ブラックゲージ 〜 第五章 私の中 〜


第五章 私の中


 
 創造主が、がっかりしてきた箱の世界。秩序は乱れ、不満を呈する居住者が後を絶たない。
 そんな箱の世界の一つに、憎悪に飢えた破壊者が飛来する。信仰の深い民には神の裁きと恐れられ、武器による物理的な暴力が、無抵抗の民を死に至らせる。 
 数千人余りの無力な死者の肉塊が世界の各地で転がった頃には、この世界が振り絞れる目一杯の憎悪の声が、レゴスと化した稀白智頭に浴びせられた。満腹はおろか、腹六分にも満たない憎悪の声に智頭は苛立ちを募らせ、抑え切れない狂気の丈を別の世界へ移す。
 そこは、最大収容人数十億を誇る箱の世界最大のゲージだった。レゴスと化した智頭を超越する類稀な能力者が多数潜んでいるこの世界では、他の世界を超越する高度な文明が築き上げられ、他の世界を統治して、いずれ全ての箱の世界を統一する運動が盛んに行われている。この世界を含めた行く先々の世界で、死者の遺志に基づいて箱の世界を構築するサードマンは抹殺されていた。
 この世界では、既に十万個以上の世界に繋がるゲージを保有しており、高名な学者の見解では、三十年後には全ての箱の世界は制圧できると予測されている。全世界の統治が達成された暁には、各地の世界に統治者を据えて国という形を設け、矛盾を含んだ曖昧な規則の中に全人類を無理やり放り込み、各自の理想を無視した窮屈な規則の世界で、強制的な生活を強いる非情な計画を企てているのだ。
 それは、創造主である私の意思に反する大罪だ。只でさえ愚かな能力者が箱の世界を破滅に導いているのに、あなた達人間が望んだ理想の世界を捨て去り、箱の世界が創造される以前の状態に戻すというのは私への裏切り行為としか受け取れない。世界を創造する能力者である私を不要だと申すなら、あなた達に箱の世界を与えた私の好意は過ちだったということなのでしょうか。
 私は、他者の理想を容認しないあなた達の弾圧的な思想に幻滅こそしましたが、もう少しだけ、事の顛末を見守って置きます。理想を叶えたい健気な少女が、私の意思に肯定して、憎悪を求めるレゴスと化した家族を救済しようと奔走していますから。その少女には私の能力を悪用して試練を課していますが許して下さい。私は、その少女の行動の果てに箱の世界の進退を決定しようと考えているのです。
 箱の外に存在する球形の世界は危険で絶望に満ちていると訴えたあなた達人間の行く末は、私が望みを託した代表の少女に委ねるとします。
 闇の壁に囲まれた箱の世界最大の大地は殆ど都市部で占められていた。人工的な酸素を供給する装置によって人々は生息しており、植物の鮮やかな緑は根こそぎ伐採されている。智頭は憎悪を求めて訪れた初めての世界で即座に暴力を振るおうとするが、強大な能力者に返り討ちにあって、全世界を制圧した記念に巨大なタワーを建設する予定の広大な土地に追い詰められていた。
 高層ビルを両脇に囲んだその土地には、設定の種を植え付けられて、この世界の門番と化した屈強な男が瀕死の智頭を無表情に見据えていた。冷酷な瞳から発する威圧が周辺の空気に重力場を形成して、智頭の身体に数万トンの負荷を与えている。恐らく全世界でも指折りの暴力を誇るであろう男は、軽く押しただけで倒れそうな細身の体に筋肉を凝縮させ、最硬度の鉱石を削って練磨された棘付きのグローブで、別の世界からの侵入者を容赦なく撲殺している。サードマンにラピオンと異名を授けられた男の顔立ちには目や鼻や口といった要素や感情が排除されており、全てを犠牲にしてまで強大な暴力を体得した全身を、肩口を晒した奇抜な胴着で覆っていた。両手に填めた硬質な青色のグローブは、智頭の血を吸って深紅に染まっている。
「ふう、こりゃ強いねえ。ちょっと勝てそうにないよ」
 智頭は瓦礫の壁に背を預けて溜息を付き、ラピオンの拳で蒼の鎧ごと貫通された風穴の開いた腹部を押さえていた。腹部の風穴から潰れた臓器がはみ出て蒼の鎧にへばり付き、全身の至る箇所を保護する蒼の防具がグローブの棘で皮膚ごと削がれて、鮮血に染まった筋肉が露になっている。この世界の原型を保つよう努めるラピオンの拳は手加減されているが、憎悪を求める怪物を始末するには十分過ぎるほどの実力差を発揮していた。 
 智頭は意識を朦朧とさせて、ラピオンの居住まいに隙が生じるのを待っていた。右手に握られた刀身二メートルの日本刀は根元から折られ、有効な攻撃手段は不得手な素手による打撃しか残されていない。虫の息となった美貌は血色を失って青ざめていき、仮にラピオンが智頭を放置して立ち去っても数分後には絶命するだろう。
 だがラピオンは余計な感情に捉われず智頭と距離を詰めていき、植え付けられた意思に従って硬質な青のグローブに淡い光を纏わせた。息を荒げて生気を失った智頭を破壊するだけの威力を右拳に凝縮させ、腰を深く落として、神速を越える拳の一撃を智頭の顎に突き上げた。
「あぐ、があああああっ」
 ベキベキと、顎を粉砕されて夥しい鮮血を口から吐いた智頭の質量は垂直に飛び上がり、両脇を囲む高層ビルの頂上を超越する高度に達していた。下界に広がる寒色の建造物で仕事に営む知能の高い住民は、冷めた瞳で空中で眼球を裏返した智頭を窓越しに見上げている。この世界に侵入した愚者の末路は、ラピオンの凶悪な打撃による極刑だと把握しているので、特別な感情は抱かないようだ。
 智頭は空中で体を回転させて意識を完全に喪失させた。敗北した肉体は無惨に地面に叩き付けられて絶命する筈だったが、創造主の意思が、十億人を収容できるこの世界の法律はおろか、箱の世界の規則を完全に無視して、憎悪を求める獣でしかない稀白智頭に新たな武器を与えて復帰させた。
 感情が排除された筈のラピオンの顔に焦りの色が浮かんだ。嘗て対峙してきた強大な能力者を凌駕する殺意が全身に降り注がれて呼吸困難に陥っている。憎悪を求める怪物としての習性や感情をそのままにした智頭は、両手に暗黒に染め上げられた刃渡り三メートル近い暗黒の剣を携えて高層ビルの頂上に着地した。智頭は暗黒の剣に宿っている特性で殺意を増幅させ、右肩に刀身を預けるように暗黒の剣を振り被る。
「きゃはははあ、愛しているよお。お前達の憎悪が欲しい、たくさん欲しいのお」
 智頭はこの世界の住民に強大な憎悪を求め、渾身の力を込めた暗黒の剣を振り下ろした。
 空気を切り裂く鈍い音の後に、ピシリと空間に亀裂が生ずる音が鳴り響いた。暗黒の剣が振り下ろされた百メートル先に聳える建造物から順番に、世界の端である闇の壁まで切れ目が入る。ゆっくりと接着力を失った景色が切れ目に沿って闇の壁ごとずれていき、この世界から切り離されて闇の中に葬り去られた。建造物に潜んでいた数億人の憎悪の悲鳴は闇に呑まれて聞こえてこなかった。創生主に授けられた暗黒の剣は世界をも切断できる威力を秘めているようだ。箱の世界最大を誇る大地が闇に吸い込まれた分だけ、この世界に通じる死者の胸に刻まれた最大許容数も減少していた。
「意地悪するなよ。どうして憎悪を叫ばないの。早くしてくれないと私が死んじゃう。お願い、私を助けてよお」
 智頭は憎悪が聞こえてこない異常事態に焦燥して、無茶苦茶に暗黒の剣を振り回した。世界の各地に切れ目が入り、集結してくる類稀な能力者の気配を寄せ付けずに切断している。箱の世界で屈指の暴力を誇っていたラピオンの身体は真っ二つに切断されて地面に転がっていた。暗黒の剣は遠方になるほど威力を発揮するようだ。いつしか世界は細切れに削り取られて、智頭から半径百メートルだけを残した小世界に変貌を遂げていた。
「苦しいよお、もっと憎悪をよこせよお。憎悪がないと私は自我を保てないんだよお」
 智頭は胸を締め付けるレゴスの感情に苛まれて、穏やかな顔付きを凶悪な怪物の形相に変質させた。虹彩に深紅に染めた瞳は理性を失って憎悪の化身となった。両手に携えていた暗黒の剣は智頭以上の強者が全滅した瞬間に刀身二メートルの日本刀に変形していき、智頭は生存する数千人余りの命を奪いに小世界を跳ね回る。得意としていた武器による斬撃で、乱暴に無力な住民の頭部を掴んでは、凶悪な刀身を振り下ろして首を切断していた。飛散した肉片に込められた僅かな憎悪が世界に立ち昇り、智頭は有りっ丈の憎悪を吸収して何とか自我を取り戻そうとする。
「はあ、苦しいよお。もっと憎悪が欲しい。とびっきりのご馳走が食べたいよお。ハチ、ハチの憎悪が欲しい。ハチい、愛してる、愛してるよお」
 だが数秒後には、智頭は憎悪を欲する激情を意思力で押さえ付けれず、最愛のハチを陵辱して愛憎を抱かせる光景を想像して、底知れぬ憎悪の食欲を復活させた。すぐさま別の世界に移動して憎悪の穴を塞ごうと思い立ち、肉体を留めた死者の服を破いて尤も最大許容数の多い世界へのゲージを調べる。
「おやあ、何だこれは。一体、どうなってるんだよお」
 死者全員の服を破いて調べてみるが、智頭はある重要な共通点に気付いて唖然としていた。死者の胸に刻まれた数字は、まるで予め操作されているように一様に同じ世界の数字を刻み込んでいた。
「その世界で憎悪を求めなさい。憎悪を求める怪物と化したあなたを向かわせることが、私が少女に与える最大の試練です」
 突如として智頭の脳裏に響いてきた創生主の強制的な意思が、胸に刻み込まれた世界で猛威を振るうよう働きかける。智頭は身勝手な創生主の介入で自重の弁を破壊させられ、口から最愛のハチの血肉に飢えた涎を滴り落とした。
「グヒイ、グベベベべ。ハチい、何処にいるのお。隠れてないで出て来いよお。お前の憎悪がないと私は死んでしまうんだよお。すぐにお姉ちゃんが探し出して、食い殺してやるからねえ」
 智頭は自我を崩壊させた獰猛な牙を剥き出しにして、荒廃したこの世界に転がる死者の腹部に鍵を突っ込み左に回した。腹部の皮膚と肉が捲れ上がって覗いた螺旋に渦巻く闇の空間は、ハチが二日前に先行して訪れていた三千分の六百の世界に繋がるゲージだった。

  

 
 憎悪に飢えた破壊者の来襲を二日後に控えた三千百分の六百の世界では、平穏な時間が流れていた。
 色彩鮮やかな光沢を放つ芝生の上で、洋服を身に纏った子供同士が談笑を交わしている。
 疲れた羽を枝で休める小鳥のさえずりが、満足そうな笑顔を振り撒く住民に心地良い音色を運んでいる。
 子供達の遊び場となっている生い茂る芝生を二面に分断するように、幅広のアスファルトの道路が世界の東端から西端まで延びている。道路の先に待ち構えるこの世界の中心部には、闇の壁の天井まで伸びる建造物が聳え立ち、建造物からこの世界を十字に切断するように道路が北端から南端まで延びている。この世界の西部は、主に住民が居住する家屋や田畑が軒を連ねる居住区として解放され、この世界の東部は、色彩鮮やかな芝生と木々が植えられている遊び場として開放されているようだ。東部の遊び場には娯楽施設らしい建造物が幾つか用意されており、西部の端には工場のような建造物が設置されている。
 智頭を救出する決意を固めてゲージを移動したハチは、豊富な緑を蓄えたこの世界の東部の道路の端に到着していた。背後に聳える闇の壁に接触しそうな位置で、この世界の情勢を注意深く窺っている。至る所から聞こえてくる子供達の賑やかな談笑に耳を傾け、暴力行為に走りそうにない穏やかな子供達の表情を見渡した。
 中央の建造物を目指して延びる道路の途中には、サードマンらしき生物が両手に籠を抱えて、新参者であるハチに歩み寄ってきていた。
 基本的には小柄な人間と同じ体型をしているパンダの着ぐるみ被ったような生物は、白黒の斑点の付いた柔軟な皮膚で全身を覆い尽くしており、両手には鍋掴みのような同色の手袋が填められていた。首から提げたエプロンのような縞柄の前掛けが靡いて、生物の強靭な素足を見え隠れさせている。人間に嫌悪感を与えないパンダの顔立ちは、緑色の虹彩を放つ二重瞼が印象に残るが、額には開眼されていない第三の目が瞼を閉じていた。住民を安心させる柔らかい微笑を湛える生物から悪意は感じ取れなかった。
 ハチは前方から歩み寄ってくる生物に気付き、万が一を想定して右肩に掛けたリュックを盾代わりに前方に構えた。正体不明のサードマンらしき生物はその場で足踏みをして、瞬時にハチの間近まで距離を詰めてきた。両手に抱えた籠に詰まった菓子を手の平に乗せて、親切な笑みを絶やさずハチに勧める。
「ようこそ、この世界へ。私はこの世界のサードマンをさせて頂いている者です。お近づきの印に、お菓子をどうぞ」
 ハチは自らサードマンと名乗った生物に呆気に取られた。取り敢えず指示通りに、訳も分からず袋詰めの菓子を受け取る。袋には甘味に富んだチョコが散りばめられたクッキーが密封されていた。サードマンは礼儀正しく頭を下げて、新参者のハチに敬意を表した。
「突然失礼しますが、この世界は、平和を愛する方しか生活できない規則が定められています。これから潜在的な暴力意識を鑑定できる能力を発動しますので、数秒間我慢してくれませんか。合格基準に満たない場合は、生憎ですが早急にゲージを移動して頂きます」
 サードマンは微笑を絶やさない顔を迫らせて、深紅の虹彩に染まった第三の目を開眼させた。ハチは彩文の情報が入手できる可能性があるこの世界の退出を恐れるが、大抵のサードマンに共通する強大な暴力に畏怖して素直に従った。
「分かりました。よろしくお願いします」
 ハチは右肩にリュックを掛け直して頷いた。サードマンはハチの前髪を側頭部に撫で付け、第三の目に力を加えた。深紅の瞳から発射された赤い光線がハチの額を照り付け、故郷の世界のサードマンと同質の個人情報を読み取る能力を発揮する。暴力に対する意識を鑑定できるよう構築されたサードマンの知能は、これまでのハチの経緯を読み取った傍から点数を加算していき、赤点である百点を突破した際には別の世界に強制退去させる所存のようだ。
 ハチの情報を読み終わったサードマンは右手に成績表を生成した。ハチが成績表を受け取って薄っぺらい紙面に目を落とすと、丁度百点擦れ擦れで基準を満たした合格の印が押されていた。
「稀白ハチさん。あなたは心優しい人ですが、殺人を犯した残虐性を内に隠している。合格ですがその残虐性は警戒に値しますので、要注意ということにしておきます。あなたの二、三日の経過を見て、最終判断を下しますのでご了承下さい」
 サードマンは慎重な方針を告げて頭を下げた。ハチは束の間の喜びから引き戻されて苦笑を浮かべ、早急に彩文の情報を住民から聞き出そうと思い立った。頭を下げて謝辞を延びるサードマンの側面を通過して、芝生の上でサッカーに興じる子供達の方へ足を向ける。
「あ、ちょっとお待ち下さい。あなたはドグダミ彩文さんを探していられるんですよね。それなら私がご案内させて頂きます。稀白ハチさん専用の住宅を建築するまでは、ドクダミ彩文さんの診療所で生活してもらうことにしますので」
 足を早めるハチの背後から、サードマンの重大な台詞が耳に響いてきた。ハチはドグダミ彩文という名前に足を止めて、慌てて背後を振り返る。背後から駆けてきたサードマンの右手には、この世界の住民が携帯しているIDカードが生成されていた。IDカードにはハチの顔写真が張り付き、六百一番目の住民の証である登録番号が記載されている。
「ほんと、この世界に彩文さんがいるんですか。お願い、早く案内して」
 ハチは智頭を一刻も早い衝動に駆られて早口で捲くし立てた。私欲に駆られて傲慢な態度を見せるハチを、サードマンは怪訝そうに睨み付けるが、穏やかな微笑に訂正して、ハチ専用のIDカードを華奢な右手に手渡した。
「お任せ下さい。ドグダミ彩文さんの診療所は西部の居住区に位置しておりますので、これを使って、時間を短縮しましょうかね」
 サードマンは親切に了承して、今度は後部に重力を操作できる機器を取り付けて、空を自在に浮遊できる細長い板を両手に生成した。居住区と遊び場が中心部から分断されているこの世界では、一般的な移動手段として配給されているようだ。サードマンは持ち主しか使えぬようハチの登録番号を細長い板に関連付けて、アスファルトの道路の上に板を下ろした。ハチは未知の道具とIDカードに当惑して、説明を求めるような眼差しをサードマンに注いでいた。
「これは、二酸化炭素を排出しないよう設計されたエコという乗り物です。重量の方向を変化させて、あなたの思考と連動して自在に操作できます。IDカードはタワーを通過したり、施設を利用する際に専用の機械に通して頂ければ結構です。では、私の後に着いて来て下さい」
 サードマンは説明を終えて、さっさとこの世界の中心部に聳える建造物に駆け出した。ハチは慌ててエコと呼称された細長い板に飛び乗り、サードマンの後を追跡する意思で頭の中を飽和させた。持ち主の思考と連動すると説明されたエコは空中に浮遊して、全力疾走で中心部に駆けるサードマンに追い付きそうな推進力で前方に発進した。
「わあ、凄いや。ほんとに私の思い通りに動かせる。この世界は、安全そうね」
 ハチは嘗て体験した筑前の疾走に及ばぬエコの速度に平然としていた。道路から高度三十メートル地点まで飛び上がり、娯楽施設や色彩鮮やかな芝生で活発に跳ね回る子供達を微笑ましそうに見下ろす。この世界の情勢は見ず知らずの他人や異形の生物の襲来で怯えていた世界とは随分異なるようだ。下界に広がる住民の笑顔は恐怖や不満の翳りを微塵も感じさせなかった。
「稀白ハチさん、高度を下げてください。タワーを通らずに居住区に侵入すると弾かれますよ」
 高速で先導するサードマンは首だけ後方に捻ってハチに忠告を促した。緑と共生するこの世界の住民に感動していたハチは、指示通りに意思を切り替えてエコの高度を道路を擦りそうになるまで落とした。中心部の建造物からこの世界の南北を縦断する道路には、シールドらしき電気の膜が張り巡らされていた。サードマンは先に、外部から鮮明に内部が覗ける侵入口の開いた建造物の内部に入り込み、前方を塞ぐ電気を帯びた遮断機の傍らにある改札機にIDカードを通した。ギリギリと改札機が鈍い軋みを上げて遮断機が消滅する。サードマンはその隙に居住区に延びる道路へと駆け出した。
「ここを通ればいいのね。分かった。私もやってみる」
 先行するサードマンの手続きを窺っていたハチは、エコに乗ったまま建造物の侵入口に入り込んだ。半円状のドームになった内部は縦横無尽に交差する数十本の遮断機と郵便ポスト染みた改札機だけが設置され、夥しい遮断機の放電量を隔てた先には居住区への道路が垣間見えている。ハチはエコを空中で停止させて、改札機に設けられた差し込み口にIDカードを差し込んだ。先ほどのサードマンの時と同様に遮断機ごと電気の膜が消滅して居住区への道が開通する。エコを再発進させて居住区に突入したハチは、既に目的地らしい家屋の傍でこちらに手を振るサードマンを発見した。
「ここがドクダミ彩文さんの診療所です。私は一人でこの世界を監視しているので早く来てくれませんか」
 別件で立て込んでいるらしいサードマンは悲痛に懇願してハチを急かし立てた。ハチは見慣れぬ新参者の姿を目撃して歓喜の声援を上げる住民に愛想笑いを返して、ドクダミ診療所という看板が張り付いた丸太造りの家屋を正面に捉えた。ハチが頭の中を目的地での停止で飽和させると、エコは呼応するように速度を落として家屋の傍に着陸した。
 先導してくれたサードマンは第三の目を開き、木製の扉を開けて内部の住民に声を掛けていた。ハチは逸る衝動を抑え切れず、エコを脇に抱えて無断で薬品の匂いが充満する内部に駆け込んだ。
「ドグダミ彩文さんはご在宅ですか。私、稀白ハチといいます。レゴスになったお姉ちゃんを治して欲しいんです。お願いします、私ができる限りのことは何でもしますからお姉ちゃんを治して下さい」
 ハチは玄関先から声を限りにした大声で内部の住民に要件を訴えた。診療所の扉を手で抑えていたサードマンは呆れ返ったように絶句して我侭なハチを睨み付ける。急患の治療を訴えるハチの耳を劈く声量を浴びた白衣の医者は、口元を隠した白色のマスクから声が洩れぬよう手で塞ぎ、何故か急いで作業机の下に潜り込んで恐怖に肩を震わせた。ハチは予期しなかった彩文らしき医者の反応に唖然としてサードマンに視線を向けると、サードマンは緑色の鍋掴みを填めた両手を虚空に掲げて呆れたように首を振った。
「駄目ですよ。ドクダミ彩文さんは臆病で有名な廃人さんです。以前では名医として腕を振るっておられたようですが、今では人に怯えて治療どころではありません。それにしても、先ほどのような目に余る高圧的な態度は許せませんね。本当にあなたは要注意人物だな。少しは自分の態度を改めなさい」
 サードマンは医師として致命的な弱点を抱えた彩文の説明を交えながらハチを糾弾した。査定中の身であるハチの印象は下降の一途を辿っているようだ。ハチは数日後にこの世界の追放を判断される状況など忘れかけており、治療どころでは無くなったという残酷な現実に顔を凍り付かせ、覚束ない足取りで作業机の裏手に回り込んだ。
「それでは一旦、私は他所に回ってきますね。また用事があれば室内にあるブザーを押して呼んで下さい。彩文さんとは仲良くしてあげて下さいね。頼みましたよ」
 サードマンは、ハチとドグダミ彩文だけが滞留する室内に怒りめいた声を響かせて扉を閉めた。高速で道路を駆け出して別の場所へ走り去るサードマンの足音が止んだ頃に、ハチは作業机の下の窮屈な空間を覗き込み、異常に全身を震わせる彩文に声を掛けた。
「あの、お姉ちゃんを治療してくれませんか」
 ハチが宥めるような笑みを零して挫けずに救いを求めるが、彩文は尋常ではない勢いで首を振って拒絶した。清潔に保っている白衣と口元のマスクに名医としての威厳は消え失せている。
「そうですか。ですが、ここで住むように言われたのでお邪魔してますね」 
 ハチは長い溜息を付き、失意に泣き崩れそうな顔を叩いて渇を入れた。原因は定かではないが、治療ができない深刻な精神状態に陥っただけならば、彩文の名医としての腕は衰えていない筈だ。家族の死に目や敬愛する他人との別離を乗り越えたハチの顔は、自らの手で明るい前途を切り開いていく強大な意志に輝いていた。



 不吉の前兆を表すように、建て付けの悪いドクダミ診療所の看板は微風に敗れて斜めに傾いた。朝昼晩の概念があるこの世界の発光体は没して、満面の星空が再現された夜を迎えていた。
 彩文に尽くして人間に対する警戒心を取り払おうと考えたハチは、室内の片隅に置かれたロッカーから掃除用具一式を持ち出して診療所の清掃を行っていた。診療所の間取りは大部分が治療用の設備で占められており、過去に診断した患者のカルテや聴診器や日記を載せた作業机を片隅に置き、雑多に取り揃えられた医療器具や医薬品をガラス張りの収納箪笥に詰め込まれている。二台用意された検診台の傍らには、人体を切り裂くメスなどの磨き込まれた手術器具が銀色のケースに並べられていた。診療所の側面に位置する扉の向こうには、寝室にトイレに台所の類が収まった調理場、そして高度な技術を結集して製造された医療機器が収納された保管庫が設置されている。
 ハチが掃除の手を休めて外の景色を眺めていると、診療所の呼び鈴が鳴らされた。ハチは掃除用具を片付けて足早に診療所の扉を開けた。
「稀白さん、あなたのことはサードマンから聞きましたよ。彩文さんと稀白さんの二人分の食事を持ってきましたから、開けて下さいな」
 訪問者は隣人の伯母さんであった。ハチは、診療所の掃除や彩文の三食の食事を配達してくれているらしい伯母さんとの話を手短に済ませて、シチューで満たされた鍋を有り難く頂戴した。相変わらず作業机の下で震えている彩文を気遣ってすぐに扉を閉める。この世界の人間は平和を愛しているわけでもなく、ただ単に善悪に頓着がない無垢な少年少女の姿を反映させているに過ぎないようだ。先ほどの小母が日課のように彩文の食事や掃除の世話をする深い行動原理は存在していない。人間であれば互いに助け合って共生するのは当たり前の感覚なのだ。
 ハチは保管庫に収納されていた折り畳み式のテーブルを引っ張り出してきて、作業机の隣に広げて組み立て始めた。彩文は食欲を駆り立てるシチューの匂いに反応して、逆立つ黒髪を整髪料で寝かせた凡庸な顔立ちを作業机の下から覗かせた。恨めしそうに人差し指をしゃぶってハチの動向を窺っている。
 ハチは医師としての自覚は保っている彩文の熱意を呼び覚ませようとして、箪笥に収納されていた彩文の白衣を羽織っていた。対面に椅子を並べて食事の準備を完了させ、椅子に腰掛けた際に視線を絡ませた彩文を包み込むような微笑を送る。
「一緒に、食べませんか。迷惑なようなら、外で食べてきますけど」
 ハチは慎ましく相席を求め、皿の縁を持ち上げて豪快に音を立てながらシチューを啜った。彩文は悪意を秘めていないハチの瞳を眺め、押し込めていた大柄な体を這い出してきた。サードマンの第三の目から発する光線を額に受けて、要注意人物に指定されたハチの経緯はこの世界の粗方の住民に伝達されている。当然、彩文は同郷である知り合いの減水と死の世界で別れた筑前がハチに加担しているのを既に把握していた。それらの伏線と作業机の下で怯えながら熱心なハチの奉仕を観察していた相乗効果があって、漸く彩文は食事の席に参加する勇気を振り絞った。 
 無言で対面の席に鎮座した彩文は、スプーンを手に取り白色に塗れた野菜を掬い上げる。ハチは我が子の成長を喜ぶような顔で頬杖を着き、無闇に音を立てずに紳士を装う彩文の怯えた顔に好意の眼差しを注いでいた。彩文は愛苦しいハチの顔立ちに邪な感情を覚え、邪念を取り払うように視線を背けて恐々と食事を口に運ぶ。
「シチューを分けてくれたお隣さんが教えてくれたんですけど、私の経緯や私の望みは、サードマンから伝えられていたんですね。私は要注意人物とのことで、最終判断が下されるまではこの世界のことはあまり教えてくれないみたいですけど、彩文さん、無理にとはいいませんが、あなたがどうして人を恐れるようになったのか、教えてくれませんか」
 ハチは細心の注意を払った柔らかい口調で彩文に迫った。彩文は器用に耳を動かして顔を上げるが、真摯に智頭の治療を求めるハチの瞳を正視できなかった。疲れたように首を斜めに傾けて、口に咥えたスプーンを置いて小声で呟く。
「大した理由なんてないよ。親父が暴力を振るっていたせいで、子供の時から、人の存在は怖かった。別に、好きで医者になったわけでもなく、強制だったし。人を傷付けること自体も怖いから、メスも握りたくなかった。だから安心できるような世界を探し求めて世界を渡り歩いていた。その最中で生きるために仕方なく医者を続けていたら、人に慕われただけ。私は、名医なんかじゃないし、もう、医者は廃業したんだよ。悪いね」
 彩文は遠まわしに智頭の治療を拒否していた。気だるそうに頭を掻き、スプーンを手に取って食事を再開する。ハチは絶望の影が差してきた胸中を振り払うように異論を唱える。
「では、どうして治療に使うような器具を家に置いているんですか。筑前さんや減水さんは、彩文さんを尊敬していましたよ。例え人は怖くても、医者が嫌いなわけではないんでしょう。本当は、傷付いた人を助けたいから、診療所を開いているんですよね」
 ハチは智頭を治療して欲しい一途な情に駆られて、鬼気迫る形相で声を荒げていた。軟弱な彩文への配慮が欠けていたせいか、彩文は激昂した面持ちでハチの顔を睨み付けた。名医としての技量を培った過程には、壮絶な努力の背景が隠されているが、必ずしもそれが他人を救いたい慈愛による鍛錬とは限らない。彩文にとって、医者の全てを知ったようなハチの口振りが癇に障ったようだ。
「確かに、私を頼ってくれる人がいるのは嬉しい。助けてあげたいとは思う。だが、私は生理的に人という存在を受けられないんだよね。君、いやお前にしてもそうだ。ここに来た時、早く死ねばいいと思ったよ。私は人を救いたいとも思うが、人に死んで欲しいとも願ってる。お前は知らないだろうが、医者の中でも私のような外科医は便利でね。数が少ないから過大評価されやすいんだよ。筑前や減水は、私の上っ面だけを見て崇拝してただけだ。私を高尚だと勝手に勘違いして、幻想に取りつかれた愚かな奴らだよ」
 彩文は感情に身を委ねて臆病な性質を一変させ、尊敬の念を抱いて慕ってくれた減水と筑前さえも蔑んだ。ハチは家族のような愛情を注いでくれた二人を貶した彩文に憎悪を燃え上がらせる。饒舌に悪態をつく彩文は、吹っ切れたように不快を露呈した顔を前屈みに乗り出した。
「お前の姉がどうなろうと私の知ったことではない。それより早くこの世界を出て行ってくれないかな。この世界は私がやっと見つけた安住の地なんだ。お前のような薄汚い人殺しが暮らせる資格はない筈だろ。私にどうしても治療して欲しいというなら、下僕となって体でも奉仕するんだな。お前のような頭の悪い女は、どうせ他に何の取り得もないんだろ」
 彩文は侮蔑を込めた残酷な言葉をハチの顔に吐き捨てた。ハチは胸に手を当てて、沸き上がる憎悪を懸命に抑え付けた。智頭を救出するには彩文の協力が必要不可欠であり、ここで彩文の機嫌を損ねれば二度と治療は請け負ってくれないだろう。ハチは目的意識を最優先して、覚悟を決めたような顔付きで、両目に苦渋に満ちた涙を湛えた。
「分かりました。お姉ちゃんを治療してくれるなら何でもします。私の体でよければ好きにして下さい。これで、お姉ちゃんを治療してくれますよね。約束、ですからね」
 ハチは悲痛に歪んだ顔を指で抓って彩文の要求に応えた。彩文は感情に身を委ねた口から出任せの条件を真に受けるとは思わず、簡単に自身を犠牲にするハチを複雑な心境で眺めていた。やがて、逆手を取られた悔しさのせいだろうか、顔を強張らせて歯軋りを鳴らせ、自棄を起こしてテーブルに拳を叩き付けた。
「そうかい、ならやってやろう。だがな、お前が少しでも嫌がる素振りを見せれば即刻中止だ。下手すれば、私は約束を放棄して逃げるかもしれないぞ。それでもいいのか、お前にそこまでの覚悟があるのか」
 彩文は相手の弱味に付け込む冷徹な口調でハチの本心に問い掛けた。ハチは気丈に手の甲で涙を拭い取り、揺るがぬ決意に満ちた顔で深く頷いた。彩文は呆れたように溜息を付いて席を立ち、食事の手を止めたハチの質量を鍛え抜かれた両腕で抱え上げた。観念したように全身を脱力させるハチを診察台に寝かせて、彩文は医師の威厳を残していた白衣を脱ぎ始めた。
「約束だからな。早速、お前の体を貰ってやるよ。目を閉じてろ。痛くなくて済むように最低限の温情はかけてやる」
 彩文は筋肉質な上半身を露にして、傍らの椅子の上に載せられたケースから注射器を手に取った。ハチは初対面の男に味あわされるだろう屈辱を耐え忍ぶように目を瞑る。彩文は箪笥から液体の薬品が詰まった瓶を取り出して、空の注射器の先端を瓶に突っ込み、多量の液体を内部に吸わせていた。
「愚かな奴だな。人のことを心配する前に、まず自分を大事にしないと、一生幸せになれないんだぞ」
 彩文はハチの右腕を伸ばして、浮き出てきた少女の細い血管に寸分の狂いもなく注射針を突き刺した。針先から注入される液体が全身に循環していき、ハチは針の激痛に苦悶の呻きを上げて眠るように意識を喪失させた。彩文はハチが完全に気を失ったのを確認してから、脱ぎ捨てた筈の白衣を着直して、手術の際には必須である滅菌用のゴム手袋を両手に装着した。
 診療所の外では、数日後に最終的な判断を下すために、ハチの生活態度を査定にやってきたサードマンが、ハチと彩文のやり取りを窓越しに観察していた。
「稀白ハチか。見上げた度胸ですね。あなたのこと少し見直しましたよ」
 サードマンは熱心に行為に没頭する彩文の姿を微笑ましそうに眺めて、外側から窓を開けてカーテンを締めてあげた。本日の査定を終えて帰路に着こうとすると、この世界の住民による呼び出し音が脳裏に鳴り響き、サードマンは意気揚々とした軽快な足取りで、次の目的地に駆け出した。
 



 体に毛布を被せられて、安らかな寝息を立てるハチは、診察台に張り付いたまま明朝を迎えていた。
 夜通し行為に没頭していた彩文の気配は診察台から遠ざかっており、久し振りに作業机に腰を据えて、カルテに患者の容態を書き留めていた。眠気覚ましのコーヒーに満ちたコップを口に運びつつ、過去に診察した筑前のカルテを押し広げて入念に目を通している。
「彩文さん、サードマンです。お邪魔しますよお」
 診療所の呼び鈴が鳴らされ、本日の査定にやってきたサードマンが診療所に入ってきた。サードマンは意地悪な笑みを浮かべて、邪魔者を見るような目付きで両手でカルテを隠そうとする彩文に歩み寄る。サードマンは熟睡中のハチを一瞥して、早く要件を告げろと言わんばかりに顔をしかめる彩文に視線を戻した。
「やはりあなたは医者でしたね。手術を失敗して、無念なことに人を殺したショックからもう立ち直れないと思ってましたけど、レゴスの治療を受ける気になりましたか。いやはや、驚きました。そんなに稀白ハチが気に入ったんですか」
 サードマンはほくそ笑み、作業机に置かれたコップを奪って口に含んだ。喉を潤す濃厚な味わいに頬を緩め、今朝の仕事を終えた安堵の吐息を洩らす。彩文は筑前のカルテを手に取り、ぶっきらぼうに紙面をサードマンの眼前に近付けて手渡した。
「気に入ってなどいない。私は自分を粗末にする奴は嫌いなんだ。まあ、あいつと話していると調子が狂うのは確かだけどな。それより、これは飽くまで予定だが、レゴスの治療を行う場合、奴を取り押さえる能力者がいないと話にならない。査定の結果は固まってきてるんだろ、ならお前がその役を務めろ。レゴスは家族の憎悪を求めてこの世界にやってくるだろうしな」
 レゴスの手術法を頭に叩き込んだ彩文は、人間ではないサードマンに臆せず厄介な注文を押し付けた。サードマンはレゴスの治療法が記載されたカルテに目を落として、読み終えた後にパンダの顔立ちに苦笑を浮かべた。コーヒーを飲み干した空のコップを作業机に置いて、当惑したように腕を組んで考え込む。
「私は一応サードマンなんですけどね。人間の要求を叶えるように設計されてる珍しいタイプですから協力はしてあげますけど。しかしこのカルテによると、レゴスの設定を植え付けた肉体を常人が使用すると拒否反応が起きて死亡するので、脳は別の人体に移し替えると書いていますね。この世界には追放用のゲージ一つしかありませんよ。何処から人体を工面するんですか。殺人は規則を侵害しますから、認めるわけにはいきませんよ」 
 サードマンは不服そうに声を荒げて警告を促した。彩文は予想通りの反応に苛立ちを隠せずカルテを奪い返した。カルテの隅から隅まで確認して、めげずに別の治療法を探っているが、悔しそうに下唇を噛んで、背後の診察台で眠るハチに視線を向けた。
「そこが問題だ。どうせ追放用のゲージを使っても意味はない。死後二時間以内の人体を使わないと蘇生できないしな。別の世界に移動するのも手だが、追放用の世界は人を殺しても死なない危険な死の世界に繋がっているから、強力な能力者が同行しても脱出は困難だろう。何よりレゴスを運ぶ余裕もないし、死の世界の憎悪で体を回復させて、手術をする余裕もなく八つ裂きにされるだろうしな。そうなると、稀白ハチの人体を使うしかない。親族だから拒否反応も少ないだろうし、奴は姉のためなら喜んで死ぬだろうしな」
 サードマンは非情な彩文の決断に驚愕して顔を曇らせた。彩文は人命を救えない無力を嘆いて俯いた。彩文はサードマンにハチの経緯を伝えられた際に、最悪の展開を瞬時に予測したからこそ、ハチを傷つけぬよう必要以上に臆病な性質を披露してハチが挫折するのを待っていた。だが自身を犠牲にしてでも食い下がるハチの熱意に圧倒され、彩文は墓穴を掘ってハチの要求に応えてしまった。昨晩の行為に没頭しながらも他の治療法を考えていたが、犠牲を伴なう残酷な治療法以外に手立てがない。彩文は自身の臆病な性質を乗り越えて、人間である智頭と対峙する勇気も持てず、深刻な悩みの種を抱えて葛藤に揺れていた。
「いいんですか、私を敵に回すことになりますよ。稀白ハチを殺せば、私は必然的にあなたを殺さねばならない。そこまでして、稀白ハチの要求に応える必要があるんですか。あなたは優しい人ですが、父親に植え付けられた人間嫌いの気持ちに嘘はない筈だ。悪いことは言わないからやめておきなさい。レゴスが来たら私が何とか追い出します。それで解決しましょうよ」
 サードマンは悲愴めいた顔付きで彩文を説得する。彩文はこの世界に来る以前に犯した手術の失敗で人間から非難され、臆病な精神を悪化させて、外界との接触を恐れて閉じ篭っていたが、同時に医者としての自責の念に苛まれて、いつか人間に罪滅ぼしをしたいと心の何処かで願っていた。その対象が智頭の救出を切に願うハチに定めていた。ハチの願いを聞き届けてやるに値する動機は、突き放すような態度を取っても慕ってくれた減水と筑前がハチに望みを託した経緯で十分過ぎるほど足りている。筑前は作業机に頭を押し付けて、臆病な自分を納得させるように呪文を唱えていた。
「構わない。私はあいつにレゴスを治療すると約束してしまった。もう後には引けないんだ。私に望みを託した筑前や、自害してまであいつを助けた減水の気持ちにも報いたい。例え、嫌いな人間であっても、私の医者としての本能がほってはおけないんだ。もう一度だけ、私は人間を助ける」
 彩文は手術を失敗する不安と死の恐怖に全身を震わせていた。サードマンは宥めるような微笑を湛えて彩文の背中を摩った。過剰に責任を背負い込んだ彩文の意志は偽りではないようだが、素人目に見ても手術を真っ当できそうにない危険な精神状態に陥っている。サードマンは熟睡するハチに憎悪を抱いて睨み付け、極大の不安に押し潰されそうな彩文の耳元で囁いた。
「もう一度、よく考えてみて下さい。あなたは無理をして生きてきた人ではない。責任を背負い込むのは嫌いな筈だ。私はあなたがどうしてもやるというなら協力します。ですが、あなたを殺しもします。残酷なようですが、できれば中止にして下さい」
 彩文は臆病に歪む顔を両手で押さえ、高鳴る不安に嗚咽しそうな恐慌を堪えていた。サードマンは彩文の頭を愛撫して、瞼の閉じた第三の目を開眼させた。両目よりひと回り巨大な第三の目を診察台に向けて、彩文との会話情報を伝達する赤い光線を発射する。発射された光線は熟睡するハチの額に直撃して、ハチの脳内に先ほどの会話情報が駆けずり回った。
「稀白ハチには私から伝えておきました。他の世界のことを話すのはサードマン内で定められた規則に反するのですが、最後にレゴスを目撃したサードマンによると、いくら憎悪を食べても満腹にならない末期症状だったそうです。近い内にここを探り当てるでしょうね。決断は早めにお願いしますよ」
 サードマンは励ますように彩文の肩を叩いて診療所の扉を開けた。若しもを想定してレゴスを迎え入れる準備に駆け出したサードマンの足音を聞いてから、彩文は両目に湛えた涙を解放して頬に伝わせた。涙でぼやける視界で辛そうにカルテに目を通して、別の治療法を閃かない鈍った思考を責めて頭を抱える。
 記憶を与えられたハチは、脳内を駆けずり回る情報に違和感を覚えて、全身麻酔で眠らされた肉体を現実に呼び覚ました。虚ろにゆっくりと上体を起こして、脳裏を過ぎる残酷な治療法の説明と、臆病な彩文が勇気を振り絞って葛藤をしている光景を整理していく。ハチは智頭と死別して初めて得られる治療法を漸く理解するが、別段悲しむ様子はなく、彩文に穢されただろう自身の肉体を探った。
 体に被せられた毛布を払い除けると、昨日まで羽織っていた白衣が脱がされて、通気性に富んだ黒の服だけを羽織っていた。弄ばれた筈の股間を注視してみるが、不思議と痛みは帯びておらず、白衣を脱がされただけのような淡い期待が湧いてくる。だがハチは寝惚け眼を手で擦ろうとした瞬間に異変に気付いた。
「あ、あれ。手が、付いてる。お姉ちゃんに切られた手が、くっついてる」
 彩文はハチの突飛な甲高い驚愕の声に気付いて背後を振り返った。智頭に切断された左腕の肘の付け根には、糸で縫われたような手術の跡が残り、元通りに接着した手は違和感なく本人の意思に伴なって稼動できる。ハチは神秘的な光景に目を丸くして、涙に顔を崩してこちらに振り返った彩文と目を合わせた。
「彩文さんが、私の腕を治してくれたの。凄い、凄いよ。冷たい人だと思ってたけど、本当は違うんだね。お姉ちゃんを、助けてあげれる力を持ってるんだね。ありがとう、彩文さん」
 ハチは胸に込み上げる歓喜に謝辞を述べて微笑んだ。彩文は両目を擦って恐怖の涙を拭い去り、血走った両目を見開いて、右腕の癒合に呑気に舞い上がっているハチを睨み付けた。
「何が嬉しいんだよ。サードマンから事情は伝わってるんだろ。レゴスを助けるにはお前の体が必要なんだ。そして、私もお前に付き合わなきゃいけなくなった。怖くないのか、私に悪いとは思わないのか、手術を中止したいとか思わないのか」
 彩文は自身の悩みを打ち明けるように怒声を発した。ハチは癒合した右腕を振り回す歓喜の舞を静止した。調子に乗りすぎた態度を恥じて申し訳なさそうに頭を下げるが、その表情は隠し切れない歓喜に笑顔を作っていた。
「ごめんなさい。彩文さんだけじゃない。私の幸せを願って助けてくれた全ての人に、心から謝りたいと思う。けどね、私が死ぬことで、お姉ちゃんが救えるんだよ。ずっと悩み苦しんでいたお姉ちゃんを解放してあげられるんだよ。私がお姉ちゃんを助けられないまま長生きするより、こんなに嬉しいことは、他にないよ」
 ハチは歓喜の涙を目に湛えて、久しく忘れていた至福の笑みを浮かべていた。彩文は予期していた以上の反応に呆れたような溜息を付くが、身勝手なハチの純真さに不思議と心が癒されていた。名医として箱の世界を奔走して、持ち前の技量で命を救った患者の面影が頭を掠める。彩文は医学を頭から切り離せない根本的な原因に辿り着けたような気がした。
「はあ、とんでもない奴だな。だから人間は嫌いなんだよ、少しは反省しろよな馬鹿。私は死にたくない、死にたくないんだよお」
 彩文は智頭の手術を執り行う覚悟を決めるが、極大の不安を蘇らせて泣きそうに顔を歪めた。ハチは全開した右腕を振り回して何度も謝辞を述べ、心優しい内面を隠した彩文を慰めるように抱き締めてあげた。
 



 その夜、この世界の中心に聳える建造物から、突如として不条理な警鐘が世界全土に響き渡った。
 純真無垢なるこの世界の住民は、呑気な笑顔を振り撒いて居住区に建設された避難所に移動を始めた。団結力なら箱の世界屈指であろう住民を強固な防壁を誇る避難所に移した訳は、近日中に参上すると予想される憎悪に飢えた智頭の魔の手から身を守るためだった。
 診療所の外で住民の大移動を頭を下げて見送る彩文は、他人の視線に怯えて全身に毛布染みた厚手の布を巻き付け、医者としての威厳の欠片もない臆病な両目だけを覗かせていた。ハチは完治した左腕を彩文の背中に回して摩ってあげ、我侭な要求に快諾してくれた住民に誠意を示して頭を下げる。住民は厭味のない笑顔で会釈を返して、楽しげに列を組んで避難所へ行進していた。
「彩文さん、皆さん、ありがとう。私、どう感謝していいのかわからない」
 ハチは温情を掛けてくれる六百人余りの他人の好意に胸をつまらせた。その瞳には嫉妬が入り混じり、若しもこの世界に生れ落ちていたら平穏な生活を営めていたかもしれないと切に感じていた。この世界の情勢は、探し求めていた理想の世界を限りなく忠実に実現している。ハチは近い内に訪れる死期を察して、最期に訪れたこの世界の温かい風景を目に焼き付けていた。
「ふう、はあ、何言ってんだよ。暫く籠ってたせいか、予想以上に人が怖くなってるな。逃げ出したい。手術なんか止めたい。勝手に終わった気にさせるな」
 彩文は極度の恐怖に心拍数が上昇していく左胸を押さえてハチを戒めた。ハチは情けなく目尻を下げて睨み付けてくる彩文の手を握り、小さな肩を擦り寄せて、彩文が忌み嫌う人肌の温もりを伝えた。彩文は慌てて照れ隠しするように、強力な電気の膜で防御された東部に首を向けた。厚手の布に隠された頬を紅潮させて、穏やかに目を閉じて肉体を預けてくるハチの顔を横目で眺める。
「気付いているとは思うけど、私はお前の体を貰ってないからな。下僕になれというのも嘘だ。ただ、私が書いた無料診察券がお前のリュックに入ってたみたいだから手伝うだけだぞ。誤解するなよ」
 智頭の到来に緊張している彩文の右手の震えが幾許か納まっていた。背筋は恐怖に凍り付いたままだが、人間を癒す不思議な効果でも秘めているかのようなハチの存在に満更でもないようだ。ハチは静かに目を開けて、目の前を通り過ぎる最後尾の住民に寂しげな笑みを送った。これで、もう二度と住民に再会することはないだろうと予感していた。
「勿論、誤解していませんよ。彩文さんは、立派なお医者様です。最後にあなたに出会えて良かった」
 ハチは智頭の到来を待望するように遥か彼方の東部を見据えた。彩文は死を受け入れるハチの肩に手を回して、二時間前に出払ったばかりの診療所の扉を開けた。彩文は身勝手な死を選択したハチを非難するような目付きで見ていた。
「私はお前に会いたくなかったよ。自分を粗末にするな。私の前で、最後だの、死ぬだの二度と口にするなよ。例えこの先に死が待ち受けていたとしてもな。ここで待っていても、お前の姉は当分来ないだろう。中に入ってろ」
 彩文の悲しげな瞳は、人命を犠牲にする非情な手段しか取れない無力な自分に失望していた。ハチは医者としての彩文の自尊心を傷付けた罪悪感に駆られて、謝辞を述べながら大人しく診療所に戻っていった。帰宅してすぐに食べ損ねた夕食の支度を整える。ハチは顔をしかめる彩文と共同して折り畳み式のテーブルを組み立て、死の緊張を蘇らせて震える彩文と会話を交わしながら智頭が到来するのを待っていた。いつ最後の時が訪れるかわからない不安に胸を締め付けられるが、ハチは残された全ての時間を彩文のために費やすことにした。それが無力なハチにできる、精一杯の恩返しだった。
 やがて、住民が寝静まる深夜が訪れた。夜を象徴する満面の星空には、重力を操作できるエコの大群が侵入者を警戒して飛び回っていた。パンダの顔立ちをしたこの世界唯一のサードマンは、住民が避難する際に配給していたエコを回収して、警備用の機械に改造を施したようだ。高速で空中を駆け回るエコに乗ったサードマンは、恐らく侵入者が現れると予測される東部の道路に注目していた。ゲージを越えた際に出現する場所は固定されていないが、過去の統計によれば東部に出現する確率が高いようだ。
 警戒を始めて数十分が経つと、気味が悪いくらい予定調和に、東部の道路の端に侵入者の影が現れた。反対方向を調べていたサードマンは侵入者の気配を察してエコを急旋回させた。逆立ちで細長い板に両足を張り付かせたサードマンは眠っていた第三の目を開眼させる。奇妙な呻き声を上げる侵入者の影に迫っていき、対象の個人情報を読み取る赤い光線を発射した。
「グヒイー、ハチい、お姉ちゃんが、お前を食べにきたよおお」
 額に赤い光線を食らった侵入者は、憎悪に飢えた咆哮を上げた。桁外れた声量を全身に浴びたサードマンは、パンダの顔立ちを苦痛に歪めて侵入者の情報を読み取った。蒼の防具で身を固めた侵入者は紛れもなくレゴスであり、稀白ハチが救出を願う稀白智頭その人だった。蒼の兜で抑え付けれない豊かな緋色の髪を腰まで垂らして、刀身二メートル近い日本刀を右手に携えている。自我が崩壊した憎悪の化身に成り下がり、ハチの血肉に飢えた凶悪な眼光を放っていた。レゴス化した智頭の潜在的な暴力意識は赤点である百点を突破しており、サードマンは規則に則って不合格の成績表を生成して、すぐに破り捨てた。
 空中に論外の成績をばら撒いたサードマンは、エコから飛び降りて地面に着地していた。能力を手に入れた人間に成す術もなく敗北してきた大抵のサードマンとは幾分か異なる、単独でこの世界の調和を守ってきた力強い威圧を放出して、ゆっくりと智頭に歩み寄る。
「主は残酷ですね。大勢の仲間の命を奪った敵が目の前に現れたというのに、私はこの世界に定められた設定に伴なった行動しか取れない。レゴス、私は私情を挟みませんよ。ですが、私はあなたを絶対に許さない」
 サードマンは愛嬌のある唇の両端を吊り上げて邪悪な笑みを浮かべた。智頭は闇の中で刀身をぎらつかせる日本刀の刀を舌なめずりして、口から溢れる唾液を付着させた。どうやら、両拳を前方に構えたサードマンを邪魔者と判断したようだ。
「笑わせるな、一介のサードマンが私に勝負を挑むだと、身の程をわきまえろ。お前達サードマンにもはや存在価値はない。この世界の規則は、私が決めるんだよお」
 智頭は強靭な両足の筋肉を収縮させ、アスファルトの大地を爆発させて弾丸染みた跳躍を果たした。サードマンは日本刀を振り被って間近に迫ってきた智頭の姿を捕捉して、迎え撃つように右手を前方に突き出した。サードマンの右肩から左の脇腹にかけて切り裂こうとした刀身は、緑色の鍋掴みを填めたサードマンの右手の平で食い止められた。
「勝負、違いますね。人間の理想を実現するのが私の使命。これは彩文氏と稀白ハチさんの望みです。あなたを確保します」
 サードマン死者の遺志を反映させた設定を忠実に遂行して、見開いた第三の目から上空に赤い光線を発射した。発射された赤い光線は、片手で容易く受け止められた刀身に体重を加える智頭の頭上を通り過ぎて、空中を優雅に浮遊していたエコに直撃した。
 光線に込められたサードマンの意思を受諾したエコは急激に落下して、意地でも太刀を浴びせようとする智頭の背後に猛進してくる。智頭はエコの微弱な風切り音を察してかわそうと跳躍するが、智頭の息遣いを読んで同時に跳躍したサードマンの会心の蹴りが、憎悪に崩れた智頭の顔面を捉えて地面に叩き落とした。背中から道路に叩き付けられる寸前に宙返りして着地した智頭は、間髪入れずに上空から降ってくるサードマンを睨み付ける。
「おのれ、ふざけるなあ、サードマン如きが、私に勝てると思うなよ。ぶち殺してやるよお」
 智頭が腹から振り絞った憎悪の猛りが、余裕たっぷりの自信に満ちた表情のサードマンを通過して、西部と東部を隔てる電気の膜さえも突き抜けた。
 恐怖で寝付けない彩文を気遣って子守唄を歌っていたハチは、この世界全土に地鳴りを響かせる懐かしい智頭の声を聞き取っていた。ハチは全身を震わせる彩文の肩を揺らして、智頭の救出を訴えるような瞳で彩文に呼び掛けた。
「彩文さん、お姉ちゃんの声が聞こえたよ。やっと来てくれたの。お願い、怖がらないで、私と一緒にお姉ちゃんを助けに行こう」
 彩文は切実なハチの要求を受けて、現実逃避しそうな恐慌を何とか堪えた。震える指を前方に伸ばして、診療所の中央に置かれた巨大な袋を指差した。
「怖い、とても怖いよ。でも、私はやるよ。手術を、するんだ。レゴスは東部に現れたみたいだな。お前はあれをエコに乗せて、もう一つのエコで私を運んでくれ。腰が抜けて、動けないんだ」
 彩文が指差した巨大な袋には、智頭の手術に必要な医療器具が詰め込まれていた。ハチは覚悟を決めた面持ちで頷き、作業机に凭れ掛ったハチ専用のエコに触れて意思を伝達した。
 医療器具を運搬するよう意思を伝えたエコは床を滑走して袋の下に潜り込んだ。数百キロの質量を苦にせずふわりと浮き上がり、診療所の窓を突き破って高速でこの世界の中央の建造物の方角に飛んでいった。ハチは有りっ丈の力を振り絞って腰の抜けた彩文を両手で抱え上げ、成人の質量に顔を真っ赤にしながら彩文専用のエコに乗った。
「彩文さん、お願いします。早くしないと落としそう」
 彩文はレゴスと対峙する恐怖に怯えて首を振るが、使命感に駆られて恐る恐るエコに意思を伝達した。二人を乗せてふわりと浮かんだエコは、先行するエコを追いかけるように破れた診療所の窓を突き抜けて、西部の道路を這うように飛んでいった。
「お姉ちゃん、もうすぐ、助けてあげるからね」 
 ハチは細長い板にへたり込む彩文の後頭部を抱いて遥か前方を視野に納めた。智頭を救出する希望に満ちたハチの瞳には、サードマンと智頭が激戦を繰り広げる東部の情景が微かに映し出されていた。
 



 本来は平穏であった東部の大地は、互いに極大の憎悪をぶつけ合う二人によって亀裂を生じていた。平穏を絶対とするこの世界は、異常に憎悪に脆い設計になっているようだ。
 この世界の住民しか把握していない特性を発揮する東部の大地の亀裂は広がっていき、ミシミシと崩壊するような鈍い音を立てて、芝生の豊富な緑が岩盤ごと捲れ上がっていた。大地に封じ込められていた憎悪を感知して放射する有毒ガスが亀裂から噴き上がり、憎悪に飢えた智頭の挙動を鈍らせている。
 この不慮の出来事によって切迫していた戦局は大きく傾き、有毒ガスの影響を受けないサードマンが俄然優位に立った。緩慢な日本刀の一閃は容易くかわされて即座に反撃を受け、蒼の防具で守られていない右足の太腿に強烈な蹴りを受けていた。グシャリと鈍い軋みを上げて足の骨は折られていた。
「グビイ、もう、限界だよお。もっと、もっと、憎悪を食べさせてよお」
 人間の憎悪で肉体を再生できない空腹の智頭は、再びエコに飛び乗って接近するサードマンの華麗な蹴りの嵐を、残った左足で道路を蹴って何とか後方に跳んでかわした。かわしながら発した憎悪を欲する悲痛な叫びは、サードマンの聴覚を強烈に刺激して意識を朦朧とさせる。だが智頭は追撃を加えずに丸太造りの施設の壁を背にして、観念したように日本刀を背中の鞘に収めていた。憎悪を求めて開いた大口は真一文字に結ばれ、狂おしく乱れていた顔付きは嫌に穏やかな表情に変わっていた。
 サードマンの顔に動揺の色が浮かび上がり、達観したような顔付きで攻撃を待っている智頭に警戒を払ってエコを停止させた。有毒ガスを吸い込み過ぎて錯乱状態に陥ったのか、只でさえ腕力任せの強引な攻撃しかできなかった空腹の智頭が、絶体絶命の危機を迎えて策を弄する余裕などない筈だ。
 サードマンが呆然と静観している内に、東部の大地は有りっ丈の有毒ガスを出し惜しみせずに噴き出していた。いつしか智頭は穏やかな顔付きを苦痛に歪めて、喉を押さえて奇妙なしゃっくりを上げていた。体内の異物に苦しんでるかのような悲鳴を洩らして、腰を曲げて口から憎悪に濁った黒煙を吐き出している。
「何だかよく分かりませんが、レゴス、これであなたも終わりです」
 サードマンは第三の目を光らせ、口から黒煙を吐き出す苦しみに隙を露呈する智頭に狙いを定めて青白い光線を発射した。強制的な捕縛の意思が込められた光線は、かわそうともしない智頭の額に呆気なく命中して、智頭の全身は青白い膜のようなもので覆い尽くされた。粘着性のある青白い膜は智頭の全身を締め付けていき、智頭は戦意を喪失したように深紅の虹彩を黒に戻して膝から崩れ落ちた。
 サードマンは細心の注意を払いながら智頭に接近していき、柔らかな青白い膜越しに智頭の体を抱き起こす。智頭は穏やかに目を閉じて完全に意識を喪失していた。サードマンは勝利に酔い痴れた笑みを浮かべる予定だったが、余りにも意外な終局を勘繰って、怪訝そうな顔付きで智頭の全身を隈なく調べていた。
「やはりおかしい。私の力量では、ガスを使って始末は出来ても、取り押さえるとなればもっと梃子摺っていたはず。致命傷を負ったわけでもなく、抵抗せずにあっさりと捕まるなんて。一体どういうことだ」
 サードマンは異常が発見されなかった結果に不安を覚えていると、後方から風切り音を鳴らして二台のエコが疾走してきた。有毒ガスの霧が晴れた状況を確認してから接近してきたのは、医療器具を運搬するエコと智頭の執刀を担当する彩文に、念願の智頭の救出に顔を綻ばせるハチだった。
「お姉ちゃん、私だよ、ハチだよ。お姉ちゃんを助けて上げられるお医者様を連れて来たよ。すぐに苦しみから解放してあげるからね」
 ハチは両目に歓喜の涙を湛えてエコを飛び降り、両手に智頭の質量を抱きかかえて待ち構えるサードマンに駆け寄った。頭部と腰をサードマンの両手で支えらていれる智頭の体を抱き締め、ハチは久し振りに再会した智頭に甘えるように顔を擦り寄せた。頬を伝った歓喜の涙が顎から落ちて、智頭の閉じた瞼を濡らしていく。
 サードマンは姉妹の再会に歓喜するハチに微笑を送り、第三の目を光らせて、エコに乗せられた医療器具を覆い隠す巨大な袋に赤い光線を発射した。赤い光線が巨大な袋に直撃した瞬間に、隠された医療器具が生き物のように一斉に飛び出して、ドグダミ診療所の景色を再現するように道路上に手術に必要な設備を整える。重量感のある二台の手術台が道路に落ちて、傍らに開頭に用いる外科用ドリルやクリップやメスなどの器具が銀色のケースに取り揃えられた。後に続いて薬品を詰めた箪笥や医療機器が落ち、白衣の手術衣や他の衣類を吊り下げた物干し台が最後に落ちた。
 これらの器具や薬品を活用して手術を遂行する彩文は、腰が抜けた肉体を道路に這わせて手術台に近寄ってきた。取り押さえられた智頭が暴れ狂っていると想定していたが、優良な患者のように無抵抗を保っている智頭に気付いて胸を撫で下ろした。ハチを殺めて得られる成功と手術終了後に抹殺される自身の身を案じてはいるものの、手術を全うするに要する精神力は十分に持続できそうだ。だが筑前を人間に移した手術の際とは異なる穏やかな智頭の様子に、いつ暴れ出すかという不安に駆られて、緊張に手が震えていた。
「彩文さん、お気付きでしょうが、レゴスがやけに大人しい。手術は楽に運ぶでしょうが、二時間後には捕縛が解けますのでご注意下さい。尚、私はレゴスの手術を手伝うことはできませんが、手術が終わるまでは彩文さんを殺すことはしませんので、その点はご安心下さい。できれば中止して欲しかったのですが、やっぱり、そうはいきませんか」
 サードマンは寂しげな笑みで最後に訴えるが、二人は緊張しながらも覚悟を決めた表情で意欲を示していた。サードマンは仕方無しに賛同するように頷いて、両腕で抱き上げた智頭の肉体を手術台に寝かせた。ハチは物干し台に吊り下がる手術衣に着替えながら、緊張で全身を硬直させているハチに手術台に寝るよう指示を送った。
 口元をマスクで隠して、両手に滅菌用のゴム手袋を填めた彩文は、腰が抜けた体をサードマンに支えて貰って、漸く智頭の頭部側に回った。指先から淡い光を放出して周辺一体を薄い膜で包み込み、名医の威厳を復活させた眼光を放った。
「それでは、これより手術を執り行う。私は親父に物体を保護する能力を植え付けられた能力者なので、ここは無菌室と同じように変わっている。設定が不十分で大した能力ではないが、まあ説明する必要はないか。稀白ハチ、これから昨日のようにお前を眠らせる。次に目を開けた時は、お前の意識はこの世に存在しないが、それでもいいか。できることなら、お前を殺したくはない」
 彩文は弱気にならないよう声を張ってハチに尋ねた。ハチは手術台から完治した左手を伸ばして、智頭の右手を握り締めていた。名残惜しそうに寂しげな涙を目に湛えて、二度と触れないだろう智頭の温もりを左手から伝わせる。智頭との別れの挨拶を終えた後に、ハチはサードマンと彩文の悔しそうな顔に視線を向けて、二人を気遣うように無理な笑顔を作った。
「はい、よろしくお願いします。もう、終わらせたい。早く、お姉ちゃんを元に戻してあげたい。彩文さん、サードマン、私が死んでも気に病まないでね。お姉ちゃんは、私の体で生きてくれるんでしょ。そしたらずっと私はお姉ちゃんと一緒にいられる。幸せ、です。ありがとう」
 ハチは両目に溢れる大粒の涙を手術台に零して目を閉じた。ふと故郷の世界を出発してから、僅か一年足らずの短い旅路を振り返る。思えば事の発端は理想の世界を求める希望に満ちたものだった。それが悪意に満ちた本質を発揮する他人と触れ合って、家族とだけの共生を求め、やがて家族のような慈愛を抱いた他人と出会った。人間の悪意に満ちた世界を旅する果てに、限りなく理想に近付けたこの世界を発見することができた。ハチはこれまでに愛情を注いでくれた家族と恩人に感謝して、迷いの無い幸福に満ち足りた笑顔を浮かべた。
 意識が飛び、ハチの肉体が麻薬の作用で強制的に眠りに就かされる。ハチに全身麻酔の注射を打った彩文は、華奢な右腕に突き刺した注射針を抜き、嗚咽しそうな悲しみを堪えるように両の拳を堅く握り締めた。
「心配するな、お前の姉は、私の命に替えても必ず治す。始めるぞ」
 彩文は命を賭けるハチに応えようと、声を限りに決意を表して自らを奮い立たせた。臆病な性質から生じた嘗ての面影は消え去り、智頭を救出する強大な使命に燃えた瞳で、迅速に智頭の頭髪をバリカンで刈り落とす。助手を務めれないサードマンは黙って背後から彩文の体を支えていた。
 鮮やかな手際で智頭の頭髪を剃り尽くした彩文は、いよいよレゴスの設定を植え付けた悪しき脳を開かせる、開頭作業に取り掛かった。


 
 額に当てがうだけで対象に能力を植え付ける設定の種とは、単純に脳内に吸い込まれた設定の種を悪しき脳に成長させて、全身を能力者の肉体に再構築するよう働きかける効果を秘めている。設定の種が発芽して成長した悪しき脳は能力の種類によって異なるが、血に塗れた深紅やピンク色ではなく、微妙に緑であったり黒に色付いている。彩文は長年の研究で設定の種を作用される原因を探り当て、脳に付着した余分な悪しき脳を切除して植え付けられた設定を解除する治療法を編み出した。悪しき脳を切除するだけでは設定に侵食された肉体は生存を保てなかったが、サードマンに伝達された異名が取り除かれた点から、彩文が編み出した手術法は成功の足掛かりとなった。 
 彩文は頭に叩き込んだ術式を思い浮かべて、鮮やかなメス捌きで智頭の頭皮を切開していた。クリップで皮膚を挟んで止血を行い、外科用ドリルで頭蓋骨に穴を開けて取り外した。嘗て憎悪を求めるレゴスであった筑前を執刀した際の経験が活かされ、名医として蘇った彩文は空白の期間の衰えを感じさせず、慎重かつ大胆に手術を滞りなく進めていった。
「人間が怖くないのは久し振りだ。私は医者をやらないと生きていけないのかもな。手が、止まらないよ」
 彩文は驚異的な速度で手術を進める快感に酔い痴れていた。血塗れた脳を露出した智頭の心拍数は急激に低下していくが、彩文が医者として教育された過程で父に植え付けられた、物体を保護する能力を指から発動して死期を遅らせていた。全身を青白い膜に包まれた智頭は暴れ狂う様子はなく、彩文は遂に手術の山場である悪しき脳を捜索する作業に入った。
「随分、楽しんでらっしゃるようですが、手術が終わればあなたは殺しますよ。しつこいようですが、やめるなら今の内ですからね」
 サードマンは冷めた瞳で警告を促すが、彩文は余計な雑念を全て取り払って、熱狂染みた瞳を絶やさず手術に取り付かれていた。獰猛に目を剥いて柔らかな脳を押し分け、悪しき脳を捜索する作業に数十分近く時間を掛ける。
 順調に進んでいた筈の手術に彩文が疑念を抱いたのは、更に二十分ほど経過した辺りだった。彩文は臆病な性質を蘇らせて顔を蒼白させていき、ルーペ染みた顕微鏡を目に当てて脳を確認するが、やはり捜索していた悪しき脳の微妙な色合いが見当たらない。
「サードマン、どういうことだ。長いブランクのせいなのか、私の目に悪しき脳が映らない。サードマンの中でも特異なお前なら答えられるだろ。設定の種の根本的な原理を変更したのか」
 彩文は手術の手を止めて不安を払拭するように声を荒げた。サードマンは無茶な質問を投げ掛ける彩文を軽蔑した視線を送ったが、人間の要求に勝手に思考は動き出して、設定の種についての情報を別の世界を監視するサードマンに求める。しかし返ってくる応えは一様に不明だった。
「分かりませんね。私にあんまり規則違反させないで下さい。厳罰が下る恐れがありますので。おっと、そういえば言い忘れてましたが、レゴスを捕らえた際に奇妙なことが起きましてね。急に攻撃を止めて目を瞑ったかと思えば、口から黒煙を吐き出したんですよ。恐らく有毒ガスの影響だとは思うんですが、あんな現象は初めて見ました。レゴスが大人しくなったのも、丁度その時でしたね」
 サードマンは顎を摩りながら異常な現象の概要を告げた。有力な情報を得た彩文は鈍った思考を働かせ原因の究明に努める。能力者が口から黒煙を吐き出す事例は初耳だが、彩文は妙に嫌な予感に駆られて智頭の胸に手を当てた。触診によって伝わってくる筈の智頭の拍動は完全に停止している。
「馬鹿な、急激に弱っているとは思ったが、私の能力を使って止まるわけがない」
 彩文は名医の腕に溺れて十分に確認していなかった心電図に視線を向けた。拍動の間隔を視覚化する心電図は、無常にも零の数字を刻んでおり、拍動の波は平坦になっていた。彩文は茫然自失として眩暈を起こし、虚ろに智頭の全身を覆う青白い粘膜をメスで強引に切り裂いた。彩文は急いで蒼の鎧を脱がせて完成された智頭の肉体を露にさせる。
「心臓が止まりましたね。慌てているようですが、もしかして、手術に失敗したんですか」
 サードマンは彩文の動揺した顔色を察して言った。彩文は返答を述べず、額に大量の脂汗を滲ませて智頭の左胸に両手を重ねた。一定の間隔で左胸を強く押して心臓の回復を図るが、拍動の波は変わらず平坦を保っていた。彩文は顔を凍り付かせて両手に機械を携え、智頭の体が跳ね上がるほどの電気ショックを浴びせる。無常にも波は平坦を保っており、蘇生の予兆すら現れなかった。
「ああ、どうしよう。私の能力でゲージ化は始まっていないのに、心臓は動き出さないなんて。術式通りの手順を踏んだからミスは一度も犯していないはずだ。いや、待てよ。まさか、悪しき脳が発見できなかった。有毒ガスの影響で黒煙を吐いたということは」
 彩文は取得した情報を連想させながら遂に真相の解釈に至った。予想だにしかなかった事実に恐怖に顔を歪めて、智頭の隣で熟睡しているハチに臆病な視線を向ける。サードマンは怪訝そうな目付きで、智頭の頭部側に戻って、静かに開いた頭部の縫合に取り掛かった彩文を見守っていた。
「手術は終わりだ。いや、する必要がなくなった。信じ難いことだが、恐らく有毒ガスの影響で最初から治ってたんだ。サードマン、お前がレゴスを捕らえた時には、もう既に治っていたんだよ。レゴスに侵食された肉体では、拒否反応が起きて助からない。だから心臓が動き出さない。手術は、失敗したよ」
 彩文は死滅した智頭の頭部の縫合を終えて溜息を付いた。サードマンは顔を蒼白させて、疲れたように椅子に腰掛ける彩文の体を激しく揺さ振り、絶望に満ちた瞳で極大の自責の念に押し潰されようとしている彩文を呼び覚まそうとした。
「彩文さん、あなたは悪くない。私がここでレゴスを捕らえたのがいけなかったんです。決して自分を責めないで下さい。稀白ハチは私が何とか説得しますから。あなたは、よくやりましたよ」
 サードマンの懸命な励ましは聞き届けられなかった。彩文は人命を救えなかった非情な結末に耐え切れず、サードマンの手を払い除けて席を立った。覚束ない足取りで道路に浮遊する専用のエコに歩み寄る。彩文は命を捨てる覚悟で智頭の救出を願ったハチを裏切った自責の念に駆られて、先が見えぬ深い闇に向かおうとエコに飛び乗った。
「いいんだよ、サードマン。私が無能な医者だったから助けられなかった。それだけさ。お前には今まで世話になったね、ありがとう。私は、追放用の世界で罪を償うとするよ。稀白ハチが目覚めたら、すまなかったと伝えてくれ」
 彩文は持続されていた能力を解いて、道路に組み立てられた手術台の周辺一体を覆う膜を消滅させた。彩文の能力でゲージの進行が遅れていた智頭の乳房に鍵穴が浮かび上がり、口内に新たな世界に繋がる黄金色の鍵が生成された。サードマンは本心から追放用のゲージへ移住したいと願う彩文を引き止められなかった。
「彩文さん、私はあなたの要求は承りました。稀白ハチには私から伝えておきます。ですが、これだけは言わせて下さい。あなたは悪くない、自分を責める必要もない。どうか死なずに、またこの世界へ帰って来て下さいね」
 サードマンはパンダの両目に涙を湛えていた。彩文は自嘲気味な笑いを零して、何も告げずにエコに意思を伝達した。彩文の意思を受け取ったエコは、要求通りに高速で空中を疾走して追放用のゲージが収められた家屋に向かっていった。
「稀白ハチ、ごめんなさい。あなたの悲しむ様子が目に浮かぶようです。所詮、人間の理想が全て叶えられる世界は存在しないのです。あなたは耐え難い現実に絶望するでしょうが、それでも、強く生きて欲しい」
 サードマンは淡い願いを託すように、診察台で熟睡するハチの頬に手の平を当てた。
 全身麻酔から目を覚ましたハチが、サードマンから残酷な現実を聞いて、智頭の遺品である日本刀を背負って追放用のゲージを移動したのは、それから三日後のことだった。

 

エピローグ  箱の外
 
 黒い影は、無限に広がる宇宙空間の薄闇に紛れていた。
 光り輝く無数の隕石が薄闇を断つように自在に駆け抜けていき、全身が黒い体毛に覆われた影の正体を照らしだした。黒い球形の容貌から短い手足を伸ばして、湾曲した細長い口を張り付けており、愛嬌のある円らな瞳を瞬きもせずに見開いていた。
 その黒い影こそが、箱の世界を造り出した創造主であるイーター・ヨウイチであった。ヨウイチは横目で捉えられる青い地球の軌道に乗って、宇宙空間に創造した透明な箱を短い両手で捕まえて凝視していた。
 これまでヨウイチは地球の自転に合わせて宇宙空間を漂流しながら、類稀な能力で創造した箱の世界を外から見守っていたのだ。青い地球は海を残して大地を剥ぎ取とられ、ヨウイチが正面に見据える透明な箱に収納されていた。側面に百億分の三十億と言う数字が刻まれ、数字の下に巨大な鍵穴が付いている。  
 透明な箱の中には、更に数十万個の小さい黒い箱が浮遊していた。地球の大地を細かく千切って分配しており、闇の壁に囲まれた箱の世界に居住する人類が納められていた。
 黒い箱の四面には、各地の箱の世界の光景がテレビのように映し出されている。嘗て、戦渦に巻き込まれた一部の人間がヨウイチに救いを求めて創造された箱の世界は、相変わらずヨウイチの期待を裏切って、理不尽な破壊と強制的な支配に満ちていた。
 ヨウイチは一時、他者の理想を弾圧する人類に絶望して、箱の世界を進退を賭けた試練を少女に与えていた。今では、数十万個以上ある黒い箱の一つに滞在するその少女は、幸福に満ちた笑顔を振り撒いて、傷付いた他人に慈愛を与える活動を精力的に行っている。
 少女はヨウイチが課した試練を乗り越えたのだ。最愛の家族との死別から立ち直り、医師の男と新たな家族を形成して、他人を救済できる能力を自らの努力で勝ち得たのだ。
 人類の本質を見限っていたヨウイチは少女に胸を打たれ、此れからも箱の世界を保っていく決意を固めた。
 そして今日も、ヨウイチは口元に満面の笑みを張り付かせて、死者の理想を反映させる箱の世界を見守っている。例え人類が破壊と支配を止めなくても、慈愛に満ちた人間が居る限り、ヨウイチは箱の世界を未来永劫守っていくのだ。
 と、宇宙空間の遥か彼方に点在する惑星から、黒い体毛に覆われた怪鳥が両翼を羽ばたかせて、ヨウイチの元にやってきた。黒の怪鳥は箱の世界の傍観に没頭して気付かないヨウイチの背中を巨大な口ばしで突付き、懐かしそうに両翼を広げてヨウイチの肉体を包み込んだ。
「よう、久し振りだな。お前まだ箱の世界なんか見てたのか。懲りないねえ、人間に愛想は尽きてたんだろ」
 黒の怪鳥は手荒くヨウイチの頭を突付いて意地悪な笑みを浮かべた。ヨウイチは恐怖に怯えた顔で会釈を返す。黒の怪鳥はヨウイチの知り合いらしく、性の悪い苛めっ子のようだ。
「ゴウ君、久し振りだね。実はあれから考えが変わったんだ。箱の世界に居住する人は確かに醜いけど、中には善良な人もいたんだよ。僕はその人たちのために箱の世界を守ろうと思ったんだ。僕の能力ではこれ以上改善はできないけど、善良な人がいる限り、いつか理想の世界ができるかもって期待が持てるんだよ」
 ヨウイチは期待に満ちた屈託のない笑みを浮かべた。ゴウ君と呼ばれた黒の怪鳥は、以前に出会った時とは正反対の態度を示すヨウイチに苛立ちを募らせ、容赦なく頭を突付いて冷酷に睨み付ける。
「笑わせるな、人間に期待が持てるだと。奴らは私利私欲に飢えた醜い生物なんだよ。お前は盲信しているだけだ。いい加減に、目を覚ませ」
 ゴウ君はヨウイチを気遣って注意を促したが、ヨウイチはゴウ君の考えを真っ向から否定するように顔を迫らせた。ゴウ君の乱暴な性質を触発される強張った顔だった。
「そんなことないよ。善良な人は確かにいるんだ。ほら、この子を見てみなよ。家族を失ってもめげずに他人を助けてるだろ。この子も醜い生物だと断定できるというの」
 ヨウイチ透明の箱の中にある黒い箱を指差して反論した。ゴウ君は細長い首を下げて透明な箱の中を覗き見た。そこには二十四歳の女性に成長したハチが、難民の子供を抱いて介護に励むひたむきな姿があった。傍らには臆病な性質を克服したドクダミ彩文が子供を診察する姿も見受けられる。ゴウ君は慌しくも慈愛に溢れた診療所の光景を眺めて、何を思ったのだろうか。
「下らん。お前は少数だけを見て、多数を見ていない。圧倒的過半数を占めている醜悪な人間を放置するその愚行、見逃してはおけないな。人間などという下等生物は欲望のままに世界を蝕むだけだ。我々のような偉大な能力を持たぬ、無価値な存在なんだよ」
 ゴウ君は怒りめいた形相を作って、短い鍵爪が生えた右翼に巨大な黄金色の鍵を生成した。ヨウイチは目を剥いて、慌ててゴウ君に詰め寄るが、咄嗟に放たれたゴウ君の左翼の一撃で弾き飛ばされた。
「や、やめてよゴウ君。その世界は僕が創ったんだよ。お願い、手を出さないで。箱の世界は、これから理想の世界に変わっていくんだからあ」
 ヨウイチは静止を求めて短い右手を宇宙空間に伸ばした。ゴウ君は断続的に嘲笑を洩らして、透明な箱の鍵穴に、生成した巨大な黄金色の鍵を差し込んだ。
「バーカ、人間に未来はない。俺が、奴らの理想を奪ってやるよ。ケラケラケラ」
 ゴウ君はケラケラ高笑いを上げて、差し込んだ黄金色の鍵を右に回した。カチャリと高い音が宇宙空間に鳴り響き、透明な箱が小刻みに震動して、見る見る内に真っ黒に染まっていく。
「う、うわああああ。僕の意思を閉じたら世界が滅びちゃうよ。やめて、やめてくれよお」
 ヨウイチの悲痛な叫びも虚しく、瞬く間に透明な箱は完全に黒に染まっていた。ヨウイチが詳細な設定を考案して創り上げた炭化した箱は、数十万個の箱の世界と供に瓦解して塵と化していく。
「ケラケラ、もう再生できないねえ。これが、人間の末路なんだよ。ケラケラ、ケラケラ」
 ゴウ君は箱の世界が崩壊する爽快な音に歓喜に笑い転げ、やがて満足そうに両翼を羽ばたかせて元来た道を引き返していった。ヨウイチは呆然と宇宙空間にへたり込み、黒の塵となった箱の切れ端を両手の器で掬い取った。ヨウイチの意思の念は封殺され、死滅した黒の塵は両手の器から飛び立っていき、先が見えない宇宙空間に漂っていった。
 ヨウイチは円らな瞳に大粒の涙を湛え、宇宙空間に響き渡る途轍もない声量で泣き喚いた。
「酷い、酷いよお。救いはあったんだ。世界は変わっていけたんだ。これから素晴らしい世界が造られる筈だったんだ。ううっ、うぐう、うわあああああ」
 号泣するヨウイチを他所に、人類の理想を反映させる箱の世界は、その命の灯火を儚く消した。






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