幽鬼通りは奇をてらう

 

逃げるように帰宅を始める。

徒歩八分、幽鬼通りの名に相応しい寂れた通りに足を踏み入れる。十メートル毎に設置される黒塗りの街灯、横幅五メートルの汚れが目立つ壁の中間を真崎拍子はおずおず進む。

壁の外側にそびえ立つ民家は照明を落とし、今は存在しないであろう主の帰りを待ち続ける。手入れのされていない街灯は焼けた音と供に火花を散らす。お陰で真崎を憎む学生服は怖がって追いかけて来れない。どんより濁った空気と、不変の静寂だけがここにはある。

徒歩十分、真崎は学校で起きたいじめに改めて胸を痛める。昼休み、有田と加藤と斉藤が寄って集って中本君の昼食を邪魔したのだ。机一杯に広げた風呂敷に転がる、袋詰めのカレーパンを横取りし、中本君の制止も聞かずに破いて食べた。中本君は泣きそうに顔を歪め、声の限りに泣き叫んでしまった。変形した丈の短いスカートを履くクラスの女子はほくそ笑み、担任の新村先生はただ目を伏せた。中本君の至福のひと時であった昼食を奴等は。それを助けもせずに見て見ぬ振りをしたクラスの連中や教師ときたら。真崎はぐっと下唇を噛み締めた。

徒歩十五分、長い直線は途絶えない。視界が及ぶ範囲は何処までも汚れた壁と火花を散らす街灯が続いていた。近道と聞いたのだが、まさか噂は偽りだったのか。真崎は恐怖と焦りに冷や汗を流した。

真崎が幽鬼通りを帰路に利用したのは初めてだった。恐らく他の学生服も通った経験はないだろう。夜中に幽霊が出るとか、二百歳を越えた爺さんが古ぼけた民家に住んでいるのを目撃したとか、不気味な噂が街中に流されているので、知らない人間はいない筈だ。噂を知っていながら真崎があえて利用したのは、僅か五分で目的地に到着できる、摩訶不思議な道だと話に聞いていたからだ。科学的な論拠はないが、思想を読み取り、自在に時空を歪めてくれる都合のいい空間だと真崎は信じ込んでいた。だが、噂の発信源が性根の悪い武本だと今になって思い出し、舌打ちを鳴らした。畜生、騙された。

徒歩三十分、真崎の足取りは疲労で重くなっていた。どちらかというと文科系であり、運動能力は男子の平均以下に属している凡庸な高校二年生だった。校則を意識して軽く染めた茶髪に、鋭角なへの字眉毛が真崎の印象を微かに主張している。本来は平面である学生鞄は教科書やノートでパンパンに膨らみ、ずっしりとした質量が左腕に負担をかけていた。真崎の重心はやや左に傾いている。

徒歩五十分、代わり映えしない細長い道、全身から噴出す嫌な汗がペンキのような赤い斑点が付いた地面に跳ねる。真崎の口はからからに乾燥し、喉は極度に潤いを求めていた。決して田舎ではない街の片隅に、砂漠のような無限の道地獄が存在しようとは。真崎は口元に壊れた笑いを浮かべた。

「はあ、はあ」

徒歩一時間二十分、真崎は学生鞄を右腕に持ち替えた。痙攣した左腕を大きく振って慰める。乾燥した唇は亀裂を生じ、軽くめくっただけで簡単に破けそうだ。真崎が舌で舐めると薄く破けた。真崎は苦痛に顔を歪める。まだ本体と繋がってるぴらぴらの皮は強風に叩かれ、勢いよく剥がれていった。

「つうっ」

真崎は口元に手を当てて蹲った。唇に触れた手の平に血の粒が付着したのを認め、真崎は顔を蒼白させた。その瞬間頭に下校直後の情景が過ぎった。真崎は正義感から、中村君の敵を討とうといじめっ子のリーダー格である有田に決闘を申し込んでいた。しかしいざ待ち合わせの体育館裏に向かうとき、足が竦んで思うように動けなかった。暴力を受ける、痛い目に遭わされる、それまで燃え上がっていた正義感は恐怖で一気に鎮火してしまい、真崎は逃亡を図った。中村君には悪いと思ったが仕方がなかった。威勢はあっても苛めっ子に立ち向かえる勇気や膂力は振り絞れなかった。安堵の表情を浮かべて帰路を歩く真崎が途中後ろを振り返ると、顔に憎悪を張り付かせた苛めっ子が三人、金属バットやら木刀を持って全力で追いかけていたのに気付いた。真崎は慌てて走った。帰り道を悟られるとまずいと咄嗟に判断し、真崎は脇道にそれた。それが奇しくも幽鬼通りだった。真崎は躊躇ったが五分で目的地に着ける都合のいい噂を思い出し、気重に歩いていったのだ。

「どうして、いつもこんなことに」

真崎は後先考えず行動してしまう己の無謀さを悔い、失意の念に立ち疎んだ。道は果てしなく真っ直ぐ続いていた。

 

空は暗黒色に染まり、カラスのけたたましい鳴き声が静寂に迫力を与えていた。

徒歩三時間、真崎はもう疲労困憊といった様子だ。普段より遥かに狭まった歩幅は距離をまともに稼いでいない。教材用具一式が収められた学生鞄は重いので途中で捨ててきた。弁当箱も隅から隅まで調べたが食料になりそうなものはなかったので捨てた。中身は空っぽだった。

「はあ」

真崎は長い溜息をついた。俯いた双眸は生ゴミが散乱している地面を虚ろに見つめていた。

生ゴミ。なぜこんなところに。

真崎ははっとして顔を上げた。真っ直ぐな道の先、深い闇に丸い明かりが浮かんでいるのを認めた。真崎は顔を綻ばせ、嬉しくなって駆け出した。やった、助かった。真崎の胸に希望が湧き出した。生への執着からか、疲れも忘れて驚くべき速さで走っていく。肉体の限界を超えたのかと思う暇もなく、真崎は発光体の間近まで迫ってきた。

サッサッ、そのとき、地面を掃くような音が二度聞こえた。真崎は体をびくつかせ、足を止めた。目前には提灯が浮かんでいた。これが遠くから見えた発光体らしい。更に目を凝らすと背後に建物のような像が浮かびあがってきた。提灯は建物に取り付けられている。

サッサッ、掃くような音がまた聞こえた。真崎は怯えながら目を行かせた。夜目が利くわけではないが、壁際に小柄な人間が箒を持って立っているのがわかった。真崎は肺に空気を溜め込み、悲鳴をあげようとする。

「あら、お客さまですか」

箒を持った人間が声をかけた。少女のようだった。

「うわあああああ、幽霊だあああああ」

それは真崎の驚愕の叫びに拍手をかけた。全力で道を引き返し始め、先の見えない闇の中を疾走していく。単純計算で最低三時間はかかる道のりだが目的意識が優先した。何よりもまず人名確保、それから水の確保。それから雑誌の購入。それから何だ。真崎の頭の中を走馬灯のように混沌に満ちた思考が交錯していた。真崎は体感時間で三分経過した辺りで漸く止まった。

両膝に手を当て、大きく息を乱す。

「お客さま、どちらに行かれるんですか。お店はこちらですよ」

背後から少女のような声が言った。真崎は唇を引き攣りながら振り返った。無垢に笑う真の少女の姿が映った。暗くてはっきりとはしないが真崎より若干年下だろう。真崎は再度悲鳴をあげようとしたが声がでなかった。恐怖からか、喉元まででかかった声が押し潰されていく不思議な感触に苛まれた。

「あ、あわわ、ゆ、ゆ、ゆうれい」

真崎はかろうじて震えた声を作り出せた。少女はクスリと笑う。瞬間、少女の頭が眩い光りを放った。真崎は手で直視を庇った。火が点るような音と供に真崎の両脇を光りが駆け抜けていった。瞬く間に全身が淡い光りで照らされていくのを、目を覆い隠しているのに実感する。暫く時を待ってから、真崎は恐る恐る手を除ける。

「うっ、眩しい」

真崎はまた目を閉じた。一瞬少女の頭にライトが付いてるのが見えた。

「あら、ごめんなさい。他の照明が付いたみたいなんで、こっちは切りますね」

パチっと鳴った。真崎は目を半開きにして少女を注視する。少女は頭にヘッドライトを装着して愛想よく手を振っていた。十五歳前後か、あどけない顔立ちをして今時珍しいおかっぱ頭だった。側頭部には愛らしい髪留めを付けている。牡丹の花が咲き乱れた浴衣を羽織り、首から書店で見かけるような深緑のエプロンを提げていた。エプロンの中心部には髪が数十本しかない餓鬼に似た憎らしい全裸の人間の絵がプリントされている。真崎は続けて目線を下にやり、少女の足元を確認した。ちゃんと足がついている。真崎は同種だと察し、安堵から漏れた笑いを吐いた。

「ね、お化けじゃないでしょ」

少女は見透かしたように言った。真崎は何度も首を振って頷いた。辺りは程よく明るくなっていた。火花が散って再起不能と思われていた街灯には電気がつき、主は不在だと一目で呑み込める古ぼけた民家の窓は橙色に色付いていた。ただ一つ、正面にそびえる洋館のような不気味な建物を除けば、真崎が過去に見てきた夜の街並みそのものだ。

「あ、あの、これは」

真崎は遠慮がちに訊いた。その言葉には多様な意味が込められていた。どうしてあれだけ走ったのに戻ってきてるんだ。なぜ民家や街灯に明かりが点ったんだ。幽鬼通りの終着点はこの建物なのか。他に抜ける道はないのか。そして君は誰なんだ。

分かる訳がない複雑な質問に、少女は首を傾げた。

「質問が抽象的でお答えしかねます。取り敢えず立ち話もなんですし、店に入ってごゆっくりとお話しませんか。お客さまお悩みのようですから、ゆっくり会話を交わして、一つ一つ問題を解決させていきましょう。例え無駄な情報交換になっても、会話は人に安心感を与えくれますよ。それに、きっと店長の鹿又も歓迎してくれますから」

少女は真崎の手を引いて真摯に見つめる。余程、店に案内したいのだろう。真崎は錯乱した思考を統一するのに必死だった。取り敢えず他に当てもないし従うのが賢明か。真崎は意外と簡単に答えを弾き出した。

「分かりました。よろしくお願いします」

何をよろしくするのか分からなかったが言った。

「ほ、本当ですか。ありがとうございます。ありがとうございます」

少女は満面の笑顔で暫し礼に尽くした。真崎の胸に言い知れない不安が宿った。

二人は足並みを揃え、対照的な想いを抱えながら洋館へと二、三歩足を進める。築百年は越えようかという、古い木製の外壁に取り付けられた提灯の横にある鋼鉄の扉の前に立った。少女は浴衣の袖から鍵を取り出し、鍵穴に深く挿し込んで回す。

ギシギシ鈍い音を立てて、少女の怪力で開門されていく重量感ある扉の様子を、真崎は呼吸も忘れて呆然と見守っていた。

 

まず真崎が注目したのは室内の狭さだった。外観で見た限りは高さ五十メートル近くはあったように感じた。少女が開けた鋼鉄の扉でさえ、高さ四メートル近くはあった。鍵穴は身長に合わせて低い位置に取り付けられていたが、目算でそれぐらいはあった。それが中に入れば、せいぜい縦横十メートル前後の骨董品屋、か。

真崎は、左右の陳列棚に置かれた商品らしき品物の数々を品定めして、何を売っているのか確かめる余裕はなかった。扉の前で立ち竦み、正面奥にあるレジ台に頭を横たわらせて寝ている白髪の老人を、不審げに見つめる。

「店長、店長、起きて下さい。三年ぶりのお客さんですよ」

少女はレジの裏手に回って老人を揺さぶった。三年ぶりという言葉に真崎は不安になる。裏を返せば三年間誰も訪れなかったということだ。老人が如何にも生物実験でも行いそうな白衣を着ている影響も相まって、真崎の心臓は嫌に高鳴った。

「なに、客だって。珍しいじゃないかね」

老人は目覚めた。背中を背凭れのある椅子に預けて真崎を見つめる。真崎は一瞬ギョっと身震いした。老人はアイマスクを着けて寝ていたらしい。万華鏡のような奇異な模様が真崎をたじろがせていた。

「こんにちは、いや、こんばんは、えっと、今何時だっけ、火鶴君」

老人はアイマスクを着けたまま、少女に訊ねた。変わった名だと思った。

「確か九時ぐらいですね。ですからこんばんはで正しいかと思われます」

火鶴と呼ばれた少女は真摯に応え、レジ奥にある暖簾を潜って何処かへ消えていった。真崎は老人と二人きりになった。

「じゃあ、こんばんはお客さま。サービス満点、奇特館へようこそ」

老人は陽気な声で言った。真崎は怯えて何も応えられなかった。老人は耳に手を当て、反応をずっと待っていた。

「何してるんですか店長。すいませんお客さま、お待たせいたしました」

暖簾を潜って少女が戻ってきた。頭に装着していたヘッドライトは外され、両腕に背凭れのない木製の椅子を抱えている。店の中央付近に一つ置き、少女は真崎に坐るよう促した。

真崎はぎこちなく歩く。板張りの床が突き破れそうな音を反響させた。挙動不審に辺りを見回し、小さく椅子に坐る。背後を振り返った際、真崎はある事実を知ってしまった。四メートル近くあった鋼鉄の扉は、どういう訳か、半分ぐらいの大きさに縮小されていたのだ。

真崎は息を呑んだ。少女は真崎の前に椅子を置き、膝を折りたたんで腰掛ける。

「改めてこんばんは、呼び止めたりしてすいませんねえ。どうです、少しは落ち着けましたか。色々と訊きたいことがあるでしょうから、私の知識が及ぶ範囲は何だってお応えしますよ」

真崎は押し黙っていた。恐怖に声が出せない。

「やっぱり、怖いんですか」

少女は淋しそうに訊いた。真崎は浅く頷いた。

「そうですか。信じてくれないかもしれませけど、誤解、なんですよね。幽鬼通りとか、お化けが出るとか、ミイラがでるとか、好き勝手に噂流されて、こっちはいい迷惑してるんですよ。営業妨害だって訴えても誰一人、まともに聞いてくれないんです。ほんと、辛いんですよ」

少女は感慨に耽り、涙を頬に伝わせた。真崎は後ろめたい気持ちになった。噂は全て偽りで、幽鬼通りとは、何の変哲もないただの骨董屋に続く道なのかもしれない。考えてもみれば、夜に街灯が点くのは普通だし、民家が昼間電気を消すのも珍しい現象ではないではないか。真崎は恐怖に捉われ、好き勝手に妄想を繰り広げていた自分を責めた。

「元気出してください。所詮、ただの噂じゃないですか。現に、僕は怖くともなんともないし、誤解もしてませんから」

真崎は少女を慰めようと真剣に言った。

「ですよねー。では、お客さま。何かご質問があれば、どうぞ」

少女は泣き止み、あっけらかんとして言った。真崎は力が抜けて、椅子から転びそうになった。真崎の唇が嘲笑に歪んだ。真崎の反応を見て少女も微笑む。

「落ち着けましたか」

少女が言った。始めから狙ってやっていたのかもしれない。言葉通り、真崎は平常心を取り戻しつつあった。

「あ、何とか。それじゃあ質問しますけど、玄関の扉が小さくなったのはなぜですか」

真崎は一番気になっていた質問を投げかけた。少女は驚いた表情を見せた。

「あんなのが気になったんですか。あれはですね、玄関脇に設置してあるホログラフ装置で、我が奇特館全体を大きく見せてるだけなんです。その影響で扉も大きくなっちゃんですよね。ほら、ただでさえ遠いのに、建物が小さいと外から目立たないじゃないですか」

ホログラフが何かを知らなかったが一応納得した。実際に三時間も歩いたからだろう。

「そうですか、じゃあ、後は、ここが何を取り扱っている店なのかと、僕、早く家に帰りたいので、近道でもあったら教えてくれませんか」

大半の疑問は既に自己解決していた。それより、取り分け重要なのは帰り道だ。

「何屋ってわけじゃないんですが、あえて申し上げるなら便利道具屋を営んでおります。そうですね、お客さまは若いからご存知でしょう。RPGゲームの道具屋さんのようなニュアンスで捉えて下さい。後、帰り道は、来て頂いた道しかないのですが」

少女は申し訳なさそうに言った。何となく読めていたが、真崎は疲れた息を吐いた。また三時間も歩くのかと。

「でも、ご安心下さい。当店自慢の瞬速の御札を使用して頂ければ、念じるだけで行きたい目的地に即座に移動できますよ。サービスして一枚五千円にしておきますから、どうです、買いませんか」

少女は浴衣の裾から細長い和紙を十枚取り出した。紙にはミミズのような字で縦に何か書いてあった。行きたい目的地に着けると聞いて、真崎は武本が流した噂を思い出した。この札のことを差していたのだろうか。

「ほんとに、念じるだけで」

やはり有り得ないと、真崎は疑うようにせせら笑った。

「あっ、信じてませんねえ。分かりました。実際にお見せしましょう。それなら、信用できるんでしょ」

少女は唇を尖らせ、自信に満ちた瞳で真崎を睨んだ。

「そうですね、できればの話ですが」

少女は八枚の札を浴衣の裾に戻した。残りの二枚で証明して見せると言う。少女は額に札を貼り付け、目を閉じた。

「よく見ておいて下さいね」

と言ってる間に、少女の姿が消えた。真崎は目を見開いた。何処かに隠れたのかと辺りを見渡すがいない。

真崎は、暫く呆然と固まっていた。

「うわあ、しまったあ」

少女が泣きそうに顔を歪めて椅子に戻ってきた。残像すら捕捉できない瞬間移動に、真崎は開いた口が塞がらなかった。少女の額に貼り付いていた札は消えていた。

「ご、ごめんなさい店長。一万円も損しちゃいました」

少女は振り返って老人に謝った。札は使い捨てのようだ。真崎も老人に目をやった。

「な」

真崎の開いた口が余りの衝撃で塞がった。

老人は、まだ耳に手を当てて反応を待っていた。

 

少女に指摘され、老人は漸くアイマスクを外した。

「いやはや、申し訳ございません。返事を下さらないから、いないのかと」

老人がレジ台の奥から言った。アイマスクの下に隠されていた両目は充血している。

「あのお、店長、御札二枚の代金は、経費で落ちませんかねえ」

「だめだめ、給料から天引きね」

老人は電卓を叩き出した。少女の給料の幾らかは引かれることになる。

老人の傍らで少女は目頭を押さえて泣いた。老人は顔をしかめ、二人は真崎を他所に用談を始めた。

真崎は椅子から一歩も動かず、どうしていいかも分からないので左右の陳列棚を一頻り眺めた。よくよく観察すると骨董品屋というより、確かに道具屋だった。

右側の陳列棚は、主に液体で満たされたフラスコが所狭しと並べられていた。毒物でも混ぜているのか、緑だったり、青だったり、真っ黒の溶液に満たされたフラスコもあった。少女が使用した札と同様、何か特殊な効力が得られるのだろうか。

左側の陳列棚は、大量の札と体を鍛えるような道具が乱雑に置かれていた。中でも伸縮する金属のばねを両端の取っ手に固定した、エキスパンダーのような器具が圧倒的な存在感を示していた。長さは三メートル近い。人間が持てるのかどうかもわからないものをどのように使うのか。

いや、そんなことより早く家に帰りたい。母さんが夕飯を並べて待ちくたびれているだろう。ふと真崎は携帯電話の存在を思い出し、ポケットに手を差し入れた。

「あれ、圏外」

「申し訳ございません、お客さま。私、携帯買えないんです」

天引きされたらしい少女が咽びながら言った。真崎はそういう問題ではないと思った。

「あの、電話貸してもらえませんか。家に電話したいので。いや、というより、もう帰ってもいいですか」

真崎の言葉に、少女と老人の顔が一瞬凍りついた。

「生憎ですが、当店に電話はないんです。どなたからもかかってこないので、経費節約に止めて貰いました」

老人が言った。

「電話ができないんじゃあねえ。つまり、この場合、瞬速のお札をご購入になられるのが得策かと思われますよお」

少女が続けて言った。二人はにやりと笑った。少女は浴衣の裾から数え切れないほどの札を取り出し、扇子のように指で広げた。少女の瞳は全部買えと訴えかけていた。

「あ、そうですね」

真崎は懐から、蛇革の高級な財布を取り出した。真崎は裕福な家庭の子供だった。少女と老人の目が輝いた。

財布から飛び出したのは五千円札一枚だった。少女はまた泣きそうに顔を歪め、老人はがっかりして俯いてしまった。

「じゃあ、一枚下さい」

真崎は決定的な言葉を突きつけた。二人の顔に死相が浮かんだ。

「一枚、だけ、ですか」

少女は恨みがましく言った。真崎は少女の心中はおろか、この店の厳しい現状もある程度把握していたが、非情に徹した。

「やめなさい火鶴君。物乞いじゃないんだから」

老人は頭を抱えて言った。言葉とは裏腹な態度に、真崎は苦笑いする。

「でも、でも、これじゃうちが潰れちゃいます」

「いいんだよ、仕方ないんだ。そもそも不動産屋の野郎に強引に契約を取り付けられたぐらいで、下調べもせずにこの土地を買ったのが間違ってたんだよ。畜生、こんな立地条件が悪い店じゃ、遅かれ早かれ潰れていたさ。畜生、畜生」

老人はレジ台を殴りつけ、台に頭を押し付けて泣き出した。少女は老人の背中を撫ぜ、潤んだ瞳で真崎を見据える。

「店長、可哀想ですよね」

少女は真崎に同意を求めた。真崎は決して頷いてはならないと目を背ける。

「可哀想、ですよねえ」

少女は歩み寄り、真崎の顔を覗き込む。真崎は首を振って避けるが少女も合わせて着いてきた。

「貧富の差がなければ、平等にお金があれば、皆、幸せになれるのになあ」

真崎の手を掴み、少女は耳元で囁く。真崎は余分に買ってしまいそうになったが堪えた。真崎の頭には学校での一件が重く圧し掛かっていた。いじめっ子から逃げてしまった自分を戒めるため、今度こそ、正義を貫いてみせる。

やがて少女の顔は険しくなった。鋭い目付きで真崎の正面に置かれた椅子に前かがみに坐る。

「君、名前なんていうの」

「あ、はい。真崎拍子です」

「そう、真崎君はいくら持ってるのかなあ」

少女は真崎の胸を乱暴に叩いた。なまめかしい声が真崎の胸を鋭く抉る。

「えっと、十万ぐらいです。後、カードが三枚」

真崎は青ざめた顔で応えた。まともに目を合わせられず、じっと俯いた。

「へえ、そんなに持ってるんだ。じゃあ、御札一枚五万円に値上げしてもいいかなあ。それくらい文句ないでしょ」

「は、はい」

真崎は言われるがまま、懐に手を差し入れた。真崎の決意や薄っぺらい正義感はあっけなく恐怖に食い殺された。

少女は足を組み、受け取った五万円を嬉しそうに眺める。

「店長、やりました。お客さまが瞬速の札をお買い上げになられましたよお」

俯いていた老人は顔を上げ、待ち望んでいたかのように満面の笑みを作る。

「いやあ、流石お客さま。お目が高いですなあ」

老人は揉み手をし、右側の陳列棚から、緑色の溶液に満たされたフラスコを取った。

「まさか、昇天の毒薬までお買い上げになられるとは。実にお目が高い」

老人はフラスコを真崎の手に持たせた。真崎は何も言い返せなかった。

「そちらは一杯二万円になります。使用法を聞いておきますか。ご説明しますよ」

「あ、はい」

少女は笑い、浴衣の裾から透明色のゴム手袋を取り出した。おもむろに右手に填める。

「ちょっと貸してね」

少女は真崎のフラスコを取り上げ、手袋を填めた手に液体を注いだ。見る見る内にゴム手袋が紫色に染まった。溢れた液は床に滴り落ち、木の板を軽く焦がした。少女は出し惜しみせずに、フラスコを空と化した。

「使用法は簡単です。この色付いたゴム手袋で対象の相手を殴るだけ。五秒もすれば絶命しますよ」

「ぜ、ぜ、ぜ、絶命って。死ぬんですか」

「勿論。お客さまの気に入らない奴をこいつで一撃ですよ。まぁ、食事や飲み物に、液を二、三滴垂らしたり、相手に直接降りかけても効果はありますけどね。では、昇天の毒薬二杯で四万円となります」

少女は毒薬が付着していない手を差し伸べ、代金を催促した。真崎は泣きそうに顔を歪めて金を払う。

「これは、脅しじゃないからね。そこんとこよく理解してね真崎君」

少女は不敵に笑う。理由はどうあれ真崎は強迫観念に捉われていた。体を縮こまらせて、肩を震わせる。

「他に欲しい物はあるかな。真崎君の望みは何でも叶えてあげるよ」

少女は最後までカモる気のようだ。真崎は無理やり何が欲しいのか考えざるを得なかった。錯乱した思考では応えはなかなか出せず、暫く沈黙が続いた。真崎の額からは尋常な冷や汗が流れていた。

少女と老人は顔を見合わせ、老人が陳列棚から何かを取り出した。

「真崎君って、実はかなり怖がりなんじゃないの」

唐突に少女が沈黙を破った。真崎は心の中で深く頷いた。地震でも起きたかのように全身を激しく揺さぶる。

老人は陳列棚から取ってきた道具を、真崎に手渡した。

「これを、買いなさい。君のような臆病者にはぴったりだ」

真崎は嗚咽しそうな恐慌を必死に堪え、手に握られた道具を見た。刺身包丁だった。

「こ、こ、これは、なんですか」

真崎は目に大粒の涙を湛えて訊いた。

「真崎君を強くする道具よ。さあ、今すぐそれで腹を切りなさい」

少女が非情に告げた。真崎は愕然として手を震わせ、刺身包丁を落とした。すぐに老人が拾い上げ、再び手に握り締めさせる。

真崎が震えのせいにしてわざと落とすと、少女が拾い上げて持たせた。

「早くしなさいよ。弱虫のままでいいの。強くなりたいんでしょ」

「えっ、でも、そんな、死んじゃいますよ」

「もう、世話が焼けるわね」

少女は真崎の手を掴み、躊躇いなく腹に包丁を突き刺した。皮と肉を瞬時に切り裂き、内臓にまで刃が達した。

「ああ、あ」

真崎の目が裏返った。激痛に顔を歪め、悲鳴もあげれず床に転んだ。少女と老人は冷静にその様子を見つめていた。

「代金の一万円は、こっちで勝手に抜かせてもらうわね」

落ちていく深い闇の中で、少女の理不尽な言葉がはっきりと聞こえていた。

 

目覚まし時計が鳴り響く。

真崎拍子は寝ぼけ眼を擦り、目覚まし時計を優しく止める。背筋を伸ばして欠伸をした。

真崎はベッドから起き上がり、床に散らかった学生服を着る。パンパンに膨らんだ学生鞄を持って階段を下りる。

「おはよう」

母親に挨拶を交わし、二人だけの朝食を手早く済ませた。他愛のない会話もして笑い合った。

朝食を終えると今度は洗面所に向かった。鏡を見ながら、寝癖のついた髪を櫛で引き伸ばした。顔を洗って、歯を磨く。

「いってきます」

玄関から大きく叫び、真崎は学校に駆け出した。早く行かなければならない。携帯の液晶画面によると、後二十分で遅刻してしまうからだ。

 

真崎は放課後、いじめっ子で名を馳せる、有田文義に呼び出しを受けた。

昨日はよくも逃げてくれたなとか、今度逃げたら中本君の命は保証しないとか、絶対来いよとか、悪役らしい挑戦状を叩きつけられた。真崎は無感動にそれを聞いていた。

約束の時間になり、真崎は落ち着いた様子で体育館裏に赴いた。

「よく逃げずに来れたじゃねえか。この弱虫」

有田はあくまで悪役を演じていた。傍らには中本君が顔を腫らして倒れていた。金属バットを構える加藤と、木刀を素振りしている斉藤が痛めつけたようだ。真崎は気だるそうに欠伸をした。

「てめえ、ふざけてんじゃねえよ」

有田は一気に距離を詰め、渾身の右ストレートを真崎の顔面に叩き込んだ。真崎はあえなく吹き飛び、バスケットゴールの鉄柱に背中を強打した。そのまま鉄柱で一回転して頭から地面に落ちた。真崎の鼻はくにゃりと曲がり、鼻の穴から黒い血を垂らして動かなくなった。

「やったぜ。一撃だ」

有田は歓喜に叫んだ。加藤と斉藤が真崎の面を拝みに行った。

「お、おい、こいつ死んでんじゃねえか」

真崎を一瞥し、金属バットを持った加藤が不安そうに告げた。有田も怪訝な顔をして参加した。真崎は穏やかに目を閉じていた。意識がないのか、幸せそうに頬を緩めている。いじめっ子の三人に悪寒が走った。

「なんだこいつ、気持ちわりいよ」

「なあ、もう勝ったんだし、ほっといて帰ろうぜ有田」

加藤と斉藤が怯えて言った。有田は威厳を保つためか、腕を組んで間を置いた。

「そうだな、んじゃ、ゲーセンでも寄ってくか」

有田の口から出た言葉に、加藤と斉藤は嬉しそうに頷いた。いじめっ子の三人は肩を並べて足早に去っていった。

「う、うう」

中本君は意識を回復し、苦しそうに立ち上がった。顔の痛みに歯を食い縛って辺りを見渡す。いじめっ子がいないと分かり、ほっと胸を撫で下ろした。

「やあ、中本君。元気そうだね」

「あっ、真崎君」

バスケットゴール付近で倒れていた筈の真崎が爽やかに声をかけた。くにゃりと曲がっていた鼻筋は元の位置に戻っている。黒い血が流れた跡は唇にかさぶたとして凝固していた。真崎は強引にかさぶたを剥がす。血がぶり返した。

「真崎君、もしてかして僕のために、あいつらとケンカしてくれたの」

真崎は微笑み、突然、容赦なく中本君の顔を殴った。中本君は地面に叩きつけられた。

「な、なにするんだよ」

中本君は上体を起こし、非難するような目つきになった。

「あ、ごめんね。蚊が止まっていたんだよ」

真崎は冷静に告げた。殴った拳には、確かに潰れた蚊がへばり付いていた。

 

退屈な一ヶ月が経過した。

真崎が敗北を喫したことで、いじめっ子達の横暴を止める者はいなくなった。クラスの者は見て見ぬ振り、或いは一緒になっていじめに参加していた。中本君は毎日いじめられる格好になった。

中本君は時折、真崎に助けを求めてきたが、真崎はめんどくさいと一蹴した。持ち前の正義感が根こそぎ奪われたかのようだ。真崎の性格は百八十度変わっていた。

真崎は女の乳房を手で潰した。女は真崎のベッドに体を沈めていた。

「真崎君、ちょっと痛い」

女は久保有香という名の女子高生だった。有香は真崎とは別の学校に通っていたが、半月ほど前の学校の帰り道、偶然人生に疲れたような翳りのある真崎を見かけ、恋に落ちた。一目惚れだった。

有香は積極的に真崎を口説いた。真崎が突き放したような態度を取るのがますます有香の胸に火を付けた。いつしか真崎は四六時中有香に付き纏われていた。

有香は赤い髪のやんちゃな少女だった。明るく真っ直ぐで、個性的な顔立ちは好感を受けやすかった。何人もの男と関係を築いてきた。しかし何処か空虚な想いを抱えて生きていた。有香は退屈していた。真崎のような、つまらない価値観をひっくり返してくれそうな翳りのある男を待ち望んでいたのだ。

制服姿の有香は、ブラウスごとブラジャーを首筋まで寄せ集め、豊かな乳房を露出させていた。スカートの下に履いていたパンツは真崎に脱がされていた。

真崎はスカートに指を忍ばせ、陰毛に隠れた割れ目を指で広げる。口は乳房を含んで吸い上げていた。

「あ、くう」

有香は快楽に顔を歪める。シャツ一枚の真崎は無表情だった。その瞳は限りない虚無の世界が広がっていた。有香はそんな真崎を心から愛している。口を開けて、真崎に囁く。

「ねえ、わたしのこと、好き」

「いや、別に」

真崎は素っ気無く即答した。有香は頬を緩めて上体を起こした。真崎の唇に貪りつく。真崎は表情を変えずに舌を絡ませた。

粘着質な唾液が糸を引いて離れた。有香は真崎の顔を挟んで囁く。

「ねえ、好きなんでしょ」

「いや、別に」

有香は微笑んで真崎をひっくり返した。上下が逆転した。有香は腰を上げ、真崎の股間の固いものを指で摘む。

「わたしは、真崎君が好きなんだよ」

「ああ、そうなの」

有香は大股を広げ、固いものに腰を下ろす。割れ目を固いものが突き破り、肉を押し分けて奥まで侵入していった。有香は指を噛んで喘いだ。二人は合体を果たした。有香は離れぬよう細かく腰を振る。真崎は虚ろな瞳で天井を見つめていた。

「真崎君のが、入ってるよ」

「ああ、そうだね」

有香は目をきつく閉じて腰を上下させる。熟れた桃尻が真崎の腰に落ちて音を立てる。豊かな胸が淫らに揺れる。性欲をかきたてられてるであろう筈の真崎は、溜息を漏らす余裕を見せ付ける。有香はむっとして、固いものをぐいぐい締め付ける。

「はあ、はあ、はあ、ううっ、はああ」

有香は両手で乳房を揉み、哀れもなく甘い喘ぎ声を出す。

「真崎君、起きて」

有香に促され、真崎は気だるそうに上体を起こした。有香は真崎の背中に抱き付いた。真崎の顔は双乳に埋まった。

真崎は手で片方を掴み、乳首を甘く噛んだ。有香は首を反らして快楽に鳴いた。有香のくびれた腰に手を当て、有香の体らを激しく上下に揺らす。固いものの先端が見え隠れした。有香はの割れ目から透明な汁が滴り落ちる。

「真崎君、今度は後から」

有香は表情筋を緩み切らして囁いた。有香は腰を引き上げる。固いものがぞろりと抜けた。有香はベッドに手を着いて四つん這いになった。桃尻が震えて真崎を性に誘う。真崎は桃尻を横に裂いた。窄まった肛門と滑らかな性器の断面が覗いた。真崎は迷わず性器を選択した。肉芽を突起させる生温かい断面を固いものが突き破る。グチュリと鈍い音が鳴った。

「ああああ、はああ」

有香はマクラに顔を埋めて、シーツを握り締めた。桃尻を掴んだ真崎は立ち上がり、腰を打ち付ける。有香が短く呻いた。

「ああ、ううっ、あっ」

有香は顔を上げて喘ぐ。快楽に目を細めて口を半開きにする。真崎は有香の片腕を意地悪に持ち上げた。有香は体勢の維持に苦労しながら喘ぎ、背後の真崎を振り変える。

「ねえ、前でしよ。真崎君」

有香の注文を真崎は受け入れた。有香の片足を回転させて元の仰向けの格好に戻した。有香は大股を広げて万全の体勢を整える。真崎は離れた腰を密着させた。二人は再度合体を果たした。真崎の首にぶら下がる有香の瞳は絶頂を訴えかけていた。真崎は相変わらず無表情に腰を桃尻に打ち付けた。

「ああ、ねえ、真崎君、中に、出して」

有香は口から涎を垂らして告白した。真崎は平然と応えた。固いものから噴出された粘着質な液体が肉の壁のあちこちに張り付いた。真崎は固いものを引き抜いた。有香は息を乱して真崎を見つめる。

「ねえ、真崎君。子供ができたら、わたしと結婚してくれる」

「いや、ごめん。悪いけど、子供は嫌いなんだ」

真崎は服を着直して応えた。有香は満足そうに笑う。例え、本当に子供を身篭っても後悔しないだろう。有香は真崎という危うい存在の虜になっていた。有香はブラウスだけを着直し、真崎の腕にひしとしがみ付いた。頬を擦り寄せ、猫のように甘えていた。

「真崎君、好きだよ。大好きだからね」

真崎は深い溜息をつき、作業的に頭を撫でてやった。

退屈だ。

クラスの奴はいじめられっ子の何がおかしく見えるのだろう。

殴られたり、蹴られたりしてるだけだ。下らない。

なぜこの女は僕に愛を求めるのだろう。なぜ性行為を求めたがるのだろう。お互いに疲れるだけじゃないか。

畜生、なぜ僕だけこんな思いをしなきゃいけないんだ。なんて、退屈なんだ。

真崎は感情が排除されたかのように、余りにも刺激のない毎日を送っていた。

 

「退屈ですね」

奇特館従業員、九条火鶴が剣を振り回しながら言った。牡丹の浴衣を羽織り、浴衣帯に鞘を差している。

刃渡り三十センチ、活殺の剣と銘打たれたこの剣の利点は、素人でも達人並の剣技を習得できる点にある。副作用もあり、一度鞘から抜いてしまうと十時間は止まれなくなる。火鶴は既に五時間も無意味に空を切り裂いていた。

レジ台で電卓を叩く奇特館店長、白衣を着た鹿又弘は火鶴の相手をしている暇はなかった。先月の売り上げを何度も何度も計算しなおしている。レジ台には真っ黒の溶液が満たされたビーカーとコップが置かれていた。

「ううむ、何度やっても赤字にしかならんなあ。火鶴君」

「当たり前じゃないですか。売り上げ十万円、水道、電気代十万円、経費一万円、新商品開発に四百万円、私の給料が二万円、赤字額四百三万円、電卓使わなくても分かるでしょ」

「おいおい、わしを騙そうったってそうはいかんよ。君の言う経費、御札二枚の代金一万円は君の給料から天引きだからね」

「ちぇ、やっぱりばれました。それ以前に、ここ数ヶ月給料頂いてないんですけど、一体どうなってるんでしょうか」

鹿又は溜息をつき、フラスコの溶液をコップに注いだ。

「だんまりですか。いいですよおだ、どうせ、まともに給料貰ったことないんだから」

火鶴は拗ねて、踊るように優雅に剣を振った。無意味に空が断末魔を上げた。

真崎が訪れて以来、客足はばったり途絶えていた。三年の沈黙を破り、久しぶりに接客の味を占めた感激が大き過ぎて、客の来ない刺激のない日々に火鶴はうんざりしていた。鹿又も売り上げのさっぱり上がらない日々に頭を痛めていた。

「しかしほんと退屈ですねえ、どうしましょ」

火鶴の顔はだんだん険しくなっていた。わざと陳列棚に剣先を掠らせ、木片を切り落とした。

鹿又は苛立ちが募り、赤字しか弾き出さない駄目な電卓を投げ捨てた。コップに注がれた溶液を口に含む。

「はあ、どうしようかのお」

鹿又は溶液を飲み干した。中身はアメリカンコーヒーだった。

「ねえ、店長、久しぶりに、遊びに行きませんか」

火鶴は跳躍してレジ台の上に着地した。フラスコとコップが衝撃で床に落ちていった。剣を持った右腕は縦横無尽に虚空を暴れ回る。火鶴は鹿又は見下ろす格好になっていた。

「遊ぶとはつまりあれかね。暇潰しに道具を使いまくって、ストレスを解消しようというあれかね」

「はい、その遊ぶです。構わないでしょ。どうせ全然、売れてないんですし」

火鶴の皮肉に、鹿又の理性のたがが外れそうになった。

「分かった。よかろう。ただし道具は五百万円分までな。それ以上使うたら本当に潰れてしまうわ」

金が鹿又の理性を繋ぎ止めた。全商品を使用する意向を固めていた火鶴は残念そうに顔をしかめた。

「で、どれを持っていきたいのかね。ある程度決めておるんだろ」

「はい、まず無限のリュック、次に御札と各種薬品、それと離せないのでこの剣、後は、回復の包丁とあれを」

あれとは、伸縮する金属のばねを両端の取っ手に固定した、エキスパンダーのような道具だった。長さは三メートル近い。

「偉人のブロイラーか、あれ一個で四百万円もするのを忘れてはいかんよ。火鶴君」

「承知の上です。では参りましょうか」

火鶴は浴衣の裾から札を三枚取り出した。瞬速の札と物質転移の札だった。

瞬速の札は生物を、物質転移の札は物質を、念じた目的地に瞬時に移動させる代物だ。副作用はない。

火鶴は指定した道具を全て無限のリュックに吸い込ませた。物質の重量や大きさを無視して持ち運びできる便利な道具である。しかし副作用があり、リュックを取り外した際、背負っていた者の肩が脱臼してしまうのだ。

鹿又は嫌そうに無限のリュックを背負った。火鶴が札を貼り分ける。

「それでは店長、核崎高校前でお待ちしております」

火鶴は言い残して瞬時に消え去った。鹿又はリュックの分まで念じているので時間がかかっている。

「あかん、わしもう疲れてきた」

鹿又は、嘆きを吐いて漸く後を追った。

 

退屈な授業がまた始まった。

退屈な数学、退屈な国語、退屈な物理、退屈な英語、よくもまあ毎日毎日飽きもせず、平気な顔してやれるよな。

真崎拍子は校舎三階の教室の窓から、運動場を睨みつけていた。教壇には地学担当の柏葉が立っている。

真崎が坐る教室隅の特等席は、元は中本君が使用していた席だった。机に花が供えられているので死んだのかもしれない。真崎にしては興味のない話だ。

「おい、真崎、そこはお前の席じゃないだろ」

教壇から柏葉の注意が飛んだ。

「うるせえな、どうでもいいだろ」

真崎は舌打ちを鳴らした。一ヶ月前までは真面目に授業を受けていた真崎の変化に、教師は当惑していた。厳しく叱るべきなのか、様子を見るべきなのか。背後に教育団体が控えているので、教師は体裁を保つために色々と気を使うようだ。

柏葉は静かに黒板に向き直って、授業を再開した。

「なんだよ、つまんねえな。やるならやってやんぞこらあ」

真崎は机に足を乗せて、柏葉を挑発した。柏葉は挑発に乗ってこなかった。

真崎はここ数日で荒れに荒れていた。無感動でどんな幸福や悲劇が起きても揺るがなかった心ゆえに、常にある感情が付き纏ってしまった。退屈への怒り、そして幸福に喜ぶ者への憎悪だ。

真崎は刺激を感じる人間に嫉妬してしまい、反社会的な悪の道に染まってしまった。今では感情豊かな有里が羨ましくさえ思っている。

「ちっ、なんかおもしろいことねえかなあ」

真崎は大声で叫んだ。クラスのいじめっ子達の耳にも聞こえていたが反応はなかった。体育館裏での決闘以来、真崎の得体の知れない恐怖に怯えて突っかかって来なくなった。クラスの女子にも悪評は広まり、事実上、真崎を止める者は誰もいなくなっていた。

突然、教室の扉が開いた。

「こんにちは、真崎君いますかあ」

現れたのは有香だった。愛くるしい笑顔を振り撒き、窓際の席にいる真崎を見つける。

「何組だね君は。それにうちの学校の制服じゃないだろ」

柏葉が怒気を含んだ声で言った。有香は無視して真崎を後から抱き締めた。

「ね、真崎君。さっき変な人見かけたよ。剣振り回してる浴衣着た女の子と、包丁持った白衣のお爺さん。人集めて何かやるらしいよ。面白そうだから見に行かない」

真崎は片眉を上げた。浴衣を着た女、白衣を着た爺さん、真崎の奥底に封じ込められていた記憶が像として浮かび上がる。真崎は唇を邪悪に歪ませた。眠っていた歓喜か、これは。

「有里、そいつらのとこに案内しろ」

「う、うん、分かった」

真崎の瞳は深い憎悪に渦巻いていた。

やっと思い出したのだ。

浴衣を着た少女に、一度刺し殺されたことを。

 

おかしいとは思っていた。

月々の小遣いは三万円、一万円は娯楽費、後の二万円は財布に貯めていた。最後に財布を覗いときには十万円は入っていた筈だ。

それが残らず消えていた。お気に入りのアイドルのトレカさえも無くなっていた。開けていないんだから落としたわけじゃあない。

ベッド下の十八禁の本を探っていたときもそうだ。緑色の溶液に満たされたフラスコと大量の破れた紙がなぜかあった。自分で隠した記憶はないのに。

幽鬼通り、あそこを歩き、少女と出会い、店に連れ込まれ、脅迫されて、無理やり商品を買わされた。挙句の果てに刺し殺された。

あいつらが、あいつらが僕の人生を狂わせた。退屈でも穏やかだった日常を、あいつらが奪ったのだ。

「許さない」

真崎は駆けながら呟いた。物勢いで廊下を走り抜けていく。

「ねえ、真崎君、そんなに急いでどうしたのよ。置いてかないでよお」

背後から遅れる有里は、復讐に燃える真崎に畏怖していた。かつて見せたことがない邪悪な表情。

「かっこいいじゃない」

有里の胸はときめいた。燃え滾る真崎への愛が最高潮に達した瞬間だった。

 

校門前、リュックを背負った白衣の老人、鹿又弘は巨大なエキスパンダーを取り出した。

周囲を取り囲む観客、核崎高校の生徒以下百名のどよめきと驚嘆。高鳴る期待に盛大な拍手が沸き起こった。

「それではこれより、奇特館スペシャルデモンストレーションを始めたいと思います」

活殺の剣を虚空で遊ばせる浴衣の少女、九条火鶴はエキスパンダーの左側を支えた。右側は鹿又が支えている。天空に伸びるエキスパンダーの金属ばねは六本あった。常人の力では到底、体を鍛える器具として使用できないだろう。

「お姉さーん、それどうやって使うんですかー」

観客の一人、冴えない男子高校生が合いの手を入れた。

「うるさい、今、説明しようとしてたところよ」

火鶴は一蹴した。観客はどっと笑った。

「説明の前に、ここにあられる世紀の大発明家、鹿又弘博士に皆さん、盛大な拍手をお願いします」

鹿又は左腕を天に翳した。手には回復の包丁が握られていた。刺した相手のあらゆる傷を瞬時に、そして継続的に治し続ける刺身包丁だ。肉体はおろか、精神的に弱い若者がこれに刺されば、一発で何事にも揺るがない大人へと成長することができるだろう。しかし刺した相手に消えない憎悪を抱いてしまう副作用もある欠陥品である。

観客は鹿又に無感動な拍手を送った。鹿又は包丁を投げ付けてやりたい衝動に駆られた。

「ゴホン、ゴホン、やめようね」

火鶴が咳払いをして鹿又を抑えた。

「突然ですが、皆さんは、ブロイラーをご存知でしょうか。スイスの精神医学者であり、精神分裂病を初めて提唱した偉大な方です。近頃の凶悪犯罪者は精神分裂病の方が多いでしょう。もしブロイラーさんがいなかったら、精神病と判断されずに極刑にされていたかも知れませんねえ。まさに犯罪者の救世主と呼んでも過言ではないと思いませんか」

男子高校生は訳も分からず拍手を爆発させた。女学生は火鶴に羨望の眼差しを送る。

「その救世主、ブロイラーの名を借りて作ったのがこの道具、その名も偉人のブロイラーです。使い方は簡単、私のこの剣でえ」

火鶴は虚空に遊ばせていた剣を、偉人のブロイラーの金属ばねに近づけた。剣先が小刻みに震えている。

「バネを断ち切るだけです。効果は切ったバネによってそれぞれ異なりますので切ってからのお楽しみです。では、お客さま。どのバネを切りましょう、リクエストあればお応えしますよ」

観客は誰か言えよと視線を周囲に送っていた。火鶴は笑顔で待ち続ける。鹿又は気持ちの入っていない拍手を根に持って、そっぽを向いていた。

「僕がリクエストするよ」

校門から現れた男が言った。走り疲れて息を乱している。

「どうぞ」

火鶴は一瞬驚いた表情を、邪悪な笑みに作り変えた。鹿又の瞳には虚空が映し出されている。

「あんただ。あんたの首をその剣でちょん切ってくれよ」

男はリクエストした。その言葉には明確な復讐の念が込められていた。

「それは受付しかねますよ、真崎君」

真崎は遂に火鶴と対峙した。

無限のリュックの中から、幽鬼通りにあったどんよりした空気が辺りに漂い始めた。

 

鹿又弘が九条火鶴に惚れたのは他でもない。火鶴が捨て子だったからだ。

鹿又は飢えていた。退屈な人生に刺激を求めていた。生後間もなく人生の境地に立たされた火鶴の翳りに惹かれてしまった。

火鶴が捨てられたの民家と民家を隔てる道、僅か六十センチほどの幅の裏道に捨てられていた。

幽鬼通り、後に鹿又が名付けた裏道の名だ。人を遠ざけるために付けた名前。噂の発信源は鹿又自身だった。

鹿又には発明家として天才的な才能があり、幽鬼通りに幻覚作用のある空気を作り出した。通常は五十メートルで袋小路になる幽鬼通りを十キロにも二十キロにも感じさせ、周囲を思いのままの景色に演出できる魔の空気だ。鹿又はこれを幻惑の空気と名付けた。

火鶴と供に過ごしてきた十六年間は、鹿又にとってかけがえのないものだ。火鶴は鹿又の理想通り、明るく残忍な子に育ってくれた。

鹿又は火鶴を心から愛している。独占したい、火鶴という存在を自分一人のものにしておきたいのだ。

真崎拍子、奴が現れたのは全くの誤算だった。十六年間に数度、偶然客が訪れたことはあった。鹿又は客の来訪を予見していた。予知の玉、鹿又の発明品の中で最高傑作。未来を玉の中に映し出す水晶玉に似た物だ。的中率は十割だが、副作用で一割減らされるので実質九割の確率で予知ができる。

真崎は一割に当てはまっていた。真崎の来訪だけは読めなかった。

鹿又は落ち着いて、いつものように接客した。最終的には火鶴が脅して身包みを剥がす勝利の方程式を辿った。一回こっきりの付き合い、火鶴に余計な虫はつかない筈だった。真崎とは二度と会わない筈だった。

翌朝、鹿又が何気なく予知の玉を眺めていると、目を疑う光景が玉に映し出された。

完全に自分のものになっていた火鶴が。男に奪われ、あまつさえ穢されているのだ。

男は、真崎拍子だった。

鹿又は焦った。恐らく真崎と接触した際に恋心を抱いていたのだろうと思い起こし、鹿又は慢心していた自分を責めた。

取り返しのつかない九割の予知。

鹿又は途方に暮れた。毎日恐怖に怯え、一割の予知であるのを神に祈った。

「遊びに行きませんか」

火鶴が外界への進出を希望したときは心臓が止まる思いだった。

もし、真崎と出会ってしまったら。火鶴は、真崎と結ばれるかもしれない。

「いや、待てよ。ふふ、ははははは」

鹿又は心の中で笑った。火鶴の遊び内容を考え、ある作戦が浮かんだのだ。

火鶴の遊びとは人殺し、或いは人に障害を負わせる残忍なストレス解消だ。ならば、それに乗じればいいではないか。

真崎拍子、奴を火鶴が起こした騒ぎに乗じて殺せば、火鶴は鹿又だけの女になる。再び誰にも手が届かなくなる。

そう、火鶴は世紀の発明家、鹿又だけのものにい。

「真崎、もうすぐお前はわしに」

校門前一帯を漂う幻惑の空気には、視界が深い霧で曇る幻覚作用を仕込んでいた。

観客達は視野の悪さに動揺して騒いでいる。無我夢中に走り回り、人とぶつかる間抜けな生徒もいる。火鶴も予期していなかった出来事に唖然としている。鹿又に幻惑の空気の存在を知らされていないので無理はない。

そして、鹿又は立ち疎む真崎の背後へと近づいていた。

手に握られた回復の包丁には改良が施され、必殺の包丁と改名されていた。その名の通り、掠り傷だけで相手を死に至らせる凶器だ。副作用は未検証なので何が起こるかは分からない。だが、確実に真崎を仕留めるにはこれを使うしかない。

鹿又は漸く見透しの眼鏡越しに、真崎の背中をはっきり捉えた。

「死ね、真崎」

鹿又は包丁を振り下ろした。

 

鹿又の腕に肉を貫いた感触が伝わった。

「あああああああ」

対象者は悲痛に叫び、鹿又の目の前で崩れ落ちた。

鹿又は目を閉じ、愉悦に顔を歪ませる。鹿又は勝利を確信していた。

「有里、おい、有里なんだろ」

聞き覚えのある男の声。鹿又は目を見開いた。

見透しの眼鏡の効果は、視界に制限がなくなり、霧の状況下にあっても一点の曇りも無く先を見通せる。副作用は、視力が極度に落ちる。眼鏡を外さなければ視界は無限であり、今は目の前で叫ぶ男の姿をはっきり映し出している。

真崎。なぜお前が生きている。

真崎は有香に覆いかぶさられていた。有香が真崎の窮地を身を挺して助けたらしい。有香のわき腹は抉られ、臓器と供に大量の鮮血が真崎の足元を濡らしていた。真崎への愛を貫いた有香の死に顔は穏やかだった。

やはり九割の予知の力か。鹿又は頭を振って、真崎に歩み寄る。

ならばもう一度刺せばいい。運命は、自分の手で切り開いてみせる。

「無限のリュック、札を出して」

火鶴が遠くで叫んだ。無限のリュックが開き、札の一枚が火鶴の元へ飛んでいった。

鹿又が包丁を構えたときには手遅れだった。幻惑の空気は神風の札から発せられた風に吹き飛ばされていった。幻覚作用が解け、校門前にいる人間全てが霧の晴れた光景を目にした。

「おじいちゃん」

火鶴は鹿又を認めて叫んだ。鹿又の包丁は真崎の眼前で寸止めされた。後一秒もあれば真崎を貫いていただろう。

「ち、違うんだ、火鶴。わしは、お前のためを思って」

火鶴の瞳は失意に沈んでいた。築き上げてきた、鹿又への愛は褪せていき、脆くも塵と化して消えた。

理想のおじいちゃんだった。親に捨てられた事実は鹿又から聞かされていた。火鶴は気丈に振舞っていた。鹿又が優しく接してくれたから、自分にとって最愛の親だったからだ。

鹿又が恋心を抱いていた真崎を殺そうとしたから、こんなに悲しいのだろうか。

いや、違う。火鶴は鹿又に優しいおじいちゃんであり続けて欲しかったのだ。

経営に苦しむ鹿又を心配して、火鶴は残忍に人をを殺して遊ぶのは。鹿又に生きる活力を取り戻して欲しかったからだ。鹿又の理想の子供であり続ければ、優しいおじいちゃんであり続けてくれると思った。

鹿又が手を汚すのは、人殺しにだけは、絶対になって欲しくなかった。

「おじいちゃん、私、私」

「待て、火鶴、訳を聞いてくれ。話せば分かる、これは違うんだ」

観客の誰もが状況を呑みこめず、二人のやり取りを黙って見守っていた。

火鶴は大粒の涙を湛え、倒れた巨大エキスパンダー、偉人のブロイラーに剣先を押し当てる。火鶴の心中を察した鹿又は、火鶴を止めようと全力で駆けた。真崎は倒れたまま動けなかった。

「提唱します。感情の鈍麻」

火鶴は唱えて、金属ばねの一本を断ち切った。ギチョンと切れた音色が観客を。真崎を。そして鹿又と火鶴を襲った。

偉人のブロイラーは楽器である。精神分裂病に大別される六つの精神障害に対応したばねを切ることで、音色を奏でるのだ。感情の鈍麻の音色は、聴いた者の感覚を鈍らせ、消滅させてしまう効果を持つ。副作用はない。

回復の包丁で一時期無感動になった真崎の状態を遥かに超越した、感情の消滅。それは虚無の世界への完全な住人になることを意味していた。

校門前にいた観客は、無表情に歩き出す。行き先は本人達も自覚していない。

真崎は立ち上がって歩き出す。火鶴は剣を振りながら歩き出す。鹿又は眼鏡を外して歩き出す。

虚無への旅の行き着く先は、避けられない無感動な死のみが待っている。

 

鹿又は歩き始めて数分後に死んだ。そこは偶然にも墓地だった。

飢えでも寿命でもない突然の死。必殺の剣の副作用だろうか、対象の命と引き換えに自分の命を奪われたのかもしれない。

鹿又の遺体は二日後に発見され、誰にも見送られず無表情に体を焼かれた。

遺骨は親族にたらい回しにされ、やがてゴミと一緒に捨てられた。

 

核崎高校生徒百二十名がこぞって消えた前代未聞の事件は、世間を賑わせた。

全国ネットのニュース番組はもちろん、各マスコミに大きく取り上げられ、警察は腰を据えて捜索した。現時点で発見されたのは二十人程度だ。

彼らは一様に虚ろな瞳に無感情な顔を浮かべ、動機を訊ねても何も話さなかった。目に映る虚無が彼らの全てだ。

警察は、彼らを精神鑑定に出した。親は泣いていた。それが絶望だったのか、歓喜だったのかは、分からない。

彼らは虚無の世界に溺れ、いつまでも無表情に虚空を眺めていた。

 

懸命の捜索の末、更に五十名発見された。

うち三十名は死んでいた。主に飢えに死んだ者や、過労死した者が圧倒的多数を締めていた。中には事故死もいた。

冷たい表情をへばり付かせた彼らの遺体は、家族に見送られて静かに焼かれていった。

真の虚無の世界へと彼らは旅立った。

 

漸く百名を越える行方不明者が発見された。

ニュースでは後日談のように報じられ、世間の関心は既に他所に向いていた。

親だけが絶望と歓喜の狭間に揺れていた。

精神病院に搬送される彼らは、やはり無表情だった。

遺体となって焼かれる彼らは、真の虚無の世界へと旅立った。

真崎や火鶴の姿はどちらにもなかった。

 

事件発生から十年の歳月が流れ、警察は行方不明者の捜索を打ち切った。まだ捜索を続けたいなどと主張する警官や親は一人もいなかった。

真崎の両親は新しい子供に愛を注いでいた。今年で二歳になる男の子だ。

彼は拍ニと名づけられ、両親は万感の思いを託して、拍ニを甘やかし続けた。

 

十八年後、拍ニは、行方不明の兄のクローンとして育てられていたことを知らずに、成人式で暴れまわった。

 

幽鬼通りには、強力な幻惑の空気が漂っていた。

鹿又が書き溜めていた、研究ノートを火鶴が読み漁り、独自の改良を加えたようだ。

研究ノートには、火鶴への想いが長く書き綴られていた。火鶴はいかに鹿又が自分を愛していたのかを知った。

鹿又の心臓には道具が埋め込まれていた。復活のペースメーカーと名付けられ、自分の死と同時に火鶴にかかった全ての道具の効果を打ち消す効果を秘めていた。もしものときの計らいからだろうか。火鶴は随分前から感覚を取り戻していた。

復活のペースメーカーの副作用の項目を見つけ、火鶴は嗚咽した。それは二度と訪れない転生だった。火鶴がいない生活が考えられなかったのだろう。鹿又は蘇りを拒み、現世でその命を火鶴のために燃焼し尽くした。

火鶴は深い後悔の念に襲われ、奇特館で独り泣きじゃくる日々を送っていた。

そんなところを真崎が訪れた。真崎は幽鬼通りを歩いてきたようだ。火鶴は真崎を出迎え、暫く預かっていた。家に送り返そうかと思ったが、火鶴にある考えが浮かんでしまった。

ノートによれば、鹿又は火鶴を独占したいと書いていた。火鶴もその気持ちは同じだった。鹿又以外の人間と交流を持つなんて考えもしていなかった。もちろん、真崎に恋心など抱いていなかった。

火鶴は死んだ鹿又の意志を忠実に守るため、幻惑の空気を強力なものにし、人を遠ざけた。二度と外の世界に出ない決意も固めた。

そして、火鶴は鹿又の代わりと二人で永久に暮らし始めた。

 

目覚まし時計が鳴り響く。

火鶴は目覚ましを止め、レジ台の奥の椅子に凭れる老人を揺り起こす。

「おじいちゃん、朝だよ。起きて起きて」

「……」

老人は何も言わずに目を開けた。

「ほら、御飯早く食べて」

老人は台に置かれたスクランブルエッグを眺めた。火鶴がスプーンで掬い、老人の口に運ぶ。

「ねえ、美味しい」

「……」

老人は無表情に飲み込んだ。その瞳は相変わらず虚無を映し出していた。

火鶴は四十四歳になっていたが、十六歳当時の美貌を保ち続けていた。新開発した年齢の香水を使用したせいだろう。お陰で子供染みた発言に違和感は感じられない。老人は容姿こそ違えど、鹿又を思わせる白髪だった。

「おじいちゃん、今日もいい天気だよ」

「……」

老人に見えているのは虚無だけだ。火鶴もそれを分かって話しかけている。

老人が偉人のブロイラーで感覚を破壊された真崎だという事実も承知している。それでも火鶴は真崎を鹿又と思い込んでいる。

二人でいつまでも暮らして生きたい、生前の鹿又の意志を火鶴は継いでいる。研究を積み重ねていき、いつか真崎を完全な鹿又に作り変えようと企てているのだ。

「待っててね、おじいちゃん」

火鶴は真崎の顔に手を当て、優しく唇を触れさせた。

「いつか、きっと、私が元に戻してあげるから」

火鶴の瞳は淋しさに翳っていた。真崎を完全に鹿又に変える自信がないからだろうか。何の罪もない真崎を弄んだ罪悪感に苛まれているのだろうか。或いは、どんな小細工を弄しても鹿又が死んだ淋しさは消えないからだろうか。

火鶴以外に知る由もない複雑な感情を押し殺して、火鶴は再び研究に没頭した。

 

鹿又弘の自身最高傑作、予知の玉は、来るべき未来を克明に映し出す。

幻惑の空気を使い、バージンロードに演出した幽鬼通りを歩く、ウェディングドレス姿の火鶴と完全に鹿又に変貌したタキシード姿の真崎。二人は固く手を握り合い、外観を教会に演出された奇特館に一歩、一歩、歩を進めていた。

火鶴は幸せに満ちた顔をしていた。真崎は変わらず無表情だった。

奇特館内に造った祭壇の前、誓いのキスを交わすため、真崎が頭に被せられたベールを上げる仕草を取ろうとする。

ところが、事態は思わぬ展開を見せた。

真崎の瞳がどす黒い憎悪に渦巻き、咄嗟に後ろ手に隠し持っていた昇天の毒薬を、火鶴の頭から降りかけたのだ。

ベールごと紫色に変色していく火鶴の顔。火鶴は微動だにせず、穏やかに目を瞑っていた。

やがて火鶴は呻き声をあげ、大量の血を吐いた。ウェディングドレスを下敷きにして無惨に崩れ落ちる。

真崎は火鶴の顔面をニ、三度蹴りつけた。火鶴が死亡したのが分かり、真崎は愉悦に顔を歪ませ、天に向かって勝利の雄叫びを上げた。

感情がない筈の真崎がどうしてこのような行為に及び、どうして火鶴はあれほど冷静だったのだろうか。予知はそこで途絶えて分からなかった。

いずれにしても、これは九割の真実の予知であり、本当は一割の偽りの予知であるかもしれない。

事の真相は、数年後の幽鬼通りだけが知っている。鹿又のように奇をてらわれなければ良いのだが。

火鶴は淋しげに無表情の真崎を眺め、今日もまた淡い未来を夢見て研究を始めた。

 

>>戻る
動画 アダルト動画 ライブチャット