サードマン

 

「こら、赤で飛び出しちゃ駄目じゃないの」

わたしに注意を促すのは、相変わらず第三者だった。

見ず知らずのおばさん、事故を未然に防ぐため、車通りの多い横断歩道でたむろする、緑のおばさん。

手には黄色い旗を持っている。貴方はいざとなったら旗を振って車を止めてくれるのか、問い詰めたい。そんな気分に苛まれている。

余りにも一方的だからだ。わたしは接触を望んでいないのに、押し付けがましい理屈を勝手に唱えてくる。実に鬱陶しい。

第三者という奴は、常にわたしを付け狙っているようだ。きっとわたしは、前世で大量虐殺を行った大悪党だったんだと思う。

わたしに恨みを抱えて、輪廻転生してきた現世の第三者達、それらを『サードマン』と、いつしか一括りに呼ぶようになった。

女性もいるが、語呂がいいのでまとめてサードマンだ。彼らは徒党を組んで、じわじわ、わたしを自殺へ追いやろうと企む卑怯者だ。

「ほら、青になったわよお譲ちゃん。早く渡んなさい」

お譲ちゃん、か。来年大学受験を控えた、高校三年なんだけどな。わたしは苦笑いを浮かべて、青になった横断歩道を渡った。

気が滅入る、わたしがこれから向かう学校という建造物には、無数のサードマンが潜んでいる。

彼らとのせめぎ合いを乗り越えなければ、無事には帰れない。今日はどうなることやら。

身に降りかかる不幸に悲観し、足取りは重くなる。目の前には、生活指導の教師が門番を務める、校門が見えてきた。

「やあ、常田さん。おはよう」

校門を潜ろうとした時、内側から飛び出してきた、馴れ馴れしいサードマンが声をかけてきた。同じクラスの垣田というパッとしない名前の男だ。

学らんと呼ばれる圧迫感を感じさせる黒一色の上下に身を通した垣田の足は短く、地面に擦らないよう、裾を二、三度折り返したところを待ち針で止めている。

床屋に行け、銭湯に通え、垣田の蓬髪は言いたくなるほど異臭を放っている。そのせいで周囲から忌み嫌われ、友人ができないようだ。

「おはよう」

わたしは乾いた声で挨拶を返した。垣田は不器用に笑い、足並みを揃えてひょこひょこ着いてくる。

厄介なサードマンだ。余程、憎悪を抱えて死んだのだろう。霊媒師に嘆願して、何度こいつの存在を抹消しようと考えたことか。

しかしメリットもあった。嫌われ者特有の匂いを香らせているおかげで人が寄ってこない。傍にいられる限りは他のサードマンも近寄って来れないのだ。

遠巻きに陰湿な暴言を吐いて、わたしを中傷しはするが、壊滅的な、そう、自殺を思い起こすまでには至らない。

「今日の体育は合同なんだって。頑張ろうね常田さん」

気兼ねなく話しかけてくる。やはり、霊媒師に相談すべきか。サードマン垣田は粘着性を絶やさない。

下駄箱で、薄汚れた靴を脱ぎ、階段を上がって三階の教室へ。窓側、最後尾の自席に備え付けられたフックに鞄を提げて、椅子に腰を下ろす。

それでも、サードマン垣田はわたしの傍を離れなかった。友人がいない、その事実があるから離れないのはよく分かる。

なぜなら、わたしも友人が。いや、友人がいな。

「友人が否。じゃなくて」

わたしの悪い癖だ。たまに妙なことを口走ってしまう。

だから、わたしは友人がいな。

「はは、僕も友達いないよ。一緒だね常田さん」

垣田は醜い己の顔を指差して、同調してきた。煩わしい。

サードマンとわたしを比較されるのは、心外だ。わたしが正義で、サードマンが悪だからだ。

前世の記憶に取り憑かれ、不条理な行為を繰り返す、サードマンの攻勢に耐えるわたしは、正義以外の何者でもない。

それでも、わたしに友人がいな。のは、不変の真理。

「おい、もうチャイム鳴ったぞ。さっさと席に着け」

始業のチャイムが鳴ったようだ。教壇には、がっちりとした体躯の教師が立っていた。小うるさい指示を騒ぐ連中に与えている。

教室内に拡散していた生徒は渋々席に戻っていった。垣田はしつこく引っ付いていたが、ふけの被った髪から漂う異臭を残して、席に戻っていった。

わたしは内輪代わりに手を扇いで、窓から外を見下げた。サードマンの一人が喚いていたからだ。

「常田ー、常田ちゃーん、一人ぼっちの常田ちゃーん」

奥にグラウンドが広がる通路で、憎まれ口を叩くのは、体操服を着たサードマン向井だった。

隣のクラスの男で、紫外線を浴び、小麦色に焼けた肌を持つ向井は、何かに付けて皮肉を叫ぶ、器の小さい男だ。

わたしは黙って向井を睨みつけた。授業が始まったようだが気にせず睨み続けた。

お前に言われなくても、わたしは友達がいな。

 

チャイムが鳴った。教師に一礼を交わして、授業を終えた。

ノートを広げながら、聞いたような振りをして、何も聞いていなかった。

単調で退屈な授業時間を、休憩時間代わりに、有効に活用していたとも言える。

本来の休憩時間中は、サードマンが襲ってくるので、気が休まらないからだ。

安堵の笑みを浮かべて、散り散りになっていく生徒達。クラス内にサードマンが数人残っていたが、今回は特にわたしに目をかける様子はなかった。

ドア側の先頭の席に座るサードマン垣田だけは、いつものようにわたしの隣にやってきていた。

ちらちら横目でわたしを見ながら、緊張してるのか、足元がおぼつかない。

「や、やあ常田さん。おはよう」

「おはよう」

二度目の挨拶は、声が上擦っていた。何を企んでいるサードマン垣田。

垣田は懐に手を差し入れ、群青色の小さな箱を取り出した。蓋は曲線を帯びていた。

嫌な予感が頭を過ぎる。見覚えのある形状だ。垣田は箱を両手で縦に挟み、蓋を外側に開いた。

窪んだ部分に、指輪が挟まっている。輪の中心に取り付けられたダイヤらしき宝石は輝き、集めた光を乱反射させている。

「あの。もし良かったら、僕と、僕と、付き合って下さい」

垣田の要求は思いも寄らない物だった。何を言ってるんだこいつは。告白してるのか。

そんなはずは、きっと、新手の嫌がらせ、冗談の類だ。高価な物品を用意したところをみると、他のサードマンも絡んでいるんだろう。

垣田の眼は真剣か、半歩乗り出して、わたしにダイヤを魅せ付ける。心を、奪われてしまいそうな輝きだ。

「どうかな、付き合ってくれるなら、この指輪を常田さんにあげてもいいよ」

垣田は蓋を閉じて、不気味に微笑んだ。そしてまた開けた。閉じた。

パカパカ、パカパカ、箱がパカパカ開閉される。わたしの眼球運動は激しくなる。

ダイヤ、光り物、欲しい。待て、落ち着け、案ずるな、罠だ。

「パカパカ、させないで」

わたしは目を背け、手を伸ばして蓋を押さえた。垣田はその手を包んで自分の胸に引き寄せた。

うっとりしたような恍惚の表情に、目を細めて、生暖かい手の感触を嗜んでいる。

悪寒が走った。まさか、承諾したと受け取られてしまったのか。垣田の顔は満足気だ。

「常田さん、これからも仲良くやっていこうね」

どっちだ、その発言は何を意味している。中途半端に言うな。

聞き返しにくい、どうすればいい、はっきり拒否すべきか。怖くて声が出せな。出せ、な。

葛藤は続き、結局収集はつかなかった。わたしが無言でいたのを曲解し、垣田は承諾したと受け取っただろう。

サードマン垣田は、机に指輪の入った箱を置き去りにして、踊るように席に戻っていった。

 

二時間目の休み時間になった。予期はしていたし、予見もしていたが、わたしは目を疑った。

『三−六垣田、常田、昼夜の熱愛発覚』という、誇大表現の見出しが付いた、校内新聞が掲示板に張られていた。

他人に見られた様子はなかったので、垣田本人が新聞部に言い触らしたのかもしれない、サードマンだから。

やっぱり、協力者がいたのだろうか。偽の情報は、たちまち他のサードマンに広まってしまった。

終わりだ。サードマンの恰好の餌食にされる。

 

三時間目以降、わたしは吐き気を催しそうになった。

数学、現代社会、生物、体育と続く、六時間目終了まで、わたしは笑われ、蔑まされ、貶められ、変人と見做された。

男子と合同になった体育の時間は、特に酷かった。垣田はわたしにぴったり寄り添い、要らない励ましを叫んでいた。

千五百メートルの記録を計る目的で走っていたのに、奴だけは執拗にわたしの尻を追っかけてきた。

馬鹿笑いが飛び交い、思いがけない人物から、臭いから近寄らないでよ、なんて言われた。

どうやら、わたしはサードマンの数を見誤っていたようだ。見解を遥かに超えた数、恐らく、学校に潜む人物全てがサードマンだ。

全校生徒は約千七百人だから、単純計算で一対千七百人になる。幾らなんでも多すぎる、敵うはずのない数の暴力だ。

明日になっても、明後日になっても、ずっと千七百人を相手に堪え続けなければならない。考えただけでぞっとして、頭が痛くなる。

ああ、もう、死にた。死にた。死にた。

「じゃなくて」

帰り支度をしながら、わたしは何度も長い溜息をついた。

 

夕日のせいで、影は細長く前に伸びていた。

家路を辿る、わたしの前をうろつかれて、妙に癇に障る。

影を自分と切り離して考え、第三者と仮定するなら、影もまた『サードマン』になるな。

考えすぎだろうか、受け取った指輪がガラス玉だった事実も相まって、わたしは少し冷静ではない。

早く家に帰って、落ち着きを取り戻さねば。家には当事者がいる。私を産んだ母が出迎えてくれる。父は、いない。

わたしの部屋もそこにある。世界で一番落ち着く居場所、自作したMDを聴きながら、好きな洋服に着替える。至福のひと時だ。

お菓子、最近は食べていないが、今日は奮発して沢山食べよう。明日から訪れる、千七百人との戦いに備えて。

いや、いっそ登校拒否してしまおう。何も無理して通う必要ないじゃないか。

今まで思わなかったのもおかしな話だ。よし、わたしは踏み切る。サードマンとの不毛の争いには、もう付き合っていられない。

サードマンのことを、母に告白する。

 

「と、いうわけで、わたしはサードマンに狙われているから、暫く家でかくまって欲しいの」

家に着いたわたしは服も着替えず、切羽詰まった様子で洗いざらい母に話した。一部を除いては。

ほぼ全てを打ち明けるのは、容易ではなかった。苦汁を飲んだ校内新聞の話も含めた内容に、わたしは深い羞恥心を感じていた。

母の返事は暫く返ってこなかった。無理もない、かつてサードマンについて一度も話したことはなかったのだから。

切れかけた蛍光灯が点滅する中、母は、テーブルに腰掛けるわたしに背を向け、台所に立ち向かっていた。

母の手に握られた万能包丁は、随所に穴が開けられ、柔軟性を伴う刃が繊維に沿って野菜を細切れにしていた。

普段なら聞こえてくるはずのこぎみ良い音、それはなかった。鈍い音、憎悪が込められたような鈍い音が響き渡る。

「で、そのサードマンていうのは、どなたなの」

母の口から、やっと出てきた言葉は、呆れたような、興味がないような質問だった。

「だからいったでしょ、学校にいる皆だって。他にも路上にいたり、コンビニにいたり、至る所でわたしを狙ってるのよ」

わたしは負けじと強く言い返した。

「へえ、それで、いつまで休むの。いつになったらサードマンはいなくなるの」

わたしは言葉に詰まった。サードマンは前世に恨みを持つ者、何人殺したのかは不明だ。殺した数以上は増えない、だろうけど。

しかし、未確認のサードマンが何百人とのさばっているかもしれない。いつまでなんて、答えられない。

サードマンが全滅するまで、とでも言えばいいのか、わたしには言えなかった。

「それに、休んでたら卒業だってできないじゃないの。母さん、そんなの嫌だからね」

母は溜息混じりに続けた。

わたしの考えは浅はかだった。母の言い分は最もで、確かに胸に突き刺さる。

でも、「お母さん、わたしの命と学校、どっちが大事なの」、命には替えられない。

「学校に、決まってるでしょお」

母は即答した。首だけわたしの方に向けていた。わたしを見つめる、母の瞳は冷たかった。

手に握られた万能包丁が煌びやかに光を返して、母の横顔を淡く照らしていた。

感情のない怪物のように見えた。母はこんな人だったのか。わたしには信じられなかった。

言えば、例え、被害妄想だと捉えられたとしても、ある程度は理解してくれると信じていた。

「いい、絶対に休んじゃダメだからね」

ドスの利いた低い声で念を押され、わたしは茫然として自分の部屋に帰った。

わたしは制服を脱いで、すぐにベッドに転がった。此れほど精神的にめげたのは久しぶりだった。

視線の先にあるタンスの上には、家族で撮った写真が飾られていた。その中には、元気だった頃の父の姿もあった。

昔を懐かしみながら、ぼんやり眺めていた。生前の父さんを見てると、初めて出会ったサードマンの姿が浮かぶ。

二回りは年上の中年の男だった。あのサードマンも確か、母と同じような冷たい瞳をしていた。

少し違う、孤独で何処か淋しげな、救くいようのない助けを求めているような弱々しい瞳だった気がする。

思い出したくない、一秒でも早く消し去りたい、父の命を奪ったあの日に、初めてのサードマンは鉢合わせていた。

現実から逃げるように、わたしは目を閉じた。二度と、開けたくもなかった。

深い眠りの先には、辛い思い出を忘れさせてくれる、楽しい夢の世界が口を開けて待っている、はずだ。

 

常田沙耶は、無限の娯楽に渦巻く空想世界の中に入った。

そこには、夏の日差しが照り付けていた。沙耶はリュックを背負った父と並んで、切り立った崖の上に立っている。

家族の絆を強めるためにハイキングに行こう、言い出したのは沙耶の父だった。

辺りは草木が生い茂り、まともな道らしき道はなかった。或るのは、細い獣道だけだ。

「ねえ、お父さん。やっぱり迷ったんだよ。母さんともはぐれちゃったし、引き返そうよ」

話しかけたのは、沙耶だった。瑞々しい張りのある肌が汗を弾いて、近くの地面に落ちた。

父は無言だった。厳格のある太い眉毛はピクリとも反応を示さず、重装備で決め込めた、探検家らしい格好をしていた。

腰に巻かれた緑のベルトには水筒がぶら下がっていた。父は水筒を引き剥がして、蓋を捻り開けた。

「なあ、沙耶、お父さんとお母さん、どっちが好きだい」

生温いつむじ風に髪をなびかせながら、父は感慨深そうに問いかけた。

崖下は一面に荒野が広がっていた。高さは五十メートルはあるだろうか、落ちれば一溜まりもないだろう。

手に取った水筒の底に溜まるお茶を、父は惜しげもなく零し出した。向かう先は崖下だった。

沙耶には父の行動が理解できなかった。ただひたすら、押し黙って、流れるお茶の軌跡を眺めていた。

「どっちなんだい、お父さんかい。それとも」

父は自身の胸の辺りまで伸びた、沙耶の頭に手を置いた。声は先程よりしわがれていた。

長時間さ迷い歩いて喉が渇き、二人の舌に潤いはなかった。お茶は大事に飲んでいこう、もしもの時になかったら困るからね。そう言い出したのも父だった。

沙耶の心に疑惑の念が宿った。信頼していた、父の言葉は虚言に過ぎなかった。

表情は、露骨に愛憎に歪み、原因の父を見据えて無言の圧力をかけた。父は待ち望んでいたかのように微笑んだ。

「さあ、言ってごらん。お父さんかい、お母さんかい」

腰を低く下ろして、沙耶と同じ目線に合わせた。返される台詞を心待ちにしているようだ。

沙耶は挑発に乗せられ、怒気を含んだ声で、強く父に投げかけた。

「父さんなんか大嫌い、崖から落ちて死んじゃえばいいんだ」

沙耶の瞳孔は開き、下がった父の眼前に顔を近寄せていた。

父の頬は緩んでいき、抜け殻となった水筒が手から滑り落ちた。水筒は地面で一度跳ねて、崖下に落ちていった。

「そうか、父さんのこと嫌いか」

父は崖に向きを変え、地面に指先をつけて飛び込むような体勢を取った。

「沙耶に嫌われたんじゃ、生きててもしょうがないし、先に死ぬね」

真顔に直して続けて言った。人生を投げた男とは思えない、力強い声だった。

眼下に広がる死地には、崖から剥き出しになった伸びた木に、落ちた筈の水筒が引っ掛かっていた。

沙耶はおろおろとうろたえながら、慌てて父の服を引っ張った。不信感から飛び出した、思ってもいない台詞に後悔を覚えていた。

両親を天秤にかけるなど、沙耶にはできなかった。父はそれを見通していた。

「なにするんだ沙耶。嫌いなんだろ。止めることないじゃないか」

「馬鹿、止めるに決まってるじゃない、死んじゃやだよ。だって、わたし、お父さんが好きだもん」

沙耶の口から本音が零れ出た。父は嬉しそうに笑い、背筋を伸ばして元の格好に戻った。

しっかり締めていなかったのか、背負っていたレザーのリュックの中身は半分ほど落ちていた。

「嬉しいよ、沙耶。やっぱり、父さんの方が好きだったんだね」

父はそう言って、手早く重装備を外し始めた。重量感を保ったリュックは崖の先端に沈み、緑のベルトは足元に摺り落ちた。

同時に、ファスナーを閉めていなかった、厚手のズボンが横にはだけ、合間からチェックの柄をしたトランクスを覗かせていた。

沙耶は絶句した。崖から十メートルほど後方に下がり、父の様子を静かに窺がった。父は前のめりになって、瞳の中に絶えず沙耶を収めていた。

脱ぎ切った上下は崖下に投げ捨てられた。トランクスの股間部分は肉棒で押し上げられ、一定の間隔で波打っていた。

「父さんも沙耶が好き、大好きだよ」

沙耶と父との距離は五メートルに縮まっていた。父はトランクスを捲りながら、前進していた。

全裸に近くなった、父の姿を正視できず、沙耶は蹲って両手で顔を覆った。指と指の隙間から、バーコード状に切れた父の肉棒が映えていた。

両の踝に掛かったトランクスに構わず、父は摺り足で歩み寄り、漸く沙耶を目前に構えた。

「さあ、咥えなさい、父さんのことが好きなんだろ」

沙耶は父に恐怖し、小刻みに体を震わせていた。言われた通り、緩慢に手を解く。

間近には、先端の黒ずんだ父の肉棒が伸びていた。父は邪悪に笑い、沙耶の後頭部を捕まえた。

「やめて、父さん」

通らないか細い声が漏れた。父は二指を沙耶の口に突っ込んだ。

「か、や、やめて」

救いの声は、娘を犯したい、貪欲なまでの性欲に支配された父の耳には届かなかった。

父は指を縦に開いて、沙耶の口を大きく開かせた。口内から滑らかな唾が滴り落ちた。

沙耶の目に潤った涙が、父の性欲を増進させ、黒ずんだ淫らな亀頭が前歯の間を縫っていった。

「うぐ、ぐう」

亀頭の先が沙耶の咽頭にぶち当たった。沙耶は舌を使って、苦味を持った肉棒を押し返す。

しかし、父は合わせるように頭部を引き寄せ、突いたような格好になった。沙耶は呻き声を漏らした。

根元まで咥え込んだ肉棒のせいで発声はままならず、喘ぎ声に酷似した、呻き声が続けられる。

両の頬は、唾液と絡み合って舌を滑る、肉棒を包みきれず、小さく膨らみを持っていた。

沙耶は上目遣いに父を見据えた。懇願するような脆弱な目つきだった。

「なんだ、もっとして欲しいのか、そうなんだな」

父には通じず、捻じ曲げて解釈された。

頭を引き寄せつつ、強引に腰を合わせ、時には一回、時には三回と、不規則に、調子を変えて反復運動を繰り返した。

沙耶の顎はほとんど上を向き、無常にも垂直に近い角度で肉棒を振り下ろされた。唾液が激しく満ちていき、ジュブジュブ音を立てて、肉棒に絡まり合う。

手は生い茂る雑草を握り締めていた。僅かに残った抵抗の意志を示していたのかも知れない。沙耶の瞳は虚ろになっていた。

「沙耶、出すぞ」

沙耶は脱力していた。豹変した父を認めた、受け入れたというよりは、空想世界に思いを馳せていた。

父から受けた恐怖、失望、怒り、悲しみ、言い表せない様々な感情が入れ替わり、沙耶の体は逃避を選んだ。

人形のように無感情になり、ただ、目を虚ろにさせて、性奴隷と化した、醜い父の姿を見つめていた。

沙耶の顔に白濁汁が降りかけられた。精巣から這い出てきた、陰湿な黒さを秘めた、白い汁だった。

青白くなった唇を中心に付着した汁を、舐め取るかのように、沙耶は舌で八の字を描いた。

「うひ、可愛くなったねえ沙耶ちゃん」

父はもはや、異常者であり、不出来な犯罪者に成り下がっていた。

首を傾げて俯く沙耶の体を押し倒し、下半身を包む、厚手のズボンを脱がせた。水玉のパンツに涎を垂らし、それも脱がせた。

陰毛が生え揃わず、剥き出しになった若い女肉が露になった。父の肉棒は敏感に跳ね上がった。

沙耶は何かを呟き、ぐったりとして、首を横に倒した。鋭利な刃と化した雑草の葉が、沙耶の頬を短く横に裂いた。

父は沙耶の両足を持ち上げ、自身の両肩に干し掛けた。続け様に、小さく開いた未発達の肉を掻き分けんと、指を突っ込み、薄っすら濡れたひだをなぞる。

「ひひ、入れるよ沙耶、おっと、その前に」

肉棒で膣肉を抉るイメージを掻き消し、父は立ち上がった。

思い当たる節があるのか、全裸の父はリュックを取りに駆けて行った。沙耶は無意識に安堵の溜息をついた。

崖っぷちに佇んでいたリュックは、風に煽られ、崖側に何度もはためていた。父は腰を落として、拾い上げようとした。突風が吹いた。

リュックが左右に振られ、風に負けて崖の方に転がった。父は逃がさまいと飛び付き、リュックを胸に抱き止めたが、虚しく崖下に転落していった。

「うわ、沙耶、沙耶ああ」

落ちていく父の悲鳴は、沙耶に届いた。沙耶の虚ろな瞳に生気が戻り、慌てて飛び起きた。

周囲を見渡すが父の姿は認められなかった。一際小さくなった悲鳴だけは、確かにまだ聞こえていた。

沙耶は耳を澄まし、声の聞こえる方向、すなわち崖の方へと歩き出した。

輪の解かれた緑のベルトを尻目に、沙耶は崖下を見下ろした。そこには、水筒が引っかかっていた伸びた木に、父も絡まっていた。

細くて長い、弱々しい木だった。水筒足す、父の体重で大きくしなり、根元の方に亀裂が走っていた。下手に動くと折れてしまいそうだ。

「あっ、沙耶、助けて、父さんを助けてくれえ」

沙耶の姿を認めた父は、虚空に手を伸ばして助けを求めた。

先程までの邪悪な笑みは消え失せ、駄々をこねて泣き喚く少年の容貌に変わっていた。

その瞳は、孤独で何処か淋しげな、救いようのない助けを求めているかのように弱々しかった。

沙耶は割れた女肉を手で押さえながら、静かに父を見下ろしていた。

「サードマン、サードマンだ」

沙耶はポツリと漏らした。目の前でもがく哀れな生き物を、淋しげに見据えながら。

沙耶の胸の内には、既に父は亡くなっていた。強姦紛いの行為を行った父の存在は、頭の中で抹消された。

肉棒を咥え込んでいた最中に見ていた者は、父ではなく、サードマンだった。第三者、当事者とは違う、沙耶に恨みを持つ者、前世に殺した誰かが復讐しに来たのだと。

現実を逃避する余りに作り出した、自衛のための精一杯の妄想だった。

「死ね、サードマン」

沙耶は冷たく微笑んで言った。

父は目を丸くして、悲痛な叫びをあげた。沙耶にはもう届かなかった。

沙耶は自分の服を着直し、獣道を進んでいった。遠のいてくサードマンの声、やがて悲鳴があがり、潰れたような音が鳴って、途切れた。

無事に、下山を果たした沙耶は、母に父のことを訊かれた。どこかで会わなかった。

「知らない、死んだんじゃないの」

沙耶は相変わらず冷たく微笑んでいた。サードマンを思い出さぬよう、終始、父の死には無関心を示した。

その後の生活は、第三者をサードマンと念頭に置いた、孤独な修験、修験者。

常田沙耶の空想世界は光に覆われ、そこで終わりを告げた。

辛く厳しい現実の世界が確実に、口を開けて待っている。

 

わたしは、まだ起きていた。

目を閉じても夢の世界に行けず、妙な使命感に駆られて空想の世界を思い浮かべた。

暗闇の中には、あの日の出来事が鮮明に浮かんでいた。

わたしが初めて出会ったサードマン、それは父の形をした悪魔だった。

いや、実際は違う。

落ち着いた今なら、真実を受け止められる。あれはサードマンじゃない。本当の父さんだった。

我を忘れていた、或いは、憑き物に取り憑かれていただけかもしれない。救いを求めていた時の父さんは、いつもの父さんだった。

なのに、わたしは見殺しにした。

冷たく笑ってた。父さんが死んだのに、可笑しくなって笑ってた。

わたしは何だ。人の死が愉快なのか。父さんの死は格別だったのか。

父さんに、恨みを抱えていたのか、分からない。

自分が怖い、けど、時々思う。本当は、わたしがサードマンじゃないかって。

 

四日経った。

あれから、わたしは学校に通っていない。

母の許可が下りたからだ。

「その代わり、ずっと家にいちゃダメよ、一日一回は外に出なさいね」

条件つきで。

冷たい目をしていた母が理解してくれた。条件つきでも有り難かった。

外出に深い意味があるのかは、よく分からなかった。

それでもわたしは、言われた通りに毎日外出していた。

 

一日目は、怖くて、なかなか外に出れなかった。

サードマンは学校の外にもいるから、ばったり出くわすのが怖かった。

しかし、ある一つの疑問が生じた。いつもなら、外に出るくらいはできた。

サードマンに会うのは嫌だったけど、学校にも通ってたぐらいだし、我慢はできていた。

ひょっとして、サードマンを意識し過ぎているから、外に出れないんじゃないか。

そう思った。

試しに好きなお菓子のことで頭を一杯にしてみたら、わたしは外に出れた。

この日、サードマンらしき人物を大勢見つけたが、誰も相手にして来なかった。

 

二日目は、普通に外に出れた。

ラフな格好に身を包み、愛用の黒いニット帽を被って出かけた。足取りは軽かった。

週刊誌でも立ち読みしようと、コンビニに立ち寄った。

店内には、男子高校生、コンビニ店員、サラリーマン風のスーツを着た男性、三人しかいなかった。

その内の一人には見覚えがあった。寒気がして、戦慄が駆け抜けた。近寄るな、サードマンって。

「よお、常田じゃん、お前なにしてんの」

男子高校生、向井という黒い肌を持つ男だ。彼は確認済みのサードマンだった。

「べ、べつに、なんでも」

実際に、彼とは何度も会話を交わした過去がある。

女子の間で噂になる彼は、スポーツが得意で、頭も良いそうだ。彼女はいないらしい。

片思いの女の子がいるから、付き合えないと断っているそうだ。

「何だよ、気になるじゃん、学校はどうしたんだよ」

彼は優しい男らしいが、わたしに対しては意地悪だった。

一人ぼっち、一人ぼっちと、独りを誇張されて、苛められていた。

わたしは傷付いた、本当に独りで、助けて欲しかった。友人がいな。いから。

「何でもないって。あんたこそ、学校行かなくていいの」

でも、彼はいつもわたしに構ってくれた。

「お前がいな、じゃなくて、かったるいからサボったんだよ」

独りのわたしを。

「あっ、それはそうとさ、垣田と付き合ってるって噂ほんとなのか。嘘だよ、なあ」

垣田、そういえばそんな男もいたかな。余りよく覚えていない。

わたしは無言で首を横に振った。そしたら、彼は笑顔になった。

「やっぱりな。新聞部の野郎ふざけやがって、俺が怒鳴り込みに行って、謝罪させてやるよ」

笑みはすぐに崩れた。真剣に怒った様子で、頭を掻いていた。

わたしのために、怒ってくれている。

「いいよ、そんなことしてくれなくても」

わたしは照れ笑いをして断りを入れた。サードマンに接されて、心は安らいでいた。

相手は、わたしを自殺へ追いやろうと企むサードマンなのに、なぜ、こんなに。

「ダメだって。いいから、全部俺に任せとけ。分かったな」

胸が高鳴る。

「う、うん」

わたしはニット帽をずらして、目を隠した。

彼の澄んだ瞳に吸い込まれそうで、わたしは現実から目を背けた。

認めたくないから、逃げてる。彼はサードマン、なのに。

「常田、学校来いよな。待ってるからよ」

彼はわたしの肩を叩いて店を出た、筈だ。自動ドアが開く音が聞こえた。

わたしのために新聞部に怒鳴り込んで、わたしを待ってると残して去った。

目頭を押さえて、わたしは泣いていた。赤い目をして、涙の粒を流していた。

歓喜に、打ち震えていたからだ、彼はサードマン、なのに、なのに。

「ありがとう」

静かになった店内で、感謝の言葉をポツリと漏らした。

わたしは、彼が好きだ。サードマンなのに、大好きだ。

きっと、彼もわたしのことを……。

 

三日目は、五分も立たずに、すぐ家に帰った。

サードマンに会うのを恐れたからじゃない。一人で、じっくり考えたかったからだ。

向井に出会ってからというもの、わたしの価値観は少々変化していた。不思議な感覚だ。

彼は意地悪で、わたしを中傷してくる、陰湿な男だった。

そんな彼をわたしは好きになった。いや、ずっと前から好きだった。

彼の姿を思い浮かべると、顔がにやけてくる。愛苦しい笑顔が魅力的だ。

恋だ。わたしは恋をしている。彼が好きだ、好きだ、好きだ。

やっぱり、おかしい。自分の気持ちに素直になれてる。好きだと言っても恥ずかしくない、スッキリした気分だ。

しかし、許されるだろうか、わたしはサードマンを忌み嫌い、憎んでいたのに、手の平を返したように好きになるなんて。

戒律を破ったような、入ってはならない領域に踏み込んだような気分に苛まれる。

「許されるわけ、ないだろうが」

わたしの何かが言った。

「お前が決めたんだろお。サードマンとは関わりを持たないってさあ」

わたしの何かが言った。

「父を見殺しにしたお前が幸せになるつもりなのかあ」

わたしの何かが言った。

「お前は一生苦しみもがいてればいい。最低のクズなんだからなあ」

わたしの何かが言った。

「違う、違うよ。きっと、わたしが逃げてただけで、サードマンなんて、最初から存在しなかったんだよ」

わたしが強く言った。

「ほう、お前がサードマンなのかもしれないのにか」

わたしの何かが言った。

「違う、わたしもサードマンなんかじゃない。サードマンは、サードマンは」

わたしが弱く言った。

 

そして四日目、現在わたしは自室に篭っている。

思い起こせば、貴重な三日間だった。サードマンの裏面を見たことで、異なる視点からに自分を見つめ直せた。

最初から分かっていたはずだ、わたしは逃避していた。嫌なことがある度に、現実から目を背けて逃げていた。

自分の気持ちに素直になれた時、思わず口から零れ出た。サードマンなんて存在しない。わたしが人を憎む数だけ、サードマンが増えたんだって。

人は二面性を持っている。正義と悪は表裏一体、わたしは悪の部分に怯えて、目を逸らしてた。

親しくされても父のように悪に変わってしまうんじゃないかって、情けなく怯えてた。

でもそれじゃあ、いつまで経っても独りのままだ。現に、孤独な人生を送ってきた。

変わらなきゃいけない、気を強く持って、正面から人に立ち向かわなければいけない。

「おい、父を見殺しにしたこと忘れて、幸せになるつもりなのか。虫のいい、自分勝手な奴だ。お前がサードマンじゃねえのかよお」

わたしの何かが問いかける。わたしは弱く頷いた。

「そうだ。わたし自身がサードマンなのかもしれない。例え、人と友好関係を築けたとしても、父を殺した罪悪感からは逃れられないだろう。だから、けじめをつけたいの」

わたしは強く答えた。

「けじめ、だと」

わたしのなにかが問い返す。

「賭けをするの。この一本が的の中心を射抜けば、わたしは人生をやり直す。外れた場合は、今まで通り孤独に生きるわ」

わたしは矢を手に握り、ベッドの傍らに、弓道用具一式を揃えていた。

サードマンと出会う前、中学生の頃、弓道部に在籍していた際に使用していた、わたしの宝物達だ。

「バカバカしい、そんなもんでけじめかよ。やっぱ、お前サードマンだわ」

わたしが作り出した空想の生き物は、言い残して消え失せた。

その通りだ。幼稚な厚かましい発想にすがって、わたしは都合良く、罪悪感から開放されようとしている。

愚かで醜い人間の本性を曝け出しているかもしれない、罪を忘れて、明るい未来を歩みたいと願っているのだから。

せめてもの償い、と言っては何だが、わたしは自分に試練を課す。この一本が的の中心に命中すれば、前に進める自信も持てる気がする。

待ったなしの一発勝負に、わたしは進退を賭けて望む。

さあ、終止符を打とう。サードマン、そして弱いわたし自身との、決別の戦いだ。

 

翌日未明、常田沙耶は無断で高校の弓道場に忍び込んだ。

日が頭を出したばかりの早朝、辺りに人気はない。物静かで、目覚めを告げる小鳥のさえずりだけが沙耶の耳に響いている。

細長い板張りの床で、沙耶は座禅を組みながら瞑想に耽っていた。身に羽織るのは指定された制服ではなく、女子用の弓道着だった。

上はシミが目立つ使い古された白の道衣に、下は中央に数本線の入った分銅状の紺の袴を穿いている。

胸部には黒いラバーシートのような胸当てが張り付き、成熟段階の沙耶の胸を保護している。

右手には、ゆがけと呼ばれる親指から中指までの三本指を覆った、袴と同色のグローブが填められていた。

右側には剥き出しになった矢が置かれ、反対側には二メートルを越える竹製の長弓、その奥には矢筒が置かれていた。予備だろうか、矢筒の口には矢じりがついた一本が覗いていた。

沙耶の目の前には、矢道と呼ばれる全長三十メートル近い芝生が広がり、終点には安土と呼ばれる山型に盛られた土が、物見に覆われ影を潜めていた。

安土には的がかけられてあった。黒と白の同心円でできた四十センチほどの的だ。沙耶が狙う中心の円は白に塗り潰されていた。

「当たれ」

沙耶は呟き静かに開眼した。

神妙な面持ちをした顔つき、決意を秘めた眼は的を真っ直ぐ捉えていた。

「当たって」

沙耶は右手に矢、左手に長弓を取って、脇正面に腰を上げた。

射法に伴っているようだ、沙耶は自然に足を広げ、背筋を伸ばして肩を沈めた。

顔は物見を定めた。

「当たって、下さい」

左手は長弓の握り部分に添えられ、右手は矢の根っこ、三枚の堅い羽がついた筈を掴んだ。

引くように拳の形になった左手の上に矢の腹を据え、一気に矢と弓を垂直に持ち上げる。

「一生の、お願いですから」

続けて、沙耶は弓を大きく張り、射形を完全な物とした。乱れなく優雅な立ち振る舞い、矢じりの先はしっかり的の中心を狙っている。

瞳は澱みなく、この一矢に全てを賭けた決意を更に燃え滾らせている。口を一文字に結び、薄く整えられた眉を潜めた。

矢を引く手には精一杯の力が込められ、弦(つる)が軋みをあげている。

「じゃなくて、当てる」

沙耶は薄笑いを浮かべた。

緊張を抜いたのか、沙耶は射法には存在しない、独自の集中に入った。

静かに目を閉じ、外界のあらゆる物を遮断した。小鳥のさえずりさえ聞こえない、暗闇の世界に沙耶は佇んでいる。

頭の中では走馬灯のように、苦い回想が駆け抜ける。存在しないサードマンとの戦い、父への罪悪感、現実逃避していた自分への怒り、沙耶はそれらを掻き消した。

一矢、この一矢に全てを託して。

「いくよ」

沙耶は自分に言い聞かせて、目を開けた。

極限の集中、瞬間のゾーンに包まれる。悟りを開いた修験者の瞳は力強い。

先に捉える的の中心を目で殺しているかのようだ。

弦は早く解き放てと言わんばかりに唸りをあげて、目一杯引かれた矢は、その瞬間をひたすら待っている。

沙耶は、自分の幸せを最大限に祈り、願いを託した矢から手を、解き離そうとした。

「やっほー、常田さーん。お元気ですかー」

ドカドカ足音を鳴らしながら、沙耶の耳をがなり立てたような馬鹿でかい声がつんざいた。無作法に弓道場に侵入してきたのは若い男だ。

驚いた沙耶の体は跳ね動き、完璧だった筈の射形は大きく乱れて、矢の切っ先が斜め下を向いた。

「あっ、とまらな」

勢いがつき、離しかけていた手では抑えきれず、無常にも矢は弦に押されて力強く放たれた。

空を押し分けて疾走する矢の行く末は、的ではなかった。近くの矢道、沙耶から五メートル離れた辺りの芝生に脆くも突き刺さった。

沙耶は目を見開いた。茫然自失、我が目を疑っただろう。全てを賭けた矢は、男の一声で呆気なく失敗に終わったのだ。

「あはは、なにしてるの常田さーん。聞いたよー、新聞部に向井をよこしたんだってー」

沙耶の背中越しに男はケラケラ笑い、一方的に話しかけた。沙耶には男に会釈する余裕はなかった。

暫く固まり、力無く弓を落とした。幽鬼のように芝生を踏み分けて、突き刺さった矢の方へ歩いていく。

死ぬ直前に見せた父と同じ類の気質、沙耶の瞳は孤独で何処か淋しげな、救いようのない弱々しさを秘めていた。

「今のは、なし、だよね」

沙耶は無表情に呟いた。手は血管が浮き出るほど、矢の根っこを力強く掴んでいた。

そのまま矢をぐるぐる抉って引き抜いた。沙耶の額には汗が滲み、息を大きく乱しながら、暫く土がこびり付いた矢じりを手で拭っていた。

妨害を受けて失敗したから、今のはなし、沙耶は思った。

「うん、これでよし、今のは、なしだ」

土を拭い落としたから証拠隠滅。沙耶は思って、笑顔で後を振り返った。綺麗に磨かれた矢を手に携え、初めて男の方を振り返った。

顔がピシリと凍りついた。男を見た瞬間、全身に寒気が走った。男の顔に何処か見覚えがあった。沙耶にとって有名なサードマンだった男だ。

沙耶は失いかけた男の記憶を取り戻した。銭湯に通えと言いたくなるほど、異臭を放つ蓬髪を伸ばす男。そう、男はサードマン垣田だった。

「許さない、大人しく僕と付き合っていればよかったものを」

垣田は冷たい瞳で沙耶を見据えて言った。手には沙耶が使用していた長弓を携えていた。

弓を大きく張り、沙耶を上回る完璧な射形を作りあげた。矢筒の口から覗いていた予備の矢は、垣田の右手で水平に握られていた。

現実から目を逸らし続ける卑怯者、常田沙耶の体を貫かんと、弦が鈍い軋みをあげている。

「いや、たすけ、たすけ、たすけ」

沙耶は声を震わせ、矢を芝生に落とした。恐怖から逃げるように後ずさりしていく。

台所で冷たい瞳を見せた母の面影、そして父の死に冷たく笑っていた自分自身の姿が頭を掠め、垣田が感情のない怪物に思えた。

救いを求めるかのように、沙耶は虚空に手を伸ばす。

「ひひ、殺して、僕だけの物にしてあげるー」

垣田は冷笑をへばり付かせ、常田沙耶の頭目掛けて矢を射った。

 

時が止まった。

猛烈な勢いで迫っていた、矢が止まっている。

でも、逃げない。わたしは、今ここで死ぬ。

サードマン、垣田の手によって。

思えば、サードマンは、罪人を裁く正義の味方なのかもしれない。

父はわたしを犯そうとしたから、わたしはサードマンに変身して、最愛の父を冷血に裁いた。

しかし、父を裁いたわたしは、人の悪の部分に怯え、勝手に人に恨みを抱えていた。

現実から逃げ続けた、わたしの罪は蓄積されていき、自分が決めた賭けからも逃げたことで死刑判決を下された。

そう考えれば自然、全てのつじつまが合う。

誰もがそうだったんだ。人は常に目を光らせて第三者達を監視し、冷たい瞳をした正義の味方、サードマンに変身できるのだ。

そして、今なら、分かる。あの時父さんは助けを求めていたんじゃない。早く殺して欲しかったんだ。

罪を償いたい。死を以て罪に塗れた自分を洗い流し、人生をやり直したかったのだ。わたしが今、そう願っているように。

さあ、サードマン垣田。わたしを殺してください。早く死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。

今度生まれ変わってきた時は、友人や、彼氏が、できれば、いいなっ。

 

サードマン垣田に放たれた処刑の矢は、ゆっくり、ゆっくりと、罪人常田沙耶の前頭を突き破り、後頭部まで抜けていった。

 

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