ブラックゲージ 〜 第一章 箱の中 〜


プロローグ或いはお触書

 人々があんまり外は危険だと騒ぎ立てるので、私が内に理想の世界を造ってやった。
 

                    ブラックゲージ創造主:イーターヨウイチ。

第一章 箱の中



 稀白家の周辺一体及び、この世界全体は相変わらず、陰鬱な夕闇に包まれていた。
 太陽染みた発光体が水平線の上に僅かに頭を出して停滞しており、人類が如何に中天を待望しても、決して頭上に昇ることはない。この世界が誕生した瞬間から、現在の状況は継続されていたので、この世界に巣食う人類には、朝昼晩の概念がなくても違和感なく生活できている。
 発光体が没しないからといって、夜を象徴する暗黒が全く認知できないわけではない。上空と地平線の向こうには完全な闇が覗いている。まるで闇の壁に囲まれているかのように、この世界は一定の尺度で区切られ、正方形の闇の箱に納まっているのだ。
 そんな世界で、二階建ての民家に居住する稀白家では、生存者である父の康之、長兄の章生、次女の智頭、そして三女のハチが、生命の灯火を失った母の雪根を囲んで冥福を祈っていた。
 ただ一人、母の死に無情な含み笑いを洩らす、次女の智頭を除いては。
「智頭、いい加減にしなさい。母さんの御前だよ」
 父の康之が怒気を含んだ声で言った。智頭は悪びれる様子もなく、平然と笑いを続行していた。
 母親の肉塊は全裸に剥かれて、診察台のような細長い板に乗せられていた。三女のハチは十四年間に渡って共同生活を営んだ、母との死別を心から嘆き悲しんでいた。背丈は年端に相応する百四十センチほどの体躯で、悲痛に崩れた顔立ちの下には、本来の大人しそうな愛苦しい顔立ちを隠していた。艶のある黒髪は肩口の辺りで切り揃えられている。非業に嗚咽する少女らしく、凛と澄んだ丸い瞳に目一杯の涙を堪えて、溢れ出る鼻汁を慌てて啜っていた。 
 涙に頬を濡らすハチを横目に、智頭はけたたましい笑い声を上げた。
「お前ら、よく泣いていられるな。分かってるんだろ。母さんを殺したのは私なんだぞ」
 智頭はへその代わりに鍵穴の付いた母の腹部を撫でた。この世界の人類の誰しもが絶命した直後に現れる鍵穴の中には、螺旋に渦巻く闇の空間が垣間見えていた。母の胸辺りには分数が刻まれており、現在は三百分の四十三と表記されている。母の亡骸の傍らには、腹部に設けられた鍵穴にぴたりと嵌まる黄金色の鍵が置かれていた。
「やめなさい智頭、母さんの御前でもそんな無礼な真似を。私はこれ以上、お前に嫌疑をかけられるのは望んでいないんだよ。せめて、サードマンが母さんを引き取るまでは大人しくしていなさい」
 康之は儚い希望にしがみ付いて、本心では殺害を勘繰っている実の娘を見た。
 強大な膂力に膨れ上がった智頭の完成された肉体は、他の家族とは明らかに異なる暴力的な印象を醸し出していた。十代後半であろう智頭の風貌から見て取れる隙のない居住まいには、殺人に適した狡猾な知能と常人を遥かに超越した身体能力が宿っている。強者の威厳を象徴する緋色の髪は、目鼻の筋が通った美女だけが有する輪郭に沿って滑らせ、太腿の筋肉で体の軸が安定した腰辺りまで伸ばしていた。柳眉の下にある切れ長の濁った瞳は、非人道的な理不尽な殺戮に飢えているようだった。
「幸せな奴らだな。早く私を殺さないと寝首を狩られるかもしれないんだぞ。逃げるなら今の内だけだ」
 智頭は口元に邪悪な笑みを張り付かせて、玄関の方に消えていった。
 居間に残された家族は押し黙って、母の無惨な死体を毛布で包み始めた。目立った言動を控えていた長男の章生が率先して手早く行う。三女のハチは章生に指示されるがまま空虚に働いていた。目の前で横たわる亡骸より、外出した智頭の行動が気懸かりで身が入らない。
 ハチは傍若無人に暴挙を振るい、凶悪な殺人鬼として箱の世界を暴れ狂う智頭に、純粋なまでの憧れを抱いていた。
「やはり智頭は出来そこないだ。長女の加美に続いて母さんまでも。許せん、いくらサードマンが殺人を公認しているからといって、家族まで殺すなんて私は認めんぞ。こうなったら、智頭の背後から忍び寄って殺してくれるわ」
 康之は智頭の気配が家から消え去った頃に本音を零した。母の顔に白い布を被せた章生は、声には出さずとも康之の意見に賛同しているようだった。腹黒い内心が厄介者を排除せよと表情に表れている。智頭を敬愛するハチだけは、身内の死を切に望む父に軽蔑した視線を送っていた。
 ハチは強面の父に塞がりがちの重い口を開き、率直に抱いた本心を吐露した。
「駄目だよお父さん。お姉ちゃんは家族なんだから仲良く暮らしていこうよ。私は個人的にお姉ちゃんが好きだから、絶対に賛成できないし、許せない」
 表情こそ変えなかったが、ハチの感情は如実に声で表現されていた。その冷酷な声は、サードマンと呼ばれる箱の世界を監視する第三者と同質の機械的な音調だった。家庭内では当たり障りのない良き話し相手で定着しているハチではあるが、第二の智頭と成り得る素質が宿っているのかもしれない。
「ハチの言う通りだよ。ハチは智頭と仲が良いみたいだし、彼女は無闇な殺生こそ繰り返しているけど、ゲージを躊躇せずに潜れる度胸がある。僕たちが智頭を更生していけば、いつか彼女から未知の世界の状況を詳細に語ってくれるかも知れない。それは素晴らしいことだと思うよ」
 章生は、怒り心頭して顔を紅潮させたハチの意見に乗り換えた。それも父より三女のハチが愛苦しくて仕方ない章生の素直な感情ではあった。
「そんなことは分かってる。私だって今までそうやって自分を宥めていたんだ。だが、これ以上は堪えれない」
 康之は苦言を呈して居間のテーブルに腰掛けた。章生は椅子を後ろに下げてハチを先に坐らせ、後から席に座った。テーブルの上に遺体を移して、家族全員でサードマンの到着を待つことにした。章生は消えぬ悲しみに啜り泣くハチを見詰め、そっと頭を撫でてやった。
 章生は外見から沈着冷静な雰囲気を漂わせているが、表面的には温厚な性格であり、二十代前半であろう章生の顔立ちは姉妹と同じく均整が取れていた。それでもこの世界に住む女性の気を満足に惹けない要因は、ひょろりと痩せ細った体に、黒が混じった金髪を中央で分けた女性に不人気な髪型を選択して、自ら異性との交流を放棄しているからであろう。尤もこの世界に厳密な男女間の有り方は定められていないので、強姦や高圧的な態度に出た暴力などは頻繁に行われている。強者の雄は弱者の雌を無理やり組み敷ける寸法なわけだ。
「新たなゲージが生まれたとのことなので引き取りに伺った」
 一同が着席して数十分が経過した頃、人間の声帯とは異なる機械的な声が外から聞こえてきた。
「はい、今開けますから待っててください」
 家主の康之は慌てて扉を開けに走ったが、鋼鉄製の扉は強烈な蹴りを受けて居間に弾き飛ばされた。舞い上がる埃が視界を遮る中で、硬質な金属のブーツがフローリングを踏み締める音が鳴った。無作法に侵入してきた突然の来客はサードマンだった。
「鍵は回してないだろうな。左に回すなら良しも、右に回せば命はないと思え。死者の行き着く先は、ブラックゲージ安置所である。稀白雪根の遺体は新たなゲージとして迎えられ、丁重に保管、或いはゲージを潜る希望者が現れた場合に使用される。この度は大儀ある見事な死であった。おめでとう」
 サードマンは賛辞を呈して拍手を贈った。顔の表情を薄い黒のガラス板で隠した白色のヘルメットを装着して、全身は運動性を重視した体にぴたりと貼り付く型のボディスーツで固められている。或いはそのスーツは生来から備わっているサードマンという生き物の外見なのかもしれないが。サードマンという生物は圧倒的な暴力を誇示して、主にこの世界の規則を破った罪人を忠実に取り締まる任に就くが、民家の建築や農業に携わるなど多岐に渡って活動している。人類にとっては支配者のようでもあり、奴隷のようでもある異質な存在だ。人間とは違う別の生き物であるのは確かだろうが正体は定かではない。
「もう拍手なんかいらない。何度目だと思ってるの。私の家族が死ぬ度に喜ぶなんて失礼だよ。早く家から出て行いけ、私の前から消えてよお」
 ハチが無情な拍手に気圧されず怒鳴り付けた。ハチが家族の死を称えるサードマンに出会ったのは今回で九度目を数える。サードマンは無間に増殖や減少を繰り返しているので以前と同一のサードマンではないであろう。ハチ自身も頭では理解しているが、サードマンという憎らしい生物を許せなかった。機械のように人間の生命を世界の調和と呈して不愉快に賞賛する第三者の存在を。
「も、申し訳ございません。私からよく言っておきますので穏便にお願いします。どうか、新たなゲージを連れて行ってください。この度はどうもありがとうございました」
 康之は取り繕って懸命に低頭した。サードマンが被る白色のヘルメットの側頭部から、急激に二本の黄色の角が虚空に伸びていた。ガラス板で表情こそ確認できないが、任務を妨害するハチを駆除すべきかこの世界の規則に則って考え込んでいる。やがて、サードマンは緊迫した視線を外して、軽くなった雪根の質量を抱きかかえた。
「ゲージを利用したくば安置所を訪ねられよ。この世界でのゲージは無料で開放されている。無数の世界を紡ぐ神秘のゲージは貴重な財産に成り得るのだから。ごきげんよう」
 サードマンは通算九度目の決まった台詞を述べて、瞬く間に居間から姿を消して外を駆けて行った。強靭な脚力で迅速に移動できるサードマンの特徴を眺め、居間に残された稀白家の一同は複雑な表情を浮かべていた。強姦や理不尽な殺人が頻発するこの世界に疑念を抱いている家庭は、近所の界隈の中でも稀白家くらいである。家庭内では異端児扱いの智頭の残虐性は、寧ろこの世界の情勢にぴたりと適合していた。
「章生、ハチ、先に食事を取って置きなさい。やはり私はこれ以上同じ悲劇を繰り返すのは耐えられん。智頭を探し出して、お前達が殺される前に始末してくる」
 康之は決意めいた顔付きで、台所に凭れ掛かった湾曲した刀を手に取り、穴の穿った革靴を履いて外に躍り出た。章生とハチは動き出したら譲らない康之の性質を知っていたので、意固地になった父親を引き止められなかった。
 それでもハチは寂しげな顔で、玄関先から康之の背中を見送った。家に戻って炊飯器の蓋を開け、二人分の白米を茶碗に盛り付ける。
「お兄ちゃん、そのうちお姉ちゃんは帰ってくるかな。そしたら、三人分でいいよね」
 ハチは背後のテーブルに振り返って、涙の痕跡を示す腫れた瞼を章生に見せた。章生は現存する家族四人分の食事が、近い内に三人分で済むことを予測していた。ハチもまた本能的に同じ気持ちを抱いた筈だ。
 刀を携えて外出した康之が、気性の荒い智頭と対峙した場合に想定できるのは一方的な虐殺だけだ。過去に四女の遊馬が智頭を暗殺しようと目論み、遺体となって家に担ぎ込まれたのだから。
「そうだね、父さんは暫く帰ってこないだろう。今後は僕が働くことになるね。もし父さんが帰ってきたら交代だ」
 章生が言った。家主は世界の中央に位置する巨大な鍛冶場で働き、他の家族は規則の範囲で自由な生活を営む規則があるからだ。仮に家主が仕事を放棄すれば、家族全員の命はサードマンによって奪われるだろう。
 この世界の無常な規則に疑問を投げ掛ける三女のハチは、虚ろに父の無事を願って智頭の好物を調理していた。



 食事を済まして適度な睡眠を取り、章生は仕事に早く慣れるため、数時間後には護身用の刀を腰に差して出立した。胸には家主の証である、くちばしを半ばから切断した不気味なアヒルが描かれたシールを貼っている。これを貼らないと鍛冶場に立ち入れない。
 夕闇を再現する発光体の光線を横顔に浴び、章生は土手を歩きながら、川原で服を剥ぎ取られている女性を見下ろした。大胆に服を剥ぎ取っているのは任務に順ずるサードマンだった。女性は全身を痙攣させて瞳孔を見開いていた。傍から見れば強姦と見紛う光景は、死者となって新たなゲージと化した女性を回収している様子らしい。
 章生は別段珍しくもない光景に目を背けて、遥か彼方に聳える巨大な建造物を目指した。通りには刀工の材料となる金属を運搬する大型の車が黒煙を巻き上げて列を成している。章生は武装した強面の男達の後ろに続いて道の端を進んでいた。
 大抵の人間には負傷の跡が残されていた。章生の前後を挟む男の一方は右目に眼帯を巻き、もう一方は刀の鞘を杖代わりにして歩いている。治安の存在しないこの世界で無傷を保つのは極めて困難だ。そういう観点から捉えると、死者はいるが、負傷者がいない稀白家は極めて稀な部類に入る。
 章生は道沿いに発見した鉄の看板の前で立ち止まり、他の家主と一緒に労働者を運ぶ専用の大型車を待った。すぐに到着した大型車の荷台に家主達は乗り込み、巨大な建造物に向けて運搬されていく。章生は所狭しと集う家主達の背中を押して、窮屈そうに自分の居場所を確保した。後続車の荷台では刀での殺し合いが勃発していたが、章生には喧噪に耳を傾ける余裕すらなかった。父に叩き込まれた刀工の業をうわ言のように呟いている。鍛冶に取り組むのは父から教わっていたが、具体的な仕事内容は現場に到着してから伝えられる規則が定められている。経験の浅い初心者は不安で頭を満たしているだろう。
 三女のハチは初仕事に向かう章生の苦労など知る由もない。二階にある自室に引き篭もり、退屈そうに公営テレビを眺めてこの世界の情勢を眺めていた。世界に一人しか存在しない女性アナウンサーが、新しく息絶えた死亡者、すなわち新たなゲージと化した死者の名を読み上げている。
「稀白雪根、の、ゲージ番号は、五十万三千五百七十九番なり。ピー、今入りました情報によりますと、川原で、紫紀美子の、死体が目撃され、安置所に運び次第、ゲージ番号を関連付ける作業に入ります。ピー、続いて続いて、ピー」
 公に晒される死に絶えた母の名を聞いて、ハチは目頭を押さえて溢れる涙を拭っていた。公営テレビは四六時中休まずに死者の名を読み上げる。電気信号を発する女性アナウンサーは人間ではないようだが、人類にその素性は知れ渡っていない。
 新たな世界を紡ぐ入り口と銘打たれて重宝されるゲージに関しても、この世界の人間には大まかな機能しか報道されていない。ハチが把握している数少ない情報を上げると、まず人は絶命した時に口内に黄金色の鍵を生成する。鍵は当人の腹部に発生する鍵穴と合致して、左に回せば腹部の皮と肉が左右に捲れ上がり、人体の内部にある螺旋に渦巻く闇の空間に飛び込めるようになる。その空間を越えれば、この世界とは異なる別の世界に移動できるらしい。ハチには想像も付かない奇怪な現象だが、実際にゲージを潜った智頭が自慢気に、別の世界は存在したと語っていた。
 ハチは、騒乱に塗れたこの世界とは違う、未知の世界への興味を抱いていた。ゲージは安置所で無料開放されているが、智頭以外にゲージを潜って戻って来た人間はいない。死の恐怖が好奇心を埋没させて、不安を募らせたハチにはゲージを越える勇気は絞り出せなかった。
「お兄ちゃん、上手くやってるかな。父さんも、お姉ちゃんも、帰ってこないし」
 ハチは胸の内で膨張する孤独感に苛まれて、部屋の窓を開けて下界の光景を眺めた。特徴のない瓦を被った民家が密集する路地裏で、ハチと同年代であろう少年が刀を振り回して女性を追いかけている。女性は悲鳴を振り絞って救いを求めるが、駆け付けてくる救世主はおらず、敢え無く足を切り落とされて服を剥かれていた。
「殺人は許可されている」
 ハチは間近から発せられた声に反応して顔を上げた。隣の民家の屋根にサードマンが腕を組んで立っていた。
「そんなこと分かってる。あんたがいちいち言わなくてもいいの」
 ハチは気丈に言い放って、殺人を誘導するサードマンを睨み付けた。サードマンは首を捻って、白色のヘルメットから黄色の角を伸ばした。顔を覆った黒のガラス板に淡い光りの点が生じ、ハチの額に赤い光線が延びてきた。光線は対象者に害を与える効果でもあるのか、ハチの額に無痛の赤い点を照らし続けている。
「性別、女、本名、稀白ハチ。レゴスの妹か、厄介な奴だ」
 サードマンは記憶情報を解析したような結果を読み上げ、片足で屋根を蹴って高く跳び上がった。衝撃で屋根が突き破れ、テレビを観ていた隣人が驚愕の叫び声を上げた。
「二度と私の前に姿を現すなよお」
 ハチは瞬時に視界から消えたサードマンに訴えて、再び下界の惨劇を見下ろした。
「いやああああ」
 女性の甲高い断末魔が周囲に響いた。少年は白刃を腹部に叩き付けて内臓を破壊していた。女性は大量の血と供に黄金色の鍵を口から吐き出して眼球を裏返す。女性の腹部に空いた空間に覗けていた内蔵が徐々に薄れていき、やがて螺旋に渦巻く闇の空間へと変質した。胸の辺りには三万分の六千五百という分数が浮き出てくる。
 ハチは目を丸くした。生まれて初めてゲージが誕生する瞬間を目撃していた。白刃が通過した切断面は数秒後に癒合されて元通りに復元していた。少年は新たなゲージと化した女性の両股を掴み上げ、死んでいるにも関わらず、甘い喘ぎを洩らして性欲を解消していた。
「あの中に入れば、別の世界に」
 ハチは窓を閉めて壁に背中を預けた。荒くなった息を整えてテレビ画面を眺める。本日の死者が読み上げられる度に、心拍数が見る見る上昇していき、ハチは張り裂けそうなほどに高鳴る胸を掴んだ。
 アナウンサーの抑揚のない声と供に世界の誰かがゲージに変わる。ハチはゲージの誕生を間近にして、封じ込めていた熱狂を呼び覚ましていた。世界の至る所に転がる死者の体内に侵入するだけで別の世界に移動できる。一握りの勇気を振り絞るだけで、新たな世界が待っている。身の安全が保障されるような、平和な世界が存在するかもしれない。
「私は家族と一緒に、他の世界に行ってみたい」
 ハチは部屋中のカーテンを閉め切り、安置所に飛び出してしまいそうな興奮と戦いながら、家族の帰宅を待ち望んだ。



 彼方に認められた外観との距離が狭まり、巨大な建造物の全景が広がった。初見の者は思わず感嘆を洩らす。
「父さんはこんなところで、三十年間も働いていたのか」
 章生は鍛冶場について何一つ語らなかった父を思い返して、上空の闇の壁に届きそうな数十本の塔に囲まれた建造物を見た。殺戮に興じていた男の目さえ奪う精巧な装飾を施した建物は、色彩鮮やかな宝石を溶かして、何重にも積み重ねたような円形の鍛冶場だった。鍛冶場の高度は塔の中腹辺りに位置しており、同じ建物が十棟ほど円状に広がって、中心部の原子力発電所を外部から隠していた。
 章生を含めた家主達は荷台から下りて、軒を連ねる塔の合間を縫って歩いた。労働を終えて鍛冶場から帰ってくる家主は至福の笑みを浮かべていた。
 塔を通過すると、章生が予想だにしなかった光景が飛び込んできた。鍛冶場の周辺には露天が並んでおり、呼び声を上げる女性が店員を勤めていた。更に章生が歩きながら八百屋らしき販売店を眺めていると、何やらパチンコ玉のような金属とキャベツ一玉を交換していた。生活に必要な物資は全て父が持ち帰っていたので、希望の商品を購入する様子を見たのは初めてだ。
「七千番までの地域の者はこちらへ。八千番から一万四千番に居住する者は隣の建物へ迎え」
 当たり前のようにサードマンが建物の前で家主を誘導していた。稀白家の民家は七千番までに位置していたので、章生は進行方向を変えずに正面の建物へ歩いていった。
 章生が間近で見てみると、鍛冶場に使用される建物は五十層ほどに連なり、一層につき百部屋余りのドアが、やはり円状に設置されている。協力者もなしに単独で刀を造り上げるのだろうか、サードマンは列を成した家主に部屋の鍵を渡すだけで、一切の指示を送らなかった。
「お前は、三十階だ。早く行け」
 章生は鍵を渡されて、サードマンの硬質なグローブで背中を叩かれた。章生は悶絶した悲鳴を上げながら、建造物のエレベーターに乗り込む。
 上昇する窮屈な室内で到着を待つ家主の数は減っていき、いつしか章生は小柄な老人と二人だけになった。右手が手首から切断された老人に果たして鍛冶ができるのだろうか。章生は老人に同情の念を抱いていた。
「若いの、こんなみすぼらしい老人に刀が造れるわけがないと思っておるのですかな」
 章生の心境を見透かした老人が言った。章生は肩を震わせて無言で首を横に振った。
「いいんじゃよ、わしは本当に何も造れんのだから。しかしお互い楽な世界に住めて幸せですな。息を吸って、吐いてるだけで生活できる世界は、別の世界にもないと思いませんかね。まあ、行ったことはありませんがな」
 老人は顎に蓄えた白髭を摩って高笑いした。章生は訳も分からず老人に同調して愛想笑いを送る。二人は軽い談笑を続けて三十階で一緒に下り、受け持ちの部屋番号が真逆だったので、左右に別れて反対周りに歩き出した。
「稀白章生、お前は初仕事だな。説明をするから早く来い」 
 章生の仕事場らしい部屋の傍にいたサードマンが叫んだ。章生は駆け足で、赤に煌く柔らかな壁を後方に流して行き、渡された鍵を使って部屋のドアを開けた。
「三時間経ったら呼びに来る。それまでこの部屋で仕事に勤しむように。トイレ等は部屋に用意されているので自由に使え、以上だ」
 サードマンは簡単な説明を告げてドアを閉めた。部屋に取り残された章生は呆気に取られて周囲を見渡した。内装が豪華なだけで、自宅の近所に父が設けた鍛冶場と目立つ変化は見られない。   
 トイレのドアが奥に覗ける部屋の中央には、金属を刀の形状に鍛える金槌と火傷を防止するペンチに、原料となる金属を加熱する炉が設置され、使用される金属は炉の傍にある箱に敷き詰められている。内装を彩る半円状のドームの壁には赤い鉱石が散りばめられて、手元を狂わす眩い光りを放っている。凡そ刀工を行う環境には適していない派手な部屋だ。章生が特に引っ掛かったのは、三時間という刀の練磨には到底至らない短い作業時間だった。 
 規則に忠実なサードマンが冗談を述べるとは考えられない。短時間で鍛造を終える技量を要求されるなら、密室で出会った老人には不可能な筈だ。
 章生は焦りを覚えて、急いで金属が詰まった箱を引っくり返した。歪な金属の塊をペンチで挟み込み、炭を呑んで燃え盛る炉の中に差し入れて適度に炙っていく。ちりちり焼けた音が鳴り、炉の中で膨張する柔和な橙の光りが章生の顔を仄かに照らしていた。章生は熟練の勘で、刀に変質できる強度に達した金属を引き抜いた。発作のような咳をこじらせながら、迅速に次の工程へと移行する。
 部屋の壁に設置された時計は二十分を経過していた。章生は地面に貼り付いた平面の台に、先端が溶けそうな真っ赤な金属を乗せて、容赦のない金槌の一撃を見舞った。
 硬質な金属の跳ね返り音が室内に轟いた。章生は目を見開いて、金槌を寸分狂わず正確に、作業時間を重視した最適な箇所に打ち付けた。独自の美学に拘って、愛着のある形態に湾曲させる下手な真似は打たず、章生は刀身が垂直の味気のない完成品を頭に描いて鍛造に急いだ。
「ふふ、ふはははは」
 炉による金属の加熱と金槌の練磨を繰り返して二時間も経つ内に、章生の温厚な性格は豹変していた。獰猛な獣が憑依したような鋭い目付きで、制限時間に追われる心地好い緊張感に頬を緩めている。金槌を振り下ろす際に絶頂に達する邪悪な表情は、残虐性の高さを誇る智頭の兄であることを物語っている。
「いける、後三十分もあれば完成する。僕に出来ないことはないんだ」
 章生は類稀な己の刀工の業に酔い痴れていた。軟弱な肉体に鞭打ち、破壊力に富んだ金槌の連打を繰り出す。金槌は安定を保って正確な箇所に打ち付けられ、ガキンと高い音を返して震えていた。歪な金属の塊であった原型は、紛れもなく刀の形状に変質していた。
「よし、もうすぐ完成だ」
 章生は鍛造完了まで後一押しだと悟り、腕を限界まで振り上げて金槌を振り下ろした。ガキンと軽快な跳ね返り音が聞こえると思われた矢先、腕に痺れが走り抜ける鈍い音を跳ね返して、硬質な刀身の先端が微かに砕け散った。
「そんな、嘘だ。僕はちゃんと正確に打った筈だ」
 陶酔から一気に冷めた章生の顔は蒼白していき、粉末状になった金属を両手で掬い上げた。恐る恐る時計に視線を向けると、ドアが開閉する無常な音が背後から聞こえてきた。
「時間だ。報酬の銀百粒を手渡すから、早く外に出ろ」
 巾着袋を持ったサードマンが呼び掛けた。章生はゆっくり後ろに振り返り、破損した刀身を手に携えて部屋の外へ出た。臆病に下唇を噛み締めて、申し訳なさそうに頭を下げる。
「すいません、私の不手際で破損させてしまいました。どうかお許し下さい」
 サードマンは、章生が両手に乗せた欠けた刀身を無造作に掴み上げた。全体を隈なく眺めて、硬質なグローブで刀身を握り締める。
「鍛冶場の情報は決して外部に洩らすなよ。勿論、周囲を取り囲む塔や露天の存在、銀の球による物資の交換方法ついてもだ。もし口外するようなことがあれば、情報を伝えた相手もろともお前を抹殺すると思え」
 サードマンは説き伏せて、いとも容易く刀身を握り潰した。飛散した金属の破片が赤に煌く手摺を飛び越えて、階下に落ちていった。
 章生は精魂込めて造り上げた失敗作の末路を目で追い、巾着袋を進呈するサードマンに視線を戻した。
「これから一週間以内に必ず鍛冶場に来い。家族の命が惜しければな」
 サードマンは手摺の上によじ登り、高く跳躍して上階へと消えていった。章生は口を縛られた巾着袋を紐解き、中に詰まっていた銀の球を摘み上げた。露天でキャベツと交換していた銀の球と同じものだ。 
「仕事は、どうなったんだ」
 章生は当然の疑問を吐いて、状況が呑み込めぬまま、鍛冶場のドアを尻目に正面側に向けて歩いていった。
 エレベーターの乗り場がある赤に煌く塀の下に辿り着くと、章生と同様に仕事を終えたらしい小柄の老人が立っていた。左手には百粒の銀の球が詰まった巾着袋が握られている。
「おや、奇遇ですな。と言っても、作業時間は統一されてますから必然的な再会でしょうが」
 エレベーターの密室で一緒になった先ほどの老人だった。老人は章生の指先に肉刺が生じているのに気付き、蔑むような薄笑いを浮かべた。
「その様子では、あんた働きなさったんですな。いけませんなあ、何もせんでも報酬は貰えると言ったろうに」
 老人は口元を押さえて篭った笑いを吐いた。
「どういうことです。刀を生産するのが僕達の仕事なんでしょ」
 章生は老人の軽薄な態度に顔をしかめた。エレベーターの現在位置を示すランプは、着実に三十階へと上昇していた。
「鈍いのお、分からんのですか。刀を実際に造るのはサードマンなんですよ。例え造っても折られるだけです。わしらは息を吸って吐いてるだけで時間になれば報酬が貰えるんですわ。ただ、週に一回鍛冶場に来て部屋に篭っていればいい。楽なもんでしょ」
「まさか。それなら、僕達は何のためにここに来てるんです。サードマンが造るなら、鍛冶場に来る必要がないじゃありませんか」
 章生は即座に強い口調で反論した。老人は到着した無人のエレベーターに乗り込んで言った。
「そういう規則があるからですかな。考えてもみなさい、サードマンは何でも万能にこなせる。家を建築するのも、食料を供給するのも全て彼らが行っているんですよ。刀だけ造れないとは到底思えませんな。どうせ、わしらは家族のために物資を調達する必要があるんですから、無意味ではないと思いますがな」
 老人は扉を開けるボタンを押して、章生が乗り込むのを待っていた。章生は唖然として足を踏み出せずにいた。厳格なサードマンが定めた規則に、まさか無意味な項目が存在しようとは。章生はこの世界の規則を把握していなかった失態を恥じると供に、帰宅する度に手に肉刺を作っていた父の姿を思い出した。彼は採用されない刀の生産に情熱を注いで、果たして満足していたのだろうか。僕なら到底耐えられない苦行だ。
「乗らないのなら先に下りますよ」
 老人の呼び掛けで章生は我に返り、巾着袋を握り締めてエレベーターに乗り込んだ。
「まあ、気楽にいきましょうよ。どうです、一緒に買い物にでも行きませんか。新入りさんみたいだから、私が指導してあげますよ。どんな物資を補給したいんですか」
 老人は顔を曇らせた章生に親切に接してくれた。章生は疲れたように壁に背を預けて、暫く思案に耽っていた。
「そうですね、では食料、食料が欲しいです。できれば大量に蓄えて置きたいですね。他人から強奪しなくても済むように」
「下手な殺人は死を招きますからな。分かりました。安い店を教えてあげますよ」
 章生はガラス張りになった壁から賑やかな露天の風景を見下ろした。この世界に住んでいる限りは、食料を大量に調達しても一週間後には再び訪れなければならない。その度に、父親に強要されて身に付けた刀工の技能が、無意味な修得であったと痛感したくはない。
 章生が食料を選択したのは、ふとゲージの存在を思い出したからだった。



 外部からの木洩れ日を遮った簡素な部屋で、ハチは燃え滾る興奮を懸命に鎮めていた。
 新たなゲージの誕生を祝う公営テレビを流したまま、ハチはテレビの正面に設置されたベッドに身を沈め、未熟な乳房でなだらかに膨らむ深緑の服の上から胸を執拗に弄くっている。ハチの黒髪は櫛で梳かされ、藍色の髪留めを挿し入れて側頭部に撫で付けられていた。深緑の服は袖が短く、肘の付け根から下は素肌が覗いている。股間を覆っていた黒のパンツはベッドの下に転がっていた。
「皆、早く帰ってきてよお。この世界には危険が一杯潜んでるよ。外は危ないんだよ」
 ハチは右手を深緑の服の下から乳房に忍ばせ、余した左手を黒藪が茂る股間に伸ばした。割れ目の先を指でなぞり、淫らな喘ぎ声を洩らす。
「はあ、皆が家に帰ってきたら、お姉ちゃんが、住みやすい世界に案内してくれるよね」
 ハチは深緑の服を肩口までずらして、露になった乳房を左手で潰した。股間を刺激していた左手は、ひだが突起する体内に潜り込ませる。指先が肉の壁を刺激して愛液に濡れていく。八の字を描いて乳房を捏ねる度に訪れる刺激が快楽を誘い、ハチは甘えるような声で鳴いた。
「そうだよ、きっと案内してくれる。お姉ちゃん、私たち家族をここから連れ出してえ」
 ハチは股間に挿入した指を掻き回して、テレビの音声だけが流れる静寂な部屋に、淫らな効果音を付け加えた。それは性的な快楽から発する喘ぎ声に混ざり、更に音量を増して室内に響き渡る。ハチは唾液に塗れた口を開き、大声で性の喘ぎを上げた。
「あああ、早く皆帰ってきて。私はとうとうゲージを越える覚悟を決めたよ。お姉ちゃん、家族を外に連れて行ってえ」
 ハチの叫びは室内を突き抜けて外まで響き渡っていた。快楽の絶頂を迎えて硬直した肉体は汗が滲み、股間から噴出された粘液がシーツに付着していた。
 ハチは黒のパンツと乱れた服を元に戻して、すぐに汚した粘液を左手の指で絡め取り、口に含んで甘酸っぱい粘液の味を堪能した。
「随分美味そうな顔をしてるじゃないか。私にも分けてくれよ」
 ハチの目の前に立ち尽くしていた気配が言った。ハチは顔を上げて、緋色の長髪を後頭部で束ねた次女の智頭の姿を捉えた。通気性に富んだ蒼のシャツを羽織っている。腰に巻かれた幅広のベルトには鞘に納まった短刀が差してあった。
「お姉ちゃん、帰ってきたなら帰ってきたって言いなさいよ。心配したじゃない」
 ハチは待望していた智頭の帰宅に舞い上がった。智頭は微笑を湛えてハチの隣に腰掛ける。智頭はシーツに付着した粘液を指で絡め取り、舌を垂らして粘液を舐め上げた。
「これは不味いな。やっぱり肉が一番だぞハチ。世界には美味い肉を付けた人間がうようよいるからな、お前も食べておいた方がいいぞ」
 智頭は穏やかな顔付きでハチの頭を撫でた。ハチは謝辞の印に無垢な笑顔を振り撒いて、智頭の口元に付着した鮮血に注目した。
「私は人を食べないよ。それよりお姉ちゃん、御飯食べてきたの。せっかく私が作り置きしてあげたのに」
 智頭は左の眼球を器用に下げて鮮血を確認した。確認の取れた血を片っ端から指で拭い、尖った犬歯を剥いて塗り付ける。
「ああ、さっき父さんを食ってきた。なかなか美味かったよ」
 智頭は舌なめずりして凶悪な眼光を放った。途端に圧迫した空気が室内の気圧を下げて、ハチは卒倒しそうな恐慌に陥った。禍々しい敵意を放つ智頭の濁った瞳は、父殺害の残酷な真実のみを映し出していた。
「そんな、やだよ、父さんは食べちゃ駄目だよ、どうしてそんなことするの。駄目じゃない、私達は家族なのよ」
 ハチは腹から声を振り絞って叫んだ積もりだったが、震え上がった小声が洩れたに過ぎなかった。智頭は両の瞼を閉じると、室内の気圧が急激に元に戻った。空気の調和さえ脅かす眼力で、凶悪な威圧を放出する恐るべき業だった。
「父さんだけじゃないさ。ハチ、私はお前も食ってみたい。いつか食ってやろうと心に決めて生かしていたんだ。まだ完熟とまではいかないが、味見していいかな」
 智頭はとろんと愉悦に目尻を下げて、ハチの軽い質量を抱きかかえた。ハチは筋肉質の姉の首に腕を絡ませてしがみ付き、鍵のかかった智頭の部屋に運搬された。
「お前が私の部屋に入ったのは初めてだな。どうだ、驚いたか」
 智頭は部屋の隅に置かれたベッドにハチの肉体を沈めた。ハチは上体を起こして、部屋の至る所に貼り付いた武器の山に圧倒された。
 この世界で流通している武器は凡そ刀を差すが、智頭の部屋には奇抜な形状をした武器まで取り揃えられていた。天井には穂先がフォークのように二又に分かれた巨大な槍が刃渡りニメートル近い日本刀と交差して貼り付き、奥の壁には鎖で繋がれた棘付きの鉄球や長大な散弾銃が湾曲したフックに掛けられていた。窓枠を避けて置かれた黒塗りの棚には、扱い易い刀や銃などが雑多に敷き詰められている。部屋の中央には八畳はある面積の隅から、ベッドの下を通して反対側の隅まで伸びる、鈍器のような乾いた刀が置かれていた。
「酷いよ。家族なのにどうして争わなきゃいけないの。せめて、家族だけでも仲良くしていようよ。殺し合いなんて何も生み出さないんだよ。お姉ちゃん、私がお姉ちゃんを許せる内に謝りなさい。父さんを殺してごめんなさいって、私にお詫びしなさい」
 ハチは父の死を受け流した智頭に涙ながらに訴えかけた。智頭は鼻を鳴らして嘲笑い、黒塗りの棚から銀に縁取られた蒼の鎧を取り出した。兜と脛当ても用意された同色のそれを、智頭は鎧から順番に装着していった。
 最初に頭から被った蒼の鎧は両肩から伸びたベルトで背中側の鎧と結合していた。頭にはサードマンのヘルメットに近い、側頭部から二本の牙が虚空に突起した兜を被り、靴下のような脛当てを強靭な太腿の筋肉に巻き付けて、両の膝から爪先までを覆い隠した。更に両手に革製の手袋を填めて、智頭は戦闘に赴くような準備を完了させた。
「関係ないね。私は好きなように生きているだけだ。それにここはそういう世界だろ。この世界に不満があるなら望み通り外に飛び出せよ。お前は私に案内して欲しいだの叫んでいたが、私の行動が制限されるから無理だ。手助けぐらいはしてやってもいいけどな」
 智頭が兜に装備された両目を真横に隠すスコープを調節しながら言った。ハチの泣き咽ぶ顔に歓喜が幾許か混じった。
「手助けだけじゃ駄目。一緒に外の世界へ行こう。お姉ちゃんが良くても私の気持ちが納まりつかないだからね。悲しくて涙が止まらないの、家族を失うのはもう嫌なの」
 智頭は贅沢な要求に顔をしかめて、腰に差した短刀を引き抜いた。智頭は動揺して壁に背を着く好物に忍び寄り、股間を弄っていたハチの左腕を稼働する肘の関節に目掛けて、容赦のない短刀の刃先を突っ込んだ。
「あ、いぐううう、痛いよお、お姉ちゃん何するの、やめて、痛いよおおお」
 智頭は無表情に腕を伸ばして、悲鳴を洩らすハチの喉を締め付けた。短刀を素早く押し引いて、ハチの華奢な腕を切断していく。
「ギーコ、ギーコ、ほらほらあ、痛いだろお、苦しいだろお、私はこんなに酷い姉なんだよお」
 ハチは桁外れた膂力に押さえ付けられ、無抵抗に左腕を半ばまで切断された。短刀が骨に当たる感触が襲った直後に、鈍い音を立てて骨が削れていった。
「ギーコ、ギーコ、ほらほら、美味しそうなピンクの肉が見えてるよお」
 智頭は肉が削げる残酷な光景に口から涎を滴り落としていた。ハチは想像を絶する激痛に顔を歪めて、口から言葉にならない掠れた呼吸音を洩らす。やがて、ブツリと間抜けな音が鳴り、ハチの左腕の感覚が完全に消滅した。
「見ろよハチ、これがお前の新鮮な肉だよ。この世界にはいないが、別の世界に住んでいる医者という奴に頼めば治してくれるから訪ねてみたらどうだ」
 ハチは血の気を失った顔で、虚ろに智頭の手に握られた千切れた左腕を眺めた。筋肉の繊維と骨が覗く断面から噴出す鮮血が、シーツを深紅に染めていた。
「私の腕が欲しいならあげるよ。だからねお姉ちゃん、私と一緒に安全な世界へ行こうよ。家族皆で、痛みがない安全な世界に」
 ハチは安全な世界への移住を求めて懇願した。智頭は唇の端を吊り上げて邪悪に微笑み、掴んだ左手の小指を迷わず食い千切った。噛み砕きながら舌で転がして大口を開き、磨り潰した小指を見せ付ける。
「腕を切り落とした相手に言う台詞か。ほんとお前は変わった奴だな。小指だけで我慢してあげるから、早く腕を持って他所の世界へ行きなさい。私は今からこの世界を破壊して、お前をこの世界に住めなくてしてあげる。それが私にできる精一杯の手助け、住めなくなれば嫌でも外に行きたくなるだろ。生きたければ、外へ逃げなさい」
 智頭は左腕をベッドに投げ捨てて、ハチの額に軽い口付けを贈った。ハチは大粒の涙を頬に伝わせて、天井に貼り付いた二又のフォークと長大な日本刀を背中に取り外す智頭を見詰めた。
「嫌だよ。例え住めなくなってもお姉ちゃんを家で待ってる。私のお姉ちゃんは、もう独りしかいないんだからね。お願い、私と一緒に外の世界へ行こ」
 ハチは飛び起きて、両脇に武器を抱いて窓に歩み寄る姉の背中を片腕で捕まえた。智頭は呆れた溜息を付いて、手の平でハチの胸を押して簡単に引き剥がした。  
「そんなに優しく接するなよ。私もお前と家族が好きだ。だからこそ体が疼いて壊したくなるんだ。悪いが私はこれからも誰にも縛られずに自由に生きていく。もしハチが私を憎んでくれたら、その時は喜んでお前を殺しに会いに行くとするさ」
 智頭は寂しげな笑顔で別れを告げて、二種の武器を両手に携えて窓枠に飛び乗った。ハチは慌てて智頭の背中に追い縋るが、智頭は強靭な脚力で跳躍して、民家の屋根から屋根へと飛び移って行った。
「お姉ちゃん、帰ってきて。私は、安全な世界で家族と幸せに暮らしたいの」
 ハチは微弱な声帯を震わせ、左腕の断面から滴り落ちる多量の出血に意識を朦朧とさせた。民家が軒を連ねる外の景色が暗転して、世界と断絶されたような深い闇が訪れる。ハチの肉体は足元をおぼつかせて倒れ込み、壁を這うようにして崩れ落ちていった。
 次々に民家の屋根を伝って、中心部にある巨大な鍛冶場を目指していた智頭は、民家の屋根から保存食を大量に詰めたリヤカーを引く若い男を認めた。
「おーい兄貴。私だ、智頭がここにいるよお」
 智頭は右手に握った二又のフォークを振って叫んだ。土手でリヤカー引いていた男は長男の章生だった。怪訝そうに屋根を見上げて、戦闘態勢を整えた智頭の異様な装備に驚いたような声を上げた。
「そこで何してるんだ智頭、父さんと会わなかったか。智頭を追って家を飛び出しちゃったんだよ」
 章生は声を張って手を振り返した。章生が背中に背負ったリュックにも保存食が詰められていた。
「父さんなら食べた。兄貴、これからちょっとこの世界を滅ぼしてくるから、ハチを連れて外の世界へ行ってやりな。兄貴にはハチを養育する大切な役目があるからな。頼んだよお」
 智頭は重大な要件をあっさり言い除け、爆発音を鳴らして章生の視界から瞬時に姿を消した。智頭が着地した痕跡を残すように民家の瓦は弾け飛び、次第に瓦の爆発音は遠ざかっていった。
「やはり父さんは殺されたか。丁度良い、保存食の取り分が減ると敵わないからな」
 鍛冶場での一件で、自尊心を害する労働には耐えられないと悟った章生は、家主を放棄して別の世界へ逃亡する決意を固めていた。



 巨大な鍛冶場を取り巻く塔では、サードマンの群棲が目を光らせて、遠方からやってくる家主達を警戒していた。
 強風が吹き荒ぶ上階の警戒に就いたサードマンの独りが、薄い黒のガラス板に赤い点を作って、夕闇の景色を監視していると、通りから大型車の通行に混じって、胸にシールを張り忘れた愚者が駆けてきた。
「あれは、まさか」 
 サードマンは慌てて愚者に赤い光線を合わせ、愚者の年齢や性別などの個人情報を解析し始めた。世界の秩序を脅かす殺意を全身に纏った愚者は、高速で駆けながら右手に握ったフォーク状の槍を、解析を続けるサードマンに投げ付けた。
「総員を第八鍛冶場の正面に配備せよ。奴だ、レゴスが現れたぞ」
 空を切ったフォーク状の槍が、サードマンの顔面を貫通して背後の壁に突き刺さった。辛うじて手元のマイクに伝達された指令は、鍛冶場全体に拡声されて響き渡った。
 鍛冶場に鳴り響く警鐘を聞き付け、第八鍛冶場の防備に回った三百体余りのサードマンが塔の周辺に集結する。最前線に立ったサードマンは、背中の鞘から長大な日本刀を優雅に引き抜く、レゴスの異名を授かった稀白智頭に警告を呼び掛けた。
「レゴス、お前の悪名は彼方の世界からも聞いている。今すぐ立ち去るなる見逃してやるが、この世界を統治する我々に戦いを挑むというなら容赦はせんぞ」
 サードマンの群棲は、硬質なグローブを填めた指を前方に伸ばして構えた。智頭は甘い歓喜に頬を緩ませ、濁った眼球を縁取る柳眉を吊り上げた。
「はあい、よろしくう。私を殺してみてえ。実は前々から死に興味を抱いていてねえ、でも今日来たのは君達に死を教えてあげるためなのさあ」
 智頭は初恋のように高鳴る殺戮への快楽に胸を躍らせた。サードマンの群棲は両手の十指をカクンと折り曲げ、穴が穿った空間から弾丸を発射した。
 激しい弾丸の手中放火が、へらへら笑う智頭の肉体に命中する刹那、智頭の姿が瞬時に消えて、サードマンの背後にある塔の前方に現れた。
「君達を愛しているわあ」
 智頭は日本刀を横殴りに振った。空間さえ断絶しそうな智頭の一振りは空を鋭利に切り裂き、塔を真っ二つに両断した。
「な、総員避けろ、塔が崩れる」
 サードマンの殆どは即座に飛び散って回避したが、混雑した集団に足を取られた何十体が、倒れ込む塔の巨大な横っ腹に全身をメキメキと踏み砕かれた。人間に似た生物が納まっていると思われたサードマンの残骸は、何もない空洞があるだけのもぬけの殻だった。
「私は、君達を愛しているから殺戮と言う凶行に走るのよお」
 智頭はサードマンに気付かれぬよう気配を絶ち、こっそりと別の塔の前方に現れた。脇構えにした日本刀の一振りで、鉄材の骨を組み込んだ強固な塔をいとも容易く両断する。
「総員右だ、右から塔が倒れてくるぞ」
 サードマンの一人が指令した頃には、落ちてくる数万トンの重量が、周囲を見渡して智頭の捜索を続行していたサードマンの数十対を踏み砕いた。鍛冶場の周辺で異変に気付いた家主と露天商は、我先にと途方もない方向に逃げ惑う。
「私は他人に憎悪を望んでいる。君達は私を憎み、私を倒すために卑劣な手段は用いれば良いのさ。そうすれば、私の愛で受け止めてるよ」
 サードマンの群棲は、超絶的な速度で移動を繰り返す智頭を捕捉できなかった。智頭は別の塔の頂上から飛び降り、混乱に乗じて露天の物資を漁る女性の頭頂部から股間を串刺しにした。
「うごばああ」
 女性は全身を小刻みに痙攣させて死相を浮かべた。智頭は家主の後頭部を踏んで刀を引き抜き、こちらへ殺到してくるサードマンの群棲をひと睨みした。智頭の濁った瞳から放出した威圧が、突風となってサードマンの群棲に向かって吹き抜けていった。 
 突風が過ぎ去った後には、サードマンの周囲を取り巻く空気に重力場が形成され、群棲一同のボディスーツに破滅的な負荷を与えた。空洞の顔を覆い隠すガラス板が軋みを上げて亀裂を生じる。全身が地面に吸引されているかのように埋まっていき、満足に運動ができない。
「ねえ、愛しているんだよ。早く私を殺してみなよ」
 智頭は悪戯に舌を出して、血濡れの日本刀の抜き身を舐めた。スウっと縦に抜き身が通過して、智頭の舌は蛇のように二又にわかれた。
「無駄な足掻きだぞレゴス、我々は増殖を繰り返していずれお前を追い詰める。我々の繁殖能力は人間の比ではないとお前なら理解できているだろ」
 サードマンの群棲に溶け込んだ独りが勝ち誇った。現に他の鍛冶場や塔を監視していたサードマンは集結しており、この世界に勤めるサードマン全員が、続々と応援に駆け付けていた。
 サードマンの包囲網に取り囲まれていた智頭が見せた顔は、絶望ではなく、余裕たっぷりの悪魔染みた笑みだった。
「勿論、知ってるよお。一時間で二体に分裂できるんでしょお。でもね、私がどうして世界を何十個も潰せたのか分かってる。君達が増殖する前に、私に全て殺されちゃったのさあ」
 智頭は割れた舌に殺した女性の口で生成された鍵を挟み、片足で地面を爆発させて直線に跳躍した。闇の壁が控える箱の世界の隅まで跳躍した智頭は、擦れ違った五千体余りのサードマンと後方に流れていった建造物を、全て真一文字に両断していた。
「死んでも、愛しているわあ」
 世界の四分の一が崩壊する絶望の悲鳴が智頭の耳に届いてきた。智頭は世界の各地で湧き上がる憎悪の声を鋭敏に感知して、全身を侵食していく未曾有の喜悦に美形の顔をとろけさせた。智頭の快楽を刺激する唯一無二の友達が、憎悪であり、自我を保つ唯一の手段が、殺戮であった。
「あはあ、楽しい、この箱の世界は、楽しいことで満ち溢れているよお」
 智頭は闇の壁に面した擦れ擦れの地面を爆発させ、箱の世界の対角線上まで到達できる悪魔の跳躍を果たした。
「おのれレゴス、我々の絶大なる力を侮るな」
 智頭が世界を駆け抜ける途中で、硬質な両肘から湾曲した刀を突起させたサードマンが降り注いできた。
「いいよお、もっともっと愛してあげるわあ」
 智頭は有りっ丈の膂力を開放して、神速に達した日本刀を滅茶苦茶に振った。サードマンの大群が玩具のように弾けて、重量感のある破片を民家に撒き散らす。智頭は片手で乱暴に日本刀を振りながら、もげた全身の数千のパーツを掻き集めて巨大な塊に変えた。
「君達には、私の愛を受ける許可が与えられたのよお。それがこの世界の規則うう」
 智頭は対角線上に到達して垂直に跳び上がり、闇の壁に達しそうな上空から、中央部の鍛冶場に巨大な隕石を投げ付けた。
 表面の面積に空気の抵抗を浴びて発火した隕石が、ぶち当たった数十本の塔を纏めて薙ぎ倒し、第三の鍛冶場に激突して大爆発を起こした。世界の人類の大半が焼失する焦げた硝煙が視界を塞ぎ、人間を支配する側であったサードマンの残留思念が言葉として上がり、人類の悲鳴と集約されて世界に響き渡る。
「レゴス、世界に破滅を起こす大罪はいずれお前の身を滅ぼすぞお」
 智頭の魔の手によって、鍛冶場に駐屯していたサードマンの軍政が全滅した。箱の世界は今まさに、智頭一匹の恐怖に震撼していた。
「うひゃあああ、私は君達を、愛しているんだあい」
 雄叫びを上げる智頭の目の前で、生き延びた人間が荷物を背負って家を飛び出してくる。智頭は瞬時に移動してその脆い人間に干渉する。容赦なく日本刀を振り回して、全身を爽快に切り刻み、憎悪の肉片を撒き散らす。智頭は転がる肉塊の山に愉悦に狂った喘ぎ声を上げて、過度の興奮に粘液を沁み込ませる股間を左手で弄くった。
「あはは、ハチ、兄貴、間違って殺したらごめんねえ。生かすように努力するよお。あはは、あははあ」
 濃密な暴力の塊と化した智頭は、地面を爆発させて世界中を跳ね回った。生存する気配を追い掛ける跳躍の最中に繰り出す日本刀の閃光が、肉と血と骨と臓器とパーツと絶望が混合された負の感情を導いて、世界を智頭が嗜好する真の闇に染め上げていく。
「気持ち良いい、君達を愛してる愛してる、愛してるのお。あは、あははははあ」
 飛び交う赤い血が、智頭の頬を深紅に染めて暴力を増進させた。純粋なまでの狂気が世界を荒廃した大地に変え、いつしか憎悪と絶望の悲鳴は、世界の死を告げるように静まり返っていた。
 智頭が敢えて生き残したブラックゲージ安置所には、保存食を背負って足早に避難した章生が、気絶したハチの質量をリヤカーで運搬して、人気のない広大な空間を見渡していた。
「ハチ、生きてるかい。やっと到着したよ」
 章生は、リュックを抱いて熟睡するハチを揺さ振った。
「うう、お姉ちゃん」
 ハチは寝苦しそうな呻きを上げて、ゆっくりと目を開き、人工的な電球の光を視野に収めた。
「ここは、何処」
 ハチは目を擦って、ゲージが保管された安置場の内部を見渡した。広大な敷地面積に幾百もの人体がござに寝かされ、防圧な円筒状のカプセルで覆われていた。胸に刻まれた分数は死者によって大小の差異があり、章生の正面にある老人の遺体は三十分の二十八と刻まれている。カプセルの側面には赤を帯びたスイッチと、黄金色の鍵が同じサイズの型に填め込まれていた。
「安置所だよ、智頭が暴れているせいで、サードマンはいないけどね。僕はこれからゲージを越えるけど、ハチはどうする」
 章生はハチの体を抱き起こして言った。ハチはゲージに無関心だった兄の心境の変化に驚いた様子だった。
「私も行きたいけど、お姉ちゃんは、置いてきちゃったの。やだよ、家族皆で一緒に行こうよ」
 ハチは兄の服の裾を掴んで懇願した。章生は溜息を付いて、ハチが抱いていたリュックを片手で持ち上げた。
「なら連れて行かないよ。食料にも限りがあるし、僕に家主は向いてないみたいだしね。どうしてもハチが行きたくないなら、別の世界で治せるかもと思った左腕が入ったリュックを持って、さっさと家に帰りなさい」
 章生は顔を強張らせて冷たく告げた。ハチは緊迫した兄の怒号に怯え、智頭に切断された左腕の断面を覆う柔らかい布に触れた。章生が患部を丁寧に止血してくれていたのだ。ハチは感謝の意を表して頭を下げたが、家族との分断に耐え切れる器は持っていなかった。
「暫く待たない。お姉ちゃんだって、ゲージを越えると思うから」
 ハチは飽くまで家族での転居を望んだ。安置所の外から運ばれる智頭が建物を破壊する爆音が、章生の怒りと緊張を囃し立てる。章生は決断に躊躇するハチを待たずして、カプセルの側面にある鍵を剥ぎ取り、赤いボタンを押した。カプセルが機械音を発して唸りを上げる。
「ハチ、僕は智頭と親しい仲ではない。僕まで殺してしまいそうだから、細心の注意を払って今まで暮してきた。別の世界に行っても一緒に暮らしたくはない。でもハチのことは好きだし、ここでハチと別れたくはないんだ。嫌だと言っても、連れて行くからね」
 章生が素直な胸の内を明かした。防圧なガラスは左右に開閉していた。章生は足首が焼失した老人の鍵穴に鍵を差して左に回した。老人の腹部に縦に線が走り抜け、皮と肉が接着して遅鈍に捲れ上がった。螺旋に渦巻く闇の空間が、章生の前髪を吸い込みそうに口を開けて待っている。
「一人しか、選べないの」
 ハチは被害者意識に駆られた顔で、愛する家族の別離を望んだ兄を恨んだ。敢えて恨まれ役を買った章生は、不動を保ったハチを抱き上げて、螺旋に渦巻く闇の空間に、ハチの肉体を徐々に沈めていった。
「心配するな。智頭ならきっと僕達を殺しに追いかけてくるさ。さあ、行こう」
 章生の発言は無責任な気休めに過ぎなかったが、今のハチが選択できる一縷の望みでもあった。
「お兄ちゃん、最低」
 ハチは憎悪に達した恨みを晴らすように悪態をついた。闇に身を沈めていくハチは、妹の意志を制した悦楽に頬を緩ます兄を見上げた。ハチは兄に鋭い眼光を放って顔まで浸かった。闇に呑み込まれたハチの肉体はリュックごと霧散して、闇の羊水の中を空気となって泳ぐような情景が脳裏に投影された。
 私に憎悪を抱けば殺しに会いに来る。ハチは別れ際に告げた智頭の残酷な台詞を胸に刻み込んで、霧散した兄と一緒に闇の中を泳いでいった。
 やがて訪れた光の螺旋に渦巻く入り口が、別の世界の風景を映して待っていた。


 
 垂直に積み上がった瓦礫の頂上に尻を沈める智頭は、兜に装備されたスコープを下ろして、三百六十度の視界を開いていた。
 この世界のあらゆる生命体は、日本刀の毒牙に侵されて死滅していた。智頭は精力的に民家も破壊していたが、憎悪の悲鳴が聞こえぬ虚しい破壊に飽きて中断していた。 
 粗方平面に片付けたこの世界で、智頭が求めているのは、塔の壁に投げ捨てた二又のフォークと露天の辺りで新たなゲージに変えた女性の遺体だった。
「何とか足りたなあ、できればもっと強く憎んで欲しかったけど」
 智頭は残念そうに愚痴を零して、右後方三十二度線上にあるフォーク状の槍を感知した。瓦礫を蹴って後ろ向きの跳躍をした智頭は、華麗に後転を決めてフォーク状の槍の前に着地した。
 無造作に右手で掴んで槍を抉り抜くと、更に左後方五十二度線上に、待望していた女性の遺体を発見した。
 智頭は前方にある半壊した民家に跳躍して、返す刀で女性の遺体の目前まで一気に辿り着いた。のっそりと近付いて、串刺しにして殺害した女性の服をフォークの穂先で捌き始める。女性の腹部を傷付けぬように服は切り裂かれ、淫らな裸体が露となった
「今回の数字は幾つだろうな。感度ビンビンだから落ち着けそうな静かな世界がいいんだけどお」
 智頭は女性の乳房に刻まれた分数に目を落とした。六億分の五億八千と続いた長い数字の羅列を捉えて、智頭は複雑な唸り声を上げた。
「おやあ、この数字は確か厄介な奴がいる世界じゃなかったっけ。まあいいや、鍵を開けましょうかね」
 智頭は大口を開けて、二又にわかれた舌に挟んだ鍵を手に取った。予め移動用に使う人間を選んでいたようだ。
「そして、君には私と旅をする権利を与えようかね」
 智頭は瞬時にフォークの槍を振った。切り落とした女性の生首を、串刺しにした穴から片側の穂先を通して掬い上げた。
「ハチ、いい子に育つんだよ。それはもうお姉ちゃん好みのね」
 智頭はハチの愛苦しい造形が成熟したような女性の唇を奪って、螺旋に渦巻く闇が覗ける別の世界への扉を開けた。
「次の世界の皆、愛しているわあ」
 智頭は迷わず開いたゲージに飛び込んだ。智頭が腰に巻いたベルトに固定された女性の生首は、どうやら暫く付き合わされる羽目になってしまった。

(引き続き ブラックゲージ 〜 第二章 腹の中 〜 をお楽しみください。)

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