ブラックゲージ 〜 第四章 蟻の中 〜


第四章 蟻の中



 大切な兄を失った惨劇の先には、ハチが数日間の放心から覚めても、世界の終焉を迎えたかのような暗闇に包まれていた。
 膝を抱いてやっと肉体が収まるほどの窮屈なその空間は、ハチが右手を伸ばせば滑り気のある柔らかい断面に当たり、悪臭を伴なう酸性の粘液が手を汚染して痺れるような激痛に襲われる。ハチは膝を抱えて目を瞑り、再び現実とは懸け離れた夢の世界へ無理やり意識を放心させた。
 夢現になったハチの瞼の裏側に飛び込むのは、故郷の世界で共同生活を営んだ家族の面影だった。殺人が公認されているハチの世界では十人以上の大家族は珍しくなく、子孫を絶やさぬように存続させる唯一の手段であった。医者の概念がない世界では生後間もなく病を患い、死に至る事例は決して珍しくない。ハチの弟や妹の五人は産声を発して二年足らずで病に倒れていた。
 ハチは虚弱な赤子の死体を引き取るサードマンの姿に不快感を覚え、やがて、殺戮が正常な行為だと定義する故郷の世界からの脱却を切望するようになったが、ハチが殺戮を嗜好しない家族を敬愛する人格に形成されたのは、残忍な殺人鬼と化した現在とは正反対の心優しい智頭の性格に憧れていたからだった。幼少の頃の智頭は家族で誰よりも繊細で家族想いであり、家族を守りたい一途な感情に駆られて、完璧な肉体の鍛錬に励んでいた。緋色の髪を靡かせて殺人鬼を追い払う智頭の勇士に、家族は心から感謝して互いの絆を深めていた筈だった。それが智頭が他者を圧倒する暴力に慢心したせいか定かではないが、憎悪を求めて他人を虐殺するようになってからは、築き上げてきた家族の信頼は急激に失われていった。
 いつしか家族の敬愛は残忍な悪魔と化した智頭が欲する憎悪へと変わり、智頭は遂に家族さえも殺めるようになった。
「お姉ちゃん」
 ハチは右目を開き、智頭が変質した原因の根本を探り始めた。改めて過去を見返せば、五年程前までは、家族に虐げられても逆上して殺害するような凶行までには走らなかった。だとすれば、死の恐怖に怯えた日常を過ごしていただけの家族に何らかの失望を抱いた事件が発生して、残忍な破壊者へと変貌を遂げてしまったということなのだろうか。ハチはそこまで考えて疲れたように目を閉じた。
「お姉ちゃん、ごめんね。もう、私疲れちゃったよ。死んだ皆と一緒に、先に逝って待ってるね」
 ハチは目を強く閉じて、更に深い闇へと意識を放心させた。余計な雑念が介入しない死の世界には、生前の家族が実体を伴なって待ってくれている。ハチにとって安心できる理想の世界が死という悲惨な結末であっても、今のハチの精神状態は死の恐怖を麻痺させて許容できる淡い期待に満ちていた。
「元気でね、お姉ちゃん」
 ハチは全身を脱力させて滑り気のある柔らかな断面に背を凭れさせた。脂身に託された防寒具が酸の粘液で溶かされ、ハチの地肌をどす黒く侵食していく。ハチは背中から伝わる激痛に堪えて、ひたすら目を閉じて死の世界の到来を望んだ。肉体が完全に溶けて、骨だけを残す死に様を脳裏に巡らせる。智頭の無事を願うハチは、遂に外部からの苦痛に堪えきれず、眼球を裏返して気を失った。手足を痙攣させて口から唾液を滴らせるハチの顔は何処か死への幸福に満ち溢れていた。
 数分後、窮屈な闇の空間に一筋の光が舞い込んだ。背中から焦げた煙を発するハチの正面を覆い隠す闇が縦に切れ目が入り、外部から潜って来た鋭利な銀色の爪が覗いていた。更に闇の空間は爪の追撃で真横に切れ込みを入れられた。破れた穴から差し込む光を浴びて実体を露にした窮屈な空間に、四肢を砂に這わせて歩く男が侵入してくる。
「新たな人間の匂い、波長が弱く死を望む人間のようだ」
 男は鼻をひくつかせて気絶するハチの体臭を嗅ぎ、ハチの傍らに転がるリュックを拾い上げた。迷わず自身の右肩に提げて、ハチの足を引き摺って外に連れ出していく。徐々に闇の壁に囲まれた砂漠の大地が広がる新たな世界が姿を現し、ハチが数日間泊まっていた借り宿であり、闇の空間を錯覚させていた元凶が正体を現した。
「私は強い番犬だ。空腹のサボテンよ、そう簡単に肉はやらんぞ。命が惜しくば引くことだな」
 男は警戒を促して、主に人肉を好んで砂漠の大地を駆け回る巨大なサボテンを追い払った。サボテンは負傷に呻くような低い鳴き声を上げて砂漠の果てへと高速で移動する。どうやらハチはこの世界に到着してすぐにサボテンの体内に呑み込まれたようだ。
 ハチを救出した男は人間の形をしており、本来は二本足で生活していたであろう両手を、蛙のように砂の大地にぴたりと着けている。犬のように細長く尖った鼻は鋭敏に生物の匂いを嗅ぎ分ける脅威の嗅覚を発揮できるらしく、リュックに収まった左腕の血肉さえ感じ取っているようだ。全身は異様に発達した筋肉に覆われており、右手は不気味に変形して鋭利な銀の爪を伸ばしている。男は砂漠の温暖な気候に合わせて、全身をシャツと丈の短い黒のパンツで装っていた。サボテンの胃液で変色したハチの背中を確認して、右手の形状を通常の人間と同様に戻しながら、ポケットから草葉を潰した傷薬の瓶を取り出す。
「生きる意志がなければこそ、人は誰かを求め、縋るというもの。お主がその意志を再燃するまで、私は恩師の教えを守って行動するとしよう」
 男は負傷の背中と右手に傷薬を塗り込みながら呟き、砂の大地に横たわるハチの傍らにリュックを沿えた。穏やかに目を閉じて死の到来を待つハチに微笑を送り、男は地面に這わせた四肢を巧みに操って、広大な砂漠の何処かへと去っていった
「う、ううっ」
 数時間後、ハチは頬を叩く生温い風に意識を回復した。空気中に漂う酸素が肺に流れ込み、気管を通して口から呼吸を繰り返す生物活動で、死を切望する意思とは裏腹に肉体が生存を保っているのを実感する。現実を逃避して死の世界に安堵を求めるのは許されないというのか、ハチは柔らかい砂の大地に顔を埋めて死の刻限を待ち侘びる。
「何も考えたくない。全て忘れてしまいたいの。ごめんね、お姉ちゃん」
 ハチは虚ろに智頭に謝辞を述べて、空腹の肉体を死に追いやるように強引に眠りに就かせた。
 この世界の昼を象徴する発光体が没して、夜を再現する小粒の発光体が散りばめられた暗闇が訪れる。寝息を立てるハチの周囲には、砂の大地に穴を掘って生息するリス染みた小動物が顔を覗かせていた。ハチを体内に取り込んだ巨大なサボテンは広大な砂漠の至る所に生息しており、人肉を要求する食欲を堪えて砂塵に下半身を埋まらせたハチの生存を確認していた。ハチを救った男に畏怖して迂闊に手を出せないようだ。互いに鳴き声を上げて、生命力を弱らせるハチの状況を数秒毎に報告している。
 ハチは睡眠に苦労する瞼を薄く開け、間近まで針だらけの幹を接近させたサボテンの大群を眺めた。死の願望で達観したようなハチの顔は恐怖を抱いて凍り付き、救いを求めて無意識に甲高い悲鳴上げた。
「いやあ、気持ち悪いよ、近寄らないでよお」
 ハチは右肩にリュックを掛けて砂の大地を手で掘り始めた。サボテンは奇妙な鳴き声を発して呪詛の言葉を唱えている。ハチは現実に差し迫る未知の生物に脅かされた生命を保つために穴を掘るが、強大な食欲に敗れた年長のサボテンが幹を倒してハチの全身に針を突き刺そうと目論んだ。
「空腹のサボテンよ。先刻の警告を忘れたのか。今すぐ手を引かねば根絶やしにしてしまうぞ」
 傾斜になった砂の丘からハチを救出した男が怒号を発した。食欲に駆られてハチの顔に迫っていた年長のサボテンは慌てて幹を垂直に立て直して、砂の大地を泳ぐようにサボテンの全軍が四方八方に敗走していった。ハチは額を掠めた研ぎ澄まされた針で手傷を負い、額から左の目尻に掛けて鮮血を伝わせていた。
「負傷したか。軽傷のようだが、毒が回ると厄介だな」
 男は夜目を利かしてハチの容態を読み取り、砂の傾斜を滑り降りて近寄ってきた。ハチは他人の干渉を恐れて後ずさりする。家族外の他人を許容する精神力は脂身の好意で幾許か改善されたが、絶望の淵に立ったハチには受け入れ難いようだ。
「お願い、近寄らないで。私はもういいの」
 ハチは背を向けて逃げるように全力で駆け出した。男は両足を鞭のように撓らせて砂を巻き上げ、数秒足らずでハチの正面に回り込んだ。咄嗟に砂の地面を蹴って反転するハチを逃がさず、男は犬のような跳躍を果たしてハチの背中に飛び掛った。
「じっとしておらんか。お主の体内には毒が回っておる。取り除かねば歩けなくなるんだぞ」
 男はうつ伏せに砂に身を沈めたハチを仰向けに翻して、ポケットから薬草を潰した傷薬の瓶を取り出した。ハチは臆病に悲鳴を上げて右腕を振り回し、男の指先に付着した得体の知れない薬草の緑を払い除けた。
「やめて、私はもう死にたいの。あなたが誰だか知らないけど、他人のくせに、どうしてほっておいてくれないのよ。お願いだから、私に関わらないでよお」
 ハチは激情に駆られた言葉を突き付けて、傷薬を塗り込もうとする男を両足で跳ね除けた。砂の大地に尻餅を付いて呆気に取られる男をひと睨みして、ハチは急いでリュックを肩に担いで砂漠を駆け出した。両目には未知の世界に辿り着いた不安と思わぬ他人の行為に恐怖する涙が湛えられていた。
「他人の情は要らぬというか。交流を拒絶した世界で育てられた影響だろうが、哀れな人間だな」
 男は遠のいていくハチの背中を寂しげに眺めて、傷薬の瓶をポケットに戻した。他人の干渉に酷く怯えたハチの経緯を考えながら四肢を地面に這わせ、男はハチに気づかれぬよう砂漠に残った足跡を追った。



 
 砂漠の夜は期間が短く、ハチが闇の壁まで果てしなく続く砂漠を歩いて数十分もせぬ内に、没していた発光体は中天まで舞い戻っていた。
 ハチは体内を駆け巡るサボテンの神経毒に意識を朦朧とさせていた。砂の抵抗を踏み締める度に未熟な体は激痛に襲われ、青く澄み切った大空は褪せていき、次第に視界は砂の大地が見通せない白色の霧に包まれる。
「はあ、はあ、疲れた」
 ハチは頬を緩ませて漸く訪れた死の予兆を受け止め、痺れるような痛みを訴える両足の力を抜いて砂の大地に倒れ込んだ。砂漠に点在するサボテンは瞬時にハチの周囲に群がろうとするが、遥か後方から尾行してくる男の気配を察して不動を保っていた。男の気配が消えれば即座にハチの四肢を引き裂いて分配する所存を、奇妙な鳴き声を上げて連絡を取っている。
「早く、死なないかな。痛いよ、苦しい、楽に、なりたい」 
 ハチは智頭に切り落とされた左腕を収納したリュックを右腕に抱き、静かに目を閉じて肉体が滅びるのを待った。足跡の匂いを嗅いで背後から忍び寄る男は、左右に分かれてハチの様子を観察するサボテンを睨み付け、息を荒げて死を切望するハチの顔を覗き込んだ。
「安心しろ、お主は決して死なせはせん。私が必ず助けてやるからな」
 男は虚ろに拒絶の視線を向けるハチの瞳を一瞥して、薬瓶から指先に絡め取った傷薬を、蛇行した傷口が覗くハチの額に塗り付けた。大口を開けて研ぎ澄まされた犬歯を覗かせ、毒を吸い出そうとハチの太腿に牙を刺し込む。ハチは極度の飢えと渇きで膨張した腹から苦痛を振り絞った。
「ああ、痛い、痛いよお。もう嫌なの、やめてよお。どうして、楽に死なせてくれないのよお」
 ハチは弱った体に鞭打って拳を作り上げ、神経毒を吸い出す作業に順ずる男の顔を殴り付けた。男は左の眼球を器用に動かしてハチを睨み付ける。ハチは男の冷酷な瞳に圧倒されて背筋から寒気が這い上がり、生存を保つ本能に身を委ねて右拳を地面に下ろした。
「それでいい。私はお主を救いたいだけだ。お主が意志を取り戻すまでは、死の窮地に立たされていない限り、無闇な干渉はせぬよ」
 男は血の塊が溢れる太腿の傷口を舐め取り、口に含んだ毒を砂の地面に吐き出す作業を何度も繰り返した。毒の概念を知らないハチは男の奇怪な行動に目を奪われた。牙を刺し込んで食い殺されるかと思えば、救出すると訴えて危害を加えてこない男の心境を読み取れない。ハチは怪訝そうな顔付きで、砂を汚染する不気味な緑色を横目で捉え、右腕を差し伸ばして毒の砂に触れさせた。
「あ、つうっ」
 ハチは指先を伝う電気染みた刺激に右腕を引き、男が吸い出している毒の正体に検討を付けた。そして男が善意で完全な毒の吸い出しを行っていることに気が付いた。ハチは複雑な感情に苛まれて目を伏せ、取り敢えず男の毒抜きが終えるまで不満を訴えず静観していた。
 男は真剣な面持ちで入念に牙で貫いた傷口を舐め取り、指先で絡め取った傷薬を満遍なく塗り付けて傷口を覆い隠した。毒抜きを終えた安堵感から胸を撫で下ろして、他人の干渉を大人しく見守ってくれたハチに微笑を送る。
「いい子だ、よく我慢できたな。毒は粗方抜いておいたが数日間は痺れて満足に動けないだろう。餓死せぬように私が食糧を取って来てやるよ。下手に動くと危ないからじっとしてな」
 男は安心させるようにハチの顔を舐めて、颯爽と砂漠の大地を四肢を活かして高速で駆け出した。ハチは何も言えぬまま遠ざかっていく男の背中を見送り、急激に孤独に陥った不安に苛まれて挙動不審に周囲を見渡した。 
 サボテンの大群が奇妙な鳴き声を上げて、ハチの死の到来を幹の表面に樹液を滴らせながら待ち侘びている。帰還してくるらしい厄介な男に警戒を払って責めて来ないが、ハチの不安を増幅させるには十分過ぎるほどの圧迫感を与えていた。
 ハチは痺れが拭えぬ体を這うように動かして、サボテンと距離を置こうと躍起になった。サボテンは当然のように怒りめいた奇声を上げて尾行してくる。ハチは決して後ろを振り向かず、唯一の所有物であるリュックを丁重に抱き締めて逃げ惑っていた。
「うう、怖いよ。静かに死にたいに、どうして私はいつも悪いことばかり」
 ハチは背後から砂を断つように迫ってくるサボテンに怯えて弱音を吐いた。サボテンは不細工な恰好で身を捩って逃げ惑うハチに発情して、自我を崩壊させる寸前の状態に陥った。幹にこびり付いた針を一斉に発射して、ハチの行く道を針の散弾で覆い尽くす。
 ハチは前方からも迫ってくるサボテンの群棲と毒を付加する針の効果に顔を蒼白させ、喉まで込み上げてくる悲鳴を口を塞いで我慢した。男の忠告を守らなかったばかりに、サボテンの理性を刺激した愚行を深く後悔して、緊迫した殺意を傾けるサボテンから逃避するように目を瞑った。
 サボテンの群棲はハチの反応を楽しむような奇声を上げて、悪戯に大量の針を発射した。ハチの全身を掠めるように高速で飛び交う針が砂の大地に減り込んでいく。ハチははっきりとした意識を以て、死の恐怖を鮮明に蘇らせていた。自殺に至るまでの過程は底知れぬ恐怖を乗り越えなければ達成されない。ハチは胸の内で抱いていた安易な自殺願望を撤回したい感情に駆られて、口から声を発さずに助けを求めた。
「ギボー、グリエシャー」
 ハチの祈りが救世主に届いたのか、遥か前方から発せられた奇声がハチの頭上を駆け抜けた。奇声はサボテンの群棲の幹に浴びせられ、世界の端である闇の壁まで突き抜ける。楽しげな奇声を上げていたサボテンは、奇声を聞いた傍から身を硬直させて固まっていた。奇声の影響を受けなかったハチは目を開けて、前方から巨大なハサミを右手に携えて、砂漠の景色に扮したバイクを走らせる異様な出で立ちの男を捕捉した。
「チョッキン、チョッキン、グリエシャー」
 男は右手のハサミを強靭な握力で開閉させ、バイクを高速で飛ばしながら、間近に迫ったサボテンの幹を半ばから切断した。ハサミが到達する範囲に迫ったサボテンの幹を片っ端から切断して歓喜の雄叫びを上げている。ハチは善良な救世主とは思えないサボテンの伐採に没頭する異常者を避けるように砂の大地に身を伏せた。全身に赤い包帯を巻き付けた細身の男は、感情が排除されたような間抜けな両目だけを外部に露出していた。男が通り過ぎた後にはサボテンの幹が撒き散らされ、視界に入らないハチの脇を平然と通り過ぎていく。
「チョッキン、チョッキン、グリエシャー」
 男の熱狂した濃密な雄叫びは、唸りを上げるエンジン音が途切れてもハチの耳に届いていた。ハチは警戒を払って暫く地面に身を伏せ、絶え間なく襲来する未知の恐怖に震えていた。意識を放心させて抑えていた死の恐怖が最大限に膨れ上がり、ハチは絶命した家族の出迎えを急かすように泣き喚いていた。
「もう、嫌だよお。お姉ちゃん、私はどうすればいいの。どうすれば、苦しまずに済むの」
 ハチは人気の失せた広大な砂漠に全力で返答を求めた。だが無情にもハチの叫びは広大な砂漠に反響して、質問通りの言葉をそのまま突き返すだけに留まった。ハチは家族と別離した孤独の辛さに堪え切れず、臆病な涙を流して砂の大地に蹲った。ハチは発狂しそうな頭を抱えて無意味に砂の大地を転がり回る行動に及ぶが、奇抜な行動に対する他人の侮蔑や非難の声すら上がらず、ハチの孤独は限界の域に達しようとしていた。
「うう、あああああ。誰か、助けて」
 ハチは右腕にリュックを抱いて救いを懇願した。泣き喚くハチの声を聞き付けて、残虐な男に始末されたサボテンの生き残りが意識を回復して集結してくる。ハチには新鮮な人肉に飢えたサボテンの攻勢から逃げ切れる余力は残っておらず、手を合わせて自らが招いた災難を拒絶する祈りに順じた。
「だから何度も警告しただろうが。空腹のサボテン如きが、私に刃向かおうなどおこがましいわ」
 発光体の陽光を背に浴びて引き返してきた男が、両手を鋭利な銀の爪を生やす武器に変形させてハチの元に戻ってきた。男はハチを取り囲むサボテンに冷酷な瞳を注いで、俊敏な動きでサボテンの合間を跳ね回る。
 凶悪な銀の爪が、瞬く間にサボテンの幹を引き裂き、存分に奇妙な断末魔を周辺一体に響き渡らせた。あっという間にサボテンの処理を完遂した男は優雅に宙返りして、サボテンが全身から滴らせた緑の血で腐食した砂の大地に降り立った。
「怪我はないようだな、だから動くなといっただろ。強制したくはないが、この世界は危険だからね」
 男は口に咥えた食糧を詰めた布製の袋を、通常の形状に戻した右手に持ち替えてハチに微笑を送った。ハチは恐怖に引き攣らせた頬を歓喜に溶かせ、この世界で唯一の味方であろう他人の男に敬意を称したい衝動を抑え切れなかった。
「あ、ありがとうございます。他人の私のために、本当に、ありがとう、助かりました」
 ハチは感謝の涙を目に湛えて何度も頭を下げた。男は面食らったような顔で、態度を急変したハチに驚いていた。食糧を詰めた袋を砂に大地に落として、孤独に陥った恐怖からの解放に歓喜するハチの顔を眺める。男は酷い目に遭遇したのだろうハチの胸中を察して、ハチを宥めるように抱き締めてあげた。
「寂しい想いをさせてしまってすまない。私はお主が助けを求めてくれるなら守ってあげるよ。例え求めなくてもお主を死なせるわけにはいかない。それが恩師の教えであり、人間に忠義を尽くすようになった私の性分だ。この食糧をあげるから、お食べなさい」
 男はハチの体を引き離して諭すように訴え、加熱した小動物の肉と木の実の類が詰まった袋を手渡した。ハチはやっと訪れた孤独からの解放を覆すように、背を向けて砂漠の何処かへ旅立とうとする男の背中に手を伸ばした。
「待って、行かないで。お願い、独りになりたくないの」
 ハチは男の服の裾を掴んで静止を促した。男は明確な生の執着を含んだハチの声を察して、歓迎するような満面の笑みを作った。
「ああ、わかった。お主が私を求めてくれるならいつでも傍にいてやる。私はお主に必要とされて、本当に嬉しいよ。余計なお節介だと思われたら辛いからね」
 男は新たな主に忠誠を尽くしてハチの顔を舐め回した。ハチは男の執拗な愛撫に驚愕して身を引くが、男は敬意を表する悲しい習性に従ってハチを暫く舐め続けた。ハチは本格的に生きる意志を固めて救いを求めたわけではなかったが、一先ず命の恩人であるこの男を頼って今後の方針を定めていく打算的な意向を固めた。悩み抜いた末の結論が自殺になった場合は、迷いなく自らの人生に終止符を打てる心構えを作って置きたいのだ。男は危なげな生きる意志を抱いたハチの決意を何も知らぬ様子で、食糧が詰まった袋に手を突っ込み、焼けた肉を掴んでハチに手渡した。
「さあ、お食べ。口が痺れて噛めないようなら私が食べさせてあげるよ。独りで食べれるかな」
 男は意地悪な口調で早急な食事を促した。ハチは顔をしかめて肉に齧り付いた。食欲に飢えた体は肉の濃厚な味わいを堪能する暇もなく、遠慮なしに袋に手を差し入れて次々と小動物の肉に喰らい付く。
 男は食用旺盛なハチを実の子供を見守るように眺めていた。喉を詰まらせぬよう木の実に牙を刺して、片腕しかないハチを気遣い、自らの強靭な左腕で特製の飲料水を掲げ持った。ハチは恩人である男の好意に甘えて、特に警戒を払わず木の実の断面に唇を押し当て、開いた穴から水分を吸収した。
「お主は優しい目をしているね。良ければ名を教えてくれないか、お主のことをよく知っておきたいからね」
 男は一気に食事を詰め込め過ぎて満腹の腹を抱えたハチに問うた。ハチは満腹の軋みを和らげるように腹を撫でながら無垢な笑みを作った。
「稀白ハチといいます。私もあなたのことをよく知りたい。家族以外の人と付き合うのは抵抗があるから」
 男は素直な胸の内を明かすハチに微笑を送るが、砂漠の生温い風の微妙な変化を類稀な嗅覚で感じ取り、砂漠の遥か彼方を睨み付けた。ハチを先導するように数歩先を歩き、首だけを捻じってハチを見た。
「私は恩師に筑前と名づけられたから、そう呼んでおくれ。詳しい説明をしてる暇はないが、オアシスの拠点が変わりそうだ。急いで私の背中に乗りなさい。早い者勝ちがこの世界の常だからね」
 筑前と名乗った男の視線の先には、先ほどサボテンの伐採に努めていた砂漠に扮したバイクに跨る男と、右手に豪華な扇子を握った露出度の高い深紅の服で着飾った背丈の高い美女が、深紅のハイヒールに苦労しながら駆けていた。ハチは筑前の言われるがままに筋肉質な背中に腰を据えた。
「行くよ、ハチ。私は何があってもお主を守り通す。そう簡単に心は許せないだろうけど、これだけは信用して欲しい」
 筑前は自身に重い試練を課すように告げて、ハチの質量を苦にせず砂漠の大地を高速で駆け出した。ハチは筑前の腹に右腕を回して身を屈め、世界をも破壊する智頭に匹敵する敵意の眼光を放つ、バイクの男と深紅の女に目を合わさぬように徹していた。



 ハチを背に乗せて砂漠を疾走する筑前の脚力は群を抜いており、後続から悔しそうに奇声を上げるバイクの男と深紅の女が到底追いつける速度ではなかった。ハチは横目で捉えた後続の人間の冷たい瞳に戦慄が走って肩を震わせ、勇敢に彼らの威圧を跳ね返す筑前に智頭の面影を重ねていた。
「ハチ、この世界にはオアシスと呼ばれる食糧と水源の宝庫があってね。不定期に場所を移して、この世界に居住する人間にレースをさせるんだよ。一番早くオアシスに到着した者だけが使用していいことになっているから、急いでいたわけさ。ほら、もうすぐ見えてくるよ」
 独走体勢に入った筑前は、勝利を確信した余裕の笑みを零した。ハチは目を細めて、筑前の進行方向上に生い茂る森林の中央で顔を覗かせる建造物に注目した。
 全体像は森林の木々で隠れて視認できないが、要塞のような強固な黒塗りの資材で建築されており、簡素な庭園を造った屋上からは、上空に伸びる避雷針のような棒が伸びている。棒の先端には赤い球形のキャップが被せられ、虚空に火花を散らしていた。
「あれが、オアシス」
 ハチは疑問を吐くような口調で独り言を洩らした。筑前は終着点である森林と距離を詰めていき、後続の参加者を圧倒して木々の合間に突入した。ハチが瞬時に後方に流れる突起した枝の障害物に怯えている間にも、筑前は中央の建造物を目指して速度を落とさなかった。筑前とハチが森林に侵入した直後に、中央の建造物の屋上から伸びる棒の先端から強烈な電気が放出されて、オアシス一体を囲むように薄い電気の膜で包まれた。
「着いたよハチ、ここがこの世界で尤も安全で快適な場所だ」
 筑前は速度を落として、電気の膜で防備された勝利者のみが居住できるオアシスで完全に足を止めた。ハチは感嘆の声を上げて、黒塗りの建造物の畔に広がる透き通る湖と、多様な木の実を吊り下げる鮮やかな紅葉を見渡した。筑前はハチを背中から下ろして、豊富な水量を蓄える湖に延びる芝生の道に散乱した女性用の服を漁り出す。
「筑前さんは、ここで生活しているの。綺麗なところだね」
 ハチは他人行儀に弁えて筑前と親交を深めようと努めた。筑前は高揚して鼻歌混じりに温暖な気候に適した衣服を見繕い、露出度が差ほど高くない、通気性に富んだ控え目の黒の服を持ってきた。
「そうだね、私がいつも勝つのでここで暮らしてる。ただし、肉の調達だけは外に出る必要があるね。基本的に外部からは誰も侵入できないから安心して過ごすといいよ。それより、その恰好では恥ずかしいだろ。ハチに似合いそうな服を選んだから着てみるかい」
 筑前は造作もなく二本足で立ち上がり、見繕った服を両手で広げてハチの返答を待った。ハチは脂身に託された防寒具への恩義を忘れていなかったが、サボテンの胃液で背中が破けていたので了承に頷いた。
「あ、でも、勝手に着てもいいのかな。持ち主がいるんじゃないの」
 ハチは服を受け取りながら礼儀を弁えた。筑前の親切な好意を受けたせいか、緊張した面持ちは平静を取り戻してきている。
「今はいないよ。それは死んだ人間の服だからね。いつも洗っているから衛生面では問題ないよ、大丈夫」
 筑前は気楽に告げて再び四肢を地面に着け、足早に黒塗りの建造物に駆けていった。ハチは苦笑を浮かべて死人の服を恨めしそうに眺め、芝生に散乱する他の服を見渡すが、どれも死人の服なのだろうと割り切って着替え始めた。
 ハチは雑念を取り払うように温暖な砂漠に適する衣服に着替えながら、妙に人心地を取り戻した無責任な自分への怒りに駆られて顔を曇らせた。オアシスの不思議な情景に心が安らいでいるせいか、家族の死をすんなりと受け入れて、他人である奇妙な男と生活を営むなど、以前の自分では考えられなかった筈だ。自暴自棄になって生存に執着する卑しい人間に成り下がったのだろうか、ハチは着替え途中の未熟な乳房を晒して芝生を踏み締め、湖面に映る自身の顔を覗き込んだ。
 緩やかな温風に波紋を拡がらせる湖面には、故郷の世界を飛び出した当時より大人びたハチの顔が映し出されていた。
「馬鹿みたい、私は、私だよね。でも、妙に落ち着いてる。あんなに死にたかったのに」
 ハチは眉間に皺を寄せた湖面の自分を修正するように笑顔を作るが、今後の方針に彷徨う優柔不断な自分に苛立ちを募らせて顔を強張らせた。生存者である智頭の顔を思い返して芝生に坐り込み、虚ろに湖の反対側にある木の実を蓄えた大木を眺める。
 ハチはサボテンの体内でも考え込んでいた、智頭との別れ際に救いを求められたような台詞を頭に過ぎらせていた。自我を崩壊させた危険な状態による幻聴の可能性もあるが、智頭が初めて涙を流した光景は紛れもない事実だった。ハチは智頭の安否や事の真相が気懸かりになり、より強く安易な自殺を選択できない心労を抱え込んだ。
「ハチ、倉庫からハチの分のベッドを用意しておいたよ。体が痺れて痛いだろう、暫くはあの家で大人しく寝ておきなよ」
 黒塗りの建造物から飛び出してきた筑前が、全力で駆けながら陽気な声でハチの容態を気遣っていた。ハチは他人を守り通そうとする信念を貫く筑前に尊敬の意を抱いて笑みを零した。ハチは平然と未熟の乳房を晒したまま、黒の服を頭から被せようとするが、ハチの目前まで迫った筑前は慌てて背後を振り向き、大声で猥褻なのぞきの誤解を解こうと謝った。
「ごめん、私はハチの体を見たいから服を勧めたわけじゃなく、ただ、恥ずかしいだろうと思ったから渡したわけで、決して悪気があったわけでは」
 筑前は顔を紅潮させて、しどろもどろな長い講釈を垂れていた。家族間の交流に置いて、裸体を晒す行為を恥辱とは教わらなかったハチは首を傾げた。取り敢えず機敏に面白い仕草を取る筑前の反応を眺めて、込み上げてきた笑いを断続的に口から吐いた。
「どうもありがとう。私はあなたに何も返せるものがありませんが、暫く一緒に生活させてください。よろしくお願いします」
 ハチは丁寧な言葉遣いで筑前に頭を下げた。筑前はハチの意外な対応に呆気に取られて頭を下げ、照れ隠しするようにハチを先導して五階建ての黒塗りの建造物の内部へと案内した。
 ハチと筑前が黒塗りの木製の扉を抜けると、湖面が一望できる窓際に隣り合わせに並んだ洋式のベッドが目に飛び込んだ。部屋全体の面積は外観より遥かに狭かった。奥に倉庫と張られた札が貼り付いた扉とトイレの扉があり、ベッドの他には箪笥や向かい合わせに椅子が並んだテーブルなどの日用品が設置されていた。この建物は別荘の感覚に近い構造になっているようだ。
「ここは仮住まいだからね。殆ど外部からの侵入を阻止するシールドを張る装置の置き場になってる。まともに行き来できるのは、トイレと倉庫ぐらいだね。後は機械しか置いてないよ」
 筑前は玄関先で内部を観察しているハチに補足説明をして、シーツを敷いたばかりのベッドに疲れたように倒れ込んだ。隣り合わせになったベッドの表面を叩いて、遠慮気味に歩を進めるハチを急かし立てる。
「ハチは疲れてるんだから今日と明日ぐらいは安静にしておきな。私はハチの要求を最大限叶えるために行動するから、いくらでも我侭を言ってくれて構わないからね。気になったことがあれば何でも聞くんだよ」
 筑前の子供をあやすような対応に、ハチは微笑を湛えて頷き、何も考えずに隣のベッドに飛び込んだ。
「ハチが寂しくないように傍にいてあげるよ。獲物を狩りに行く時は書き置きを残して置く、とにかくハチが安心できるように何でもしてあげるから」
 筑前は穏やかな笑みを浮かべてハチの体に布団を掛けてあげた。ハチは前の世界を旅立ってから、久し振りに堪能する柔らかいベッドの感触と温かい家庭の雰囲気に頬を緩め、数分と持たずに安堵の眠りに就いていた。



 筑前の至れり尽くせりの溺愛のお陰で、ハチは数日間を悪夢にうなされる事態には陥らず、食事と睡眠をたっぷり取れる、実に平穏で充実した時間を過ごしていた。
 窓から眺めるオアシスの情景は、ハチの胸を締め付けていた自責の念を緩和させる不思議な魅力を持ち、オアシスを形成する木の実を付けた植物と湖は風に靡いて音を立てる程度で、腹黒い支配や憎悪や妬みや復讐などの負の感情を微塵も感じさせない。それは他人である筑前からも明確に伝わってくるが、彼の場合は更に使命感に捉われた慈愛に縛られていて、実際に人間を迎合するのは慣れていないのかもしれない。
 ハチは筑前と対面にテーブルに腰掛け、穴を開けた木の実で汲み上げた湖の水で喉を潤していた。筑前は過保護で、ハチが頬に水滴を付着させると瞬時に手を伸ばして拭い取る。ハチが面白がって地面に零すと自ら頭を下げて床を舐め取っていた。筑前が四肢で席に着席する姿には慣れたが、ハチは筑前が犬染みた行動を取るには理由があるような気がしてならなかった。
 馴れ親しんだ他人であるからこそ尋ねてみたい疑問は山ほどあるが、結局は若しもが怖くてハチは筑前から切り出してくれるのを待っていた。最優先すべきは、自身の今後の方針を早急に決定することなのだが。
 ハチは頭を悩ませる見通しの立たない前途から逃避するように木の実を両手で掬って、一気に胃の中へ大量の水を流し込んだ。自我を崩壊させる成長しない悪癖に、流石に嫌気が差している。
「ハチ、どうしたの。まさか、怒ったりしてる。そうだよね、この家はちょっと狭いし、遊び道具もないからね」
 筑前は顔を曇らせたらしいハチの顔を眺め、不安そうな表情でハチの一挙手一投足に注目していた。ハチが筑前との共同生活で気を使うのは、日増しに口調と性格がやけに臆病になった筑前への対応だ。いつか強大な心労を抱えて寝込みそうな筑前に、ハチは誤魔化すような愛嬌のある笑顔を振り撒いて、いつものように筑前を落ち着かせる。
「大丈夫、私が住んでた世界と比べたらここは快適ですよ。オアシスの外は怖いけど、筑前さんは優しくしてくるし、オアシスの景色を眺めていると不思議と落ち着きますから」
 ハチは安心したような微笑を湛える筑前の顔色を窺ってから席を立った。小型の冷蔵庫の扉を開けて、食糧の在庫状況を確認する。筑前は椅子から飛び降りて、ハチと一緒に木の実だけが詰まった冷蔵庫の中を覗き込んだ。三食の食事を率先して調理するハチを一瞥して、乏しい食材に溜息を付いた。
「肉が切れているね、砂漠に出て取りに行かなきゃ駄目だな。ハチ、三時間、いや一時間でいいから、家で待っててくれるかな」
 筑前は申し訳なさそうに、孤独を味あわせてはならない守るべきハチに尋ねた。ハチは神経質に気を使っている筑前の表情をすぐに読み取り、後ろめたい疑念を抱かずに送り出そうと満面の笑みを作った。
「私は大丈夫です。それより、無理はしないで下さい。怪我とかしたら大変だし」
 ハチは家族の安否を気遣うように真摯に尽くしてくれる筑前の帰還を願った。筑前はハチの肩を抱いて時間厳守で戻ると強く訴え、急いで箪笥に仕舞った布製の袋を引っ張り出して外に飛び出した。ハチは慌てて家の扉を開け、オアシスの争奪戦より風と化して速度を上げる筑前を手を振って見送った。
「すぐに戻るよ、本当にすぐに戻ってくるからね。安心して待ってるんだよハチ」
 筑前は遠吠え染みた唸り声をハチに届けて、高速で駆け抜ける肉体を森林に突入させた。ハチは口元に手を沿えて了承の叫びを返す。やがて、筑前の遠吠えと気配は完全に消え、ハチは若干の孤独を身に沁みながら部屋へと戻った。
「掃除でもしてようかな」
 ハチは独りで過ごす埃が目立たない部屋を見渡して、筑前が清潔に保っている倉庫の扉を開けた。筑前の存在が欠けると妙に広くなった実感が湧いてくる。早くも孤独の恐怖に陥ったのか、ハチは雑多に取り揃えられた調度品の数々を無意味に片していた。
 壁に掛けられた時計の秒針を刻む音が静寂な部屋に響き渡る。筑前が外出して数十分もすれば、ハチは不気味な静けさに強迫観念に捉われ、紐で絞った医学書の解いては、結び直す異常な行動を繰り返していた。次第にハチは寂しさで胸が締め付けられ、家族の死に顔を思い出して自責の念に駆られた。倉庫に並べられた予備のベッドを、自殺願望を紛らわせるように数分に一回は殴り付けている。日干しの匂いが染み込んだ清潔なシーツが乱れて台無しになっていた。
 無意味な掃除と感情的な破壊を続けて二時間が経過する。ハチは何故か戻ってくる気配を見せない筑前を心配して、嗚咽しそうな顔を窓から覗かせていた。緩やかな風が葉を揺らして鳴る音が迫力を増して恐怖を演出している、湖面がやけに波紋を拡げて、人肉に飢えたサボテンの形を表現しているような被害妄想に捉われる。ハチは他人である筑前の存在が、どれだけ自我を保つ役割を担っていたかを認識して、敬遠していた他人の存在そのものの価値観が変わっていくような気分に苛まれていた。恒例の現実逃避に入り浸りたい悪癖が芽生えるが、ハチは頬を強く叩いて紛れもない真実を少しずつ受け止めていた。
 この世には、悪人と善人がいて、ゲージを移動する手助けをしてくれる人間や、人間を救い出す目的に従って生きる機械が確かに存在する。ハチは、ずっと以前から他人が、時に家族以上の情を注いでくれるのを知っていながら、受け止めるどころか更に敬遠して一切の交流を断ちたかった。家族以外は、善人ぶっていても信用が置けない生き物だと自己を強引に納得させてきた。
 孤独を紛らわせるように他人の価値を考え、木の実で飢えを凌いでいる内に三日間が経過した。生きる定義として設けた他人を恐れるハチの価値観は、筑前が外出した数日の間に正否を判断できなくなった。確実に言えるのは、筑前が善人で、何らかの使命感には捉われているが、悪意の欠片も秘めていない良心の塊であるということだ。彼は、信用できる他人。
「洗濯物は乾いたかしら、食事の用意は万全なのにな。早く帰ってこないかな、筑前さん。早く、帰ってきてよ」
 まだ、帰って来ない。正確に何度眠りに就いて、期間の短い夜を何度終えたか把握できていない。他人の若しもが怖いとは、親愛する他人が死んだ場合も含まれるのだろうか、少なくともハチは単純に温厚な態度を豹変して殺人鬼と化してしまう他人が怖かった。智頭の例を見て来たからこそ、怖くて接触を恐れていた。
「ひょっとして、また、お別れなの。私独りが知らない内に筑前さんは死んで、私はここでずっと独りで生きていくの。お兄ちゃんみたいに、約束したのに、戻って、来ないの。そんなの」
 倉庫の無意味な整理に没頭していたハチは、熱を発する両目の異常に気付いて手を当てた。いつの間にか、涙腺の脆い両目に涙が溢れていた。寂しさで張り裂けそうな胸が鈍い軋みを上げて、頭の中が筑前の安否で飽和される。
「早く、帰ってきて」
 ハチは虚ろに頭上を見上げて、入念に磨き込まれた額縁を目に留めた。整理と称した破壊の際は、殆ど下を向いて見ていなかった額縁の写真には、現在居住している黒塗りの建物を背景に、四肢を地面に着ける筑前と若い男性が肩を寄せ合って映っていた。筑前の家族だろうか、ハチはその若い男性に何処か見覚えがあったが、活発な頃の筑前を眺める内に不安が増幅していくので、紐で縛られた医学書の山に視線を移した。紐を解いて崩れた際に順番が入れ替わった頂上の医学書には、埃が被った紙切れが挟んであった。
 ハチは興味本位に駆られた、或いは自殺願望を紛らわせるように紙切れを千切りたかったのか、専門的な用語が記載されていない、簡素な文字の羅列が書かれた紙切れに目を落とした。そこには、筑前が誰かに感謝の意を表した内容が書き綴られており、『親愛なる恩師、ドクダミ彩文様へ』と相手方への敬意を表した文章が途中に記されていた。
「ドグダミ、彩文」
 ハチは何かを思い出したように額縁に視線を戻した。髪型こそ整髪されて変わっているが、やはりその顔は、自ら命を絶ってゲージと化したアリソナ減水に託された若い男性の写真と酷似している。左腕を治療できる優秀な医者がこの世界に訪れ、筑前と如何なる関わりを持ったのだろうか、ハチは紙切れを最後まで読み進めた。
「私は憎悪を欲する怪物だった。より強大な憎悪を求めて、この世で尤も愛する家族の憎悪が特に欲しかった。私はそれを罪のない人間を虐殺することで誤魔化していました。遂には家族まで皆殺しにした私の罪を許してくれた恩師彩文様、私を救ってくれたあなたへの恩は忘れません。人間を救い続けるあなたのお力になれるよう、私もこの死の世界で人間を助けていきます。この死の世界に迷い込んだ人間を守ることが、元はレゴスとして無数の世界を滅ぼしてきた私の務めであると信じています」
 読み終えたハチは、智頭に授けられた破壊者の異名を瞬時に過ぎらせた。憎悪を求めて世界を破壊する残忍な面が智頭と共通している。憎悪の矛先を他人に向けて、家族殺しを堪えていたと読み取れる予想だにしなかった事実には驚愕するばかりだった。ハチは手の平に触れる裏面の写真に気付き、紙を翻して巨大な狼の写真を眺めた。『私は生涯、背負った罪を忘れない』と戒めの文字が記されている。
「そうだったんだ。だから筑前は私に優しくしてくれていた。他人の私のために、気を使ってくれて」
 ハチは言葉を詰まらせて、何らかの原因で現在の智頭と同じ境遇に置かされた筑前の心中を察した。本来の意思とは無関係に愛する家族を虐殺する行為に、どれほど筑前は罪悪感に苛まれて、どれほどの憎悪と悲しみを独りで背負ってきたのだろうか。ハチは犯してきた全ての罪を抱え込んでこの世界で人助けに順ずる筑前に尊敬の念を抱き、悲痛な涙に顔を崩して望まぬ憎悪を欲する智頭に同情していた。
「お姉ちゃんは、私に助けて欲しかったんだ。なのに、私は少しも気づかなかった」
 ハチは紙切れを投げ捨てて倉庫を飛び出した。思い返せば智頭はそれとなく合図を送ってくれていた。ハチは残忍な性質を現実逃避気味に受け止めて、訳も知らずに殺戮の中止を訴えていた自分を責めた。帰らぬ筑前が就寝していた隣のベッドに飛び込み、信愛する姉を救出できなかった残酷な歴史を蘇らせて、壊れてしまいそうな極大の悲しみに苛まれた。
「うう、あああああ。私がしっかりしていたら、皆死なずに済んだのに。誰も苦しまなくて済んだのに、全部、私が悪いんだあ」
 ハチは大粒の涙を落としながら、過去に犯した全ての過ちを反省するように叫んだ。虚弱な精神から生み出されていた自殺願望を払拭して、望まぬ殺戮にもがいている智頭を救出するまでは死に切れない新たな決意を固める。
 ハチの叫びは窮屈な部屋を通り越してオアシス全土に響き渡った。悲痛なハチの嘆きを聞き付けて、風が持てる限りの脚力を使った走りで黒塗りの建造物の扉を開けた。
 ハチは顔を上げて玄関先に視線を向け、全身をなます切りにされた黒焦げの筑前の姿を認めた。両目に枯れ果てそうな涙が新たに湛えられ、ハチは歓喜の声を上げて、布一杯の肉を詰めた袋を咥える筑前に駆け寄った。
「ハチ、すまない。寂しい思いをさせてしまった。私はお主を守り抜かねばならないのに。すまぬ、悪かった」
 外部の敵に襲われて帰ってきたのであろう筑前は言い訳を述べなかった。ハチはただ、筑前の傷付いた肉体を抱き締めて歓喜に泣き喚いていた。
「生きていてくれて、ありがとう。筑前さんは死なないでね、絶対に、死なないでね」
 ハチは何度も謝辞を述べていた。縛られていた他人の価値観を崩壊させて、愛情を抱いた筑前の生存に歓喜する。筑前は心を許してくれるハチを静かに抱き締めて、自身に課した重い使命が報われた途轍もない喜びに涙していた。


 
 重傷を負った筑前を看病する内に、一週間が経過した。
 ハチは一刻も早く智頭を救出したい衝動を抑えて、手傷を負った筑前を自らの意思で看病に努めながら容態の回復を待っていた。
 筑前は完治するまでに、憎悪を求めるレゴスとして各地の世界を破壊していた己の経緯を快く吐露してくれた。
 他人の筑前が語る悲劇を真摯に受け止めるハチは、胸を締め付ける強大な自責の念を乗り越え、智頭を助ける決意を新たにすることで精神的にひと回り成長を遂げたようだ。澄み切った顔は現実逃避に走る様子もなく、やけに冷静な思考を働かせて、時折鋭い指摘を投げ掛ける。元来、殺人を公認する世界で過ごしてきた影響が、皮肉にも無数の他人の命を奪った殺戮を事実として軽く受け流していた。その都合の良い思考が、残忍な智頭をこれまで信頼していた原動力にも繋がっている。
 ハチには全ての人間の幸福を願うゆとりはなく、自らの物差しで定めた親愛なる他人と、家族である智頭が生きていればそれで満足だった。それを遂行する有りっ丈の情報を提供する筑前も満足そうだった。彼にとって人間を守るとは、対象の人間の性質を丸ごと受け入れるという点に比重を置かれているようだ。
「ハチ、私は何故自分がレゴスになったのかを知らない。ただ、憎悪を求めなければ生きられない、誰かに助けを求めてはならない、私を愛してくれた者だけが抱く愛憎は最上の御馳走だ。それらの観点だけに捉われて破壊を続けていた。ハチのお姉さんが涙を流して助けを求めたなんて真似は出来ない筈だ。それほどの意思を持った強い人だという解釈はできるけどね」
 レゴスを力説する筑前の瞳には影が差していた。何らかの力による影響だと逃げて、結局は自分の凶悪な意思による犯行だったのかもしれないという疑惑に怯えているのだ。ハチの思考は筑前とは打って変わり、智頭の家族を愛する感情は本物だったと確信を深めていた。
「大丈夫、私は筑前さんが良い人だと信じてる。具体的に、彩文さんにどうやって治療して貰ったのか教えてくれる」
 ハチはテーブルの対面に腰掛ける筑前に顔を迫らせた。筑前は少女の決意に圧倒されるように説き伏せられ、微笑を零して医師のドクダミ彩文との馴れ初めを詳細に語り始めた。
 無数に存在する箱の世界の一つで生息していた筑前は、元々は巨大な狼として人里離れた山奥で家族と暮らしていた。家畜の肉を喰らう狼は厄介者の烙印を押されていたが、人的被害までは及ぼさない利口な知恵を持っていた。だが、ある日突然レゴスと化した筑前は人間を憎悪を享受する感情に支配され、それを忠実に遂行するだけの獣と化した。自我を抑える術は他になく、遂に愛憎を抱いた家族を自らの手にかけた。その頃に医師であるドクダミ彩文が筑前の世界にやって来た。彼は医療が発展した世界で腕を磨く傍ら、傷付いた患者を可能な限り治療したい意思に駆られて箱の世界を飛び回っていた。そして彩文は類稀な特殊能力を秘めた能力者と共同してレゴスであった筑前を取り押さえ、レゴスとしての感情を取り除く手術なるものを執り行った。そこまではハチが此れまでに聞いた情報だ。
「動物の体を操縦する司令部である脳の一部を切除して、残った脳を私が殺した犠牲者の体に移し替えたのだ。拒絶反応が起きて暫くは生死の境を彷徨ったが、無事に乗り越えた私は狼であった能力を継承してレゴスから解放された。恩師自身も能力を持っていたのかもしれない。こんな芸当は通常の医師では無理だと賞賛されていたからね。私は恩師の後に着ついて生涯彼に忠義を尽くす積もりだった。だが、恩師は頑なにお前の自由に生きればいいといったんだ。私は彼に着いていくか迷いながら同行していたが、ここで人間を救っていく一方的な誓約書を見せた。それが狼の能力を継承した私の役目だと思った。恩師は笑って役に立ててくれと医学書を私に託してくれたよ。それから私はずっとこの世界に迷い込んだ人間を探して、守り通そうと声を掛けていたんだ」
 筑前の熱弁はハチには理解し難い専門的な内容が混じっていたが、ハチは彩文の手を借りねば智頭は救い出せないと容易に呑み込めた。医学書を片手に毒の除去法を独学で覚えて人間を救出してきた筈の筑前は、悔しそうに顔を紅潮させて、窓から覗ける湖の方に視線を向けていた。
「でも、無理だったんだ。迷い込んだ人間は殆どサボテンに食われてしまった。ハチのように助けを求めてくれても、狼の習性が抜けない私の姿に怯えて逃げられたりしたんだ。私は医療の知識だけ身に着けた誰一人救えない無能だった。ハチが私を受け入れてくれるかとても不安だった。今こうしてハチと話していられることが、本当に、幸せだよ」
 筑前は感慨に耽って、湖面に延びる芝生に置かれた衣服を眺めていた。救えなかった死者の遺品を、筑前は毎日欠かさず清潔に保つために汚れを落としていた。筑前は救えなかった人間に、せめてもの償いを込めて罪を背負いながら生きていたのだ。ハチは筑前の従順な意志に胸を打たれ、筑前を慰めるような柔らかい微笑を湛えた。
「彩文さんは、今、何処にいるかわかる。別人に体が変わるのは嫌だけど、お姉ちゃんを助けてあげたいの」
 ハチが無垢な笑顔を絶やさずに問い掛けるが、筑前は罰が悪そうな顔付きで俯いた。思い当たる節はあるようだった。
「恩師は世界を飛び回ってるからね。私と別れる当時は三千分の六百のゲージに関心を示していたけど、明確な所在は分からない。それにこの世界のサードマンは奇人に殺されていないんだ。この世界で死んだ人間は、ものの数分で肉体の痕跡すら残さず抹消される。サードマンがいた時代は、彼らの能力でゲージの状態を保つことができたが今では不可能だ。レゴスに匹敵する類稀な能力を秘めた奇人と人肉を好むサボテンが生息するこの世界は、トラップゲージとか、死の世界とか呼称されている本来は立ち入り禁止の区域だからね。全ての世界で流通している言葉ではないけど、何より恩師を探すということはハチがこの世界から」
 筑前は慌てて言葉を切って口を噤んだ。ハチの要求を汲み取ってゲージを移動する方法を思案しているが、ハチは怪訝そうに筑前が訴えたかった台詞の続きを考えていた。この世界から何をすればどうなるというのか、ハチは筑前と一緒に物思いに耽って、慢心していた思考の鈍さを痛感した。筑前には、ハチと同行して彩文を捜索する意志がないのだ。つまり智頭の救出を選べば、この世界を脱出する際に筑前と別離する結末が待ち受けている。
 ハチは顔を蒼白させて、平静を張り付かせて唸り声を上げる筑前の仕草を寂しげに眺めた。筑前はこの世界で得た知識を全て引き摺りだして考えを巡らせている内に、漠然とした妙案が脳裏を掠めた。
「私がこの世界の数字を見た時は、確か五千分の四の世界だった。数字は人口を示すがこの世界の人間は、奇人の二人しか知らない。後の二人はこの世界の何処かに潜んでいる筈だ。私が思い当たるのは、実はオアシスのようなものがもう一つあってね。そこは神殿のようで建物で、私がこの世界に居住した時からシールドを張っていて、全く移動していないんだ。可能性は少ないが、このオアシス以上に高度な装置が組み込まれている場所なら、ゲージが消えずに保管されているかもしれない。駄目なようなら、奇人を殺して、ゲージが消えない間に脱出するしかないかな」
 筑前は平静を装いながらも内心は疲弊した様子だった。筑前の案はハチとの別離を許容するばかりか、最悪の場合は彩文に堅く誓ってきた人間を守り通す忠実な活動が全て無駄になってしまう。それでも筑前はハチの要求を最優先して望みを叶える積もりのようだ。
 ハチは家族のような敬愛を抱いた筑前と別離する覚悟が持てない弱い自分を恥じた。悲痛に頬を引き攣らせて、智頭の救出との葛藤に揺れ動いている。筑前が他人から家族のような存在に昇格したからこその皮肉な悩みだった。
「ハチ、私は自分の意思を無理に押し付けるような真似はしない。人の意思を尊重する恩師の教えに従っているからね。だから初めて会ったハチを無理やり連れ去るような真似はしなかった。今まで何万人もの人間を殺してきたら何となく分かるんだ。ハチはお姉さんを助けたいと心から願ってるだろう。私は、ハチに自分の意思を大切にして欲しいな」
 筑前は全てを理解して押し黙っているハチの心境を見透かして告げた。助言程度に告げた積もりだが、その悲愴めいた顔付きはハチの意思を選択して欲しいと明白に主張している。ハチは筑前の意思でもある智頭の救出を遠慮深げに選択して、申し訳なさそうに浅く頷いた。
「筑前さん、私の我侭に付き合わせてごめんね」
 筑前は俯き加減になったハチの顔を上げさせて笑顔で頷いた。椅子から飛び降りて、すぐに旅の準備を整えるために倉庫とこの部屋を往復する。ハチは左腕が納まったリュックの蓋を開けて、減水の肉塊に別れを告げた際に仕舞った彩文の写真と無料診察券を虚ろに確認した。自害した減水に酷似する意思を抱いた筑前への罪悪感に苛まれるが、気丈に首を振って筑前が支度を整えるのを待った。
 準備を完了させた筑前は、布製の袋一杯に木の実と手軽に扱えそうな短刀や道具等を詰めて、口に咥えて運んできた。
「ハチ、三日分くらいの食糧と使えそうな道具を持ってきたよ。ハチのリュックに入れ替えて必要な時に使ってくれ。重いようなら後で捨ててもいいからさ」
 筑前は心配そうな口調で、執拗にハチの安否を気遣う言葉を掛けた。ハチは泣き出しそうな歓喜を堪えて何度も頷き、手渡された物資をリュックに詰め込んだ。
「オアシスの外にいる奇人は私とハチが二人でオアシスに居住していることを快く思っていないんだ。多分襲ってくると思うけど、安心してね。絶対にハチは私が守り通す」
 筑前はハチと恩師である彩文に忠誠を誓って、強者の威厳を象徴する勇ましい形相を作った。ハチは負けじと顔を引き締めて準備を万端にしたリュックを右肩に掛ける。
「行こう、お姉ちゃんを助けるために」
 ハチは力強い威勢を発して筑前の背中に跨った。筑前は足音を殺して高速で黒塗りの建物を飛び出した。高速で地面を掛ける筑前は生い茂る木々の合間を縫って、オアシス居住者だけが通行を許されるバリアを無傷で突き抜けた。
「チョッキン、チョッキン、グリエシャー」
 オアシスの外部でサボテンを伐採していた砂漠を模したバイクに跨る男は、ひっそりと目的地に突き進むハチと筑前を目撃していた。発した奇声は別の場所で睡眠を取っていた右手に扇子を握った深紅の女への合図だ。
 バイクの男は、オアシス争奪戦の原則を犯した筑前に怒りを爆発させた殺意の眼光を放って、バイクで二人の追跡を開始した。



 発光体が没して数十分の薄闇が訪れる。夜間の砂漠に点在する食肉のサボテンは、疾走する強者の気配を察して散り散りになって別れていた。
 筑前は強靭な四肢で柔らかな砂を上空に巻き上げて、背中にしがみ付くハチを振り落とさない程度の速度を保っている。後続からは奇声とバイクのエンジン音が唸りを上げて、オアシスを争奪する競争とは比較にならない闘志を燃え滾らせるバイクの男が距離を詰めていた。
「チョッキン、チョッキン、グリエシャー」
 男は顔中に巻き付けた包帯越しに殺意を込めた奇声を発した。砂漠に吹き荒ぶ生温い風が、途端に冷気を帯びて、貧弱なハチは全身に吸着する悪寒に震え上がる。身を屈めていた上体を軽く起こして、数十メートル後方まで迫った砂漠の薄闇に紛れた男の瞳と視線を絡ませた。 
 男の憎悪に染まった瞳は凶悪な威圧を発して、ハチを息が詰まるような恐慌に陥らせた。ハチはしゃっくり染みた悲鳴を断続的に上げて、拍動の停止を促すように脈拍が弱まっていた。
「後ろを見ちゃ駄目だ。グリエシャーは植物を伐採することに情熱を燃やす奇人なんだ。人間は襲わない調停は取り付けていたんだけど、オアシスにハチを住まわせたのが相当不味かったようだね。できれば人間である彼を傷つけたくはない。もう少し早く走るから、しっかり掴まってて」
 筑前は徐々に歩幅を広げて、四肢の形状を走力を発揮しやすいように変形させた。筋肉が濃密に締まった細長い四肢は、砂の抵抗をものともせず、軽やかな跳躍を繰り返してバイクの唸り声を掻き消す距離を稼ぎ出す。グリエシャーと呼称された伐採好きの男は、悔しそうな奇声を上げて薄闇に消えていった。
 グリエシャーの姿が視認できなくなると、ハチの全身に吸着していた悪寒は取り払われ、弱まっていた拍動が復活して潤滑な血行を取り戻した。脳に行き渡る正常な血液がハチの人心地を呼び覚まして、ハチはサボテンの幹を擦れ擦れに駆け抜ける光景を捉えて恐怖の叫びを上げた。
「うわあああ、筑前さん、もう一つのオアシスはどれぐらいで着きそうう」
 強烈な向かい風がハチの微弱な声を後方に押し流す。筑前は耳を小刻みに動かしてハチの声を感じ取りっていた。ハチの要求を承って即座に回答を述べようとするが、遥か前方に白皙の素足を露出して、優雅に扇子を虚空に舞わせる深紅の女に気付いて急停止を掛けた。急な衝撃を片腕で支え切れないハチの質量が弾けて、空中で一回転しながら砂漠の大地に背中から叩き付けられた。
「待ってましたよ筑前の旦那、あたいは先着者だけがオアシスに居住する約束を破ったからって怒っちゃいませんよ。オアシスがその女の子を受け入れたんですから仕方がありません。ですがね、可愛い女の子と同棲されると妬いちゃうのが女の性ってもんでしょお」
 露出度の高い深紅の服を纏って、全身から溢れ出る情熱を象徴する赤髪を腰まで伸ばした女は、鼻筋の通った端正な顔立ちを愛憎に引き攣らせた。抜群の体重移動で白皙の素足を砂の地面に這わせる優雅な扇子の舞は、女の周囲の砂の大地から灼熱の炎の柱を噴き上がらせ、上空で火柱の先端を折り曲げて巨大な炎の塊へと凝集させている。炎の塊には目と口と鼻と炎の牙が形成され、女が舞を終える頃には、巨大な龍を模した雄大な炎が完成していた。 
 筑前は背中の痛みを堪えて騎乗するハチに謝って、扇子を仰いで巨大な炎の龍に咆哮を上げさせる深紅の女に真摯な眼差しを注いだ。
「先日も言った通り、それは誤解だよビレイ。ハチは守るべき人間なだけで、別に恋愛感情を抱いているわけじゃない。それにこれからハチは別の世界に移動する目的があるんだ。お主とグリエシャーの怒りは、気が済むまで受けただろ。頼む、道を譲ってくれないか」
 筑前はビレイと呼称した女に頭を下げ、四肢の筋肉を収縮させてビレイの気の緩みを待っていた。先日、筑前が肉の調達に遅れた原因は、ビレイとグリエシャーによって妨害されたからのようだ。
 居住まいに隙がないビレイは腰に手を添えて前屈みになり、立ち退きを要求するハチの凛とした瞳を覗き込んだ。筑前を独占するハチに抱いた嫉妬が急速に高まっていき、止め処ない情熱に駆られたビレイは全身を発火させて、炎に焼かれながらけたたましい笑い声を上げた。
「信用できないね。制裁を加えて一週間も経つのに、その子と未だに暮らしてるなんて愛してるの証拠だよ。いいさ、いいさ、所詮あたいは日陰の女。力を持ったばっかりに旦那はあまり相手にしてくれないからね。でもね、旦那を見てると体の芯が熱くなって、あたいの炎で焼いて上げたくなるの。旦那、私の情熱を受け止めて」
 ビレイは扇子を振り翳して、対象者への情熱が増す毎に火力を増幅させる炎の龍を突撃させた。全身発火して踊り狂うビレイの扇子の舞に合わせて、炎の龍が顎門を開いてハチと筑前を呑み込もうとする。
「仕方ない、逃げるよハチ。気を使ってる余裕はないからできるだけ落ちないでくれ」
 筑前はハチに忠告を促しながら寸前のところで横に跳躍して回避した。巨大な炎の龍は砂の大地に突っ込み、全身を砂に沈めていく傍から跳ね上がる飛び火が生き物のようにハチと筑前の背中に向かって飛んでいく。筑前は俊敏にジグザグに跳躍して的確に飛び火をかわすが、ビレイの情熱の炎で再生した炎の龍が、前方の砂の大地から顔を這い上がらせて口から炎の息を吐いた。
「よけて、筑前さん」
 ハチは筑前の首を操縦桿でも操るように右に傾けて、何とか炎の息が直撃する寸前で回避した。だが跳躍の際に撓らせた筑前の左足が、急激な方向転換に堪え切れずに捻挫していた。筑前が砂の抵抗で激痛が駆け上がる左足を庇って、走力を発揮するに適した四肢を通常の形態に戻すと、筑前の移動速度は明らかに低下していった。
「旦那には、あたいの情熱を全て受け止めて貰うまで逃がさないよ。嫉妬深くねちねち追い回してやるからね」
 ビレイは虚空を切断するように素早く扇子を振って、足元から紅蓮の炎に燃え上がる巨大な鳥を呼び寄せた。深紅に彩られたハイヒールで鳥の頭を踏み付けて上空に飛び立ち、扇子の舞で操縦している炎の龍から逃げ惑う筑前を空からも追いかける。
「ちい、もうすぐでオアシスなのだが、まだ見えてこない」
 筑前は後方を確認しながら炎の龍の吐息をかわすが、左足の激痛に顔を歪めて苦悶の呻き声を洩らした。紅蓮の怪鳥の背中を舞台に踊り狂うビレイはその瞬間を見逃さず、全開に押し広げた扇子を振り下ろして、砂漠の生温い風に情熱を与えて空気に炎を生じらせた。
「旦那、もう逃がさないよお」
 電気が水を伝達するように空気中の酸素が熱を帯びて炎に生まれ変わり、筑前の前方が炎のカーテンで包み込まれた。筑前は咄嗟に目を見開いて急停止を掛けながら全力で首を振った。筑前の首にしがみ付いていたハチの質量が背中から剥がれて、炎のカーテンの層が薄い方向に投げ飛ばされる。ハチは恐怖に悲鳴を上げて、若干の熱に体を焼かれながら炎のカーテンを突き抜けた。虚空を掴むように手を伸ばして、柔らかな砂漠の大地に叩き付けられる。
「ハチ、そのまま真っ直ぐ進めばオアシスに着く筈だ。私はここでビレイを説得する。ハチは先にオアシスに行ってくれ」
 炎のカーテン越しに進行を促した筑前は、背後から迫り来る炎の龍の顎門に呑み込まれて全身が灼熱の炎に包まれた。ハチは筑前が焼き払われる光景を目にして、痛みを帯びた体を跳ね起こした。恐れていた家族のような愛情を抱いた筑前が死に絶える事態を予期して、目に涙を湛えて恐怖の叫びを上げる。だが紅蓮の怪鳥から下界を見下ろすビレイは、苦悶の叫びを上げる筑前の火達磨の様子を冷静に窺っていた。
「行けえ、ハチ。できれば私の内に眠る化け物の姿を、お主には見せたくないんだ」
 嘗て幾つもの世界を破壊してきた筑前が、脳を移し替えた犠牲者に継承された内なる能力を解放して、瞬く間に全身の炎を脅威的な声量の遠吠えで掻き消した。焦げた臭気を発する砂の大地で立ち疎む筑前は、全身の服が破り裂かれて銀色の剛毛に覆われ、四肢の筋肉が隆起して限界まで膨れ上がり、指先から鋭利な銀の爪を生やす狼人間の容貌へと完全に変身していた。狼に酷似した顔立ちに変貌した筑前は、口に生えた獰猛な牙を手で覆い隠して、本来の獣の姿に恐れ戦いているであろうハチに振り返った。
 ハチは完全な狼人間と化した筑前を恐れずに愛情に満ちた微笑を携えていた。右肩に掛けたリュックを強く握り締めて、筑前の意気に応えようと力強く頷いた。
「オアシスで筑前さんを待ってる。必ず来てくれるって信じてるからね」
 ハチは筑前の到着を信じて炎のカーテンに背を向けた。筑前は本心から醜悪な容姿を受け入れてくれた歓喜に打ち震え、ハチを守り通したい強い感情を増大させる。紅蓮の怪鳥から様子を窺っていたビレイは、全能力を解放した狼人間の筑前を前にして、歓喜に頬を緩ませた。
「見違えるように強くなったねえ。大人しくあたいの情熱を受け止める覚悟ができたのかい」
 ビレイは扇子を虚空に舞わせて炎の龍を再生させ、けたたましい情熱の叫びと供に紅蓮の怪鳥を急降下させた。
「ハチ、すぐに駆けつけるからな、お主は私が守り通す」
 筑前は澄み切った表情で、右手を紅蓮の怪鳥が降ってくる虚空に掲げ、左手を砂の大地を疾走する炎の龍が迫ってくる方向に伸ばした。二本足で砂の大地に足を踏ん張らせて不動を保つ筑前は、攻撃を加えずビレイの情熱を全て受け止める積もりのようだ。
「素敵だよ旦那、やっぱりあんたは最高だね」
 巨大な炎の龍と紅蓮の怪鳥による連続攻撃が、筑前の変身した強靭な肉体を呑み込んだ。瞬時に大気が膨張する篭った音が辺りを包み込み、砂漠の大地を強制的にひっぺがす爆発が発生する。筑前とビレイは強大な爆発の衝撃に弾き飛ばされ、半径百メートルにも及ぶ爆風が、サボテンとオアシスを目指すハチと挫けずに追ってきたグリエシャーと砂漠の膨大な砂を上空に巻き上げる大惨事へと発展させた。
「うわ、うわああああああ」
 爆発の衝撃に巻き込まれたハチは吹き飛ばされ、空中を泳ぐように突き進みながら神秘的な造りをした建造物の前で墜落した。柔らかな砂の大地で着地の衝撃は緩和されたが、痺れるような全身の痛みにハチは顔を歪ませる。
「あれ、ここは」
 ハチは痺れが抜けない手足を振って、筑前が話していたもう一つのオアシスであろう建造物を見渡した。神殿染みた建造物の頂上から伸びる棒の先端から放出する火花が、電気の膜を形成して建造物全体を覆っている。外部からの侵入を妨げている構造は紛れもなくオアシスであろうが、ハチは侵入口のない神秘的な建造物を目前にして、打開策を思い付けずに呆然と立ち尽くしていた。
「やっと到着しよったか。あんまり遅いんで居眠りしとったわい。ほれ、シールドを解くから入ってこい」
 鮮やかな数十本もの白色の支柱で、精巧な装飾を施された屋根を支える建造物が、何処からともなく老人の寝惚けた声を発した。ハチが当惑して挙動不審に周囲を見渡している内に、建造物の頂上から伸びる棒の先端の火花が消えて、全体を覆っていた電気の膜が霧散した。
 ハチは予め待ち侘びていたような怪しげな展開に息を呑んで、白色の光沢を放つ小階段の段差を登り始めた。段差を踏み締める度に覗ける内部の景色の果てには、完全に禿げ上がった頭部を晒した老人が、白色の台の上に据えたカプセルに収納された全裸の老婆を拝んでいた。
 ハチは怪訝そうな顔付きで軒を連ねる白色の支柱の花道を歩き、ゆとりのある緑色のマントを羽織った胡散臭い老人の背後に忍び寄る。老人は膝に乗せた水晶玉を撫ぜて、他人に嫌悪感を与えるであろう向かっ腹が立つ可笑しな顔で振り返った。
「待っておったぞ、稀白ハチ。わしは千を越える世界を旅した偉人ハルオじゃ。お前はちょっと優遇されすぎじゃな。わしがお説教をくれてやるわい」
 ハルオと名乗った老人は、歯槽膿漏の歯茎を剥き出しにしてハチを嘲笑った。ハチは何故か個人情報を把握しているハルオに苛立ちを募らせ、敵意を露にした鋭い目付きで睨み付ける。
 生命力を維持させる溶液で満ちたカプセルに収納された老婆の乳房には、ゲージの証である二分の一という分数が刻まれていた。



 数十年間に渡り不動を保ってきたオアシスを根城にするハルオの瞳は、ハチの故郷の世界に居住していた殺人鬼と同質か、或いはそれ以上の陰湿な悪意に満ちていた。
 ハチは伸び放題の顎鬚を蓄えたハルオから視線を外して、ハルオの膝に乗せた不思議な水晶玉に魅入っていた、水晶球にはこの世界の風景ではない華やかな都市部が映し出されている。ハルオは歳月を重ねて瞼の垂れた細い目を無理に開いて、稀白ハチの脳に沈殿する記憶情報を全て読み取っていた。対象の記憶を読み取れる能力者の成せる業だ。
「前もっていっておくが、わしは相手の記憶を読み取る能力だけを持っておる。わしの半径二十キロ以内に踏み込んだ人間の記憶なら三分の一、三十メートル以内に接近すれば全て読み取れる。だからお前が来るのを事前に知っておったのじゃ。ちなみに、お前が見とるこの球は、ゲージ飽和の記念にサードマンから貰った記念品での。俗にスロットナンバー399と呼ばれる三百九十九種類から成る、特別な記念品じゃ。昔は韋駄天のように世界を移動して記念品を集めたもんじゃわい」
 ハルオは感慨深げに別の世界の思い出を語っていた。水晶球は希望する世界の情景を映し出す効力があるらしく、ハルオは悪戯に水晶球を撫でて景色を何度も切り替えていた。ハチは度重なる奇人の出現で能力者に恐れる様子はなく、水晶球から視線を外して、漸くカプセルに収まった老婆を発見した。
「ゲージだ。筑前さんの予測は正しかったんだ。ハルオさんでしたね、私にあのゲージを使わせてくれませんか」
 ハチは真摯な熱意を込めて丁寧に要求した。ハルオは待ったましたと言わんばかりに邪悪な笑みを浮かべ、意地悪に舌を伸ばしてハチの要求を拒絶した。
「稀白智頭を助けようとしているお前を行かせるにはいかんのお。わしがここに眠る由梨絵とお前の世界に訪れた時、奴に道案内を頼んだのじゃがな。他人だからと言って断られたんじゃ。そりゃあ由梨絵は大層傷付いたよ。どうして、人はこんなに冷たいのとな。クズだよ、お前の世界の人間はな。ほんとに、クズ、クズしかおらんからいつまで経っても箱の世界に恒久平和は訪れないのだ。死者の理想や遺志をサードマンに反映させて構築する箱の世界には、わしと由梨絵のような善良な市民しかいてはならんのだ。お前のようなクズは姉と同様、一生、生き地獄にもがいておれ」
 ハルオは興奮気味に熱弁を振るって愚民を罵倒した。ハチは死者の理想や遺志を反映させる箱の世界という台詞には興味を抱いたが、親愛なる智頭を貶された激情に駆られて頬を引き攣らせた。痙攣する華奢な右腕に憎悪の力を込めて、堅い握り拳を生成する。ハルオにゲージの使用を許可して貰う我慢の為所だが、ハチの怒りは沸点に達し掛けていた。
「訂正してよ、私のお姉ちゃんはクズなんかじゃない。あなたに何が分かるの、やりたくもない殺戮を繰り返して、憎悪を抱かれているお姉ちゃんの苦しみの何が分かるって言うのよ」
 ハチは怒りに顔を紅潮させて、激情に身を委ねて怒号を発した。ハルオは唇の両端を吊り上げて邪悪な微笑を深める。クックックッと悪意を込めた笑いを洩らして、首筋で固定したゆとりのある緑色のマントを外した。隠されていたマントの裏側にはゲージ飽和による満員御礼の記念品であろう大量の道具が張り付き、ハルオはひまわりの種のような銀色の種を取り外した。
「訂正じゃと、いひゃひゃひゃひゃひゃ、笑わしよるわい。クズには興味のない話だろうが、お前に箱の世界の記憶を読み取ったわしの素晴らしい話を教示してやろう。箱の世界とは、そもそも絶対数があり、強力な能力者が頭を捻って、人類の願いを叶えるために造った希望の世界じゃ。全てのゲージは死者の理想や遺志を汲み取り、尤も強い理想や遺志を抱いていた死者の思念を優先して、胸に刻まれた数字の世界に反映させる。未練を残さぬ幸福な死者の遺志は淘汰され易く、強い遺志を抱いた死者がでない限り、規則の変更まで及ぶほど遺志が反映されない側面もあるがの。お前が忌み嫌っていたサードマンはな、飽くまで人類の理想を反映する手助けをしてたに過ぎんのだよ。つまり、クズが世界にはこびるほど、クズが抱いた理想が反映され、荒廃した世界が構築されるわけだ。創造主が折角、理想の世界を造ってくれたのにも拘らず、お前達はそれを全て台無しにしたんだよ。身の程を弁えろこのクズどもがあ」
 ハルオは怒り狂って饒舌に箱の世界に託した創造主の記憶を語り出した。何らかの効力を発揮するであろう銀の種は、ハルオの右手の親指と人差し指に挟まれ、見る見る内に暗黒の光を放っている。ハチは記憶を読み取れる確かな能力を目の当たりにしていたので、半信半疑に耳を傾けていたが、止まない智頭の罵倒に激昂して飛び掛りそうな憎悪の眼光を放った。
「あなたみたいな他人を嘲笑うような人に、お姉ちゃんをクズ呼ばわりする資格なんてない。本当は心優しい善良な人なのよ。それ以上、お姉ちゃんを馬鹿にすると許さないからね」
 ハチは我慢の限界を超越した怒りを、この世界で価値観を新たにした他人への慈愛で懸命に食い止める。ハルオは顔に邪悪な満面の笑みを張り付かせて、痩せ衰えた腹から不愉快な笑い声を振り絞った。滑稽な愚者の反論は受け付けない頑固な思想で固まっているようだ。ハルオは愚者を無価値と断定できるほどの侮蔑した表情を崩さず、暗黒に光り輝く銀の種に視線を向けた。
「わしの父は考古学者でのお、箱の世界の真実を解き明かす旅の途中でクズに深刻な障害を負わされた。父は無念を晴らすため、まだ幼かったわしに、スロットナンバー三百五十二番に指定されたこの設定の種を埋め込んだ。使用する際に種に意思を込めて対象者の額にあてがうだけで、望んだ設定通りの人間に変質させる効果があるこの種をな。設定された能力は即座に全世界のサードマンに伝達されて異名を授けられる。記憶を読み取れるわしの異名は、確かアミネシアだったの。近年ではクズが余りにも氾濫するので、創造主が慈愛を抱いた人間を増やそうとこの種が当選する確率を上げたようだが、愚かな人間のせいでろくでもない能力者が溢れ返っとるわい。例えば、この世界に居住する伐採好きのグリエシャー、止め処どない情熱を炎に変えて意中の男性にぶつけるビレイ、そして、わしが人の憎悪を求める怪物として設定した筑前。奴はわしの足を噛んだからむかついてな。咄嗟に閃いた設定を与えてレゴスという生き地獄を味あわせてやったんじゃ。お前のよおく知っておる、稀白智頭。実は、奴もわしがレゴスに変えたんじゃよ」
 ハルオは饒舌な長話を重大な告白で締め括った。智頭と筑前を憎悪を求める怪物に変えた元凶の澄ました顔は、罪悪感の欠片も秘めていない。予期せぬ非情な告白に茫然としていたハチは、絶対的な存在である家族を死に追いやり、智頭を十年以上に渡り苦しめてきたハルオに対する憎悪を煮え滾らせた。両目に苦渋の涙を湛えて、殺意の足音をハルオに忍び寄らせる。 
「何を言ってるの。本当は、嘘なんでしょ。だって、どうしてお姉ちゃんがそこまで酷い目に遭わなきゃいけないの。あなたは私の大切な家族に恨みでもあったの。あなたのせいで、私の家族は死んだなんて。あなたのせいで、お姉ちゃんは苦しんでいるなんて。私があなたを許せる内に、嘘だって撤回してよ」
 ハチは憎悪に引き攣る頬に涙を伝わせて、ハルオが悪戯な告白を撤回するのを待っていた。ハルオは疲れたような顔付きで長い溜息を付き、間近に迫った復讐に燃え滾るハチの形相を見上げる。
「すまないね、悪いが全て事実だ。わしは疲れたんだよ、人間の本質は所詮破壊に満ちておる。わしは記憶を読めるからこそ分かるんだ。人間は駄目だ、存在そのものがクズなんだ。ならば、箱の世界と供に滅びればいい。だからわしは数十年もこのオアシスで水晶球を眺め、世界の終焉を待っておる。それだけがわしの生きがいじゃ。たった一つの救いだった、由梨絵も殺されてしまったからの。お前の家族は、クズだから死んだ。それだけじゃ」
 ハルオは挑発するような邪悪な微笑を湛えて、禿げ上がった頭を白色の床に擦り付けて平謝りした。人間の凄惨なる本質を直視してきたハルオの態度には悪気がなかった。ハチは無礼な態度と残酷な事実に極限まで憎悪を膨らませて、涙ぐみながら右肩に掛けたリュックを下ろした。
「もう、許さない。殺してやる。あんたみたいなクズは死ねばいいいんだ。私が、殺してやるよお」
 ハチは蓋を開けたリュックに手を差し入れて、オアシスを旅立つ直前に筑前に託された白刃の短刀を引き抜いた。華奢な右腕に握られた刀身を振り上げ、処刑を待ち侘びるように頭を差し出すハルオを冷酷な瞳で見据える。
「それでいい。人間なんてのは最初から素直に感情の赴くまま行動してれば良かったんじゃよ。半端な秩序を構築するから、醜悪な一面が許せなくなってしまう。クズは、クズらしく生きとれ。この、愚か者が」
 ハチは限界を越えた極大の憎悪を制御できず、最期まで口の減らないハルオの後頭部に容赦のない刀身を振り下ろした。いとも容易く後頭部に減り込んだ刀身が、骨の密度の薄い老人の頚椎を叩き折り、ハルオは苦悶に顔を歪めて大袈裟な悲鳴を上げる。ハルオは怨念を込めた濁った瞳で、上目遣いに短刀を作業的に振り下ろすハチの本質を目に焼き付けた。短刀を押し引かれて首が半ばまで切断されたハルオは、嫌に満ち足りた顔で眼球を裏返す。
「やはり、クズは、クズじゃ、の」
 ハルオは器官から微かに篭れ出る微弱な空気で悟りを説いた。ハチは復讐に飢えた冷酷な瞳を絶やさず、血濡れの白刃を素早く押し引いてハルオの首を完全に切断した。口内に血を溜めたハチオの生首が千切れて、鮮血に染まった血だまりの床に転がり落ちる。
「くそお、くそお、あああああ、ごめんね、筑前さん。私、人を殺しちゃった」
 人心地を取り戻したハチは大粒の涙を流して、足元を濡らす生温かい死者の血液を虚ろに眺めていた。短刀を床に落として、ハルオの口から鍵を引き抜き、罪悪感に押し潰される前にマントを脱がせて上半身をはだけさせる。マントの裏側に張り付いていた満員御礼の記念品や対象者に意思を植え付ける銀の種は、ハルオが絶命した直後に色褪せて消滅していた。
 ハチはハルオの胸辺りに刻まれた三千分の六百という分数を眺め、偶然にも筑前が事前に教えてくれていた、ドグダミ彩文が関心を寄せたゲージと一致していることに気付いた。殺人を犯したハチは人間を守り通す信念を抱いた筑前と再会する恐怖に怯え、急いで腹部の鍵穴に鍵を差して左に回す。皮膚と肉が捲れ上がって螺旋に渦巻く闇の空間が覗き、ハルオの全身はこの世界の特性に基づいて徐々に薄れていた。後数分もすれば完全に肉体は消滅するであろう。
「筑前さん、ごめんね。待ってるといったけど、私、もう合わす顔がないよ」
 それでもハチは名残惜しそうに、ゆっくりと背後に振り返った。白色の支柱の合間から発光体が中天に昇った外部まで淀みなく見渡せる。ハチは人気のない気配を探る内に、寂しげな翳りが差した顔を蒼白させた。支柱の影に気配を殺して潜んでいた筑前が、狼人間の形態を保った全身を露にしていた。ハチとハルオのやり取りを傍観していたのであろう筑前は、怒りに打ち震えてハチを咎める様子はなく、ただ、ハチを慰めるように普段通りの微笑を送っていた。
「ハチ、私はお主に個人的な情まで移っているからいうよ。私の意志には反するが、ハチが人を殺したからといって気に病むことはない。大切なのはハチが決めた意志に従ってくれることだからね。辛いようならいつでも帰っておいでよ。例えハチに何があっても、何をしても、私はハチを受け入れるからね。お姉さんを救ったハチが、笑顔でここに遊びに来るのを楽しみにしてるよ。無理にとは、いわないけどね」 
 筑前は両目に薄っすらと涙を湛えてハチとの別離を悲しんでいた。支柱の影からは情熱を燃焼し尽したビレイと、爆発に巻き込まれて包帯が燃え尽きた全裸のグリエシャーも姿を現して、三人は和解したように肩を並べてハチを微笑で見送っていた。
「ありがとう。もう二度とこんな真似しないよ。私も筑前さんみたいな心優しい人になりたいから。お姉ちゃんを助けたらまたここに来るね。お姉ちゃんと一緒にお礼をいいに、絶対に来るからね」
 ハチは下唇を噛み締め、別れを惜しむ悲しみと筑前の優しさに触れて、立ち止まってしまいそうな衝動を押し殺していた。地面に置いたリュックを右肩に掛け直して、一切の疑念を抱かずに送り出そうと配慮する筑前に気丈な笑みを送る。
「いってきます」
 ハチは自らを奮起するように活発な声を上げて笑顔で別れを告げた。ゲージに飛び込んだハチの後姿を見送る筑前は、別離の悲しみを堪えて遠吠えを上げ、智頭の救出を胸に秘めたハチの無事を心から願っていた。

(引き続き ブラックゲージ 〜 第五章 私の中 〜 をお楽しみください。)

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