ブラックゲージ 〜 第二章 腹の中 〜


第二章 腹の中



 奇怪な圧力が加わり、入り口を直前にして肉体と荷物を再構築された章生とハチは、田舎の匂いを薫らす清流に全身を打ち付けた。
 ハチは水中で口から激しい気泡を吐き、足が着く程度の浅い水底の景色を捉えた。透き通る水には光を浴びて輝く小魚が泳ぎ回っている。隣に見える金づちの章生は動転して、みっともなく手足をばたつかせていた。ハチは布が解けた左腕の断面を思い出して、沁み込む水の痛みから脱しようと水底の砂利を踏んだ。
 水面から上半身を露にしたハチの前には、故郷の世界にはなかった藁葺きの家屋が幾つか並んだ、集落のような景色があった。首を捻って背後を振り返ると、故郷にもあった闇の壁がはっきりと視認できた。
 飛び込んだ清流はこの世界の下端に位置するようだ。濁りのない透過した川は、世界の下端を西から東へと横断して闇の壁に吸い込まれている。
「ごほっ、ごぼっ、ハチ、自分のリュックぐらい落とさないで持っててよ」
 小石が足場を形成する川岸に辿り着いた章生が言った。飛び込みの際に腕から離れたハチのリュックを抱えている。ハチは姉を見捨てた章生にそっぽを向いて、面積が以前の世界より遥かに狭い、この世界の観察を続けた。
 世界というより辺境の村をジオラマに仕立てたあげような偏狭な正方形を、目を凝らして詳細に窺っている内に、ハチは藁葺きの家屋の傍に、ピンク色をした固形の物体が潜んでいるのを発見した。物体の表面には緑の濁った瞳が点在しており、全身を覆うような棘と短い手足を生やしている。物体は体を丸めて川岸に移動する動作を見せ付けた。背丈が五歳余りの幼児に匹敵する珍妙な生物だった。
 ハチはその生物に何処か懐かしさを覚えていた。別の世界もまた闇の箱に囲まれていた事実に落胆していたが、その生物には黒い憎悪が沸々と湧き上がってきた。二度と遭遇したくない生物の正体は、やはり箱の世界を監視するあいつなのだろうか。
「ようこそ、おいで下さいました。あなたが最後の人です。後日、記念品を贈呈いたします」
 ピンク色の生物は、口から水を吐き出す章生に向かって言った。ハチは怪訝そうな顔付きで、水の抵抗を掻き分けながら川岸に上がる。
「君はこの世界の案内人かい。ここは僕達が住んでた世界とは違ってかなり狭いようだけど、規則とかの概念は存在するのかい」
 章生は初見の不気味な生物に冷静な対応を見せた。生物は背後に聳え立ったハチに振り返り、章生と見比べながら何やら奇声を上げて足元を躍らせた。くねくねした奇抜な愛嬌のある仕草に、章生とハチは思わず笑みを零した。
 だが、ハチはすぐに感情を訂正して、全身に吸着する異様な寒気に身を竦めた。章生も歯を震わせて、けたたましい奇声を上げながら踊り狂う生物を見詰めている。
「キエー、こいつら稀白章生と稀白ハチか、レゴスの親族、こりゃ厄介」
 生物は過去に聞いたような台詞を述べて、パシリと額を軽く叩いた。ハチは身に張り付く寒気を憎悪で振り払い、顔を強張らせた冷酷な瞳で生物を見下ろした。
 確信を抱いたのだ。この生物は箱の世界を監視するサードマンだ。
「サードマン、か。ならば有益な情報は何も言いそうにないな。ハチ、まずはこの世界に住む人を探そうか。世界の情勢を把握しておかないと命を落としかねないからね。護身用の刀もリュックに入れてきたことだし」
 章生は過去に個人情報を読み取られた経験でもあるのか、即座にサードマンと確信したようだ。保存食の類が詰まったリュックから、鞘に納まった片手で扱える刀を二本取り出した。掴んだ一本を、水に濡れた服を絞り上げているハチの右腕に投げ渡す。
「お兄ちゃん、私は人殺しになりたくないし、片腕では鞘から刀を抜くことすらできないよ」
 ハチは怒りを晴らすように鞘に納まった刀を振り回した。章生は納得した様子で微笑み、じっと興味深そうに眼球を見据える生物の脇を通過して、ハチが握る刀を回収した。
「そう怒るなよ。仮にあのまま智頭を待っていても僕達と同行するわけがないだろ。僕が守ってあげるから、ハチは後ろに隠れていなさい。これでも多少、剣の取り扱いには慣れてるからね」
 章生は華麗に二本の刀を指で回して、腰に巻きつけた幅広のベルトに差し込んだ。ハチは章生の大袈裟な演舞に苦笑して、二人はものの数十分で制覇できそうな偏狭の世界を探索することにした。
 川岸から続いた畦道のような砂混じりの足場を囲むように、伸び放題の雑草が生い茂っている。畦道へ抜け出るだけに必要な雑草を薙ぎ倒した藁葺きの家屋は、ぱっと見渡して五軒ほどしか認められなかったが、清流と対極に位置する闇の壁の間際には、石段の階段が延びる一際大きな屋敷があった。
「お兄ちゃん、この世界、ちょっと明るくないかな」
 背後に隠れたハチが異変を察して小さく呟いた。章生がはっとして頭上を見上げると、発光する巨大な電球が、闇の壁から突起して世界全体を眩く照らしていた。 
「ここを、世界と認めていいのか。まるで玩具だな」
 章生は眉をひそめて、妙に辺鄙なこの世界の構造を嘲笑った。
 智頭を置き去りにした罪悪感に苛まれたハチは、先ほどと同種のピンク色の生物の脇を通過する度に、ゲージと化した家族の無惨な死に顔を思い出していた。ハチが求める安息の世界の条件には、サードマンという生物の撤廃が強く願われている。
「ハチ、さっき思い立ったが、あの屋敷はゲージの安置所かもしれないよ。拠点らしい構えだしね」
 章生はやけに高揚して、対極にある一際大きな屋敷を指差した。早くも見つけたこの世界の粗を難詰したくなったハチは、別の世界への移動を念頭に置いて、章生の背中を盾に屋敷へと迫っていった。
 二人が畦道を直進して、大きな屋敷に伸びる石段まで辿り着くと、爽やかな風に運ばれて微弱な鐘の音が届いてきた。
「お兄ちゃん、聞こえるよね。だんだん、大きくなってるよ」
 ハチは息を呑んで立ち竦み、章生は右手で刀を抜いて石段から後方に振り向いた。ガラガラと喧しい鐘の音色に混じって、一斉に濃密な人の叫び声が響いてくる。この世界に生息する人々が、僅かな民家から駆け足で飛び出してきた。
「ハチ、早くそこの茂みに隠れて」
 章生は危険を訴えながらハチの胸を突き押して、石段の脇にある雑草の茂みまでハチを吹き飛ばした。こちらへやってくる人間の大半は似たような民族衣装を着ている子供だった。通気性に富んだ無地の襤褸切れを纏って、下半身には牛の頭部が描かれた短いパンツを履いている。後続からやって来た少年少女の親らしき人物は、特徴のない無地の襤褸切れだけを羽織っていた。
「わーい、御飯だ。御飯だ、御飯だあ」
 髷を結った少年と御河童頭の少女達は一様に食事を訴えていた。後続から列を成す大人も腹を抱えて談笑している。白刃を向けていた章生は、この世界の住民には殺意が感じ取れないと判断して、慌てて刃先を戻して鞘に納めた。
 先導する少年の独りは、見知らぬ章生の姿を捉えて急停止をかけた。
「うわ、うわあああ。皆、人だ、また人が出たよお。ゲージを越えてやってきた人だあ」
 少年は口元に手を当てて驚嘆を振り絞った。発せられた甲高い声は偏狭の闇の世界に淀みなく響き渡り、駆けてきた子供と大人は指を差して、新たな来客の到来に歓喜に沸き上がった。
 章生は思わぬ反応に唖然として固まっていた。殺人を企てる輩が結集した前の世界では、有り得ない喜びようだ。
「わあ、今度はかっこいいお兄さんだ。名前は何ていうの、一体何処から来たの。教えて、教えてえ」
 少年は羨望の眼差しで章生を眺め、御河童頭の少女達が章生を囲んで捲くし立てた。この世界に置いて、章生の容姿は優れているらしく、成熟した男性は顔中に無数のにきび跡を付けたり、ぱっちりした二重の瞼ではあるが、鼻が潰れて均整が取れていなかったりと、顔面の何処かに欠点が見受けられる不自由なものだった。
「ちょ、ちょっと待って。一体、何がどうなってるの」
 章生が少年少女の迎合に揉みくちゃにされて嘆いていると、屋敷の方から独りの老婆が杖を着いて現れた。屋敷に群がる子供二十人と大人七人、そしてハチと章生を合わせてこれで総勢二十九人にも上る。
「これ、やめなさいお前達。客人が困ってるじゃろ。話よりまず食事が先じゃ」
 老婆が石段の上に吊るされたドラを杖の先端で突いた。響き渡る高い震動に人心地を取り戻した子供はピタリと静止した。集団を統率しているような風格がある老婆は、頭に牛の頭部が描かれたバンダナを巻いていた。両目の虹彩は人間の面影が取り払われた黄色に染まっている。
 章生は老婆の独特な威圧に圧倒されながらも礼儀正しく一礼を交わした。
「助かりました。僕は御察しの通り他所の世界から稀白章生という者です。そして、こちらは僕の妹の稀白ハチです。実は先ほど来たばかりの新参者ですので、この世界について何も知りません。差支えなければ皆さんに教えて頂きたいんですが、よろしいでしょうか」
 章生は、雑草の茂みから頭を覗かせるハチの紹介も交えて老婆に要求した。老婆は厳格な威風を崩して穏やかな笑みを浮かべる。静まり返っていたこの世界の人々は、新たな住民となるであろう章生とハチに歓迎の拍手を送った。
「分かりましたわ。だが、その前に食事を取らねば規則違反となってしまうでの。後からわしら家族が色々教えちゃるから、客人も屋敷に来て食事を取りなされ。お前らもはよう屋敷に入らんか」
 老婆はこの世界の規則を説いて屋敷の中へと消えていった。若い女性が誘惑するように章生の腕を引いて、石段を昇って屋敷に入っていく。残された子供は、雑草の茂みから緊張した面持ちで、合流に躊躇しているハチに好奇の眼差しを送っていた。
「あの、今から皆で御飯を食べますから。一緒にいきましょう」
 子供達を引率する年長の少年がハチに手を差し伸べた。ハチは他人から受けた初めての対応に怯えて、胸に手を当て深呼吸をする。
 ハチは覚悟を決めて雑草の茂みを掻き分けて、子供達に全体像を現した。瞬く間に子供達の視線は切断されたハチの左腕に集まり、絹を裂くような悲鳴が鳴り響いた。腰が引けて屋敷へ駆け上っていく少女もいる。
「あ、あの、どうしたの」
 ハチは意外な反応に驚いて首を傾げた。この世界の住民にとって負傷者は珍しいようだ。年長の少年だけは物怖じせずに、頬を紅潮させて、臆病なハチの目を真摯に見据えている。
「僕、カセルと言います。皆、いい奴ですから気にしないで、すぐに慣れますから」
 カセルと名乗った年長の少年は、愛苦しい美貌を宿したハチに一目惚れしているようだった。ハチは他人に親切にされる状況に当惑して声が出せず、肉親である章生を頼って足早に石段を駆け上がっていった。



 大きな屋敷の内部は章生が予期したゲージ安置所とは異なり、仕切りを設けていない大広間が幾つか用意されているだけの民家に過ぎなかった。
 章生とハチは凡そ三十人が食事を行える長机の上座に迎えられた。若い女性や先ほどの老婆が炊飯器の蓋を開けて御飯を装っている。一家団欒の食事風景は以前の世界と変わり映えしないので、章生とハチは遠慮なく丁重に持て成されていた。
 主食であろう白米と味噌汁を手渡した後、老婆と女性は大皿一杯に盛り付けられた高級な肉を、長机に惜し気もなく並べた。この世界に居住すると思われる全員が神に黙祷を捧げる。
「それでは、皆の衆、いただきます」  
 老婆が先導して謝辞を述べ、後に続いて住民の大合唱が響き渡った。章生は右腕しか満足に使えないハチの茶碗を持ってやり、不慣れな食事を手伝ってあげた。
「章生さん、食事中は原則としてこの世界の話はできませぬ。後で庭に出て、ゆるりと長話に興じましょう」
 長机の端に坐った老婆が言った。食事中に置いても牛模様のバンダナは解いていない。章生は柔らかな肉の香ばしい味を噛み締めながら頷いた。ハチは短い悲鳴を上げて左腕の断面に注目する住民と目を合わさぬように俯き、気まずそうに白米を口に含んでいた。
「皆、そんなに見られたらハチさんが食べにくいだろ。食事時は楽しく騒ぐ。それが我が家の流儀だった筈だ」
 ハチの隣に坐ったカセルが、説得力に富んだ力強い口調で大人さえも丸め込んだ。住民は罰が悪そうに腕から目を逸らして、軽い談笑を交わし始めた。ハチは徐々に賑やかになる住民間の微笑ましい光景を、嫉妬を含んだ寂しげな瞳で眺めていた。置き去りにした智頭や生前の家族の活発な姿と、この世界の住民が妙に重なり合う。
「ハチさん、後で僕と散歩に行きましょう。ハチさんがいた世界に負けないくらい、ここもいいところだと思いますから」
 カゼルは緊張の余りに声が裏返っていた。ハチはクスリと皮肉めいた笑みを作った。騒乱に満ちた危険な世界だったからゲージを越えて来たと諭してやれば、カゼルは慌てて前言を撤回するだろう。
「おや、ハチ、もう友達ができたのかい。良かったじゃないか、前の世界ではいなかったろ」
 章生は無垢な笑顔でハチを祝福していた。カゼルは顔を赤くして俯いたが、家族との共生が現実の全てだったハチには今一ぴんと来なかったようだ。身を捩るカゼルの顔を心配そうに覗き込む。カゼルは咄嗟に体を反転させて、畳張りの床にうつ伏せになった。
「何してるんだい、食い終わったら夕食の支度をしなきゃなんねえんだ。早く食っちまいな」
 身を伏せて食事を遅らせるカゼルに老婆が怒鳴った。どっと起きた笑いの渦が大広間全体に響き渡る。カゼルが誤魔化すように無心で肉に齧り付く姿が滑稽に映り、住民は更に腹を抱えて笑い転げていた。
 ハチは快活な雰囲気に呑まれて笑みを零した。和気藹々と穏やかな時間が流れるこの世界の風景に安堵して、サードマンさえいなければ、限りなく理想に近い世界に辿り着けたのではないかと期待を募らせる。
「ほれ、木偶、あんたの分だよ」
 奥の部屋から、女性の軽蔑した声が微かに漏れてきた。カゼルの誘惑にたじろいでいたハチは、豪勢な食事に舌鼓を打つ手を止めてそちらに振り向いた。
 奥の部屋は窓が開いており、闇の壁であろう暗闇の空間が覗いていた。照明が取り付けられていない陰気な部屋には、住民である若い女性が、少量の食事が盛られた盆を巨大な塊の前に置いている。ハチは影に覆われて全体が霞んで見える物体を注視した。
「馳走になります」
 物体は掠れた声で頭を下げた。影の薄い物体の正体は、僧侶のような墨染めの法衣を纏った中年の男だった。意図してやっているのか、頭頂部は後退して完全に禿げ上がっており、顔の左半分は焼け焦げたように黒い斑点が付いている。何より恐るべきはその体躯で、軽く二メートルは超えようかという長身で、肉付きの良い五十貫余りの重量を支えていた。
 男は満腹に達しない量の食事を一口で平らげ、女性に盆を返却した。遅鈍に腰を上げて立ち上がり、閉じているような細い目でハチを一瞥して、こちらを通らずに別の部屋から迂回して屋敷を抜け出た。
 ハチは存外な扱いを受ける男の素性を尋ねたかったが、緊張のせいで極度に口下手になる性質が災いして、食事を終えるまで何一つ情報を得れなかった。
「サンザ、ルキ、主らは夕食の当番を連れて台所にいきなされ。その他の者は解散してええぞ。ごちそうさまでしたじゃ」
 老婆が仕切って昼食の席は終了の様相を呈した。各自で一斉に神に謝辞を述べて食器を片付ける。章生は老婆に導かれて、外の庭へと案内されていた。
「お兄ちゃん、私も行く」
 ハチは孤独に陥るのを避けるため、日光浴に最適な庭に歩き出した章生の背中を捕まえた。章生は幸福そうに振り返って、ハチの背後に続々と集結する子供達を眺めた。
「ハチ、僕がこの世界の情報を聞いておくから、ハチは友達と遊んできなさい。ここで暮らすことになったら、友達とは仲良くしていなきゃね」
 章生は臆病に背中を掴むハチを諭して、老婆と持ち前の容姿に惹かれた女性数人を連れて庭に歩き出した。ハチは不安げに振り返って、満面の笑みで答える子供達を見渡した。
「私、右腕がないけど、いいのかな」
 先頭のカゼルを筆頭に、子供達は目を輝かせて了承に声を上げた。ハチはすぐさま子供達の団体に取り囲まれて、屋敷の傍にある空き地へと連れ攫われた。
 章生は光沢を放つ砂利で形成された庭のベンチに腰掛け、高低差があるために覗ける、偏狭な世界の全景を一望していた。隣には老婆が坐り、章生の美形に嬌声を飛び交わせる若い女性が、ベンチの周辺に集結してくる。
「お兄ちゃん、しっかり聞かなきゃ駄目だからね。それと、私が帰ってくるまでここにいてね」
 章生の目の前を子供達に囲まれたハチが横切った。数人が樫の木を削った棒切れを握って、屋敷の庭にある空き地に歩いていた。
「ああ、分かったよ。ハチは安心して遊んできな」
 章生は手を振って初めて友人と交流するハチに声援を送った。老婆は子供達が通り過ぎた頃に、田舎の清爽な風を頬に浴びながら本題に入った。
「それでは章生さん、約束通りこの世界の状況を説明させて貰いますわ。既に御察しかも知れぬが、忠告して置きたい主な規則は朝昼晩を告げる鐘が鳴れば、この世界の住民で一斉に食事を取ることぐらいですな。この世界の住民はわしが生んだ子供と孫だけで構成されておるので、至って平和な世界ですからの。いや、一人よそ者がおるにはおるが、あれはわしらの間では人に数えておりませぬな」
 老婆は意味ありげに言葉を濁した。章生は両目に神経を集中させて、老婆の表情の僅かな変化を確認していた。恐らく嘘は付いていなさそうだ。
「僕らの世界では争いばかり起きていたから羨ましいですよ。殺人の多寡が人の価値を決定してたぐらいですしね。ところで気懸かりな点があるのですが、この世界には食卓に並んだ肉となる生物がいませんよね。まさかサードマンを殺すわけにもいかないでしょう」
 老婆はサードマンと聞いて片眉を上げた。 
「章生さんの世界でもサードマンと呼称されとるんですな。御指摘通り、川に魚がいるぐらいで、わしらは食物を自給する術がありませぬ。全てサードマンが肉となる生物や野菜、及び家の元となる藁など、必要な物資は何でも持ってきて下さるのじゃ。お陰でわしらは調理ぐらいしか労働の喜びを知りませぬ」
 老婆は感慨深げに溜息を付いた。章生は平和な世界に浸かり切って、別の刺激に飢えているような老婆を嫉妬混じりに見詰めていた。
「ま、見て貰った方が早そうじゃの。サードマンや、その辺にいるんじゃろ。晩飯に使う牛を持ってきてくださらんかの」
 老婆は手を軽く叩いて、段差の下に潜んでいたサードマンを呼び寄せた。サードマンは無邪気に跳ね回って闇の壁に肉体を突っ込ませて、全身を闇の中に浸からせた。章生が呆気に取られている内に、サードマンは紐で口を縛った水牛を一頭導いてきた。闇の壁に呑み込まれたら生還できないと父に口を酸っぱくして教えられた章生の固定観念は容易く覆された。
 章生の驚愕した表情を老婆は不思議そうに一瞥して、先端の尖った杖を着いて立ち上がった。サードマンに紐を解かれて鳴き声を上げる水牛に近寄っていき、水牛の真横に立って章生を横目で見る。
「この偏狭な世界では行動も制限されており、わしらの生活は退屈で刺激のないものです。どうやら章生さんは殺人が許可される世界に住んでいたようですが、わしらの世界では認められておりません。信じ難いでしょうが、抑圧された分だけわしらは殺人が許可される規則を欲しています。章生さんと対照的な、この世界で生活してきたせいでね」
 水牛は数人の若い衆に首根っこを取り押えられた。老婆は杖を振り上げて、筋肉質な水牛の首筋に容赦なく杖の先端を突き刺した。牛は首を貫いた杖の痛みに呻き声を上げて暴れるが、老婆は鬼面を張り付かせて何度も杖の先端を首筋に突き刺していく。
「それもこれも、木偶の阿呆が娯楽に満ちた外の世界の様子を伝えたせいじゃ。ゲージを越えてやって来たあの阿呆が、如何にわしらの世界が貧相で退屈であるかを伝えたんじゃ。わしらは、あんたらが羨ましい」
 老婆は激痛にもがき苦しむ水牛の頭頂部に杖を突き刺した。牛は高い悲鳴を上げて前屈みに崩れ落ちた。老婆の杖は顎を貫通して地面まで到達していた。章生は水牛が残虐される光景を冷静に観察して、老婆の台詞からこの世界の重大な規則に気付いた。
「この世界には、僕がいた世界と似たような世界からゲージを越えてきた人がいて、この世界からゲージを利用した方は一人もいないんですね。つまりあなた達は実物のゲージを見たこともないが、別世界の存在は聞いたことがある。争いが起きなければゲージは作れないし、人を殺すとサードマンに殺害される。だからあなた達は余計に、未知の刺激を味わいたくなる。これは言葉が過ぎますが、食肉用の生物だけではなく、家族以外の生身の人間、僕とハチを殺してみたいんじゃないんですか」
 章生はさらりと核心を突いて見せた。老婆は顔を凍り付かせて、外敵と対峙したような冷たい眼光を放った。
「章生さん、あんたの世界のことは他言せんで下さらんか。わしらが聞けば酷く妬む。木偶のような扱いを受けたくなければ、素直にわしらと供に退屈な日常を選ぶことを勧めますよ。でしゃばった真似をせねば、あんたらはわしら家族の一員じゃ」
 老婆は邪悪に頬を緩ませて、黄色の眼球を獰猛に剥いた。章生は動じずに口元に冷笑を浮かべて、老婆の元に集まり団結して顔を強張らせる住民の冷やかな視線を跳ね返していた。
「分かりました。僕としては不満が残る世界ですが、ハチはよく安全な世界に行きたいと願っていましたからね。ハチにはなるべく黙っておいて下さい。例え表面上だけでも平和なら喜ぶと思いますから、当面はあなた方の狂気が暴発して殺されないように大人しく従いますよ。長い付き合いになると思いますので、よろしくお願いしますね」
 章生は殺戮に飢えた狂気と紙一重の不安定なこの世界で生活する決意を固めた。老婆と住民は硬直した頬を緩めて笑顔を作り、新たな家族の誕生を歓迎して、サードマンに藁や木材などの資材を注文した。
「章生さん、これからあんた方の家を建てませんとな。うちの若い衆を貸しますので、何でも言い付けてやって下さい」
 老婆は内談が成立した安堵感から、陽気な笑みを披露していた。
「それはありがとうございます。僕も家の建築には興味があるので手伝いますよ。ハチにまた怒られるから早く片付けないとね」
 章生は数人の男性に同行して、雑草を薙ぎ倒して平地を開拓する、建築の足掛かりになる作業に取り掛かった。



 十人ほどの子供達と空き地に移動したハチは、闇の壁に突入するサードマンを捉えて驚愕していた。章生と同様に、父から闇の壁には立ち入らぬよう厳重注意されていたからだ。
 闇の壁から戻ってくるサードマンは、奴隷のように忙しなく丸太を運んで子供達に手渡していた。子供達は薪を焼べて、火を起こしている。
「ハチさん、あの闇には絶対入っちゃ駄目だよ。人間が入ると帰って来れないらしいからね」
 空き地の雑草を刈り取っていたカゼルが忠告した。ハチは先端に油を塗った布を巻いた樫の木を持たされていた。これから新しい友達を迎え入れる儀式を開催するようだ。ハチは着々と準備を進めていく子供達の様子を静かに窺っていた。
 空き地は雑草を刈り取っただけの平地であり、子供達が使用できるような遊具は設置されていない。現在は中央に焚き木を組んで、友人同士で賑やかな談笑を交わしている。石段を下りて何処かへ出かけた少年の数人を待っているようだ。
 ハチは陽気な少女とぎこちない会話を交わしつつ、儀式の準備が完了するまで焚き木を囲んで地面に腰掛けていた。
 やがて、出払っていた少年が手綱を引いて、巨漢の男を引き連れてきた。昼食時に独りだけ存外な扱いを受けていた男だ。男は獣のように首輪を締められ四足で地面を這って歩かされていた。出迎えた子供達は腹を抱えて馬鹿笑いしている。
「ハッちゃん、木偶が来たよお。のしのし歩いて面白いでしょお。あはははは」
 隣に坐った少女がハチに同調を求めてきた。ハチは唖然として、数人の子供に尻を叩かれて騎乗される哀れな男を眺めていた。安全が確約されていた世界に邪悪な側面が存在していた事実を受け入れられなかった 
 巨漢の男は子供達の合間を縫って、燃え盛る中心の焚き木に迫ってきた。大広間では確認できなかったが、男の右腕は執拗な殴打を受けてどす黒く変色していた。無理に酷使すれば激痛に襲われて使用不可能になるだろう。子供達には罪悪感がないのだろうか、ハチの胸は嫌に高鳴っていた。
「ハチさん、あいつは木偶ってんだ。この世界にはストレス解消用の玩具が用意されているんだけどさ。あいつは自分が身代わりになるから使わないでくれってうるさいんだ。だから勘違いしないでね、僕達は別に木偶を苛めてるわけじゃないんだよ」
 カゼルは背後からハチの肩を抱き留めていた。ハチは首だけ後ろに回して、真実のみを訴えるカゼルの純粋な眼を睨み付けた。
 カゼルは微笑を湛えて、この世界の風習を呑み込めていないハチの心中を察した。
「口で言うより、実際に見せた方が早いかな。おい、サードマン、ストレス解消用の玩具を十匹ほど持ってきてくれ」
 カゼルが雑草の茂みに向かって命令した。五体のサードマンが茂みを蠢き回って草叢から現れ、奇声を発して闇の壁に身を沈めていった。数秒後に引き返してきたサードマンの短い両手には、痩せ衰えた水牛の首輪に繋がる鎖が握られていた。
 焚き木から立ち昇る黒煙を顔に浴びる巨漢の男は悲痛に顔を歪めた。子供達は久し振りに登場した愛玩道具を、撓りのある樫の木の棒切れ持って出迎えた。
「ねえ、何が始まるの。あの牛苦しそうだよ」
 子供達の耳にハチの声は届かなかった。カゼルは頭上に手を挙げて、水牛の前に立ち塞がった子供達に合図を送った。
「あはははは、いっけえ」
 子供達は残忍な笑みを浮かべて、一斉に棒切れを握った腕を振り下ろした。頭頂部に重圧な木が減り込み、水牛の腐敗した眼球が糸を引いて飛び出した。
「や、やめてくれ、そいつらに手を出さないでくれえ」
 寡黙だった巨漢の男が静止を叫んだが、子供達は熱狂に酔い痴れて、樫の木を豪快に振って水牛の全身を殴打していた。簡単に骨折する水牛の肉体は変形して、ぼこぼこと背中を砕かれて地面に四肢を着いていき、やがて平面に顔を伏せていた。額が割れて鼻先まで鮮血が伝っていき、歯抜けの口内から唾液に塗れた舌を垂らしている。
「やめてよお、何で、こんなことするの、酷いよ、酷いよ」
 ハチは狂気の丈を無抵抗の生物にぶち撒ける光景を正視できなかった。両手で耳を塞ぎ、体を丸めて得体の知れない恐怖を拒絶する。
「よし、その辺にしとけ。ハチさんが怯えている」
 カゼルは子供達の攻勢を中断して、弱々しく肩を震わすハチの背中を撫でた。死滅した水牛はサードマンに足を掴まれ、闇の壁の中へ放り捨てられていた。
「理解してくださいハチさん。僕達はこの狭い世界で退屈してるからこそ、ストレス解消用の牛を自由に始末できる権利を与えられているんです。それをあの木偶は辞めろという。この世界に住む僕達の生き方を真っ向から否定しているんですよ。ハチさん、あなたも否定するんですか。僕達を、受け入れてはくれないんですか」
 子供達は血濡れの棒切れを火の中に投下して、寂しげにハチの返答を待っていた。動物を虐殺するぐらい騒乱に満ちたハチの世界の日常でも当たり前のように行われてきた。ハチは殺戮という強制力の強い死の概念を嫌悪して、自我を保つためにも別の世界への転居を望んでいた筈だ。だがハチの価値観は、異なった視点からの主張を叩き付けられ、葛藤に揺れていた。彼らの主張はこの世界の環境で形成されたものであり、間違っているとは一概に断定できない。
「半端な言葉はいりません。ハチさんが僕達を受け入れてくれるなら、その証拠としてあの木偶の顔に松明を押し当ててください。それが僕達の仲間に加わる意志であり、最良の返答だと思います」
 カゼルは油を塗った布を巻いた樫の木を拾い上げ、混沌として放心状態になったハチの右手に握らせた。
「私が、人を傷つけるの」 
 ハチは樫の木の先端に巻き付いた布に火を通した。欲していた確固たる安全の定義が瓦解して、妥協を辞さない懸念の安全を受け入れなくては、何処の世界に移っても生活できないような気分に苛まれる。或いは退屈を紛らせる友達の存在を手中に収めたいから人を傷付けようとしているのか、ハチは虚ろに点火した松明に魅入られていた。
 巨漢の男は血の気を失ったハチの顔に気付いて、気丈に醜悪な笑みを浮かべてあげた。憔悴する心を介抱する男の優しさを目の当たりにして、ハチは悲痛に顔を限界まで引き攣らせた。
「ごめんなさい、本当は、やりたくない筈なの。でも、でもね」
 ハチは大粒の涙を目に湛えて、罪悪感に満ちた松明の火を、焼けた黒点が付いた男の顔に押し当てた。ハチは邪悪な自分の本性を確かめるように目を見開いて、男の反応を待っていた。男の頬から饐えた臭気を発する黒煙が立ち昇り、新たな黒い点を沁み渡せていく。それでも笑顔だった男は、遂に堪え切れなくなり、痛々しげに肩を震わせて膨張した腹から悲鳴を振り絞った。
「あ、あ、あちゃ、あちゃあ、ぎゃあああああ」
 男は松明を手で払って地面をのた打ち回った。横転しながら雑草の茂みに飛び込み、顔に粘着する火を拭い去っている。子供達は愉悦に頬を緩ませ、ケラケラと高笑いを上げた。
「やったねハチさん、これであなたも僕達の仲間だよ。これからずっと一緒に仲良く暮らしていこうね」
 カゼルは満足そうに微笑みかけた。ハチは失意の念に駆られて、人格を破綻させた壊れた笑みを友達のような住民に振り撒いた。不変の安全に執着していた自分は偽りであり、実際は本心から殺戮を欲していたのだ。薄っぺらい正義感に捉われて偽りの仮面を被っていたに過ぎないのだ。殺戮を遂行できる智頭に憧れを抱いていたのは包み隠していた私の本質だったのだ。ハチが悲鳴を上げた男に覚えた感情は、子供達と似たような軽度の快楽であった。
「私も皆と仲良くしていたい。この世界で安全に、皆と一緒に暮らしていたい」
 ハチは無表情に唇を動かした。子供達は友人の誕生に歓喜の雄叫びを上げて、巨漢の男を殺さぬように甚振るこの世界の遊びを続行していた。ハチに炙られた顔の火傷は軽傷で済んだが、近接した友人と足を絡ませ転倒した少年の棒切れが男の右目に潜り込み、男は不運にも右目を失明してしまった。
「それじゃあ、今日はこれで解散だ。夕御飯になったらまた会おうね」
 カゼルの号令で子供達が帰宅した頃には、この世界の天井に位置する巨大な照明が、光度を落として夕闇を再現していた。
 ハチは空き地の傍らで気絶した男を暫く見下ろしていたが、何の罪悪感も感慨も沸いてこなかった。やっと友達ができて磐石の体勢が整ったのに、孤独の闇から脱せない濃霧がハチの明るい前途を覆い隠している。
 ハチは自然と足を早めて、住民の男性に完成したと報告を受けた、章生との新居を捜し求めて帰路に着いた。
「ハチ、待たせてごめんね。こっちだよ、こっち」
 ハチが畦道を駆ける途中で、章生が藁葺きの小屋の前で手を振って帰宅を待っていた。ハチは疲弊した体を奮起して章生の胸に飛び込んだ。
「聞いてよ、お兄ちゃん、私友達ができたんだ。皆、とってもいい人で優しくしてくれるんだよ。この世界は、ほんとに安全だねえ」
 ハチは変質した奇妙な笑みを、全幅の信頼を預ける肉親に見せた。章生は長年の共同生活で培った経験から、瞬時にハチが現実逃避に身を封じ込めたのだと悟った。
「ハチ、中は狭いが僕なりに改良を加えて快適にしてみたよ。早く家に入って見ておくれよ」
 章生はハチの背中を押して藁葺きの小屋に入っていった。返す言葉を持っていなかった。



 時折、入り混じる雑念に耳を塞ぎ、新たな生活に没頭して、はや三ヶ月が経過した。
 章生とハチはこの世界の規則を忠実に守って、総勢二十七人の大家族と癒着を強めていた。以前の世界にはなかった朝昼晩の概念にも自然と順応していた。
 ハチは明朝から起床して、緩やかな川で身体と衣服の洗浄の役割を引き受けた。朝食を済ませた後は、退屈そうに偏狭の世界を散策していた。時には巨漢の男を無理やり引き摺って、無情な友人と一緒になって暴力行為に順じていた。ハチは左腕を切断した次女の智頭の面影を強引に消し去り、躍起になってこの世界との調和を計り続けた。この世界で生き延びるには、他に方法がなかったからだ。
 章生は精神的に参ったハチの容態を気遣いながら、退屈を埋めるために自宅に炉を設置して、趣味としての陶芸に励んだ。章生が創作する陶器は大家族に謙譲され、狂気の暴発を抑止する重要な役目を担っていた。章生はこの世界で生き延びるには、忍耐が要求されると達観して、貧弱な肉体の鍛錬にも努めていた。
 大家族は章生とハチを野放しにしてくれたが、いつしか良質の陶芸品を求めて、気軽に創作を行っていた章生に負担を掛けた。今年で十七を数えるカゼルは溢れる性衝動に侵され、夜な夜な恋心を抱いたハチの尻を追い掛けて、強姦する機会を窺っていた。巨漢の男には、相変わらず死なない程度に陰湿な苛めを行っている。
 事実上、大家族に実権を握られたこの世界の昼を迎える。何とか均衡を保つ努力を絶やさぬ章生は、幾許か拡張した小屋に取り付けた窓を開けて、電球の光を取り入れた。 
 章生の耳に緩やかな川のせせらぎが運ばれる。章生は川に足をとっぷり浸からせて、小魚探しに奔走している巨漢の男を捉えていた。大家族に少量の食事しか与えられていないせいで、男は自力で魚を捕まえ飢えを凌いでいた。必要な物資はサードマンから簡単に得れるが、大家族にストレス発散用の水牛を殺すと脅迫され、男は口答えをせずに従っているようだ。恐らく男は慈愛を旨として生きており、人間のみならず、万物の生命を強く尊重しているのだろう。
「お兄ちゃん、そろそろ御飯だね。今日もおかずは肉かなあ、異様に肉が好きな人多いよねえ」
 ハチはサードマンから取り寄せた小型の冷凍庫で氷付けにした左腕を愛でていた。藁葺きの天井には章生が運搬した大量の干し肉が紐で吊り下げられていた。朝昼晩の三度の食事で十分に満腹になるので、贅沢ながら滅多に食べる機会に恵まれない。章生は有り余った干し肉を見上げ、芳しい成果を上げる哀れな巨漢の男に視線を戻した。
「ねえ、ハチ、僕はハチのとんでもない正義感が結構好きでさ。誰も傷つけたくないなんて理想を語って、実際に殺意を抱いて迫ってきた相手も許していたよね。でもハチはこの世界に来てから、自分の意志を殺してまで生活に溶け込もうとしている。僕も死にたくないし間違ってはいないと思うよ。けど、そんなのハチらしくないよ」
 章生は突拍子もなく思いの丈を吐き出した。殺戮を許せない慈愛を抱く巨漢の男が、故郷の世界で強大な志を持って輝いていたハチに酷似していた。
 ハチは苛立ちに頬を歪めて、冷凍庫に氷付けの腕を仕舞った。小屋の外からは、足音を殺した気配が迫っていた。
「どうせ私の意志なんて簡単に転んじゃうのよ。感情に身を委ねて暴力を振るう。そんな行為を許容できる人間になった方が楽だわ。そうでしょ、お兄ちゃん」
 ハチは無理に満面の笑みを作り上げたが、瞳孔は冷徹に見開かれていた。炉の傍に敷かれた藁の布団を捲り上げて、外界との交流を遮断するように潜り込む。
 章生は人間が横たわった際に生じる布団のでっぱりを撫でて、静かに目を閉じながら呟いた。
「ハチがそんな人間だったら僕は何も言わないよ。でも今は無理してるみたいだから心配なんだ。友達を捨てて安全だと思った世界を捨てるのは辛いだろうけど、些細なきっかけがあれば、僕達の均衡はたちまち崩れてしまう。この世界の本質は、僕達が暮らした世界と何も変わらないんだよ」
 ハチは布団の中で怒りに藁を握り締めた。この世界に精通した兄の口振りが腹立たしかった。
「うるさい、ここは安全で、きっとこれが安全な生活なのよ。お兄ちゃんは何にも分かってないんだから黙ってなさい」
 ハチは飽くまで公に殺戮が行われないこの世界を許容した。外から迫っていた気配は、漸く縦に開閉する藁の扉を開けて不作法に侵入してきた。短い両手に赤いボタンが付いたスイッチを乗せる、艶やかなピンクで全身を覆ったサードマンだった。
「お取り込み中失礼致します。稀白章生さんには長らくお待たせしましたが、これよりこの世界の満員御礼を祝して記念品を贈呈致します」
 サードマンは章生に接近して、赤いボタンを押せと促した。
「満員の記念とは、一体何のことだい」
 章生は怪訝そうな顔付きで問うが、サードマンは何も応えなかった。章生はサードマンの逆鱗に触れるのを恐れて、潔くスイッチを強く押した。
 数秒後に章生の眼前の空間が亀裂を生じて割れていき、空いた闇の空間にスコープや刀や本のような物品が高速で入れ替わり立ち代わり変化しながら出現した。ハチは布団の隙間から目を光らせて、兄とサードマンのやり取りを覗き見ていた。
「もう一度、ボタンを押してください。スロットが止まりませんので」
 章生は躊躇しながらサードマンの指示通りに赤いボタンを再度押した。高速で変化する物品は速度を緩めていき、やがて完全に本の位置で停止した。サードマンは闇の空間から本を引き抜き、両手で丁寧に章生に贈呈した。
「おめでとうございます。スロットナンバー二番、大まかな規則の手引書です。稀白章生さん以外の方が触れると消滅しますのでお気をつけ下さい」
 章生に本が手渡されると闇の空間は元通りに塞がった。サードマンはスイッチを持って、そそくさと小屋を出て行った。ハチは興味深そうに布団から這い出して、口論を展開していた兄の傍に寄り添った。
 章生は正方形の黒い箱が描かれた本の表紙に目を落とした。大まかな規則の手引書と題名が打たれた本は軽量であり、十ページ程度の厚みしかない。取り敢えず章生は表紙を捲ってみた。
「著書は現在滞在中の世界の規則のみを書き記す。第一条、殺人の禁止。第二条、世界の光度が三色に変わる際に鳴る鐘を合図に当世界の全員で食事を行う。第三条、ゲージの使用は許可されているが、サードマンが死者を発見した場合は直ちに回収される。第四条、可能な範囲内の物資をサードマンに注文できる。尚、規則を犯すと当世界のサードマンによって即刻処刑されるが、別世界に逃亡した場合については適用されない」
 章生がページを捲るごとに、章生の肩に顎を乗せたハチが文面を読み上げた。章生は本を閉じて、持参したリュックの奥底に仕舞い込んだ。その顔は重要な道具を取得した歓喜に緩んでいた。内容の理解に至らなかったハチは、章生の解説を求めて、リュックに詰め終わるのを待っていた。
「ハチ、この本はこの世界の規則が載っているんだよ。文面から察するに、恐らく別の世界に行けばそこの規則に書き替えられる筈だ。規則が分かればサードマンに殺される心配もなくなるからね。満員御礼の記念とやらの注釈は書いてないけど、僕達は貴重な情報源を得たわけさ」
 章生は饒舌に難しい講釈を垂れた。ハチは世界の規則が載っている利点は呑み込めたが、まるでこの安全な世界から別の世界へ脱却したいような兄の態度に立腹して不機嫌に顔を脹らませた。
 丁度、その頃になって、ガラガラと不快な音色を奏でる鐘が世界に響き渡った。章生は嬉しそうに「第二条に載っていただろ」と自慢げに語って小屋を飛び出した。
「あ、お兄ちゃん待って。私を置いて行かないでよ」
 ハチは慌てて小屋を飛び出した。畦道は友人の体裁を保った子供で混雑していた。高所から統率者の老婆がドラを叩いて住民を急かしている。
 ハチは短期間の鍛錬の末に異様に駿足になった章生の背中を見失った。後方から重量感ある気配が、畦道の砂を巻き上げて迫ってくる。ハチは併走する格好になった額に汗を滲ませる巨漢の男から、後ろめたそうに顔を背けた。
「おはようございます、ハチさん」
 巨漢の男は声高らかに挨拶を告げて通り過ぎた。ハチは顔を焼いた張本人に挨拶を交わす男の対応が信じられなかった。ハチには本名すら把握されていない男が、連日繰り返される拷問に耐え続けている男が、どれほどの意志を以て憎悪を抱くべき相手に挨拶を振り絞ったのか。ハチの胸が鈍い軋みを上げて、溜め込んでいた罪悪感がぶり返した。屋敷に到着するまでに出くわした子供は、本来の感覚を取り戻しつつあるハチの心境の変化に感付いたかもしれない。
 屋敷に到着したハチと章生は、指定席になった長机の上座に座布団を敷いて正座した。住民は賑やかな談笑を交わして食事を待ち侘び、老婆と女性一同が加熱した霜降りの肉を盆に乗せて運んできた。
 食事の準備を整えた老婆は章生の隣に腰掛け、恒例の神への謝辞を述べる前に、別の朗報を発表した。
「皆の衆、静聴あれ。カゼルの阿呆が興奮の余り、実の母であるサンザを夜ばいして孕ませてしまうたわ。しかしこれで新たな家族がもうじき誕生じゃ、今宵は祭りを開くぞ、皆の衆、沸き上がれ、今宵は踊り狂うぞ」
 老婆は両手を掲げて住民を煽り立てた。住民は口々に歓喜を叫んで、吉事を祝してサンザとカゼルに温かい拍手を送った。章生とハチも愛想笑いを浮かべて二人の前途を祝福する。奥の部屋の隅に追いやられた巨漢の男は当たり前のように深い慈愛の笑みを送っていた。
「ごめんね、今度はハチさんも孕ませてあげるから」
 カゼルは情欲に堕ちた性の亡者と化した顔で、隣に坐るハチの顔を眺めていた。ハチは目を背けて章生に擦り寄って逃げる。住民は喧噪を発して愉快に食事を取ろうと箸を握るが、屋敷の庭から数十体のサードマンが大広間に侵入してきた。
「これ、何の用じゃサードマン、家族は全員揃っておるぞ」
 老婆が威厳を利かした怒号で追い払おうとする。サードマンは怯まずに、寧ろ喜び勇んで長机の周囲を意気揚々と跳ね回った。高速で旋回するサードマンはサンザのぼて腹を指差し、互いに調子を揃えて叫び出した。
「こりゃあ、お前のせいで制限人数を越えるぞお。一人殺さなきゃ、誰か殺さなきゃ、いけなくなったぞお。生まれる前に一人減らさなきゃ、僕たちがお前を殺しちゃうぞお」
 サードマンは規則に則った発言を告げて、短い右腕を虚空に伸ばして変形させた。ベキベキと腕の形状が潰れて硬質化されていき、短い筈であった腕は湾曲したピンクの鋭利な刃物に変質した。
 長机を囲んだ全員が絶句して、首筋に刃物を押し当てるサードマンの動向に視線が集まった。サードマンの一人は首筋の皮膚を軽くへ込ませて、狼狽する下賤な住民どもに吠えた。
「いいかお前らあ、後二日以内に一人減らさねえとこいつを殺すぞ。助けたければそれまでに誰か一人死んでおけ。ただし、他殺で減らした場合は、規則通りに殺した奴もぶっ殺すぞ、分かったかあ、返事がねえぞお」
 サードマンは全身に青筋を走らせて快諾を要求した。住民は従者のように扱っていたサードマンに圧倒されて思わず何度も頷いた。
「いいか、後二日だ。一人減るまでは、物資の注文は一切受けつけねえぞ、肝に免じておけ」
 大広間一杯に拡散したサードマンは集合して、颯爽と踊るように跳ねながら屋敷の外に消えていった。
 長机を囲んだ住民は突然の凶報に重い沈黙に包まれ、静々と冷めかけた肉を胃に詰め込んでいた。口を会話に使わないので見る見る内に肉の量が減っていく。
 老婆は箸も置いて肉を口にせず、家族の誓いを立てた章生とハチの顔を暫し眺めた。
「章生、ハチ、聞いたじゃろ。後二日で、サンザが殺されるそうじゃ」
 老婆は厭味を含んだ口調で、遠まわしにどちらかの死を要求していた。老婆と生死を供にした大家族の凍て付く視線が、数分前まで家族であった筈の余所者に集中する。
 章生は徒党を組んで精神を蝕む策を選んだ大家族を睨み付けた。奥の部屋に左目を向けながら不満を露呈する。
「僕達は、家族ですよね。それに、いるでしょ」
 章生は言葉少なく非情に延命の最善策を取った。大家族は章生の思案を読み取り、奥の部屋の片隅で死の恐怖に震える巨漢の男に凍て付く視線を向けた。
「そういえば、いたのお。のお、木偶や」
 老婆は邪悪に頬を緩み切らせて、巨漢の男に死の宣告をした。大家族はあらゆる暴力を用いて巨漢の男を自殺に追い立てる所存であろう。
 有りっ丈の肉を胃に詰め込むハチは、後悔の念に駆られて、巨漢の男を救出する別の方法を模索していた。


 
 大家族の長である老婆が、家族を総動員して巨漢の男を追い詰める。
 遠巻きに凄惨な虐待を見守るハチと章生は、他人事とは思えぬ状況に息を呑んだ。生存に執着する大家族にとって、巨漢の男の命など無に等しいのだ。
 巨漢の男は、老婆が自作した先端の尖った杖で右手の平を貫かれ、庭先の砂の地面と固定された。首には首輪が巻かれて地面に刺した杭に繋がれている。大家族はこの世界の凶器の代名詞である棒切れを握って、男の全身を滅多打ちにした。
「お前が死ねば、サンザは助かるんじゃ、分かるか、お前如きの頭でその意味が理解できたかのお」
 浴びせられる罵声が、悲鳴を上げて大家族の攻勢に耐え忍ぶ男を深く傷付ける。男は焼けた顔の皮に屈辱の唾液を吐き掛けられた。絶えず全力で振り下ろされる棒切れは男の歯列を根こそぎ砕いていた。草鞋を履いた子供の蹴りで左耳の鼓膜を破かれた。数人が協力して男の股を裂き、筋肉が断裂した股間を執拗に火で熱された。棒切れを失明した右目に突っ込み、眼窩に沿って刳り貫くと眼球が零れ落ちた。
「死ねよ木偶、分かってんのか、お前が来たからこうなったんだよ。責任取ってみろよ」
 子供の残酷な暴言が虫の息となった巨漢の男に吐き付けられた。ハチの胸に芽生えた感情は男に取った行動とは正反対なおこがましい大家族への憎悪だった。咄嗟の策略で男に責任を転嫁した章生も、罪のない男を苦しめる元凶となったことに後悔して、自身を恥じた居た堪れない心境に陥っていた。
「章生、ハチ、何を黙って見とれるんじゃ。お前らもやってみい、ほれ、楽しいぞ」
 老婆の悪魔の誘惑にハチは黙って俯いていた。章生は瀕死に陥った深刻な男の容態に気付き、暴力を振るう大家族の輪の中に突入した。男を庇うように両手を広げて攻撃を制止する。
「もうやめて下さい。これ以上やったら他殺になりますよ。それはあなた方の本意ではない筈だ」
 章生の尤もな言い分が大家族の熱狂を醒ました。大家族一同は残念そうに舌打ちを鳴らして、白目を剥いて失禁する巨漢の男に容赦のない暴言の追撃を浴びせた。耳を劈く暴言の喚声が周辺一体に響き渡り、ハチは耳を押さえながら巨漢の男に歩み寄った。
「やめてよ、この人気絶してるのよ」
 男の体を起こして大家族に敵意を剥き出しにするハチに、老婆は疑惑の眼差しを注いでいた。攻撃の手を制した章生の腹の中もきっと似たような行動原理で動いているのだろう。
「ハチ、章生、お前ら木偶に肩入れしておるな。まあええわ、そいつを連れて視界の入らぬところに失せてくれんかの。明日の朝までに死なねば、お主ら全員、ただでは済まさんと伝えておけ」
 老婆は愚者に加担した二人を嘲笑っていた。章生は同類に引き入れられた事態に焦ってハチを睨むが、ハチに行動を起こさせるきっかけを作った不自然な制止を責めて、男を担ぎ上げようとするハチを手助けした。
「明日の朝までですね、分かりました、僕がそう伝えておきます」
 章生はハチの反対側から男の肩を担いで石段を下りていった。高所の屋敷から大家族の鋭い眼光が背中に浴びせられる。ハチは復縁を迫れそうにない内輪で団結した家族に振り返り、感情に身を委ねた失態を詫びるように章生に小さく頭を下げた。
「気にするな、遅かれ早かれこうなったさ。問題はこれからどうするかだよ」
 二人は男の並外れた体重に苦労しながら畦道を這うように進んだ。章生は川沿いに伸びる畦道の果てに、男の住処らしい倒壊しそうな粗末な藁葺きの小屋を認める。章生はハチに指示してそちらに男の質量を運んだ。
「ぐ、ぐうっ」
 藁の布団に寝かせた巨漢の男が呻いた。男がゲージを越える際に運んだような道具に目を奪われていたハチは、男の膨れた手を握って必死に呼び掛ける。章生は小屋に置かれた桶を持って近くの川に出払った。
「ごめんなさい、もっと早く止めていればこんな酷いことにはならなかった。お願い、死なないで」
 ハチは祈りを捧げて男の復調を願い続けた。桶に水を汲んできた章生は処置法も判らず、男の顔から全身に水を振り撒いた。冷水を全身に叩き付けられた男は、強靭な意志で細い目を開け、同情に駆られて涙を目に湛えるハチに微笑を送った。
「ありがとう、ございます。ハチさん、すいませんが、鍼を、取って頂けませんか」
 男は消え入りそうな掠れた声で虚空に手を伸ばした。ハチは藁の内壁の至る所に刺し込まれた極細の鍼の束を手に取り、そっと皮の厚い手に預けた。
「助かります」
 男は太い指を器用に駆使して束から鍼を一本ずつ引き抜いていき、迷わず全身の数箇所に刺し込んだ。男は医療に精通しているのだろうか、章生とハチは固唾を飲んで、次第に乱れた呼吸を整えていく男を静観していた。
「どうか心配なさらずに、これは麻酔効果のある私の世界で使用していた鍼です。傷を癒すつぼを何箇所突いたので、直によくなります」
 言った男の顔は徐々に血色を取り戻していた。神秘的な鍼の効果であろうか、順調に容態を回復させる男の常軌を脱した生命力に二人は驚き、大家族と決別してまで掴んだ興奮に手を取り合って歓喜に舞い上がった。
「生きててくれて、ありがとう。私が悪かったの。人に悪意を向けられるのが怖くて、あなたに酷い暴力を振るってしまった。本当に、ごめんなさい」
 ハチは積み重ねてきた所業を悔い改め、暴力に耐え続けた健気な男に許して貰えるまで、罪滅ぼしをする決意を固めていた。
 男は悲運を背負い込もうとするハチに微笑して、露出した左腕の断面を眺めていた。
「いいんですよ、私は今度こそ誰かに必要とされたいだけです。ハチさんの役に立てるなら、喜んで身代わりになりますよ」
 男は苦痛を洩らして上体を起こした。涙に頬を濡らせるハチの左肩に触れて、服の袖を肩口まで捲り上げる。
「可哀想に、やはり誰かに切られたんですね。いつか診たいと思ってたんですが、よろしいですか」
 ハチは男に忠義を尽くして頷いた。男は軽く痙攣する左肩の慢性的な痺れを指診で見破り、極細の鍼を縦にして鎖骨の隙間を通過させた。ハチは無痛の鍼から伝わる麻酔の心地良い刺激に頬を緩めた。左肩の凝りが取れて軽くなったような実感が湧いてくる。
「あ、ありがとうございます」
 ハチは後光が差したような類稀な能力を発揮する男に敬服した。男は照れ臭そうな笑みを返す。
 知らぬ間に、小屋から姿を消していた章生は、藁葺きの自宅からリュックと大量の干し肉を持ち運んできた。
「よかったら召し上がって下さい。その体では満足に動けないでしょうから。僕達は魚でも捕って食い繋ぎますよ」
 章生はどういう訳か、大判振る舞いで大量の干し肉を全て男に提供した。物資の供給が禁じられた状況下に置いて、無償の愛を尽くしてくれる章生に男は感服していた。だが男は途絶えていた他人との交流に遠慮がちになったのか、干し肉を全員で均等に分配する案を出した。章生は内心ほっとしたように胸を撫で下ろした。 
「お兄ちゃん、これからどうするの」
 ハチは窓から差し込む光度の落ちた巨大な電球の光を視界に納めて言った。男の容態は安定期に入ったが、老婆に告げられた残酷な虐待の期限は明日の朝までだ。ハチは章生がせめてもの償いに、貴重な保存食を全て譲り渡そうとしたのだと直感していた。如何に思索を張り巡らせても、誰かを犠牲にする以外に生きる術はないのだ。
「安心して下さい。お二人には、迷惑をかけませんから」
 男は干し肉を齧りながら意志を告げた。章生は悔しそうに下唇を噛み締め、覚悟を決めた男の瞳から目を背けた。



 
 巨大な電球は照明を落として、この世界の住民が寝静まる夜を迎えた。懐妊を祝して開催する筈だった祭りは中止になっていた。
 章生は巨漢の男の小屋に籠り、一抹の希望を探してサードマンから得た大まかな規則の書を睨み付けていた。十ページ程度の規則の穴は容易に発見に至らない。
 ハチは苦肉の策を絞り出す章生に協力して議論を交わしていたが、何とか杖を着いて歩けるまで回復した男に誘われて、砂利が足場を形成する川原に腰を下ろしていた。男は傘を被せたランプを携えて、暗闇の川を照らすようにハチと自身の中間にランプを置いた。
 男は仄かな灯りに横顔を照らすハチを眺め、感慨深そうに細い目を閉じた。ハチは夜を迎えるまでにやっと男の本名を聞き出せていた。
「減水さん、急にどうしたの。朝になるまでにいい方法を考えないと、また酷い目に合うよ」
 男はアリソナ減水と名乗っていた。減水は川に小石を投げて、緩やかな波紋の拡がりを眺めながら語り始めた。
「すいません、どうしてもハチさんとお話しておきたかったんですよ。私の出身は医療の発展した世界でしてね。そこはこの世界より悲惨なところで、公に外部から侵入してきた人間の殺害が許可されているんですよ。世界に住む人は強制的に医者になる訓練を積まされ、医学の発展のためにゲージを越えてくる人を傷付けては、治療を施してたんです。治療が終われば、また別の傷口を開いて治療したり、新薬の投与に利用する。治しては傷付ける。延々とそれの繰り返しです。人を救うために存在する医者が、人を傷付けるなんてお笑い種でしょ。私はその世界で暮らすことに嫌気が差していたんです」
 ハチの世界では医者が存在しないので、減水の話の全容が理解できなかった。頻繁にゲージを越えて世界に訪れる人間がいるなら、以前の世界で誰も外部から侵入して来なかったのは何故だろう。ハチは心の内で疑問を連ねていた。
「世界が嫌になったから、ゲージを越えたの。私と同じだね」
 脳裏に生き別れた智頭の面影が過ぎり、ハチは智頭の安否を心配して虚ろにランプの傘を眺めた。
「はい、恐らく、そうなんでしょう。私がこんな世界は滅びればいいと願ったから、殺戮に飢えた破壊者を呼び寄せてしまったんです」
 減水の瞳に暗い影が差した。彼が他人に不変の慈愛を貫く要因となった出来事らしかった。ハチは何処か嫌な予感を覚えていた。心臓が不安定に拍動している。
「奴は私の家族を皆殺しにして、私の意見に賛同する友人まで殺した。いえ、それどころじゃない。奴は人間に憎悪を要求して世界を滅ぼしたんです。私が憎んだ世界は一日足らずで廃墟と化してしまい、奴は私が生き延びているのを知っていながら、憎悪を増幅させるために敢えて生かしました。私は自分を責め続けました。世界の死を望んだ罪を償おうと。人のためになるなら、どんな報いも受けてやろうと思ったんです」
 減水の世界を滅ぼした憎悪を望む破壊者を、ハチは平気で殺戮を遂行する智頭の残忍な笑みと重ねて、鮮明に頭に浮かべていた。
「ゲージを越えてやって来たこの世界の方は優しくしてくれました。私はどんな要求にも答えようと思い、皆さんの質問に応えていたのですが、それがいけなかったようです。平和な世界には刺激が足りないんだ。私の世界のような殺戮に面した緊張感を味わってみたい。私は皆さんの要求に応えたくて、弱った水牛を傷付けぬように全てを受け止めました。それで皆さんが満足されるなら私は本望でした。ですが現実は残酷で、皆さんの不満は募る一方でした。殺人という一線を越えたい方が多発したのです」
 減水は裏目の結果しか返さない自分を責め続け、ハチと章生がゲージを越えて訪れた際には、極力関わらないよう努めていたと打ち明けた。ハチは自身の過去を回想して、減水と同じように世界を忌み嫌い、同じように不幸を招いて家族を減らした厄病神である自分を責めた。現在の危機的状況は、普段の素行が悪いから招いた惨事かもしれないと欝に浸る。
「減水さん、きっと減水さんの世界を滅ぼしたのは私のお姉ちゃんだよ。きっと私がお姉ちゃんを憎んであげれないから、八つ当たりしたんだよ。ごめんなさい、私のせいで」
 減水は無闇な感傷に浸るハチを侮蔑するように見据えたが、首を振って不器用な微笑を浮かべた。
「ハチさんのお姉さんのことは知りませんが、きっと優しい方だと思いますよ。私はこれまで人に迷惑ばかりかけて生きてきましたが、今度こそ人の役に立てそうです。私が死ねば、少なくともハチさんと章生さんは助かりますよね。皆さんの不満を解消しないまま逝くのは本意ではなかったんですが、今は一刻を争う時ですから、仕方ありません」
 減水は言葉を詰まらせながら最後まで言い切った。ハチは死を予兆する減水の陰気な横顔を見て、両目に大粒の涙を溢れさせた。
「実は、私の世界が崩壊する前日にゲージを越えた医者がいましてね。冷たい奴と誤解されがちなんですが、私が尊敬している優秀な医者です。何度か彼と交流した際に貰った手製の診察券を譲りますので、私の名を出せば左腕を治療してくれると思いますよ。ハチさん、どうかあなたは不幸にならないで下さい」
 減水は墨塗りの法衣の袖から、太字で彩文の無料診察券と書かれた診察券と、二十代前半であろう髪を伸び放題にした男が写った写真を取り出した。溢れる涙に瞬きの回数を増やして、砂利の大地に水滴を落とす、ハチの無事を願って譲り渡す。
「い、いやだよ。きっと私が悪いんだよ。自殺なら私がするから、減水さんは生きて。ねえ、お願い」
 減水は夜風で冷えたハチの頬に手の平で温もりを与え、静かにランプを拾い上げた。とぼとぼと小屋に引き返して行く。 
「やだよ。早まらないで。まだ時間はあるよ。私は減水さんにもっと生きていて欲しいの」
 ハチは手を着いて立ち上がり、駆け足で減水の背中を追い掛けた。足を早めた減水は小屋の扉を開けて、何度も本に目を通して頭を捻る章生に会釈した。
「章生さん、少しの間ハチさんを抑えていて下さい。この世界ではサードマンに気付かれない内に、ゲージを越えなければいけませんから」
 減水は翳りの差した瞳で自害を訴え掛けていた。章生は減水の決断を汲み取って、減水の生を喚きながら扉を通過したハチの肉体に飛び付いた。減水は藁の内壁から太い鍼の束を剥ぎ取る。
「離してよお兄ちゃん。減水さんが死んじゃうのよ、自殺するのよ。そんなの嫌だ、生きて、もっと生きてよお」
 減水は法衣を脱いで上半身の素肌を覗かせ、決心した息吹を吐いて胡坐を組んだ。章生に頭を抑え付けられて泣き咽ぶハチに醜悪な笑顔を振り撒き、無造作に太い鍼を額に刺し込んだ。
「がぐっ」 
 ハチの目の前で、減水は短い呻きを洩らした。細い目を閉じて、絶命した質量が眠るように仰向けに崩れ落ちた。 
「いや、いやあああ、うぐうっ」
 章生は減水の死に泣き叫ぶハチの口を手で塞いだ。その顔は平静を装おうと抵抗していたが、悲痛に頬を引き攣らせていた。
「静かにするんだ。サードマンに気付かれる。左腕はハチのリュックに仕舞ってあるから、後は保存食を詰めてこの世界を脱出しよう」
 章生は動揺を掻き消すように溜息を付いて、室内に散乱した干し肉の余りものを掻き集めて淡々とリュックに詰めた。ハチは大粒の涙に顔を崩して立ち疎んでいた。
「お兄ちゃん、どうして、私に関わった人は死んじゃうの。いつか、お兄ちゃんもお姉ちゃんも、私を置いて死んじゃうの」
 ハチは叫び回りたい衝動を抑えて不安を口にした。章生は深呼吸を繰り返して冷めた顔を装い、絶命した減水の口で生成された鍵を、腹部の鍵穴に差し込んで左に回した。減水の脂肪が凝固した乳房には六億分の三億八千と長い数字の羅列が続いていた。
「ハチ、僕を見くびらないで欲しいな。僕は死なない。いつも僕とハチが生き延びる方法を優先して考えているんだ。ハチを悲しませたくないから、必ず死なないと約束してあげるよ。さあ、分かったら着いておいで。減水さんは僕達を同じ目に逢わさないようにゲージを作ってくれた。その遺志を、放棄したくはないだろ」
 章生は荷物を背負って螺旋に渦巻く闇の空間を見下ろし、ハチを奮起させるように先に飛び込んだ。平静を張り付かせた両目には薄っすらと涙が滲んでいた。
「お兄ちゃん、約束だよ。絶対に、約束だからね」
 ハチは章生の言葉に淡い希望を抱いて駆け出した。左腕が納まったリュックを肩に担いで、ゲージに飛び込んだハチは、抑えていた衝動を一気に解放させて減水の死に号泣していた。

(引き続き ブラックゲージ 〜 第三章 鉄の中 〜 をお楽しみください。)

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