題名:マワルセカイ

 

 

「あっ、飛行機雲だあ」

坊やが指差したのは空だった。切っ先は遥か彼方の宇宙を目指している。

傍らで見ていた、坊やの母さんはクスリと笑い、語りかける。

坊や、宇宙には太陽系というのがあってね、地球は太陽系の一つの惑星に過ぎないのよ。

それとね、話は少し逸れるけど、地球は常に自転をしていて、世界は一時間毎に十五度ずつ反時計回りしているの。

同時に世界を形作る海を表した青い模様は横にずれて、大陸を表した緑の模様が後を追うのよ。

常に一定に、ずれることなく規則的に、誰に命令されたわけでもなしに世界はぐるぐる回ってるの。

世界には、多種多様な生物が生を受けていてね、食物連鎖の頂上には人間が立っているの。

一般的に大統領と呼ばれる存在が権力を手中に収めてるわ。けど、我こそが天辺だと狂信する人間が中には存在するのよ。

「ほえ、母さん、難しくてよくわかんないよ〜」

「それはね、坊やが母さんより劣っているからよ」

いいこと、母さんも自分が天辺だと信じているの。しがない専業主婦だけど、胸に秘める思いは誰にも負けないんだからね。

親子の仲睦まじい会話は未来の喘ぎ、日本の何処ともつかない通りを過去の女は歩いていた。

 

女が歩いていたのは閑静とした住宅街だった。右手には膝元まで伸びたギザギザの白い柵が連続し、柵の奥には二階建ての家があった。

外壁には一階と二階に窓があり、換気をしているのか、二階の窓は内部が外から確認できるほど開けられていた。

窓枠には頭を抱えた男の姿が収まり、けたたましい野獣のような雄叫びをあげていた。

女は足を止めて窓を見上げた。白のブラウスの上から紺のブレザーを羽織り、女子高生に扮装したモデル体型の女だ。

ストレートの長い黒髪は耳を覆い、顎の輪郭を小さく削って胸間まで伸びていた。

胴が短い為に、ブレザーと重なり半分隠れたミニスカートから細長い足を覗かせせている。

ブラウスの襟元で結ばれた赤いリボンは愛苦しいが、切れ長の吊目からは冷徹な印象を受けた。

「なにを、してるのかなあ」

女は内ポケットに手を差し入れ、小型の双眼鏡を取り出した。

焦点を窓に合わせて接眼部に両目を当てると、二つの丸い視野にボサボサの髪が拡大して映された。

「駄目だ、余計見えないや」

女は耳の裏を掻いて、嘆息を漏らした。

「ひゃはははは、俺が一番だ、俺が最強だあ」

声の主は部屋一面に新聞紙が敷かれた、艶のない髪や古雑誌が大量に散乱した異様な部屋に住んでいた。

窓の傍らにある机の上には水槽があり、十匹の金魚が濁った水の中で苦しそうに泳いでいる。腹を上に向けて死んでいる者も数匹いた。

男は金魚の苦しむ様を冷酷な瞳で見下ろしていた。片手は常に髪を掻き回し、近所迷惑を顧みず叫喚している。

「よお、金魚。俺の前で、楽しそうにおよいでんじゃねえよ」

唐突に逆上した男は片手を水槽の中に突っ込み、水をぐちゃぐちゃにかき混ぜ始めた。

驚いた血色の悪い金魚の群れは逃げ惑い、水槽の端へ端へと追いやられた。

男の手は群れの一匹に襲い掛かかった。避けられたがまた襲い掛かる。

何回か失敗に終ったが、一匹が掌に収まり、男は水面から手を引き上げた。

「ほら、外は苦しいだろお。俺がすぐに楽にしてやるからなあ」

手を握り締めて、陰湿な嘆きを吐いた。鰓を塞がれた金魚がビチビチ悶え、男は愉悦に顔を歪ませる。

興奮冷めやらぬまま、男は金魚を投げ捨てようと窓から体を乗り出した。視線は自然と柵が連なる庭を見下ろしていた。

「あっ」

その時、下で執拗に双眼鏡で部屋を覗いていた女と目が合った。

振り被ろうとした男の腕は静止し、潰れかけた金魚が指の隙間から顔を這い出していた。

女は顔色一つ変えていなかった。ゆっくりと手を下ろしては、双眼鏡を内ポケットにしまい込んだ。

丸い跡が残った肉眼が金魚を認めると、無表情だった顔を崩して冷笑した。

「すいませーん。昔、魚を食べると、頭がよくなるって歌ありましたよねえ、ご存知ですかあ」

女は上擦った声で皮肉を叫んだ。竦んでいた男は顔を真っ赤にし、金魚を握ったままそそくさと窓を閉めた。

力が抜けたか、机の縁に体を預けてへたり込んで、安堵の溜息をついた。額からは動揺と取れる冷や汗が滲んでいた。

女は暫く窓を見上げ、唇の端を吊り上げて微笑んでいた。勝ち誇ったような上機嫌な笑みだ。

「十時二十八分、本日一人抜き達成、と」

女は腕を捲くって手首に巻かれた腕時計を確認すると、反対側の内ポケットからメモ帳とペンを取り出し、見開きページの右側上端にそんなことを書き込んだ。

前ページはびっしりと過去の対戦記録で埋めつくされており、下端には『千六百戦無敗、連勝記録更新中』と大きく書き殴られていた。

女はメモ帳を閉じて内ポケットに収めると、また人気のない通りを歩きだした。

 

この時、五キロ先の公園から大きな歓声があがったが、世界は振り返ることなく十五度反時計回りした。

 

 

あたる君は日に日に不良化していた。

若干、十五才という若さで『全国小・中学校作文コンクール』で金賞を受賞するという輝かしい功績をあげた。

高校二年、十七才という若さで将来を見据え、高齢化社会に伴い需要が増す見込みがあった、福祉系の職に就こうと考えたこともある。

だが、彼は悪に染まった。些細な事象で暴力沙汰を起こし、退学処分に罰せられたのだ。

成績が悪くて再入学もまかり通らず、無職という冠がついた劣等感から彼は荒れに荒れた。

今では、構成員七千人から成る全国規模の暴走族、『社津栗』のメンバーとして週三日は法定速度一杯でバイクを飛ばしている。

彼自身、こんなはずじゃなかった。自分は凡人と違って才能があった。誰からも慕われる自信はあった。

そんなうわ言ばかりを唱えては、長い溜息をついていた。

「おう、あたる。焼きそばパン三つ買ってこいや」

コンビニ前のガランとした駐車場、あたる君含め、四人の『社津栗』メンバーは地べたに座ってたむろしていた。

「はい。すぐ行ってきます」

下っ端のせいか、抗う勇気はなかった。あたる君はお使いを引き受けたようだ。

「三秒以内に買ってこいよ。じゃなきゃ死刑なあ」

先輩連中がドスの利いた声でそう告げると、あたる君は急いでコンビ二へ駆け込んだ。

彼らがたむろしていた鼠色のコンクリートの延長線上には道路があった。人通りは少なく、公園や住宅街へと続く道が二手に伸びている。

コンビニの両側はブロック塀で境が敷かれてあり、塀の一角には一人の女が眼を光らせ、彼らの様子を観察していた。

女子高生に扮装したモデル体型の女だった。ストレートの長い髪は頭頂から左右に垂れ下がり、顎の輪郭に沿って胸間まで伸びていた。

女は片手でメモ帳を開くと、彼ら一人一人をペンで差しては何かを書き込んでいた。

「一人、二人、三人、やった、三人もみ〜つけたあ」

薄笑いを浮かべ、女は口に手を宛てこみ上げる笑いを堪えた。あたる君が袋を持ってコンビニから出てきた。

慌てた素振りで袋の口を大きく開き、中から焼きそばパンと銘打たれた物体を取り出しては、先輩方に配っていた。

「四人いたのか。なるほど」

女は頷いて、メモ帳に何かを書き足した。

大きな打撃音が女の耳に入ってきた。あたる君が先輩の一人に殴られたのだ。

三秒以内に買ってこいつっただろうがあ。怒りに打ち震え、仰向けになったあたる君の腹を踏みつけた。

「うげっ」

あたる君の口から吐瀉物が噴き出し、虚空を描いては顔に逆流していった。

パンの耳のようなべっとりした物が粘着した顔は、鼻の穴や目が見えないほど白色に埋もれていた。

男達は狂乱し、面白いようにあたる君の腹を蹴りつけた。その度にあたる君は転げ回り、無惨に胃液を吐き散らした。

「ちょっと君達、いじめはよくないな。うん、わたしは良くないと思うよ」

男達の首が角へと向いた。先には女が腰に拳を当て、自信満々の笑みで彼らを諭している。

あたる君は白身がかった虚ろな瞳で視線を送っていた。女はあたる君を指差すと早口で捲くし立てた。

「いいですかあ、こいつもあんたらも、カスなわけよ。雑魚は雑魚同士、土下座でもして募金活動してなさい」

言い終え、女は目を細めて何度も頷いた。手は欠かさずメモ帳を広げて何かを書き込んでいた。

男達は驚き留まっていたが、癇に触れたか、眉間に皺を寄せて怒声を発した。

「十一時三十二分、五人抜き達成と。よし、できた」

構わず、女はメモ帳を内ポケットにしまい、男達に手を振って走りだした。

「ちょ、おい、待てやアマ。逃げられると思ってんのかよ」

血相を変えて男達は後を追って駆け出した。女は後ろを振り返って舌を伸ばし、長い足が歩幅を広げて距離を稼ぎ出した。

男達は健闘するが、女の影は遠くに消えていった。やがて足が棒になり、膝に手をついて呼吸を整え出した。

女は遠のいた男達を双眼鏡で確認していた。戦意を喪失したと悟り、冷笑を浮かべて公園に続く道を悠々と歩きだした。

一方、コンビニ前には警官が集まってきていた。一部始終を目撃していたコンビニ店員が通報したようだ。

逃げ遅れ、一人ぐったり倒れていたあたる君は、事情聴取のためパトカーに乗せられていった。

 

あたる君が拘束され、コロンビアでは愛犬が脱走したと野郎が大騒ぎしていたが、世界は動じることなく十五度反時計回りした。

 

 

大気圏上空、宇宙空間に浮かんでいた銀色の円盤内では、奇妙な生物が会話をしていた。

「ピガガガガゴゴゴゴゴギュルルルル」

意味不明の言語を使っているのは、全体が紫色がかった宇宙人その者であった。

姿形はほとんど人間と共通しており、異なる点は、目が真っ黒で、頭からにょろっとした角のような物が生えているぐらいだ。

角の先端はルビーのような赤い石が光っており、伸縮自在に角を伸ばしては壁をぺちぺち殴りつけていた。

「ピゴゴゴゴゴグルルルルガアアアア」

船内には二匹しかいなかった。内部は半径二十メートル程のドームになっており、銀色の壁の至る処に色彩豊かなボタンが設置されている。

床には縞柄のタイルが敷かれ、宇宙人は向かい合うように安楽椅子に凭れ掛かっていた。

椅子の間隔は十メートルは開いているが、無音の船内では互いの声が淀みなく通っていた。

「ケリリリリリリナダシマスカスカ」

左側に座っていた宇宙人は頭を下げて、角でタイルを弄くった。黒い目は青へと変わっていた。

右側の宇宙人は顔を顰め、角を勢いよく壁に叩きつけた。ボタンの何個かが破壊された。

「グルルルルルルフシュウフシュウウン」

青目の宇宙人は注意をしたのか、右側の宇宙人は角を縮めて元の格好に戻った。

しかし先程より頭が二倍近く膨れあがっていた。目の色は黒から赤へと変わっていた。

「キイイイイイイイイイ」

赤目の宇宙人は椅子から腰を上げ、角をくねらせボタンの一つを乱暴に叩きつけた。

すると、前面の壁が消えていき、一瞬にして透明なガラスへと掏り替わった。

ガラスの向こうには青い地球があった。赤目の宇宙人は地球を角で差し、何やら強く訴えかけていた。

「キリュウウン」

青目の宇宙人は首を横に振るだけで、また俯いた。青い目は白へと変わっていた。

赤目の宇宙人は激怒し、角の先端を白目の宇宙人の首へと定め、先端の赤い石から細長い光線を発射した。

光線は真一文字に首を突き抜け、首から上を綺麗に刎ね飛ばした。残された胴体は無機質に痙攣していた。

「ギュエエエエギュエエエエエ」

歓喜の雄叫びだろうか、赤目の宇宙人はおぞましい声で吠えた。

胸に手を当て一息つき、赤目の宇宙人は後面の黒いボタンを静かに押した。

その刹那、前面のガラスが銀色の壁へと戻り、浮かんでいた円盤は大気圏に向けて発進した。

物凄く速いスピード、円盤は摩擦でチリチリと音を立てながら、全体を烈火の炎に包ませ猛進していた。

「グルルルルルルルルルワア」

赤目の宇宙人は角をぐるんぐるん回して喜んでいた。しかし火は勢いを増し、船内にまで侵入してきた。

小さな火であったが、動かなくなった宇宙人の体を呑み込み、更に大きく燃え広がった。引火した火は業火となり、赤目の宇宙人に襲いかかった。

「ギョ、ギョ、ギョ、ギャアアアアアアアアアアア」

巨大な炎に呑まれた赤目の宇宙人は踊るように黒焦げになった。同時に銀色の円盤は空気中で大爆発を起こした。

散り散りになった円盤の破片は大気圏の熱で焼失し、跡には何も残らなかった。

 

こうして、世界は宇宙人の襲来を未然に防ぐという偉業を成し遂げたが、それを鼻にかけることなく十五度反時計回りした。

 

 

日は中天に差し掛かり、下に集う若人達を陽光が照らしていた。

広い公園に集った五十人近い若人達は、一人を除いて全て男だった。ギトギトに脂ぎった髪が皮膚にべったり張り付いたような陰気な男がちらほら目立つ。

男達の視線を一心に集めていたのは、公園のど真中に設置された特設ステージ上に立つ、マイクを手に踊る女だった。

女は軽やかにステップを踏んでは、マイクをやや傾けて「盛り上がっていきましょー」と、絶叫し、男達を煽っていた。

釣られて男達は拳を天に翳して、悲鳴に等しい歓声を返していた。鉢巻を締めた一部の男達は感激の余り静々と泣いていた。

女は、青と黄を基調とする意匠を凝らしたドレスを身に纏った、二重瞼の可憐な少女だった。

括れのある腰から下は隆起して、フリルのスカートが風に靡いて波打ち、隙間から伸びた細い足は赤いハイヒールを履いて、少女の色香を増幅させていた。

ステージ奥には横断幕が張られ、『牧瀬由香里 一周年記念ファン感謝ライブ』と太い字体で明記されていた。

少女がマイクに声を当てると、後押しするかのように、ステージ両端に設置された丸が四つのスピーカーは唸りをあげる。

「みんなあ、由香里のことお、愛してくれてますかー」

少女は耳に手を宛がい、マイクを観客席に掲げて反応を待った。

「愛してる、愛してるよ由香里ちゃーん」

男達は腹の底から声を出した。純情というより陰湿な怨念が籠められた告白だった。

お気に召したようで、少女は無垢に笑い返した。しかしすぐに片手で目を塞いで下を向いた。手には目薬が仕込まれていた。

「由香里嬉しい。こんなに、多くのファンのみんなに支えられてたなんて、ほんとに、幸せだよ」

演出用の掠れた声だった。少女はそのまま背中を向け、観客に見えないよう両目に目薬を大量にかけた。

男達は突然の出来事に動揺の色を隠せず、ただただ慌てふためいた。目薬をかけ終え、前を向き直った少女の顔は凛としていた。

「ごめん。つい、嬉しくなって。でも、もう大丈夫。由香里、精一杯歌うから」

涙を演出した目薬は頬を伝い、ステージ上にポタリと落ちた。流れた液体の跡はくっきり残され、少女はしぱしぱ瞬きした。

目薬が深く目に馴染み、赤くなった目は涙だと少女は情報を操作する。男達はまんまと騙され、少女に温かい拍手と賞賛を送った。

「頑張れえ、由香里ちゃーん。僕達がついてるよー」

歓声が一際大きくなった。少女は目を閉じて俯き、拳を高々と天に掲げて男達に答える。

一見、清純な少女の瞼の裏には狡猾な邪悪が潜んでいた。少女は背中の後に目薬を投げ捨て、スピーカーが合わせるように曲を奏でた。

「みんな、ほんとにありがとう。では、聞いてください。由香里の新曲で『刹那さ』」

前奏を終え、少女は清涼感溢れる声をマイクに当てた。男達は目を瞑って首を左右に揺らしだした。

鉢巻を締めた男達は皺くちゃになって泣いていた。ゆったりとした曲調のバラードは胸を打ち、男達を癒しの渦へと巻き込んでいた。

「へったくそー、なんですかそれは、落ち目アイドルの苦肉の策なんですかあ、弁明あれば、よろしくお願いしまーす」

突如、会場は超弩級の噪音に見舞われた。耳を劈くエコーは公園の外まで響き渡り、男達は一様に頭を抱えて蹲った。

少女だけは平然とした様子だったが、内心穏やかではなかったのであろう、声の主を見つめる瞳は憎悪に満ちていた。

二十メートル離れた所に位置するベンチの上に女が立っていた。女子高生に扮装したモデル体型の女だ。ストレートの長い髪は赤いリボンで束ねられ、背後へ垂れ流されていた。

拡声器を片手に持ち、もう一方には使い捨てカメラを手にしていた。女は冷笑を浮かべてフラッシュのボタンを長く押した。

「どうなんですかー、弁明しないんですかー、落ち目だって認めたんですかー」

拡声器を口元に宛て、女は更に続ける。少女は顔を強張らせて、目を逸らさなかった。

回数が異常に増していた瞬きは止まり、乾いた目がひくひく痙攣している。男達は耳を押さえて呻いていた。

「するに決まってるでしょ。由香里はトップアイドルに登りつめる天才なのよ。素人がごちゃごちゃ口出してんじゃないわよ」

少女はマイクを使って反撃に出た。拡声された怒号は女の耳を劈いたようだが、女は清ました顔でシャッターを切った。

消しゴムを切り詰めたような黄色い物が耳に嵌め込められていたのだ。女はギヤを指で弾き回し、少女に向けてカメラを構えた。

「怖い顔しないで、笑って、笑って。はい、チーズ」

フラッシュの眩い光が少女を襲い、少女の瞼は瞬時に閉じられた。女は腕を捲くって腕時計を確認し、ベンチを降りて逃亡した。

頼りない少女のファンは呻くばかりで、鉢巻を締めた男達は目を擦ってまだ泣いていた。

少女は下唇を押し上げ、悔しさを全面に露にした。次第に本当の涙が目に溢れ、力無くマイクが手からこぼれ落ちた。

 

公園内ではゴンッという、マイクのヘッドがぶつかった音が鳴り響いたが、世界は余裕綽々で百二十度反時計回りした。

 

 

日が沈み、代役に月が大空に昇った。

雲一つない澄み切った空は、何処かやましい収賄を終えたような黒さを秘めていた。

十階建てのマンションの一室、月明かりを迎え入れるように開かれた窓からは、男女の卑猥な営みが映える。

部屋にいたのは若い男女、二人は生まれたままの姿だった。男は腰に手を添え仁王立ちし、女は両膝を着いて肉棒を咥え込んでいた。

黒髪の貧相な男だった。肉付きがなく痩せ細った体は、軽く押しただけで倒れてしまいそうな存在感を示していた。

男は腰を前後に揺り動かし、肉棒を女の口内へと突き進ませていた。相手は頬まで伸びた赤髪が印象的な華美な女だ。

耳には銀色のピアスが三つ捻じ込まれ、行為の邪魔にならぬよう、目に戻る前髪を絶えず耳の裏に掛け直した。

瞼は穏やかに閉じられ、肉棒の根元を掴み、舌を使って先端を舐めあげている。男は弱い声を吐いて、肉棒を膨らませていた。

尿道に当たる部分から白い液が洩れ、すぐさま女は舌で舐め取る。付着した液は積極的に肉棒に絡ませていった。

「ああ、いきそうだよ裕子ちゃん。もう、出してもいいだろ」

二人はぺたんとした布団の上にいた。傍らにはティッシュの箱が置かれ、何十枚にも及ぶ使用済みが枕元に散りばめられていた。

女はううと呻いて拒絶し、肉棒を根元の方まで咥えこんだ。男は女の後頭部を掴んで前へ押し込む。

亀頭がざらざらの舌を滑り、咽喉へと雪崩れ込んでいく恍惚に男は顔を歪ませた。

「ごめん、もう限界だよ」

強引に肉棒を引き抜いた。舌にへばり付いた白い液が糸を引いて尿道とまだ繋がっていた。

男は淫らな糸を指で断ち切り、奉仕活動に満足そうな笑みを浮かべた女の顔目掛けて、あらんばかりの精子を放出した。

断続的に発射された精子は、額から顎の先端までを縦に切るように降りかかった。

女はそっと目を開け、中指で顔をなぞって精子を拭った。絡め取った精子は女の口内へと収められた。

男はティッシュを一度に何枚も引き抜き、亀頭を包み込むように残った精子を拭った。使用した紙は枕元に投げ捨てられた

「隆、今度はこっちで。ねっ」

女は後に倒れ込み、股を左右に開脚させて自身の秘部を指差した。

使い込まれて黒ずんだ淫靡な割れ目を指で広げ、猫なで声で男を性に誘った。

男は息を切らしていた。痩せ細った体が膨張しては息を吐き、目の下には疲労感から隈が出来ていた。

「ねえ、早く入れてよお。お願い。ねっ」

指を折り曲げてしつこく性をねだる。傲然とした女の喋りは男を支配下に置いた自信に満ちていた。

男は乾いた笑いで頷き、力なく肉棒をしごきだした。しかし萎えていた肉棒は奮い立たずに、ひしゃげて縮んだ。

「何やってるのよ隆、いいから、ここにぶちこみなさい」

遂には発破をかけられ、男は止む無く下から女の両腿を抱え込んだ。

ごろんと仰向けになった女は、高まる快楽への期待に頬が緩んでいた。男は窓の向こうに見えるビルを見つめ、勃たない肉棒を無理に突っ込んだ。

だが、女の期待は残念な形で裏切られ、快楽を迎えるはずだった体は何の反応も示さなかった。肉棒は入り口付近で躊躇していた。

縮こまった短小な肉棒では、子宮を叩けなかったようだ。疲れ果てた腰を使ってみるが、ぺしぺし虚しい音が鳴るだけに留まった。

「なにしてんのよ。もっと腰使いなさいよ」

「はっ、はいい」

愛の再確認は、いつしか作業へと変わっていた。肉体の限界に挑む男は苦痛に顔を歪め、男の苦労など露知らず、女は冷酷な瞳で男を見据えていた。

二人の奇異な共同作業は、道路を挟んだ、向かいのビルの屋上からも目撃されていた。

鉄柵に四方を囲まれた殺風景な屋上に潜んでいたのは、女子高生に扮装したモデル体型の女だった。首から提げられた双眼鏡は目に宛てられ、しっかり行為の真っ最中の二人の部屋を捉えている。

赤いリボンで束ねられた長い髪は強風に煽られ靡いていた。足元には二枚の写真が並べられ、一枚は、追っかけ風の男達が写った写真、もう一枚は、アイドル風の可憐な少女が目を瞑った瞬間を捉えた写真だった。

女は片膝を着いて、狙撃するような格好で盗み見していた。暫く堪能した後、双眼鏡は外して内ポケットにしまい込んだ。入れ替わりに反対側の内ポケットからペンとメモ帳を取り出していた。

「お盛んだからわたしの勝ちい。これで今日のノルマは達成、と」

女は見開きページの右側に、時刻、勝利数、勝因の三つを書き込んだ。ページはほとんど対戦記録で埋め尽くされていた。

残り僅かとなった余白に目を向けると、女は冷笑を浮かべて続けてこう書き殴った、『千七百戦無敗、連勝記録更新中』。

「目標の六十億勝達成まで、まだまだねえ。先は、長いなあ」

女は感慨深そうに溜息をつき、兎の影が居ついた満月を見上げた。月明かりに横顔が照らされた。

光が当てられた濁った瞳は、強い意志と野心を空に反射させていた。女は唇を結んで屋上を去った。二枚の写真は置き去りにされていた。

 

その後、強風に飛ばされた写真は自転車に乗っていた男の目を塞いで、転ばせたが、世界は足を止めなかった。それどころか、世界は女の愚かな野望を察していたが、嘲笑うこともなく沢山反時計回りした。

 

 

熱砂が吹き荒ぶ国、果てしなく続く砂地獄は見る者を恐怖へ駆り立てる。

そんな中、水を求め、懸命にシャベルを突き立て、砂を掬い上げていた男がいた。

「俺、何のためにこんなことしてんだろ」

黄色人種の男だ。ボランティアのつもりでやって来たのであろうその体は、どす黒く焼け焦げていた。

「人の為に生きようなんて思わなきゃ良かった。先輩にいじめられてた方がまだマシだよ」

ボロボロのシャツ一枚は肩まで破り取られ、隆起した太い腕は休まずシャベルを振り続けた。血色を失った白い唇に生気は感じられない。

「いや、違う。俺は間違ってない。これからは、人の為に生きるんだ」

男の手首には無数の躊躇い傷が残されていた。

「そうだ、生きるんだ。俺は生きるんだ。人の為に生きるんだ」

うわ言のように自問自答を繰り返す。男はシャベルの柄にまで乗った砂を強引に後方へかき出した。

「はは、そうだ。俺は償うんだ。家族の為にも、真面目に生きるんだ」

壊れた笑い。男は膝まで破り取られたジーンズを穿いていた。破れた裾から糸くずが簾のように伸びている。

「生きるぞ。絶対に、生き延びてやる」

声は枯れ果てほとんど出ず、口からは血が滴り落ちていた。男の瞳は虚ろになり、シャベルを突き刺したまま動かなくなった。

「あは、生きる。生きたいよ。助けて、お母さあん」

水分を失った体では涙も出せず、男は白目を剥いて前に倒れた。砂の大地で一度バウンドし、顔は横を向いて舌を出していた。

ジーンズのポケットからは一枚の写真が落ちていた。家族と供に撮られた写真のようだ。旅立つ直前に取られたであろう写真には生き生きとした男の姿が写されていた。

写真の裏には『あたる、頑張ってね』家族からの温かいメッセージが書き残されていた。

男が再び頑張ることはなかった。砂塵の被害に晒され、やがて砂漠の一部と化した。

 

あたる君は死んだ。その事実を世界は当然把握していたが、涙一つ見せずにぐるぐる反時計回りした。

 

 

古ぼけた小さな電気屋のショーウィンドウに、テレビが一台置かれていた。

通行人は足を止めて、続々と周囲を席巻していた。彼らの目に留まったのは、打っ付けに流されていたニュース番組だ。

「本日の午後一時四十七分。元AV女優の牧瀬由香里さんが肺ガンの為、お亡くなりになられました」

アナウンサーが抑揚のない声で死を告げた。悲痛に顔を歪ませていたが、立場上、泣いてはいけなかったのであろう。

通行人は構わず号泣し始めた。立場上、泣いてもよかったのだろう。女は一人もいなかった。全てが男で構成されていたのだ。

「やだ、やだ。やだよお、生き返ってよ由香里ちゃーん」

ほとんどは仕事帰りの中年サラリーマンで締められていた。恐らく、彼女の肢体にお世話になった口であろう。

男達は甲高い声で生を願ったが、蘇るわけはなかった。AV女優に身を落とした牧瀬由香里はその生涯を終えた。

 

そうですかと相槌を打ちこともなく、世界は仰山反時計回りした。

 

 

「ただいま」

ランドセルを背負う、小学生の息子が帰宅してきた。

「おかえり、今日は早かったわね」

迎えたのは、地味なトレーナーに身を包んだ中年の女だ。

「うん、だるいから早退してきた」

息子は明るく笑い、四畳の部屋を半分陣取った長机の椅子に座った。ランドセルは隣の椅子に載せられた。

「それは良かったわね」

女は微笑み、息子と向かい合わせに座った。長机の上にはメモ帳が置いてあった。

「怒らないの」

息子は頭を下げて、上目遣いに見上げた。女はメモ帳を手に取り、ページをパラパラ捲り始めた。

「怒れないのよ」

女は背表紙を摘んで、息子の眼前に近づけた。

表紙には、『世界一はわたしだ。六十億人に勝って証明してやる』と、タイトルが付けられていた。

「はは、なにそれ」

息子は含み笑い、女は頬を緩めてメモ帳を翻した。

見開かれたページの最後には、『疲れたのでやーめた。わたしは証明いらずな世界一なんです』と、投げ出した台詞が書き殴られていた。

「昔、話したでしょ。母さんが一番だって」

「あは、あれ本気で言ってたの」

女は目を細めて弱く頷き、メモ帳で顔を覆い隠した。

息子は母の反応が面白いようで、にっこり笑って続けた。

「今も思ってるの。一番だって」

「うん、でも、ちょっと違う」

「どう違うのさ」

息子は体を乗り出し、女はメモ帳を下げて頬を赤く染めた顔を見せた。

見つめ合う格好になっておかしくなったのか、互いにクスクス笑い合った。

「あのね、母さん世界一って言葉が良く分かんなくなったの。だって、世界一になろうと思ったら、人間だけじゃない、あらゆる生物と立ち向かわなきゃいけないのよ。そんなの、物理的に考えて無理じゃない」

真面目な顔で答えれば、息子の顔はにやけていた。

「当たり前じゃん、そんなことに今まで気づかなかったの」

「そうよ、だから怒れないの。母さん、頭が弱いんだもん」

女の瞳からは野心が消え去っていた。溜息をついて俯き、過去の自分に思いを馳せたのか。

息子は母の髪を撫ぜ、純粋な眼で懸命に慰めてあげた。女はお礼に、息子のほっぺに唇を当てた。

「ありがと、守は優しい子ね」

「うん、それはそれとして、これ見てよ」

息子はランドセルを弄った。へし折れた鉛筆や、破り捨てられた教科書が中から飛び出し、机の上に散らかされていった。

女は横目で様子を見守り、息子は一枚の半紙を手に取った。クシャクシャに丸められていた、手で引き伸ばして魅せ付けた。

「ほら、『勝訴』習字の時間に書いたんだぜ。超上手くねえ」

女は目を丸くした。年端もいかない息子の勝訴に驚愕したようだ。

達筆に大きく書かれた勝訴は、不気味な光沢を帯びて燦然と輝いていた。

女は嘆息を漏らし、顔を引き締めてこう告げた。

「守、あんた世界一になれるわ」

 

やがて守は大きくなり、世界で一番という名目を手にしたが、世界は無常にも反時計回りをした。

どうやら、世界はよっぽどのことが起きない限り、意志を示さないニヒルな奴のようだ。

 

ならば、わたしが振り向かせてみよう。

「ほうら、ほうら、こっち向いてえん」

 

世界は回った。

 

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