孕んだ子供

 

検診台に体を預ける。台の両端に取り付けられた足台に大股を据える。スカートを腰までまくる。羞恥心を和らげるため、看護士が灰色のカーテンで下半身を切るように診察模様を隠す。パンツは事前にかごの中に入れておいたので産婦人科の先生に膣内を直視される格好になっている筈だ。事実触れられている。初見の男に穢されているようなこの体感に、黒河貴久美は自責の念にかられていた。

溺愛する夫に誓った貞操義務を破ってしまった。わたしは何て罪深い女なんだろう。不用意に男性と淫らな関係を築くのは駄目だって親にも教わったじゃないか。ごめんなさい市郎さん。今晩は、市郎さんの好きなオムレツを作りますから許して下さい。貴久美は目をきつく閉じ、胸の内で夫にいつまでも懺悔していた。

貴久美は少々、物事を大袈裟に捉える悪癖の持ち主だった。建設的に見れば、感受性が豊かと受け取れるかもしれない。

「おめでとうございます。妊娠していますよ」

診察終了後、担当の医師に告げられたのはそれだけだった。度重なる屈辱の質問、例えば初経はいつですか、あれは何だったんだろう。貴久美は憎悪に顔を歪ませたが、それも一瞬だった。

愛する夫との間に子供ができた歓喜が怪しげな診察への不信に打ち勝ち、かたくなに強張っていた頬が緩んだ。

「ありがとうございます」

愛嬌のあるえくぼを作って、貴久美はお礼を告げた。

看護士に誘導されて部屋を出、貴久美は胎内に宿る胎児を気遣いながら待合室のソファに腰掛けた。横に並ぶ女性は一様にぼて腹で、会話できない筈の胎児に雑談を持ちかける妊婦もいた。胎教に良いのだろうか、初産の貴久美には何かもが新鮮で、自分も彼女達の仲間入りをしたことで母親意識をかき立てられた。

「あの、何ヶ月ですか」

貴久美は不意に、隣に坐る女に尋ねてみた。癒着を強めて母としての心構えを御教示して頂きたかったからだ。

大声で女の子であろう胎児の名前を呼んでいたその女は、他の妊婦さんより高齢であるのは明らかだった。頬や額に深い皺が刻み込まれ、パーマが十分に当てられた髪は頭頂に向かって渦を巻いていた。貴久美は女が初産ではないと感覚的に理解できた。

「あなたは何ヶ月なんですか」

女は穏やかに質問を返してきた。

「えっと、確か、二ヶ月だったかな」

貴久美は天井を見つめてはぐらかすように言った。子供ができた喜びに浸りすぎて、先生の言葉をほとんど忘れていた。

「二ヶ月ですか。それはそれは。つわりがでたからここに来なさったの」

貴久美はつわりをよく知らなかった。だが、昨晩台所で吐いていた自分の姿が頭に浮かんだ。生理も遅れていたし、夫の市郎はつわりだと断言していた。産婦人科に来た直接の原因もつわりだった。貴久美は口をあんぐり開け、一目でつわりと見抜いた、博識な女を羨望の眼差しで見据えた。

「はい、そうなんです。よく分かりましたね」

女は唇の片端を吊り上げて不気味に微笑んだ。頬の皺が目尻に集められて目障りな形を作った。

「これで十回目ですからね。妊婦さんについては先生より詳しいんですよ」

子育てに慢心した誇張表現のようだったが、貴久美は僅かな疑念も抱いていなかった。

貴久美は、人に騙されやすい、純真な性格の持ち主だった。キャッチセールスに五度引っかかり、個人情報を公の場で曝されたのは近所でも有名な都市伝説として残されていた。

「ベテランですねえ。あの、もしよければわたしに御教示して貰えませんか。初産なんで、どうしていいかわからなくて」

貴久美は俯いて遠慮深げに訊いた。女は傍らに置いていたポーチを開けて、貴久美に紙を手渡した。

「わたしに聞くよりそこに行った方がいいわ。妊婦さんには何でも教えてくれますから」

貴久美は紙に目を落とした。文面を読み取り、妊婦を対象に正午から夕方まで開かれている講習会のビラだと分かった。住所を見ると自宅から程よい距離に会場がある。これなら苦もなく通えそうだ。

「ありがとうございます。行ってみますね」

貴久美が紙を左右に振ってお礼を言うと、女は唇の端を吊り上げて歯列から洩れた笑いを吐いた。

「がんばんなさいね、若い妊婦さん」

貴久美の肩を節くれた手で叩き、女は病院を去っていった。軽快に歩く動作は、胎内に収まる子供を少しに気に留めていないようだった。貴久美は何処か疑心暗鬼を抱きながらも嘆息を漏らして、背筋をうんと伸ばした。

「ふう、わたしもがんばんなきゃなあ」

深呼吸をする貴久美の表情は、母となる不安と期待に満ち溢れていた。

 

部屋の掃除、洗濯物の取り込みを終えた後、貴久美は晩御飯のおかずをテーブルに一通り並べ、夫の市郎の帰宅をテレビを眺めながら待っていた。画面に流れていたニュース番組には、小学生が同級生を殺したとか、母親が子供を虐待して死なせたとか、物騒な事件ばかりが取り上げられていた。子を身に宿したばかりの貴久美にとっては、厭味なニュースに映っていただろう。

「はあ、市郎さん遅いなあ」

長い溜息、市郎の帰宅の遅れを気に病むだけの溜息ではない。貴久美はまだ、市郎に子供のことを告白していなかった。驚かせてやろうとか子供染みた発想が貴久美の頭に思い浮かび、言い出したいのに我慢している自分が馬鹿らしくなっていた。

貴久美は頭をテーブルに横たわらせ、退屈な時間を目を瞑って過ごした。

「ただいま、帰ってきたよ」

視界が揺れた。肩を揺らされてる影響らしい。貴久美は寝ぼけ眼で前方に立ち疎む人間を見据えた。

夫の市郎だった。

「ごめんなさい市郎さん。お迎えもしないでこんな、わたし寝ちゃってたみたい」

我に返って、貴久美は頭を下げた。

市郎は無感動にネクタイを解いてテーブルの片側に腰を据えた。こういう事態には慣れてるらしかった。市郎の背後から女子アナウンサーのすすり泣く声が聞こえていた。

「貴久美さん、早く夕飯済ませちゃいましょう」

「あ、はい」

市郎は白米をかき込み、半分満たされたペットボトルのお茶をコップに注ぎ、おかずを詰めれるだけ口に詰め、お茶で一気に食道に押し流した。その行為を何度か繰り返し、市郎は早々と食事を終えた。貴久美は慌てておかずのオムレツに食らいついていた。

「終わったら、デザートを食べさせてあげますよ貴久美さん」

十分経ち、頃合を見計らって市郎が言った。丁度貴久美が食事を終えたところだった。市郎の背後から特別番組らしきニュースが流れ、アナウンサーが怒気を含んだ声で何かを訴えかけていた。

「はい、分かりました」

貴久美は台所に引き上げようとした食器をテーブルに置き直し、床に後ろ手を着く市郎のズボンを無造作に下ろした。固くなった市郎のものが萎びたトランクスに起伏をもたらしている。貴久美は暗黙の了解で市郎のものを引っ張り出し、根元まで口に含み、口を窄める。肩口で散らした艶のある髪が淫らに揺れた。

市郎は懐から煙草を取り出し、安いライターで火を付けた。

「デザートは美味しいですか」

口から紫煙を吹き、市郎は貴久美の髪をかき上げ埋もれていた耳を出してあげた。固い先端を舐めていた貴久美は上目遣いに市郎を見遣る。潤んだ瞳は市郎に与えられた愛情にのろけていた。

「はい、美味しいです」

貴久美が口から固いものを離して言うと、市郎は貴久美の頭を掴んで口に含み直させた。市郎は鼻で笑った。これがやりたかったのかもしれない。

暫く固いものをしゃぶらせ、市郎は口内に精子を吐き出した。貴久美は短く呻き、舌と喉の奥に張り付いた透明な白を吐き出そうとする。

「貴久美さん、呑んで下さい」

市郎に言われ、貴久美は苦味に顔を歪めながら無理やり呑み込んだ。市郎は満面の笑みを浮かべた。

「貴久美さん、次は布団を敷いてくれませんか」

市郎の瞳は性欲に飢えていた。貴久美は察して素早く立ち上がった。矢継ぎ早に寝室に赴き、布団を二つ寄せて並べる。枕元にはティッシュの箱が置かれた。磐石の態勢を整えたところで全裸の市郎が登場し、貴久美を布団に押し倒した。

「市郎さん、実はお話したいことがあるんです。聞いてくれませんか」

「こんな時に野暮ですよ貴久美さん。明日にしてください」

市郎に乳房を手で潰され、貴久美は焦って言った。羊水に漂う胎児を心配したからだ。無理にお腹を押されれば苦しいんじゃないだろうか、呼吸が止まってしまうんじゃないだろうか。初産の貴久美には分からなかったが、直感が性行為を危険と判断していた。

しかし一旦市郎に拒まれてしまえば、弱い意志は呆気なく萎えてしまった。明日言おうと後ろ向きに考え、目を閉じて市郎の愛撫を受け入れる。

「うっ、ああ、市郎さん」

二人は性器を激しく交錯させ合い、貴久美は甲高い喘ぎ声をあげて快楽に溺れた。

子の誕生を願ってか、市郎は構わず何度も子宮に向けて精子を放出した。その顔は愉悦に歪んでいた。二人の行為は夜通し行われ、枕元には、丸められたティッシュが散りばめられていった。

「大変遺憾です。このような悪行が許されていいんでしょうか。犯人を人間として認めていいんでしょうか。人権を剥奪して、死刑に罰するべきではないでしょうか。例えそうならなかったとしても、私は断固宣言します。このような悪行を犯した犯人が目の前に現れればその場で殺す、必ず殺してやりますよ」

暗がりの中、消し忘れていたテレビに映っていた正義感に熱いリポーターーが、犯行現場でマイクをカメラマンに投げ捨てた。それは一夜にして十人もの人間を殺害した犯人に向けてのメッセージのようだった。画面が暗転し、スタジオで共感の涙を流していたアナウンサー共々、彼らは会社をくびになってしまった。

退社する際、彼らは口々に言った。私達は間違ったことはしていない。悪人を野放しにしている社会が悪いんだ、と。

 

週に一度、定期的に行われた講習会は、貴久美に必要な知識と安心感を与えてくれた。

妊娠五ヶ月目に入り、二人分の食事と胎盤が完成してきたせいもある。貴久美はぼて腹になり、母としての実感に酔い痴れていた。

講習会に集った主婦の方に聞けば、流産の心配は殆どなくなり、今は安定期と呼ばれているそうだ。お陰で停滞気味だった市郎との性交渉は再開されていた。胎児を板挟みにしての共同作業は窮屈かつ滑稽だった。

「大丈夫ですか、無理に動いちゃ駄目なんじゃないんですか」

市郎は取り乱して、再三性交中の貴久美の体を気遣ってくれた。子供ができて一番喜んでいたのは市郎だった。人生の目標を達成したと、感慨深げに語っていたのが、貴久美の脳裏に強く焼きついていた。縁のある親戚一同は狂喜乱舞し、祝いの日本酒やら、天然の鯛やら、滅多に口にしない有り難い品々を宅配便で送ってくれた。

妊娠騒動が一段落し、肉体的にも精神的にも落ち着いた今を、束の間の至福のひと時であることを貴久美は知っていた。予定日が近づけば、心理的にも追い込まれるだろう。それまでにやれるだけ胎教に努めようと考えた。

「はあ、気持ちいい」

迷いのない、澄み切った顔を涼しい風が叩き、肩甲骨の辺りまで伸びてきた黒髪が風になびいた。

貴久美は近所にある公園のブランコに重い腰を沈めていた。万が一を考え、ブランコに静止したまま気分だけ乗った気にさせている。ブランコに乗るのは妊娠期間からの日課になっていた。

「おーい、ボールそっちいったぞ。早く探してこいよー」

ブランコ正面、砂場付近の狭いスペースで少年が二人で遊んでいた。グローブを手に填めてキャッチボールをしてるようだ。貴久美は活発な男の子を見て、微笑ましくなっていた。投げた側の子供は中学生ぐらいか、寸胴のペンギンが描かれた野球帽を被っていた。遠投されて道路に転がっていったボールを捜しに行ったのも少年だった。なぜか着ているシャツの片側に膨らみがなかった。

「投げるよー、ちゃんと取ってねー」

ボールを拾った少年が不恰好な動きで投げ返した。ボールは公園を隔てる柵を越えずに跳ね返った。少年はグローブでボールを投げていた。膨らみがない右腕は失なわれていたようで、少年は服の裾から左腕しか露出させていなかった。か細い足で転転と遠くに弾んでいくボールを再び取りに走る。

「何してんだよ下手くそ。次、ちゃんと投げなきゃ、ぶっ飛ばすからな」

公園で待機する少年が非情に告げた。貴久美は険しい顔で少年を睨んだ。生まれてくる子供が奇形児、或いは、道徳心のない冷酷な子供だったら。ふと不安が頭を掠めて身震いしてしまい、まとわりつく悪寒を払拭させたかった。緊迫した空気に気付いたのか、少年は横目でブランコの方をちらっと見た。

「俺になんか用、おばさん」

少年は鋭い眼光で体ごとブランコに向き、貴久美を呼んだ。貴久美の胸が心臓を冷たい手で掴まれたかのように締め付けられた。突如息が乱れ、酷い腹痛が襲ってきた。貴久美は地面に膝をついて蹲った。怪訝そうな顔をした少年が近寄ってくる。

「どうしたの、大丈夫」

少年は屈んで貴久美の顔を覗きこんだ。貴久美は大量の脂汗をかいていた。陣痛でないことは自覚していた。痛みの原因は、生まれてくる子供への不安と恐怖に押し潰されそうな、虚弱な自分だ。貴久美は母としての器量のなさを痛感させられた。

少年は気兼ねなく肩を貸してくれ、貴久美はブランコに戻された。

「ありがとう、もう、大丈夫だから」

息を整えつつ、貴久美は無理に笑顔を作った。思いがけなく親切に接してくれるので、不安が多少和らいでいた。片腕の少年が呼びかけに応じない少年を心配して、公園に戻ってきた。貴久美の背中を擦る少年を見つけて、不思議そうに顔をしかめる。

「何してんの優君、早く遊ぼうよ。今度こそちゃんと取るからさ」

優君と呼ばれた少年は、冷やかな目で片腕の少年を見た。

「そんな暇ねえよ。このおばさん苦しんでんだぞ。お前も何かしてやれよ」

少年は懸命に介抱を続けてくれた。片腕の少年はグローブを膝に数度叩きつけ、退屈そうに傍観していた。次第に彼の瞳は憎悪に渦巻き始めた。

少年にお礼を言って微笑む貴久美のぼて腹に、片腕の少年は容赦ない蹴りを入れた。

「あ、あっ」

痛みは感じなかった。ただ、突然の凶行に唖然とした。背中を擦ってくれていた少年の手も止まっていた。片腕の少年は喜悦に顔を歪ませ、再度蹴りを叩き込んだ。貴久美は短い呻きをあげるだけで動かなかった。少年も状況が把握できず、黙って蹴りを入れられる様を見送っていた。

暫く蹴られた。貴久美は腹を抱えて呻いていた。固まっていた少年の顔が漸く表情を作った。

「うおおおおおお」

少年は叫び、怒りに任せて片腕の少年を殴り倒した。馬乗りに移行した。

「おら、おら、あはははは、あはははははははは」

少年は笑いながら顔を殴りつけた。重い拳を振り下ろした。断続的な悲鳴が空を裂いた。少年の両の拳が鮮血に染まっていった。跳ねた血が頬に点々と付いた。いつしか少年の顔は、片腕の少年と同じ、喜悦に歪んでいた。

おかしくなってる。少年もまた片腕の少年のように変貌してしまった。彼らは暴力を心から楽しんでいる。遠のいた筈の不安がぶり返し、貴久美は瞬きもせず、目に映る異常な光景を眺めていた。

「いつだったかな、子供は天使だって誰かに聞いたことがあるの。じゃあ、わたしの目の前にいるのは何、悪魔なの。あなたは、あなたは天使に生まれてくれるのかな」

震動する羊水に宿る胎児に話しかける。貴久美は緩んでいた頬を引き伸ばした。一瞬でも少年が憂さを晴らしてくれたのが嬉しかったのだろうか。そんな筈は。

貴久美は頭を振って、足早に公園を立ち去った。

 

部屋に篭るのは胎教に宜しくないと思っていたが、貴久美は必要以上に外に出なくなった。テレビを見ていると、近所で少年が妊婦を殺害したらしく、素性はおろか足取りすら掴めていないらしい。ばったり遭遇する可能性が十分に懸念される。事実、二ヶ月前に少年が発狂する姿を目撃している。同一人物なのだろうか。あの時、一瞬でも嬉しくなっていたのだろう自分自身がおかしくなりつつあるんじゃないかと、嫌な疑問が沸々湧いてきたのも外に出なくなった要因の一つである。結果、胎教は薄汚れた外界より、争いの起きない、新鮮な内の空気を吸った方が胎児に与える影響もいいんじゃないだろうか。貴久美の予感はずばり的中していた。

黒河家は、賃貸アパートの二階に住まいを借りて暮らしている。築三十年の木造建築で、塗装された壁が剥がれ落ちているのが特徴的だ。一階に五部屋、二階に五部屋、計十部屋あり、妊婦さんは貴久美を含めて五人いた。ほんのニヶ月前までは。

ニ○四号室の斉藤さんは、気前のいい人だった。

夫婦で酒屋を営み、おすそ分け、或いは、癒着を強める目的で一升瓶を配っていた。祝い事に関係なく、月に三回は無償の愛のお酒を下さる、善人の範疇に入るであろう人達だ。しかし数週間前、社会は荒んでるだの、間違っているだの、狂ったように呟きながら、奥さんが、こここより三百メートル先の陸橋から飛び降りて死んだ。翌日、二〇三号室は空き部屋になった。

ニ○二号室の北村さんは、町内会の英雄だった。

奥さんは、ゴミの分別処理に長け、旦那さんは野球が抜群に上手かった。

草野球の全国大会的な、大きな大会の九回裏、逆転満塁サヨナラホームランを放ったときの反響は特に凄まじかった。英雄と称され、最寄の商店街は全品半額セールを行ったほどだ。奥さんも旦那さんの活躍にあやかって英雄と称された。しかし行き過ぎた能力ゆえ、他人からの妬みに堪え切れなくなったのかは定かではないが、夫婦揃って山中で自殺してしまった。ニ○ニ号室は空き部屋になった。

ニ○一号室の轟さんとは、一切付き合いがなかった。

だから、詳しい事情はよく分からない。陰気で口下手な人だったのは覚えている。現在話題に上ってる、中学生ぐらいの少年に殺されたのが轟さんの奥さんだった。妊娠八ヵ月目、後一息で産まれそうな胎児を腹から引き摺り出され、ナイフでバラバラに刻まれたらしい。轟さんの奥さん自身もカエルの解剖のように開にされていた。旦那さんは奥さんを亡くしたショックで陸橋から飛び降りた。陸橋に飛び込まないようにといった看板が立てられたきっかけになった事件だ。ニ○一号室は空き部屋になった。

一○五号室の川中さんとは親しかった。十年来のお付き合いだ。

川中美樹さんは高校の同級生だった、胎児を宿してすぐに旦那さんに先立たれ、独りこのアパートに転居してきた。

物静かで大人しい人だった。旦那さんを失った影響だろうか。美樹は部屋で首を吊って自殺してしまった。遺書は残されていなかった。一○五号室は空き部屋になった。

貴久美は生前の美樹と会話した記憶があった。

「貴久美さん、あなたのお腹の子は大丈夫。私の子は駄目みたいなの。世の中って、不公平だね」

それが何を意味しているのか全部は分からなかった。一つ分かるのは、四人とも必要以上に外出していた。趣味だとか、散歩だとか、ふらふら外出していたから外界から刺激を受けて、頭がおかしくなったり、死にたくなったりしたのだろう。轟さんは不慮の事故だけど、事実、講習会や買い物以外の外出を極力避け、外界の刺激をほとんど遮断した貴久美だけは生きているのだから。やはり予感は的中していたと、貴久美は誇らしく口元に微笑を湛えた。

貴久美は市郎と夕御飯を食べながら、一緒に歌番組を見ていた。スピーカーから華々しい音楽が流れていた。

「ねえ、貴久美さん、やっぱり引っ越した方がよくないかな。この辺は物騒になってきたしさ。体にも障るだろうし」

市郎が恐る恐る言った。アパートの住人が死んでから持ち上がっていた話題だった。親戚一同にも口酸っぱく言われてきたが貴久美は必要ないと言って、聞く耳を持たなかった。貴久美は音程が外れた歌を口ずさんで応えなかった。

両者の間に、暫く重い空気が流れた。

「外は危ないから駄目よ市郎さん。それより」

貴久美は漸く応え、ぼて腹を撫でた。もう突き破れそうなほど大きく張っていた。胎児は活動を初めて暴れ回り、貴久美のぼて腹が小さく震えた。貴久美の顔が愛憎に歪んだ。

「それより、なんだい」

市郎は、瞳孔が開いている貴久美を恐れていた。睡眠を十分に取っている筈なのに、目の下にはくっきりと隈があった。

「この子、大丈夫なのかしら。音楽聞かせたり、話しかけたりして、優しい子になるよう胎教していた積もりなんだけど、時々、暴れるのよ。わたしのお腹をポンって蹴ってくるの。どう思う市郎さん」

貴久美は無表情に言った。ぼて腹を撫でる手に力が込められ、拳に変わっていた。

「大丈夫だよ貴久美さん。僕たちの子供じゃないか。きっといい子になるよ」

市郎は貴久美の背中を撫ぜ、落ち着かせようとした。貴久美は気持良さそうに肩を震わせ、大きく息を吐いた。

「そうよね、大丈夫よね。なんたってわたしと市郎さんの子供ですものね」

貴久美は無垢に笑い、またぼて腹を優しく撫でた。市郎はほっと一息ついて、貴久美の首から腕を回した。

「ねえ、貴久美さん、そろそろ」

貴久美の背中に固いものが触れた。市郎に首筋を舐めあげられている。

「はい、分かりました。ただし、予定日が近いですから、気をつけて下さいね」

貴久美は頬を紅潮させ、下半身だけ裸になった。でっぷりした太腿が市郎の性欲をかき立てる。

二人は興奮を抑えて寝室に向かい、胎児を傷つけぬよう細心の注意を払いながら、愛を育んだ。妊娠当初より肥大した乳房は、口に含まれ、手で潰されて形を変え、乳首を舌で舐められた。貴久美は喘ぎ声をあげて指を噛む。瞳は恥じらいと快感に潤んでいた。

市郎の指が股間に触れた。貴久美は高く鳴いた。縦の裂け目を指で広げられ、小判型の肉が剥きだしになり、小粒な肉芽が突起した。市郎は肉芽を甘く噛んだ。

「ひっ、あ、市郎さっ」

貴久美は体を大きく反らして口を開いた。反射的に股間に伸ばした手が、汗で滲んだぼて腹の中心で止められる。快楽に酔い痴れたい。貴久美の胸に秘める情火が行為を求めていた。

市郎は期待に応え、指を容赦なくぬるぬるした肉に滑らせた。クチュリと鳴った。

「ああああ」

貴久美は指を強く噛んで首を振った。ぼて腹が胎児ごと揺れる。市郎はぬるぬるした指を貴久美に見せた。咄嗟に指を吸われた。ジュルジュル音を立て、激しく吸われていった。貴久美の舌と糸を引いた指が口から出てくる。涎や唾液が混ざって汚く濡れていた。

市郎は頭側に回って、貴久美の口に固くなったものを突っ込んだ。ぼて腹を潰さぬよう腕立て伏せの要領で腰を振る。

「んぐっ、ぐっ、ぐうっ」

貴久美は口を窄めて首だけ振った。市郎の動きと重なって根元まで固いものが収められていく。市郎は快楽に顔を歪めた。奉仕音は暫く鳴り止まなかった。振って舐めるだけの単調な作業を、二人は悦に入って存分に堪能していた。緩みきった頬がえくぼを作り、貴久美は市郎の内容物を受け入れた。注ぎ込まれる白い液体の酸鼻な臭いに苦労しながら、喉を鳴らせて呑みこんだ。

「貴久美さん、いれてもいいかな」

間髪いれずに市郎が訊いた。無限の性欲で奮い立たせたのか、固いものは萎えていない。貴久美は目を丸め、唇の端を軽く吊り上げて笑った。

「いいですけど、気をつけてね」

貴久美が顎が伸びきるまで口を開けて言った。厳重注意ということか。貴久美の圧力に市郎は苦笑いした。市郎は固いものをを指で摘んで振った。ビビッと、残った白い液体が貴久美の頬に付いた。貴久美は顔をしかめて、でっぷりした股を限界まで広げた。可動範囲が狭いため、市郎の胴体を包みきれない広さ。

市郎はめげずに両膝をつき、両手を脇の下に着いた。市郎の腹部とぼて腹が密着していた。広げた股は市郎の胴体を挟んで固定した。逃げられない狭さ。市郎はやりにくそうに固いものを挿入した。貴久美が舌を出して喘ぎ声をあげる。

「く、くれぐれも気をつけてね」

貴久美が凛とした顔に直して言った。市郎は浅く頷いて固いものを沈めていった。繊維が千切れるような音が鳴った。貴久美の頭が跳ね上がった。市郎は腰を振る。貴久美はよがる。パンと立て続けに五回は鳴った。

「あ、あ、あ、あ、あ。女性ホルモンが分泌されちゃう」

ぼて腹の震動が一際激しくなってきた。胎児は大丈夫だろうか、貴久美の不安を他所に本能的に淫らに鳴いて、市郎の性欲処理を勤める娼婦のようになっている自分が悲劇的で愛しく感じられた。

わたしはマゾフィストなんだ。脳内に分泌されていく女性ホルモンが貴久美によからぬ思考を排出させた。

「はあっ、ああああっ、脳が溶けちゃ、ひあっ、ひゃう」

貴久美は市郎の背中に抱きついてよがりまくった。よがる以外の意志や神経回路を剥奪されたかの如く、喘いで喘いで、悲鳴に等しい喘ぎ声をあげ続けた。市郎は自分の性欲を汲み取り、夜には要望に応えて乱れてくれる妻の貴久美に深い愛を抱いて犯しまくった。

いよいよ絶頂に達した頃、市郎は精巣に溜まる液体をふり絞って射精した。妊娠の心配がない子宮に向かって注がれていく。クチャクチャ引き抜かれていく音が鳴って、固いものが液体の混合物に塗れてぞろりと出てきた。べとべとに汚れた固いものは貴久美の喉の奥に吸い込まれ、行為は終了の要諦を示した。二人は横になって、お互いの顔を見詰め合った。

貴久美は放心状態だった。圧倒的な性的快感に顔は歪み、足が余韻でぴくぴく震える。母の身を案じてか、胎児の運動は激しくなっていた。

「貴久美さん、いい子を産んでね」

蹴られる貴久美のぼて腹を撫で回して、市郎が言った。

「はい、わたし頑張ります。きっといい子を産みます。大丈夫ですよね、この子はわたしたちの子供だから、愛されてるから、きっと、いい子に産れてくれますよね」

貴久美は息を乱し、自分に言い聞かすように言った。

一見、快楽に酔い痴れていた筈の貴久美は、行為の最中、ずっと出産への底知れぬ恐怖に押し潰れそうだった。

邪悪な影と黒い決意が、淡い希望を摘んでいく光景を、貴久美は何度も頭で描いていた。

 

商店街は全長百メートルの規模。貴久美が歩いているのは丁度三十メートル地点、左手の花屋の女の子は頭にスカーフを巻いて愛くるしい笑顔を行き交う人々に振り撒いている。新装開店したパン屋には大勢の来客で賑わっている。サクラらしき陰気臭い男が「美味い、超美味いよ」なんて、単純で分かりやすい感想を声を大にして店からはみ出した並ぶ客に伝えてる。

貴久美はそれらの店に構わず歩く。魚屋、八百屋、百円ショップ、文房具屋、終点のコンビニ、そして商店街を抜けた。

「あら、わたし何しにきたのかしら」

貴久美は歩を止めて、踵を返した。元来た道を戻っていく。商店街の人波を逆流していく格好になった。肩と肩がぶつかりそうな狭さ、たまにぶつかって謝った。五十メートルは歩いた。そこで漸く貴久美は気付いた。夕御飯の買出しに来たのだ。

記憶がどうも曖昧だった。連日の激しく情熱的な行為に、頭を痛めていたせいか。産婦人科の先生に相談すれば、ドクターストップを宣言されたので、貴久美は正直やりたくなかった。本能に抗う意志力は持てなかった。だから、やりまくる形を取った。

貴久美は昨晩のパワフルなプロレスを思い出し、クスリと笑った。他人の視線が突き刺さった。

「お豆腐と、ササミを100グラム買わなきゃね」

貴久美は頬を紅潮させ、さっさと歩きだした。八百屋前、鉢巻を頭に巻いた若い店主の客引きに釣られてネギを一本購入した。美人の奥さんと煽てられ、気分が高揚してきた。ネギを買い物籠に挿して歩き出すと、遠くの方から悲鳴が聞こえてきた。きゃあだとか、うおげばあだとか、個性的な悲鳴が爆発して、貴久美を通り過ぎ、瞬く間に商店街全体が悲鳴で包まれた。

「どけええええええええ」

悲鳴に混じって少年らしき叫び声が駆け抜けてきた。走ってるらしい、貴久美の耳に入る音量が増している。人波が中央を開けて割れていく。貴久美はぼて腹を抱えているため、動きが緩慢だった。分散した人波の片割れに体を押し入れるが、弾き返されて横様に倒れた。買い物籠が落ち、ネギが誰かの足元に滑り込んだ。

「うおおおおおおおおお」

声が大きくなっている。貴久美は手を着いて立ちあがろうとする。その間にも唸り声と悲鳴の音量が増す。耳がびりびり痺れてくる。胎教にはお勧めできない歪んだノイズだ。

曲がった人波の先に、少年の体が半身で覗いた。一秒、二秒、はっきりとした実物大に成長していく。少年の手に握られている血塗れの包丁は、腸や肝臓などの臓器を刃先に吊るしていた。少年は貴久美にそれらが視認できる距離まで迫ってきた。貴久美は漸く立ち上がった。

少年との距離は五メートル。

「あっ、あっ、おばさん」

少年は驚いた表情で足を止めた。貴久美と初対面ではないらしい。貴久美も少年を見知っていた。

「あっ、そうだ、おばさんのせいだった。おばさんが止めてくれなかったから。おばさんがあの時、僕を止めてくれなかったからいけないんだ、そうだ、そうだ。あはあ、そうだ」

少年は喜悦に顔を歪ませた。その顔で確信が深まった。公園でおかしくなった野球帽の少年、片腕の少年をぼこぼこに殴った少年だ。貴久美は下唇を噛んで目を背けた。得体の知れない恐怖に、貴久美の脳が少年を見続けるのは危険だと信号を送っていた。

少年は笑いながら、貴久美に近づいてくる。

「ねえ、聞いてるのおばさん。おばさんのせいで、人を殺すのが楽しくなっちゃったんだよ。あの時どうして僕を止めなかったんだよ、おい、きいてんのかよ」

血濡れの手が肩を掴んだ。貴久美の肩から肘に血の線が走る。少年は包丁をぼて腹に突き刺す仕草を取って、寸前で止めた。人波が引いていく。遠巻きに悲鳴をあげるか、固唾を飲んで二人の様子を見守っている。助けに来る者はいない。

「やめて、それと、わたしの前から消えて」

貴久美は目に涙を湛えて言った。恐怖から声が震え、全身に寒気が走っていた。

「やだね。あんたはここで死ぬんだ。僕に殺されて、死ぬんだ。くく、お腹の子も大きくなってるね。どんな子が入ってるんだろうな。僕みたいな子だったら、嬉しいね。あは、僕が取り出して、見てあげるよ」

貴久美は後じさりしていく。少年は距離を詰める。残忍な顔は瞳孔を開いて、目標のぼて腹を一心に見据える。貴久美は後歩きに足をもつれさせ、尻餅をついて転んだ。少年は唇を吊り上げ、包丁を頭上に振り上げる。

「ぎっ、がっ、があああ」

その瞬間叫び声をあげたのは少年だった。背後から数人の警官が飛び掛り、少年の頭は地面に押さえつけられた。警官が包丁を持つ腕を捻る。包丁が金属音を鳴らして地面に跳ねた。高く上がった片腕は手錠をかけられ、少年はあっという間に拘束された。

「はあ、はあ、はあ」

貴久美は冷や汗をかいてへたり込んでいた。地面に伏せる少年の鋭い眼光は、貴久美への明確な殺意をいつまでも映し出していた。警官に引き摺られて、少年は商店街を後にしていく。「くそお、殺す、殺してやる、絶対にお前を殺してやるからなあ」暫く少年の遠吠えが聞こえた。

「ふふ、うふふ、あはははは」

貴久美は高笑いした。胸に込み上げてきた不安や恐怖が爆発して壊れたのだろうか、自分でも理解不能だ。

それと同時に、貴久美にある感情が芽生えてきた。社会は荒んでる、間違ってる。あんな狂人を野放しにするな。いい子だけを世に残せばいい、悪い子は、死ねばいい。人権を剥奪し、死刑にすればいい。誰も手を下さぬなら、わたしが殺してくれようか。

貴久美の顔は信じられないほど愉悦に歪んでいた。

 

妊婦殺害から子殺しに至るまで、一連の騒動は、貴久美を襲った少年によって行われたものだと、抑揚のない声でアナウンサーが告げた。

「怖いね、十五歳だって。やっぱり引越しを検討してくれないかな貴久美さん。こんな町じゃ、産れてくる子供だって可哀想だよ」

貴久美と一緒にニュースを見ていた市郎が言った。貴久美が襲われたことで、普段より息巻いていた。

「何処に行ったって同じよ市郎さん。社会は荒んでいるんですもの、何処に逃げようが、何処に隠れようが、死ぬときは死ぬし、殺されるときは殺されるのよ。それより重要なのは、いい子が産れるか、産れないかよ。もし、悪い子だったら」

貴久美は言葉を濁して言った。出産間近のぼて腹を撫ぜる手は震えていた。恐怖ゆえか、或いは、歓喜か。

「だ、大丈夫ですよ。僕たちの子供だからきっと理知的で聡明な、そうだな。女の子だったら貴久美さんみたいに優しくて美人な子に、男の子だったら、僕みたいに誠実で真っ直ぐな子に育ってくれますよ。きっと」

市郎は言って、貴久美を抱き締めた。安心感を与える積もりだったんだろうが、貴久美は乱暴に市郎を突き飛ばした。

「それが問題なのよ」

貴久美は恐ろしく冷たい声で言った。

 

貴久美は探し歩いた。

在るべき場所がそこに存在しなかったからだ。

ビラの住所を確認したり、交番に寄って道順を聞いてみたりした。それでも思わしい成果は得られなかった。

探していたのは大きな廃屋だった。

一週間前までは講習会が開かれ、主婦の会合の場としても人気を博していた場所だ。出産経験のある子連れの親も大勢参加していた。中には出産とは無縁の男性の姿も見受けられた。

性別問わず、幅広い年齢層から支持を獲得できたのは、それほど魅力的で有意義な情報を与えてくれる唯一無二の場所だったからだろう。初産で心細かった自分を救ってくれた実績もあり、貴久美にとっては聖地とも崇めれる場所だった。

その場所が今、跡形もなく消え去っている。貴久美は同じところをぐるぐる歩き回っていた。郵便ポストがある平凡な通りで、角にはタバコ屋があり、耳の遠い御婆さんが疲れた顔で椅子に腰を据えている。そのタバコ屋から二件隣、やはりここだ。

貴久美は民家を見上げた。通っていた廃屋とは外壁が随分違っている。郵便ポストは道路を隔てる手摺の傍らにしっかり設置されていた。

貴久美の体に細長い人影が被さってきた。

「あんた、まだいたのかい」

呼びかけに応じるように、貴久美は振り返った。痩せ細った体の中年女性が肌色のペンキで満たされたバケツを持っていた。偶然民家の外壁と同色だった。貴久美は女の顔に何処か見覚えがあった。

「あなたは、確か、産婦人科でお会いした方ですよね」

妊娠が発覚した際に待合室で会った女、そして講習会のビラをくれた女にそっくりだった。体型はかなり変わっていた。

「ええ、そうだよ。久しぶりね。お腹の子の調子はどうだい」

女は明るく微笑み、貴久美のぼて腹に触れた。

「お陰さまで順調です。と言いたい所なんですが、実はとても不安なんです。講習会の方に相談したかったんですけど、会場がなくて。場所を移したのでしょうか、何かご存知ですか」

貴久美は真摯に訊いた。

「生憎だけど知らないよ。ふふ、それよりさあ、あんた、大丈夫なのかい」

女は軽蔑するように笑った。

「何がですか」

「とぼけんじゃないよ。不安だってことは、あんた自覚してんだろ。気付いたんだろ」

女の応えに、貴久美は淋しげに俯いた。

「分かってます。だから不安なんです」

「分かってのんに子供産む気なのかい。諦めきれないってわけ。あそお、酷い女だねえ」

女の難詰に、貴久美は唇を歪めた。

「そういうあなたこそどうなんですか。出産したんでしょ。わたしにはあなたが善人には見えませんけどね」

女は鼻で笑った。

「ありゃ布団綿だよ。妊婦連中を勧誘しにわざわざ変装したまでさ。全く、話を摩り替えないでくれるかね。今大事なのは、あんたがいい人なのか、悪い人なのか、なんだよ」

「分かってますよ。大丈夫、大丈夫ですよ。きっと」

貴久美の頭に市郎の面影が浮かんだ。彼が支えになってくれたから、貴久美は騙し騙し予定日まで生活できた。外出を控えたから、自分の醜さを表に出す機会もなかった。でも、今は違う。

「忘れんじゃないよ。悪い子は、死ぬべきなんだ」

女は念を押し、貴久美の肩を叩いて歩いていった。

「やっぱり、そうなのかな。悪い子は、どうしても死ななきゃいけないのかな」

貴久美は独り呟き、気重に家路に着いた。

 

巨大なスクリーン。巻き戻して何度も再生される同じビデオ。

子供が親を殺したり、ホームレスを数人の若者が私刑したり、老人同士が刺し殺し合ったり、銃弾が飛び交う戦争の場面もある。一重に人が人を殺す映像を流し続けている。貴久美含め、会場に集う人達は、並べられた椅子に坐って三時間もビデオ鑑賞に時間を費やす。

幕が下がり、マイクを持った男性がステージ脇の階段を駆け上がる。

彼はステージの中央に立って、こう叫ぶ。

「皆さん、お分かりになりましたか。悪い子は、死ぬべきなんです。人権を剥奪しろ、死刑に処罰しろ。一秒でも早く死ねばいいんです。さあ、皆さんも御一緒に唱えましょう。悪い子は、死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね」

最初は馬鹿馬鹿しいと思った。悪い子は死ねだなんて極論だ。刑務所で罪を償えば済むじゃないか。参加者の大半も同じ気持ちだった筈だ。極少数しか彼に続いて死を唱える者はいなかった。

それが、二回、三回、四回と、回を重ねていく内に、状況は変わっていった。男に賛同して、供に死を唱える者が増えてきたのだ。わたしは不安に駆られた。

群集心理だろうか、自分も死を唱えなければいけない使命感に捉われ、思わず叫んだ。

「悪い子は、死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね」

悪い子は死ね、はっきり声に出せば素敵な言葉だった。それからずっと、一緒になって死を唱え続けた。

十回目を越えると、参加者は随分減っていた。呆れ果てたのだろうか、それとも別の理由があってのことか。朝、貴久美が鏡を覗いたとき、目の下に隈ができていた。参加者の人達も隈を作っていた。講習会に通うようになってからというもの、やけに疲れ易くなっていた。

「悪い子は、死ね。死ね。死ね。死ね。死ね」

それだけ言って帰った。本来の趣旨がどうでもよくなった。妊娠期間中の心構えや、出産後のことより、いい子が産れるかどうかが気に病んでいた。胎教の勉強だけは欠かさずにやっていた。

「悪い子は、死ね。死ね。死ね」

講習会は素晴らしかった。単なる妊婦向けの話に留まらず、今後社会に送り出していく子供を悪人にさせないため、予防線を張っているのだから。社会にいい子を送り出さねばいけない。参加者の誰もが重い責任を感じただろう。

いや、実際はそれだけではなかった。

「悪い子は、死ね。死ね」

少年の拘束、よくよく考えれば、あのとき芽生えた黒い感情は、自分にも当てはまっていたのだ。

社会に巣食う子供、それは成人した男性、成人した女性、中年の男性、中年の女性、老人の男性、老人の女性……。

全ての人が社会という親の元に生まれた子供に当てはまる。現に、ビデオの映像には成人が人を殺す映像があった。

「悪い子は死ね」

子供の頃から一度も実感したことはなかった。自分が悪い子だなんて。けど、わたしは妊娠期間中の体験を通じて自分の本性に気付けた。わたしは悪い子、誰かが不幸になれば残忍に笑えるのだ。人から植えつけられた狂ったイメージと考えて逃げるのは、より自分を醜い生き物に貶めた。

回を増すごとに人が来なくなったのは、きっと悪い子だと自覚したから、自ら命を絶ったのだろう。荒んだ社会を洗浄するには、いい子だけを世に残さねばならないからだ。

そして、悪い子の親から産まれた子供は、悪い子に育ってしまうんだ。

「貴久美さん、しっかりしろ。頑張れ、頑張るんだ」

産婦人科の分娩室、わたしの傍らには市郎さんがいる。手を堅く握ってくれている。顔が歪んで見える。全身に痛みが走って意識が朦朧としてる。視界に霧がかかったみたい。

「静かにして下さい。黒河さん、呼吸、呼吸」

助産婦さんが二人、わたしのお腹を押してくれている。子宮が大きく開いている。赤ちゃんが産まれそう。

「うわああああああ、がああああああああ」

目が裏返りそうな激痛が腰に襲ってくる。堪え切れずに獣じみた叫びをあげる。心臓が激しく波打って痛い。体が焼けるようだ。

「しっかり、しっかり、貴久美さん」

市郎さん、しっかりしても、わたしは悪い子を産むのよ。悪い子は、死ななきゃいけないのよ。社会の、ために。

「あぎいいいいいいい、づううぅぅぅぅぅぅぅ」

息を整えられない。過呼吸になって悲鳴をあげるだけ。足の先が千切れそう。びりびりした電気が全身に駆け抜けていくうう。

「もう少しですよ。頭が見えてきましたからね」

「頑張れ、頑張って、貴久美さん」

悪い子が産まれちゃう。わたしの股間から出てきちゃう。我慢しなきゃ、産んじゃ駄目だ。産まれたら、わたしが殺さなきゃいけない。そんなの、絶対に嫌だ。

「やめてええ、産れないでええ、産れないでええええ」

わたしにこんな力が出せたのかというぐらい、拳に尋常な力が込められた。苦痛に首を振る。赤ん坊が体内を滑るように移動しているのを自覚し始めた。大きな頭が肉の壁を圧迫して、麻酔をした肉体に破滅的な激痛が。

「ぎゃああああああ、いたいいいいいいいい、産れないでえええええ」

「もう少し、もう少しだからね。頑張って黒河さん」

嫌だ、産みたくない。わたしは産みたくない。駄目だ、産まれちゃ駄目なんだ。産まれちゃ、だ、め、だ。

「いやあああああ、たすけてえええええええ」

「もう産まれる。もう産れてくるから、頑張って貴久美さん」

「ああああああああああああ」

子宮からズルリと大きな物体が出てきた感触がした。わたしは顔を蒼白させた。

同時に、赤ん坊の産声が聞こえ、割れるような歓声が起きた。悪い子が、生まれてしまった。

「やった、やったよ貴久美さん。産まれたよ、僕たちの子供が産まれたんだよ」

ごめんなさい、市郎さん、その子はわたしの遺伝子を引き継いだ、悪い子なの。

「おめでとうございます黒河さん、ほら、あなたの赤ちゃんですよ」

助産婦さんが朱色の生き物を拭いた。わたしは横目で捉えていた。グロテスクな生き物なのに、感動して、胸が熱くなっている。この子は悪い子なのに、殺さなきゃいけないのに。この抑え切れない歓喜は、どうすればいいの。

わたしは我が子を抱かせて貰った。見てるだけで頬が緩んで、目に涙が溢れてくる。

「ねえ、市郎さん」

わたしに新たな感情が芽生えてきた。それは、出産前に死んでしまった妊婦さんには持てない感情だ。

「何だい、貴久美さん」

わたしは一呼吸おいて、言った。

「二人で、この子をいい子に育てようね」

「ああ、もちろんだよ、必ずいい子に育てよう」

わたしの決断は、過ちなのかもしれない。けど、この子を愛してる。殺したくない。命を懸けて大事に育てていきたい。それがわたしに芽生えた感情。出産できなかった妊婦さんには持てない、母としての愛情だ。

この子をいい子に育てることが、悪い子のわたしができる、唯一の社会貢献だと信じたい。

 

黒河貴久美は五年後、最愛の娘の郁美と供に、自宅から五百メートル先の陸橋に出かけた。

相変わらず社会は荒んでいた。犯罪が絶えない毎日、悪い子は至る所に潜み、誰かに何らかの害を及ぼしていた。

貴久美は郁美を連れて陸橋の中央まで歩いた。陸橋の下には流れの急な川が流れていた。

「ほら、郁美、あれを見て。ここから飛び込んじゃだめって看板だよ。郁美も気をつけてね」

貴久美は川底に埋め込まれた大きな看板を指差した。郁美の応えに、育児に丹精を込めた五年間の成果を期待していた。

「うん、郁美気をつける。絶対、飛び込まないよお母さん」

郁美は無垢に笑って応えた。貴久美は微笑み、嬉しくなって郁美を抱きかかえた。

「ひゃあ、どうしたのお母さん、背中痛いよお」

「ごめんね、でもお母さん、嬉しいの。とっても、嬉しいの。ありがとう、ありがとう郁美」

貴久美は郁美を抱いたまま歓喜に泣いた。それは一縷の望みが、くっきりとした現実味を帯びて、未来へと繋がる確かな実感に変わったせいだ。

胸に渦巻く不安が晴れていき、貴久美は漸く安堵の笑顔を作った。

 

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