお。ミソちゃんは、頭の悪い子だったのねえ。父が本気で怒鳴る。お前みたいな馬鹿娘は、もう親子でも何でもねえ。今すぐ出て行け。

ああ、言われなくても出て行ってやるよ。二度と帰ってきてやるもんか。ミソが捨て台詞を吐いて家を出る。清掃員として社会の歯車になる。

勤め先の社員の信条隆治にナンパされる。タカルというあだ名を付けて親交を深める。タカルにプロボーズされて結婚する。タカルとセックスして、子供を孕む。子供はいらないので中絶する。タカルと懲りずにセックスする。また孕み、また中絶する。タカルが働かなくなったので生活費が底を尽く。そんな時、父親が事故で死ぬ、おめでとお。遺産を相続したよ、おめでとお。金に不自由しなくなったよ、おめでとお。

タカルが黙って麻薬を購入する。タカルが中毒になる。タカルがとち狂ってマドカを刺し殺す。マドカの親父は谷田運送の社員だった。私怨に燃えて、ヤマカーでタカルを殺しにかかる。タカルは連れのミソを身代わりに逃げる。ミソ轢かれる。吹き飛ぶ。頭を打つ。植物人間になるうう。マドカの親父捕まる。執行猶予付きの懲役に罰せられる。タカルは安堵の表情でミソにかけられた生命保険を受け取る。懐が温まる。アメリカに高飛びする。

植物人間のミソは、暗闇の現実世界でのみ意識を回復する。タカルに深い憎悪を抱く。退屈な日々を妄想したイメージで埋める。淋しさは誤魔化し切れず空虚になる。強くなりたいがために子供の頃好きだった仮面ライダーに憧れる。古いライダーは容姿が優れていないので、仮面ライダーRI役の青年に好意を寄せる。そのうち飽きる。R1の弟役の亀井弘樹を思い出し、イロとあだ名を付けて自分の弟の設定にする。イロに歪な愛を抱いてしまう。マスターベーションができないので欲求不満になる。イロの童貞を奪いたいと渇望するようになる。イロのが欲しいよおおお。心で叫ぶ。イロとのセックスシーンばかりをイメージするようになる。

十年経つ。性欲で有耶無耶にしていた空虚がぶり返す。毎日不安と恐怖に襲われる。やけにガラスのイメージを作りたくなり、割ってみたくもなる。母親とイロとタカルとヤマカー関連のイメージしか構想できなくなる。完璧だった筈のイメージが乱れ始める。ガラスを割ってしまう。イメージが現実の恐怖に負けてしまう。

イメージを完全に実体化できなくなる。明白な現実感だけが胸に押し寄せるようになる。暗くて淋しくて、独りで怖い。

そしてこの先、私は一体どうなっていくんだろうか。暗闇の現実世界は文字をつぐんで示そうとしなかった。

 

淋しい。身の拠り所だったイメージを奪われ、私は泣きそうに暗闇の現実世界を生きている。

誰でもいい、誰でもいいから私の相手をして欲しい。母さん、イロ君、クソッタレのタカル、私を植物人間に変えたヤマカー。誰でもいい、もう人は選ばない。私は淋しくて堪らない。何千日と誰にも相手にされずにじんこうこきゅうきで生かされてるううんだからああ。それも仕方ないかなあって割り切れるほど、単純な女じゃない。

全く、何処のどいつが私を生かし続けているんだああ、お願いだから誰か私の相手をしてくれええ。暗い闇の現実世界から救い出してよおお。ひああ、ひゃああ、ひあああああ。意識なんて、狂ってしまえ。

ああああ。もう駄目だあ。淋しい。もういい。誰か私を殺してくれえ。誰かその辺にいるんでしょ。怖い怖い怖いよお、もう生きるのが怖いんだよ。死にたい、セックスなんていらないから、性欲なんて萎えているから、私はすぐに死にたいんだよおお。早く私を楽にしてくれ、助けてくれよおお。畜生、誰か私を殺してくれ。意識なんて、壊れてしまえ。

辛い、否応なしに淋しさが増していくだけだ。

 

私は作れないイメージを頭に描き始めた。母がいる。イロがいる。タカルがいる。ヤマカーがいる。暗闇だけで像は浮かばず、仮定すら成り立たない、仮定をしている。淋しさを紛らわしたいと切望しているからこそ、私は必死に足掻いてイメージを作ろうとしているのだ。

でもちっとも楽しめない。空虚が胸にしがみ付いて離れない。生きていることにどんな意味があるのだろうか、そんな次元の疑問はとうの昔に飽きてしまった。

近頃考えるのは、もし植物人間状態から回復したら、何を成し遂げてやるかだ。

何処まで本気なのかは分からない、けど、私はタカルを殺してやりたいと真剣に思っている。そのために、生きたいと切に願っている。ふふ、あはは、何年でも暗闇の世界でじっと耐え忍んでやる。私の人生を滅茶苦茶にしたタカルを始末する見えないイメージが、私を長く生き永らえさせる。そうイメージできればいいのにと自我を保っている。

私は絶体絶命の空虚の果てに、イメージの新境地が切り開けると信じている。しかし今のところ、イメージの向こうにイメージは見えない。

 

「まだやりますか」

担当の医師が訝しげに訊ねる。

「いえ、もう結構です。長い間お世話になりました」

タカルは頭を下げて、スーツケースを医師に手渡す。

「ほうほう、これはこれは、心づけありがとうございます。しかし本当にいいんですか。万が一ですが、助かる可能性もあるんですよ」

医師はスーツケースの鍵を開けた。札束が敷き詰められている。ざっと一億はあるだろう。

「聞こえたんですよ、妻の声が」

タカルは澄んだ瞳でベッドに横たわるミソを見詰める。更生して出世したのか、高級な白スーツを着ている。

「何ていってました」

医師は醜い笑みを浮かべ、札束の枚数を数え出した。

「私のことはもう忘れてくれって。新しい女性を見つけて、幸せになってくれって言ってくれたんです。ほんとに、気立ての良い、最高の女です」

タカルは目に涙を湛え、感慨深そうに語った。

「それはそれは。妻の鏡のような人ですな。いやあ、私としては、もっと居てくれてもいいんけどね。本当にやめてもいいんですか、いえ、別に追加分をよこせとか、卑しい意味じゃあないんですけどね」

タカルは首を振って、懐から取り出した小切手を医師に手渡した。

「すいません、もう決めたことですから。それは、ほんのお気持ちです。今まで本当にありがとうございました」

タカルは手の甲で涙を拭い、気重に病室の扉を開けた。病室の外には新妻が待っていた。医師は頬を引き攣らせてタカルを見送っていた。

「いい商売だったんだけどな」

医師は嘆いて、ミソの人工呼吸器を停止させた。

 

あっ、死にたい。早く死んで楽になりたい。

何度もそう思ったからいけなかったのか、妙に息苦しい。まるで呼吸困難に陥っているようだ。不変的であった暗闇の世界に砂嵐が吹き荒れ、眠っていたイメージが次々に浮かんでくる。回復の兆候だろうか、それにしては息苦し過ぎる。

イロが目の前に現れた。屈託のない明るい笑顔を作っている。私のイメージした通りだ。やはり回復したのだろうか。

「イロ、やっと会えたね。お姉ちゃんだよ、ミソだよ」

私は両手を広げて、イロに駆け寄る。

「さよなら、お姉ちゃん、また会おうね」

「えっ、イロ、イロ」

イロのイメージが消え去った。私の体が極度に疲労を感じていた。息が止まっている。

まさか、まさか私は本当に死ぬんじゃあ、あ、あ、あ、あ、あ、意識が飛んでしまいそうだ。

私の憧れのイメージ、復讐のイメージ、命令のイメージ、阻害のイメージ、私の眠っていた全てのイメージが調和を整え、駆動し始めた。

私は苦悶に顔を歪めて構想を練り上げる。頭の中に金色に輝くイメージの欠片が浮かんでいる。

それはかつて触れたことのない危険なイメージだった。私は意識が飛ぶ前に、気力でイメージを膨らませ、実体化させる。

ふっと、私は映画館に飛ばされた。スクリーンが横に広がり、走馬灯のように幼少の頃の私の映像が流されていった。

死のイメージ。

私は見終えてから漸く理解した、息が詰まりそうになり、胸を極代の恐怖が暴れ狂う。

私は生きたいと願っているのに、何も悪いことはしていないのに、生殺しにされた挙句、不条理に殺されてしまうのか。いやだ、いやだ、そんなの嫌だ。死にたくない、助けて、誰か助けてよお。

いや、いやだああああ。私の体が朽ち折れ、縮小されて人形大の大きさに変貌を遂げた。ゴミ箱の中に吸い込まれ、私の存在はこの世から抹消される死のイメージが湧き、私は全力で逃げ出した。

奇しくもゴミ箱の吸引力に敗れて体が浮かび上がり、私は腹から悲鳴を振り絞った。

「いやだ、死にたい、死にたいいいいいい」

逆の本音を叫んだ。明白な現実感を初めて体感しているせいかもしれない。根底から揺すぶられた意識は、死の現実を着実に突き付けられる。

結局、私は無駄に生かされ、要らなくなったら殺されるだけの無価値な存在だったんだ。全身に受ける死のイメージが不思議と心地良い。

そうだ、私は死を求め、死のために生きていたのだ。私は植物人間になるずっと以前から、死に憧れていて。

「愛してる、私はあなたを愛しています」

私の意識は、鮮烈な死のイメージに包まれた。映画館の情景は霧散して、視界に蛍光灯の光りがぼやけて映った。

「あ、おはよう」

私は上体を起こして自分に言った。死は私を拒んだ、いや、受け入れたのか。私はまだ死に生かされ続ける結果に落ち着いたようだ。

久々に見た明るい現実世界は、失意と歓喜が入り混じった涙で乱れ、複雑な構造に歪んでいた。私は決意めいた溜息をついた。

そして、私は病院をこっそり抜け出した。

「生きることは、死ぬことだあああ」

私は包丁を手に取り、現実の闇の中をひた走ることにした。

死に生かされ、人に死を与える明白な現実感こそが、私を支配する全てのイメージ、だ。

「いやだああああああああ、やりたくない、やりたくない、やりたくないいいい」

さあ、私よ動き出せ。もう、決めたことなんだ。私は死に憧れて誰かを殺し、誰かに憎まれ、殺される愉悦に浸りたい。

「だって、私だけ、私だけ死んだら、不公平じゃないかああああああ」

イメージよ、今までありがとう。私は、永遠に、あなたを忘れない。

「死にたくないいいいいいいいい」

さようなら、イメージの、私。

「死にたくな」

リセット。

 

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